男は身じろぎもせずに虚空を眺めていた。
周囲の空気はぼんやりと霞み、ちらちらと光るものが混じっている。耳を澄ませば玲瓏な鈴の音が聞こえてきそうな朧な光景だった。
背後から密やかな足音が近づいてきた。窓も扉もない空間に、帳をわけるように男が入ってくる。
狩衣を身にまとった壮年の男は無言で背を向けて座る男の後ろに正座し、両手をついて深々と頭を下げた。
「御神。どうぞお鎮まりを。そのようにお力を溢れさせては現(うつつ)にも影響が現れてしまいます。娘が帰ってきたその時、眼に映るのが荒れ果てた故郷となればどれほど嘆きましょうか。娘の無事はわたくしどもよりも御神の方が良くご存知のはず。自棄を起こしますな」
男はゆっくりと振り返ると、涼やかな面に優雅な笑みを刻んだ。
「心配することはない。少々意識を凝らしていたまでのこと。不用意に荒れたりなどはせぬよ。そのようなことをしたらひいなに叱られてしまう」
くすり、と小さく笑んだ。
男の様子に壮年の男は力を抜く。足を崩し、あぐらをかいた。緊張感の漂っていた表情も、今は気安いものに変わっている。
「で、何かわかったのか、みこと」
「あの方から連絡があった。ひいなが見つかったと。位置を教えてもらったのでわたしの力がどこまで届くかやってみたのだが……」
二人の他には誰もいない空間で、男は内緒話をするように声をひそめた。
「ひいなに意識がつながりそうだ」
簡潔な男の言葉に壮年の男は目を丸くした。
「まさかと思うが、行く気なのか?」
「ああ。だが連れ帰ることはできない。渡りをする術を私は持ち合わせていないからね。それにどれだけあちらに留まれるかは、行ってみないとわからない。ひいなの意識が残せるかどうかも。かなり負担をかけることになるのは間違いないだろうけど」
「あの方は何と?」
「言ってない。言えば止められるだろう。向こうの状況もわからないのに連絡なしで降りるのは危険なことこの上ない」
壮年の男はその意味を察して息をのむ。
「止めるか?」
男は目を細めて壮年の男を見据えた。
「……私が止めたら、行くのをやめるか?」
確認するような壮年の男の言葉に、やんわりと笑うことで否定した。