裂け谷を出発して二週間は過ぎただろうか。
 細かく日を数えるのは得意ではないレゴラスだったが、多分それくらいは経っているだろうと計算する。
 エレギオンに着いた『旅の仲間』たちは、久々にゆっくりと休息をとることにした。傍目にも疲れきっていた小さい人たちは、それを聞いてはしゃいでいる。
 アラゴルンとガンダルフは早速とばかりにパイプを取り出し、ボロミアとギムリもやれやれといった様子で背負っていた荷を降ろしていた。
 さて自分はどうしようかな。レゴラスは一人ごちる。ここに来る前に気になるものを見てしまったのだ。
 それは白い鳥だった。
 初めて見る種類のもので、優雅に長く、ほっそりとした首をしていた。混じりけがなかったであろう真っ白な翼は、遠目でもはっきり判るほどの血に濡れている。羽ばたいてはいるものの、傷はかなり深いのだろう、ふらふらと何度も上下していた。それにつれて抜け落ちた羽が散っていく。鳥は力尽きたように、降りるというよりも落ちるといった方がふさわしい様子で高度を下げ、そのうち見えなくなってしまった。
 だが位置から推測するに、落下地点はここからそう遠くないはずだ。エレギオンのどこかに居るのは間違いないだろう。
(探してみようか……)
 レゴラスはミスランディアと彼が呼ぶ魔法使いガンダルフに断りをいれ、あたりを散策しに行く。風の囁きに耳を傾けながら、ゆっくりと歩いた。
 ふと風の音に混じって小さな鳴き声が聞こえた。そちらに目を向けると、柊の枝が重なり合って深い影を落とし、窪みになっているところに白い塊があった。
「いた……」
 そっと近づき、首を曲げて丸くなっている白鳥の様子を確かめる。血はまだ完全には止まっておらず、その体を赤く染めていた。そして、翼が――。左の翼が歪んでいた。折れているのだ。
(かわいそうに……)
 できうる限りの手当てをしようと、レゴラスは白鳥を抱き上げようとした。傷に障らないように、そうっと。
 だが手負いの白鳥は彼が触れたことを察知するや、両の翼をばたつかせて逃れようともがく。
『おびえないで。君を傷つけるつもりはないよ』
 レゴラスはエルフの言葉で囁いた。性質のよい生き物は、彼らの言葉を理解するものだから。
『傷の手当てをするだけだよ』
 白鳥は羽ばたくの止め、捕獲者の目をのぞきこむように顔を上げた。鳥は温かい茶色のきれいな眼をしている。レゴラスと白鳥はしばしの間、見つめ合った。
『ああ、駄目だよ』
 ふいと顔を背けた白鳥は、血を吸ってくっついてしまっている羽毛が気になるのか、つつこうとする。それを押しとどめようとすると、嫌がるように首を振り、くぅ、と小さく鳴いた。
 傷は左の翼が一番ひどく、先のほうはむしられてボロボロで、首筋に近いところがえぐれていた。その無残さに、レゴラスは顔をしかめる。
『だから駄目だって』
 なおも同じ場所をつつこうとするので、レゴラスは思わずくちばしを握ってしまった。
「う、わっ!」
 気分を害したらしい白鳥が思い切り右の翼を広げた。不意をつかれてバサリと顔面に当たる。そのままレゴラスと白鳥は動きを止め、互いの出方をうかがった。
(どうすればいいんだろう)
 白鳥はかなり強情な性格らしい。このままでは手当てもままならない。
 ふいに白鳥は視線を下げ、さっきから気にしている箇所をじっと見、また視線を上げレゴラスを見上げた。か細い鳴き声をあげ、困ったように首をかしげる。
(……かわいいなあ)
 そんな場合ではないとわかってはいるが、口の端が緩んでしまうのを止めることはできなかった。白鳥は抗議するように鋭く鳴き声を上げる。
『ごめん、笑うつもりじゃなかったんだけど』
 レゴラスが弁明するも、どうだか、というように胸を膨らませた。それから白鳥は先ほどと同じ行動を取る。
 つまり、下を見て、彼見て。また下を見て、レゴラスを見る。
『何がそんなに気になるんだい?』
