ほう、とは息を吐いた。ぱたぱたと落ちる水滴は星明りに銀のようにきらめく。水の冷たさに肌は白く冴えていた。
城壁に囲まれたカラス・ガラゾン。その中を通る銀筋川から枝分かれした小さな流れと、広場にある噴水から流れてきた水がぶつかり合い、ちょうど池のようになっている所があった。流れは穏やかでさして深くもないが、水は身を切るほど冷たい。
この場所を見つけたとき、は禊をするのにぴったりのところだと思った。奥まったところにあるそこは昼間にレゴラスと散歩をしていてたまたま通りかかったのだ。
急に立ち止まってじっと池に見入ってしまい、まだ体調が良くなっていないのではと心配されてしまったり、そんなことはないもう本当に大丈夫なのだと納得させるのにわあわあと言い合いをしてしてしまった。その間にも、またその池への道のりを往復する間も行き逢うエルフたちがほとんどいないことをしっかり確認し、夜になってから再び訪れたのだ。
エルフたちは夜でもかなり大勢が起きているのだが、たいてい歌っているか星を愛でているか楽器を弾いているかで昼間に比べて出歩く者は少なく、この分ならまず見つからないだろうと踏んだからである。
は仰向けになって手足を伸ばした。白衣がわりに身にまとった寝巻き用のドレスがたゆたい、四肢に絡みつく。長時間水に浸かったままでは凍えてしまうが、まだ上がる気にはならなかった。清冽な冷たさが心地よかった。
森を歩くものがいた。エルフの常で草踏む音はまるでしない。
優雅で悠然とした足取りに迷いはなく、求める人物がどこにいるのかを知っているようだった。
そう、知っていた。彼女は部屋にはいない。抜け出したのだと。だから彼女のいるところへ向かうのだ。
風が吹き、金色の髪がふわりと揺れた。
は水に浮かんだままぼんやりとしていた。現れては消える記憶は、慣れ親しんだ向こうのことばかり。
こちらに来てからのことを思えば、あちらの世界のなんと平和なことだったか。危険なことがなかったわけではない。むしろ同じ年頃の少女たちに比べれば、何度も修羅場をくぐり抜けてきたといってもよい。死にかけたことも一度や二度ではない。それでもその危険は、負ってもかまわないと承知で自ら飛び込んでいったものばかりだった。だが、今は――。
はぎゅっと目を瞑った。
今はまるで先が見えなかった。
こちらに来たばかりの頃は、もっと楽観していた。彼らの旅の目的を知っても、それはまだ消えなかった。
たまたま来てしまっただけだ。ただの事故。時が来れば、迎えが来る。きっと帰れる。帰れるはずだ。
そう言い聞かせていたが、心はずっと叫んでいた。
帰りたいと。
「……っ」
涙が溢れそうになるのを感じたは、勢いをつけて頭まで水の中に沈んだ。
水の跳ねる音がした。
目を凝らすと木立の先にわずかに少女の頭が見えた。何度か上下し、次には何かを振り払うように強く頭を振る。苦悩しているようだ。エルフの聡い耳には細かな水滴が落ちる音も聞こえた。
少女が身を起こした。彼女はこちらに背を向けているので、まだ気づかない。
髪はたっぷり水を含んで色を濃くし、冷水にずっと浸かっていたせいだろう、両腕は紙のように白くなっていた。まとっている寝巻きが透けて、肌の色がはっきりわかる。
は息が続かなくなるまで潜り続けた。限界が来て浮上し、荒く息をつく。
ぽろぽろと涙が落ちたのは、苦しかったせいだろう。選択を悔いてはいないはずだ。人にはどうしても避けられない、やらねばならないことが往々にしてあるのだということを、は己の経験から知っていた。これもそうなのだ。わかっていたはずなのに。