 聞くと、やっと気づいたかというように一声長い鳴き声を発し、くちばしをカチカチと鳴らしながら顔を下に向けた。どうやらそこに何かあるらしいとレゴラスは悟り、不思議に思って探ってみると、血濡れの羽毛の下に何か固いものがあった。傷に触らないように羽毛をかき分けてみる。
 それは石だった。
 ひび割れてしまったせいで中が曇っているが、水晶か何かだろう。どんぐり大の丸い石が、なぜか白鳥の体にピタリとくっついているのだ。
『これ……取ればいいの?』
 問うと白鳥は肯定を示して頷いた。
(それにしても……)
 見慣れない種類の白鳥。その体に張りついている宝石。
(まさか、あの方じゃないよね)
 こんなところにいるわけはないとわかってはいるのだが、一度浮かんだ疑問は消えなかった。
 どうしたものか迷っていると、急かすように白鳥が首を振る。
『ち、ちょっと待って。えっと、向こうに私の仲間たちがいるんだ。どのみちここで出来ることはあまりないし、とりあえず連れて行くよ』

「うわぁ、大きな鳥!!」
「用意がいいね、レゴラスさん」
 白鳥を抱えて仲間のところに戻ると、小さい人たちが喜び勇んで駆けてきた。今日は久々に火を使ってもよいということになったので、サムが早速食事の支度をしている。並べられている材料から推測するに、貴重な飲み水と貴重な食料とで、煮込みを作るつもりのようだった。
「あのね、この白鳥は……」
「久々にローストチキンが食べられるんだね。鶏じゃないけど」
「スープも作りましょう。フロド様」
 サムはいそいそと燻製肉をしまいはじめた。新鮮な肉が手に入ったので、こちらは後日のために取りおくつもりなのだろう。
『うわっ、落ち着いて。食べたりなんてしないから!』
 白鳥の料理方法を決めだした小さい人たちの会話を聞いた白鳥が、慌てて飛び去ろうと羽をバタつかせる。レゴラスは焦りながら小さい人たちの話をさえぎった。
「君たち、この子は食べるために連れてきたんじゃないんだよ。怪我の手当てをするんだ。食べるのは、駄目」
「ええ〜!」
 ピピンとメリーが不服そうな声を上げる。
「そうなんですか?」
「残念ですだ」
 口々に不満を表明しながらも、ホビットたちはあっさりと引き下がる。助かった、とレゴラスは小さく嘆息した。
「どこから見つけてきたんだ、レゴラス」
 小さい人たちと入れ替わるように近づいてきたアラゴルンが、軽く眉根を寄せて白鳥をのぞきこんだ。
「すぐ近く。ここに着く前に怪我をして落ちてゆくのが見えたんです。気になったので探してみたんだ」
「翼が折れているが、死ぬほどではないだろう」
「うん。それはいいんですけど、これ、見てください」
 レゴラスはアラゴルンに件の石を見せると、驚きで彼が息をのむのがわかった。
「まさか……。いや、こんなところにいるはずが……」
「やっぱり、そう思いますよね」
 二人はは困惑して顔を見合わせる。
「ちなみにこの鳥、私は初めて見る種類なんだけど、あなたは知っていますか?」
「いや。私も初めて見た。……本当にあの方であるのならば、それも当然なんだが」
「いったいどうしたと言うんです? それは普通の鳥ではないのですか?」
 フロドが不思議そうにレゴラスたちを見上げてきた。残りの小さい人たちも興味を掻き立てられたようで、白鳥をよく見ようとつま先立っている。
「うーん。普通じゃない、というかね」
 レゴラスは言葉を濁した。実際、自分でも判断がつかないのだ。
「ミスランディア!」
 こんな時は年の功とばかりに、レゴラスはガンダルフのところへ行く。かいつまんで事情を説明すると、魔法使いはパイプを咥えたまま唸った。
 ガンダルフは眉間に皺を寄せて、ゆっくりと煙を吐く。レゴラスは魔法使いの返答を待った。
 自分が気になるのは、この鳥にくっついている石だ。普通、こんなものが体に張りつくわけがないのだから、外したら何かが起きるような気がする。でも、その何かとは何だろう?