は迷いを振り払うように何度も頭を振った。
暗闇が迫っている、とハルディアは言っていた。
自分たちにできることは、与えられた時代で何をするのかを決断することだけだ、とガンダルフは言っていた。
指輪を持つことを決めたフロド。
彼のために安全よりも共に行くことを選んだサム、メリー、ピピン。
彼を守ると誓ったアラゴルン、レゴラス、ギムリ、ボロミア。
あのモリアでの話は、自分に向けて言われたことのように感じた。現実から目を背けていたことを見透かされていたように思ったのだ。自分が恥ずかしくて、情けなくて、泣いてしまった。
だがガンダルフは何も聞かずにただ慰めてくれた。聞く必要もなかったのだろう。
ぎゅう、とは拳を強く握った。決意した以上、二の足を踏んでいるわけにはいかない。
前を向け、恐れにとらわれるなとは自分を叱咤する。
「……」
だけどもし叶うのなら、ナセに会いたかった。いつものように励ましてほしかった。
はにじんだ涙をぬぐうと、部屋に戻ろうと振り返った。
「……あ」
はそこに人影を認めて動きを止める。金色の髪のエルフは穏やかにほほえんでいた。
少女が振り返った。
身にまとう夜着はすでに用をなしておらず、星明りに裸身が白く輝いているようだった。
なだらかな肩。優しく膨らんだ胸。その下の曲線はきれいにくびれている。腰から下は水に浸かっているが、清く澄んだ流れとエルフの視力の前では夜間といえども隔てはないのと同じだった。細作りだが痩せているだけではなく、華奢ではあるが弱々しさは感じない。
「……あ」
振り向いた少女は驚きで立ちすくんでいるようだった。柔らかい茶の瞳はこぼれんばかりに見開かれ、寒さにやや青みを帯びた唇は強張っている。
ぱちくりと音がしそうなほど瞬くと、少女は我に返って後ずさった。
「早く上がりなさい。そのままでは凍えてしまう」
「ご、ごめんなさい!」
は後じさると反射的に胸の前で両手を握りしめた。
「何を謝るのです?」
「だって……勝手に入ってしまいましたから……」
が本気でばつが悪そうな表情をしているので、安心させるように彼女はほほえんだ。
「禁止はしていませんよ。と言ってもここで水浴びをする者はめったにいませんが。ここを訪れる者も少ない。ですが誰も訪れないわけではないのです。ですから貴女はこのように無用心なことをしてはならなかった、とだけ言っておきましょう。今のロスロリアンはいつものロスロリアンよりもざわめいています。外からこれほど多くの客人を迎えるのは本当に久方ぶりなのですから。それゆえあなた方は、あなた方の望むと望まざるとに関わらず、我らの注目を集めているのです。見られているのですよ。貴女も」
「み、見られているのですか……?」
紙のように白かった顔色が一気に青くなった。
「今はわらわ以外、貴女を見ている者はおりませぬよ」
いたずらっぽく笑うと、少女は力が抜けるように水中に沈んだ。
「驚かさないでください、奥方様」
あまりにも情けなさそうな少女の声に、ガラドリエルは朗らかに笑った。
「さあ、本当に、もう上がりなさい。せっかく傷が癒えたというのに、このままでは病気になってしまいますよ」
「あ、はい」
はざぶざぶと水をかきわけて岸に近づいていった。ガラドリエルが差し伸べる手にありがたくつかまり、体を持ち上げようとする。
(あ、れ……?)
「?」
急に動きを止めたに、ガラドリエルは訝しげに声をかけた。
は右腕を上げたままの状態で固まる。
「どうしたのです?」
異変に気づいたガラドリエルはとにかく彼女を岸に上げようとつかんだ手に力を込める。しかし少女の手はするりと逃げ、力尽きたように倒れ伏した。
「?」
伏せた身体に手をかけようとしたガラドリエルは異変の原因を感じ取った。ゆっくりと膝を折り、彼女が起き上がるのを待つ。
風が吹いた。珍しく強いそれは、ガラドリエルの金の髪を吹きあおる。
周囲の空気がどんどん密度を濃くしてゆき、ロリアン全体に広がってゆく。
ガラドリエルは水面に視線を移した。そこには胸から下はまだ水に浸かったままの少女の姿が、本当の身体と重なるように映っている。
そしてもう一つ、さらに少女に覆いかぶさるような別の影があった。伏せる少女の体勢をそのままなぞるように、その影も伏せていた。ために顔はわからない。濃い紫の、見慣れぬ形の長衣をまとったその影は、大柄な男のもののようだった。
少女の指がぴくりと動いた。むくりと起き上がるも、顔はまだ伏せたままだ。頭痛を抑えるように少女は額に手を当てる。そしてゆっくりと頭を振って、上げた。
『やあ』
の全身から圧倒的な力が溢れてきた。
『お初にお目にかかる。エルフの女王よ』
少女はひたとガラドリエルを見据える。
「ガラドリエルと申します」
敵意も悪意もない、ただただ刺し貫くように強いまなざしを彼女はわずかな緊張と共に受け止める。
『知っている』
少女はにこりとほほえんだ。
発する声は二重。の高い声と、落ち着いて深みのある男の声だ。
『不躾な訪問をお許し願いたい。行方の知れぬ我がひな鳥が心配でたまらず、こうして参上した次第。しかしこれは我がひなには伝えておらぬこと。こちらへ参ったはわたしの独断ゆえ、どうかこの子を責めないでやってほしい』
「心中お察しいたします。もちろんそのようなことはいたしませぬ。ですがいま少しお力を抑えていただけませぬでしょうか。貴方の力は強く、わらわが張り巡らせたロリアンの守りがかき消されてしまいそうなのです」
『ああ、すまない』
少女と男の声で、彼は力の加減は難しいと呟いた。
しばらくすると小柄な少女の身体から吹き荒れていた異質な覇気がすうっと薄れてゆく。
『これでいいかね?』
「結構でございます。それから、水から上がられませ。娘君の身体が冷え切ってしまいます」
言われて少女は己の身体を見下ろして苦笑した。
『やれ、とんだ衣通姫(そとおりひめ)だ』
岸に上がった少女は、布でも絞るかのように髪を絞り、濡れてへばりつく夜着を脱ごうと悪戦苦闘した。見かねてガラドリエルは手を貸すが、身体は少女のものでも中身は声と言動からどう考えても男性のもので、表情にこそださなかったが複雑な心境だった。
「貴方が、娘君が申した異世界ガイアのヴァラの君なのでしょうか?」
『その通り。そして今わたしはひいなの身体に降りているゆえ、彼女の知ることはわたしの知るところでもある。ひいながこちらでどのような目にあったのか。誰と出会い、何を話したか。何を考え、何を決めたか。ここがどこで、そなたが誰か』
ガラドリエルは乾いた布を取り上げ、少女の身体から丁寧に水気を拭っていった。彼は何も身に着けていないことなど全く頓着していない。
「わらわは貴方がどのような方であるのか存じ上げませぬ。名はなんと仰るのです?」
『わたしの名を知りたいと?』
可愛らしいともいえる仕草で彼は首をかしげる。が用意していた替えのドレスを着せながら、ガラドリエルは静かに会話を続けた。
「名を知らなければ呼べませぬ」
『道理。だが女王よ、わたしは名乗れないのだよ。名とはその者を表すもの。わたしには多くの名があるが、それは全てガイアの言葉によって作られている。わたしが名乗るは危険なのだ。我が力がこちらの世界に具現してしまうことと同義であるのだから。わたしが繰る言の葉の力はそれほど強い。しかしわたしはこちらの貴人ではないので、こちらの世界に影響を与えるような真似をするわけにはいかない。そなたや我がひな鳥を名で呼ばぬのも同じ理屈だ。わたしが名を呼んだ者は、わたしに支配されてしまうから。だがね、そなたがこちらの言葉でわたしを呼ぶ分には、一向に構わないのだよ』
「わらわがクウェンディの言葉で貴方に名をつけるのですか? ですがわらわは貴方を存じ上げませぬ。貴方を表す名にはならぬやも」
『知らぬということはあるまい。我々はこうして、言葉を交わした』
ガラドリエルは彼にじっと目を注いだ。
「それではわらわは、貴方をヴァロマ、つまり力の声殿と呼びましょう」
『重畳』
ヴァロマは満足げに頷いた。
『ともかく、そなたに会えたのはわたしにとっては僥倖だ。王も交えて話がしたい。都合はつくだろうか』
「今宵は急ぎの用はございません。わらわは娘君に聞きたいことがあり、こうして訪ねて参りました。ですがその答えは思いもよらない方からもたらされるようですね」
エルフの女王のまなざしを受けて、ヴァロマはただ目を細めて笑みを深くした。
それはおかしな光景だった。
中つ国に住まうエルフの婦人のなかでも最も高貴な女性であるガラドリエルと、ロスロリアンが迎え入れた客人のなかでも最も珍しい素性の持ち主であろう異世界の少女が並んで歩いているのだ。その上ガラドリエルの方が少女に対し仰ぐように話している。
ヴァロマ降臨時のロスロリアン全体を揺さぶるような力に、何事かとガラズリムたちは騒ぎ出した。力の出所を探りに来たエルフの何人かが二人に気づき、しかし声をかけてよいのかわからずしばし遠巻きにしていたのだが、ことの次第を飲み込んだ彼らが次々に仲間を呼び寄せたのだ。そのため、あちこちの枝や木の陰にエルフが鈴なりになっている。
その事に気づかないはずはないのだが、二人とも周りに誰もいないかのごとく悠然と歩んでいた。
『――かような訳で、こちらには母女神に無断で来てしまってね、帰ったらどんな目にあわさられるやら。彼女が本気で怒ったら誰にも止められないからね』
ヴァロマはからからと笑った。姿は相変わらずの愛らしいのものだが、声と仕草がしっかり男のものに変わっている。見物のエルフの中にはあまりの差の激しさに目が点になる者、頭を抱える者、耐え切れずに逃げ出す者が続出した。
ガラドリエルはおっとりと頬に手を当てて、まあと感嘆の声をあげる。
「それほどの覚悟で参られたとは。ヴァロマ殿は本当に娘君を大切にしておられるのですね。ですがこうして参られたことで、却って殿は心痛を増してしまったのではと案じております。娘君の決意は固く、わらわには娘君にしてさしあげられることがあるのかがわからぬのです」
『いやいや、中途半端にしかわからないほうが余程心臓に悪いというものだ。もっともわたしに心臓はないがね。こちらの状況もひいなの様子もわからないのに、ただ「今のところは生きている」ということだけは否応なくわかってしまう。こんな生殺しの状態が続くくらいなら、いっそ何もわからない方がどれだけ良いかと思ったよ。恐怖を感じたのは本当に久しぶりだった。ひいなの今後に関しては、わたしからも頼みたいことがあるのだが、それは落ち着いて話せる所でしよう』
「承知いたしました。……殿?」
ヴァロマはガラドリエルの返事もろくに聞いていない様子で、急にあさっての方向に向かいだした。彼の唐突な方向転換に、周辺にいたエルフたちは慌ててその場を離れて行く。
そんな彼らには見向きもせずに、ヴァロマはずかずかと進んでいった。
風が吹いた。
まっすぐ歩いたその先には、彼の歩みを邪魔するように一本のマルローン樹が生えている。手前でぴたりと止まり、幹に手をかけ反対側をのぞいた。
『やあ、こんばんは。いい夜だね』
ヴァロマはにこりとほほえんだ。
そこにいたのは金の髪のエルフの王子と、銀の髪をした警備隊長だった。
ヴァロマに親しげに笑いかけられた二人は、呆然と少女を見下ろしていた。
レゴラスとハルディアはそれぞれがいた場所でロスロリアンを揺さぶる圧倒的な力に気がつくとその力の出所を探して駆けつけたのだ。知己である二人はお互いを認識すると、目的地は同じなのだからとなんとなく一緒に行動する。
同じ方向に進むエルフたちに混じって先へと向かうと、すでに到着しているエルフたちから状況が伝わってきた。驚いたことに、異世界のヴァラールが現れたというのだ。圧倒的で異質な力は、その者が放っていたのだと。
現場についたレゴラスたちは、すでにそこにいたエルフたちがそうしているように、ガラドリエルとの動向をマルローン樹の陰から観察した。王妃ガラドリエルとすっかり雰囲気が変わってしまった異世界の少女が妙に和やかに話しながら歩いている。
はいつものではなかった。姿は同じだが中身が違う。そして違うということがはっきりと感じ取れることにレゴラスもハルディアも驚いた。
の姿をした異界のヴァラは、ふと足を止めた。そのまま進む方向を転じる。の目はレゴラスたちに向いていた。縫いとめられたように、二人はその場に棒立ちになる。近くにいたエルフたちは三々五々に離れていった。そして恐ろしいほど朗らかに挨拶をされる。レゴラスとハルディアは、ただその様子を言葉なく見つめ続けるしかできなかった。
『返事はなしかい? せっかく友好的にいこうと思ったのに』
腰に手を当ててヴァロマは残念そうに首をかしげた。心と身体の硬直がようやくとけたレゴラスは、力をふりしぼって口を開く。だがその口からでた言葉は情けないほど震えていた。
「貴方……が、ナセ殿……? の迎えに来たのですか……?」
彼が誰かなどと確認するまでもなかった。が己の半身と呼んだ、異世界のヴァラ。
(確かに必ず迎えに来てくれると彼女は言っていたけれど、こんなに早く来るなんて……)
恋を自覚したと思ったら、すぐに別れるかどうかの選択を迫られ、苦渋の決断でそれを受け入れた。
かと思えば、他ならぬ自身によってその選択はなかったものとなり、ほっとした反面複雑な気分になったのだが、それでも少しでも長く共にいられるのは純粋に嬉しかったのだ。
だが、それはまたしても覆されてしまった。彼が来てしまったのだから。こんな形でとは思いもよらなかったのだが。
レゴラスは目の前が暗くなってゆくのを感じながら、愛しい少女の姿をした恋敵を凝視していた。
「ナセ……?」
ハルディアは訝しげにレゴラスに目を向けた。主人の一人であるガラドリエルは、の姿をしたこの目の前の人物をヴァロマと呼んでいた。エルフの彼に聞こえなかったはずはないのに。
『なぜそれを知って……』
怪訝そうな表情になったのはヴァロマも同様だった。眉間にしわを寄せ、額に手を当てる。
『あ』
少しして思い当たることがあったのか、ぽんと両手を打ち合わせると、くるりと後ろを振り向いた。
『女王よ』
「何でしょう?」
ガラドリエルはすでに後ろに控えていた。
『エルフは親愛の情をしめすために接触を多用するのだろうか。握手なり抱擁なり、それ以外でも』
「いいえ。どちらかというとその逆でございます」
『やはりな。そんなことだろうと思ったよ。……王子、こちらに来なさい』
ヴァロマは手のひらを上にして手招きし、レゴラスを少し離れた木の陰に誘った。急な指名にレゴラスは息をのんだが、この場にいる全員が彼に注目している。闇の森の代表として、ロスロリアンでみっともない姿を見せるわけにはいかなかった。
こくりと唾を飲み込んで、レゴラスはヴァロマのそばへ歩み寄る。ヴァロマは手振りでしゃがむように指示した。意図がつかめないながらもレゴラスはそれにも従う。
ヴァロマは自身も片膝をついて腰を落とすと、やおら首に腕を回して鼻と鼻がくっつきそうになるほど顔を近づけた。レゴラスの首に巻きつくきゃしゃな腕は、存外に力強かった。
「なっ!?」
「一体どういう了見をしているのだね、君は」
耳元で囁かれた声は怒りを含んだ低いものだった。重なっていたの声はもう聞こえない。
「了見と言われましても、私には貴方が何に対してお怒りなのかがわからないのですが……」
途端に首に巻きついていた腕の力が強くなった。それは女の力とは思えないほどで、レゴラスは本気で逃げなければ殺されるとみじろぐ。だが中身はともかく姿はだ。乱暴なことはしたくない。
抵抗できないレゴラスに、ヴァロマが冷ややかに言った。
「ほう。ならばカラス・ガラゾンに着いた翌朝、と言えば理解できるか?」
「……あ」
ぎくりとしてレゴラスは動きを止める。
「眠っている娘の部屋に侵入するとは、随分な真似をしてくれたな」
(……そうだった。)
あの時は自分の気持ちで手一杯で、彼女がまだいることをきちんと触れて確かめたくて、まだが目覚めないうちに部屋に入ったのだった。日はもう昇っていたし、部屋の外にはエルフの女性がいたのだが。いつもの自分ならば絶対にやらないことなので、恋とはここまで男を莫迦にしてしまうのかと切迫した状況には似つかわしくないようなことをレゴラスは考える。
だがそれよりも問題なことは別にあった。
「なぜそこまで知ってるんです!?」
レゴラスは蒼白になって叫ぶ。このことを知っているのは自分と、アラゴルンとの世話係になっているガラズリムの女性くらいのはずだった。
「そんなこと当然だろう。今わたしが入っているのは誰の身体だと思っているのだ。ひいなの身体にひいなの記憶があるのがそんなに不思議かね?」
ヴァロマはレゴラスを絞めながら器用に肩をすくめる。
「……っな」
記憶を読んだのだとあっさりいいのけた彼に、レゴラスは不快感を覚えた。
「貴方にそこまでしてもいい権限があるのですか?」
食ってかかるレゴラスをヴァロマは呵呵と笑い飛ばした。
「あるとも。この子はわたしの巫女なのだから。それに今更ひいなが気にするとは思えないね。今回はいきなりだったから文句を言われるかもしれないが、それくらいだ。たいしたことではない。で、どうなのかね?」
「それは……早まったことをしてしまったとは思います。申し訳ありませんでした。ですが……心配だったものですから。ナセ殿、はどうしているのです。彼女とはもう話せないのですか?」
このまま帰ってしまうのだろうか。まだ何も告げていないのに。別れの言葉もなしに?
「ひいなは今眠っている状態だ。いつもならわたしが降りても意識はあるのだが、さすがに今回は負担が大きいようでな。起きればわたしが来たことはわかるだろうが、この感じでは何も覚えていないだろう。わたしの意思は伝えなおしてもらう必要があるだろうね」
おもしろくなさそうにヴァロマは答えた。
「起きたらって……貴方はの迎えに来たのでは?」
レゴラスがそう言うと、ヴァロマは立ち上がり、ぎろりと睨みつけてきた。レゴラスに巻かれていた腕が外され、弾みでレゴラスは地面に転がる。レゴラスは喉をさすりつつ起き上がった。
「君は質問ばかりだな。わたしは何度も同じことをいうのは好きではない。そのあたりのことはすでに女王に話したし、ひいなの今後に関しては王と女王に頼むつもりでいる。居場所はわかったのだ。後は道をつなげるだけでいい。どうしても時差が起こるから今日明日というわけにはいかないが、どれだけ遅くても季節が一巡りする前にはこの子は帰れるのだ。それだけわかれば十分だろう」
急に不機嫌になったヴァロマの様子から、彼は単独ではを連れ戻すことが出来ないらしいことがわかった。思わず安堵の息をつくレゴラスに、ヴァロマはさらに表情を険しくした。
「だからひいなはこの黄昏迫りきたる世界にもうしばらく留まらなくてはならない。その間は今までのようにわたしの護りはない状態だ。出来る限りの手は打ってゆくが、それでも状況は尚悪い。――旅を続けるだなどと」
ぎりっと唇を噛む。しかしの身体だということを思い出したのか、すぐに離した。
「お話中、失礼いたします。ヴァロマ殿」
「なんだね、隊長」
ヴァロマは首だけ動かしてハルディアを見やる。ハルディアはヴァロマの前まで来ると礼儀正しく一礼し、おもむろに口を開いた。
「レゴラス殿から聞き及んだことなのですが、殿には指輪の魔力が効かないというのは真実のことなのでしょうか。姫君が旅立ちを決意されたのは、それもあってのこととか。そして姫君が仰るには、旅立つことを貴方はけっして止めないと」
「効かないわけではない。ただあの指輪ではひいなが望むことを、つまり帰りたいということだが、本当には叶えられないとひいなが知っているだけのことだ。心を蝕もうとする魔力は、確かにひいなには効きにくい。しかしあの指輪の魔力は身体も蝕む。それに対しては通常の人間と同程度の抵抗力しかないだろう。わたしはひいなを旅立たせたくはない。だがわたしには止められないのだ。止めないのではなく。天と地と海にかけてひいなの意志を止めないと誓っているのでな。だからといって、わたしがこの子が旅立つことに賛成しているなどとは思わないでくれ」
「では、本当に止めないおつもりか? 私に言わせれば姫君の行いは、勇気ではなく無謀と呼ぶこそ相応しいものです」
「ハルディア!」
あまりにばっさり切り捨てるハルディアの物言いに、レゴラスは思わず声をあげた。
「貴方はそう思われないのか、レゴラス殿」
レゴラスの声に非難の響きがあるのを聞き取って、ハルディアはレゴラスに冷ややかな視線を投げつける。
「そうだとしても、が望んだことなんだ。それに勝算がまるでないわけでもないのでしょう? 出来ないことと出来るかどうかわからないことは、たとえ気休めでも出来るとはは言わないんでしたよね、ナセ殿」
「なんです、それは?」
指輪の旅の仲間たちの話し合いを知らないハルディアは面食らった。
「家訓のようなものだ。もともとはわたしの心掛けの一つなのだったがね。この子は半分わたしが育てたようなものだから移ってしまったようなのだよ。それはともかく、無謀といわれれば確かにそのとおりだ。少なくともひいなは無事に旅を終えられるなどと思ってはいない。「出来ること」というのは「なんら危険を負わない」ことと同義ではないよ、王子。ひいなは指輪所持者が使命を果たせるようにすることを、己に任じてしまった。自分の生死はすでに視野に入れていない」
の姿のヴァロマは見上げるほど丈の高いエルフの青年たちを双眸に映し、無感動に告げた。
「そ……そこまでわかっていて止められないから止めないというのですか、貴方は!? なんて融通のきかない方だ!」
ハルディアはしばしあっけに取られたが、すぐに我に返って叫んだ。
「融通云々の問題ではない。出来ぬものは出来ぬのだ。王子、君にはひいなを止める気はもうないと、わたしには思えるのだが……」
少女の大きな目を半分伏せて、試すようにヴァロマは問うた。
「ええ、ありません」
「レゴラス殿!」
即答したレゴラスに、今度はハルディアが非難の声をあげた。
「でも、は私が守ります。絶対に死なせたりはしない!」
続けて決意を告げるレゴラスから視線をそらすと、彼は優しげにハルディアにほほえみかけた。
「ならば、やはり隊長だな。どうだろう、この子に旅を続けるのを止めるように説得してもらえないだろうか。わたしもそう望んでいると」
「ナセ殿!」
無視されて、レゴラスはかっとなった。
「それはひいなにのみ許した呼び方だ。慎みたまえ」
ヴァロマはハルディアに目を向けたまま冷ややかに命じる。レゴラスはぎくりと身体を強張らせた。ハルディアは背中にひやりとしたものを感じながら、淡々と返す。
「言われるまでもありません。もとよりそのつもりでした。たとえ少々強引な手段を使ってでも姫君を止めます」
を行かせたくないのは己の意志だ。ロスロリアンを離れられない身なれば、彼女が旅立ってしまった後、再び会える確立は低い。そして外へ出れば、危険は容赦なく彼女にも降りかかるだろう。ここに残ればいい。そうすれば彼女の寿命が続く間くらいは、穏やかに暮らせるだろう。
この選択はけっしてハルディアとヴァロマの利害が一致したからではない。彼の命令をきく義務は自分にはないとハルディアは腹に力をこめてヴァロマを見下ろした。
だがヴァロマは軽く頭を振る。
「いや、それはやめてくれ。説得だけでいい。それで駄目だったら、その時は仕方がない、旅立たせてやってくれ」
「しかし――」
ハルディアは困惑して眉をひそめた。今更何を言うのだろうか。旅立たせたくないと言いながら、説得だけでいいとは。手荒な手段といっても、物理的に危害を加えるわけではない。高い場所にあるタランに連れて行き、指輪所持者たちが旅立つまで梯子をはずしておくだけだ。後を追えないとわかれば、彼女も無理やりついて行こうとはしないだろう。
ヴァロマは望みの叶う確立は低いと、半ば諦めたように嘆息した。
「残るにしろ旅立つにしろ、指輪所持者に形代の術を使うだろうからなあ。術式自体は簡単だが継続させるには色々気を使うのだよ、あの術は」
「ですから、私がを守ると――!」
レゴラスが叫んだが、またもやヴァロマは何も聞こえないように言葉を続けた。
「穢れはひいなの大敵だ。あまりに溜まると生命力が弱まるので、指輪の魔力以外の穢れは極力排したい。だが何が穢れに相当するのかはかなり細かい基準があり、何気ない動作がひいなにとって害になることもあるのだ。しかしすべて説明している時間はない。そういうわけだから説得だけでいい」
「そういうことでしたら……」
「ヴァロマ殿!」
彼女の命に関わることだというのなら、ハルディアは引き下がるしかない。だがどうにも釈然としなかった。それはきっと顔にも出ていることだろう。
「灰色の魔法使い殿が存命であったなら、ひいなも無理せずここに留まってくれたであろうに。全く残念だ」
ヴァロマは哀悼を示して目を閉じた。清らかなその表情はうわべだけのものには見えなかった。だがハルディアには彼の真意を知ることはできない。そこへ再びレゴラスがヴァロマに向かって叫んだ。
「無視するのはやめてください。私ではそんなにご不満ですか!?」
ゆるり、とヴァロマは顔を上げ、ひたとレゴラスを見据える。
「おおいに不満だとも」
の大きな茶色の瞳には、温かみの欠片もなかった。威圧感に気おされつつも、レゴラスは足に力をいれた。
「私が、彼女を愛しているから、ですか?」
彼がの記憶を読めるのなら、彼女が気づいていなくても彼がレゴラスの想いに気づいていることはありえる。
「想うことすら罪になるのですか?」
「男は毒だ。穢れよりも、なお悪い」
ヴァロマは無感動に告げた。
「ひいなが種族問わずに好かれることなど、珍しくもない。大体誰かが誰かを想う気持ちなど、止められるものではないよ。まあ、わたしも昔はそのあたりの加減がわからなかったから色々と強引な真似をしてしまったこともあるが……。今は紳士的に振舞ってくれさえすれば別に想うこと自体は咎める気はない」
「貴方はどうなんです!?」
自分の行為を棚にあげているような発言に、エルフ二人が声を荒げる。それが一言一句同じものだったのが面白かったのか、ヴァロマはおとがいを上げて笑いとばした。
「わたしは特別だよ。決まっているではないか。ひいなはわたしの巫なのだぞ」
そして言いたいことは言って気がすんだと前置きして、笑顔で二人の前に立つ。
「王子よ、これまでの君の振る舞いはこれ以上追及しないでおくことにしよう。君に助けられたことにも変わりはないのだから。けれどこれは忠告だ。これからはゆめゆめ男の心をもってひいなに触れるでないよ。もちろん隊長、君も」
そしてヴァロマは笑顔を消した。
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