「外してみるしかないじゃろうな」
「え? それでいいんですか?」
 あっさりとした返答をされ、レゴラスはいささか拍子抜けした。
「何かが起こるにしてもそう悪いことではあるまい」
「つまり、あなたにも何が起こるかはわからないのですね」
 仕方がない。今は大人しくしているけれど、この石を外さないとこの白鳥は手当てをさせてくれないようだから。
 覚悟を決めてレゴラスは石を引っ張る。だが動かなかった。もう一度、と力を込めると、
「――!!」
 白鳥が苦しげに震えた声で鳴いた。
「あ、ごめん」
「――、――!!」
「え? 何?」
 故郷の森の鳥なら、何を言っているのかわかるのに。じれったくてレゴラスはやきもきする。
「まわせ、と言っていっておるようじゃぞ」
「ミスランディア、わかるんですか?」
「何となく、じゃがな」
 とにかく、言われたことを試してみようと、レゴラスは石に手を伸ばす。
 かなり固い手ごたえがしたが、石がゆっくりと回ってゆき、そして――。
「うわあっ!?」
 一回転したかと思うと白鳥の体が膨らみ、形を変えた。全身が縦に伸び、次の瞬間。
「エルウィング様!?」
 アラゴルンとレゴラスは同時に叫んでいた。
 目の前の白鳥は姿を変え、白いローブ姿の女性が現れる。
(まさか、嘘だろう!?)
 混乱しつつも、レゴラスの脳裏に伝承の一説がよぎった。古の宝玉を巡る争いの末、死を覚悟して海に身を投じたエルフの乙女のことを。彼女は水の王により白い鳥に姿を変えられ、愛する夫を探し、飛翔した。その白鳥の胸には今の世には失われた宝玉が輝いていたという。
 鳥が翼を広げるように、身体に巻きつくようになっていたローブが風を孕んでひるがえる。たっぷりした布地のせいで錯覚していたが、その女性は小柄だった。まだ少女といってよい年代である。そして焦点の合わない瞳は、あの白鳥と同じ色。肩口から二の腕までに広がる鮮やかな赤もまた、同じだった。
 立ったと思った瞬間、少女は力尽きたようにくず折れる。レゴラスは腕を伸ばして抱きとめようとした。途端、少女は悲鳴を上げる。
「ああっ、ごめん!」
 抱きとめた拍子に傷に触ってしまったらしい。
 なんださっきから謝ってばかりいるような気がするが、それは大きな問題ではない。よくよく見ると、彼女はエルフではなかった。見た目だけなら「人間」だが、人間が何かに変身するという話は聞いたこともない。
「君は……」
「わ、たし……」
 痛みで意識がはっきりしたのだろう。少女は青ざめてはいるものの自分の足でしっかりと立ち、困惑した表情でレゴラスを見上げてきた。

 自分の頭一つ分は大きいひとから小さいひとまで、九人もの男に取り囲まれたは、初めは早まったかなと考えた。
 不測の事態が次々重なり、もう自分の手に負えないと感じてはいたものの、この行動もまたさらなる事態の悪化を引き起こすだけに終わるかもしれないのだ。
 けれど自分を捕獲した金髪の青年――捕獲ではなく保護だということは、現在では理解している――も、その他の面々も、悪人には見えなかった。年齢不詳だったり、見慣れない衣服を着ていたりしているが。それに、人の気配が全くない場所にいたというところにひっかかりを覚えるが。
 だが少なくとも、言葉は通じるようだ。自分を見つけてくれた青年の言葉を、は理解することができた。だから可能な限り、『こちら側の事情』を教えてもらえたらと思ったのだ。
 しかし鳥のままでは話をすることができない。だから驚かれるだろうと思いつつも、青年の協力を得て、は変身を解除した。
 彼らの表情はおおむね呆気にとられるというものに統一されていた。いち早く我に返ったのは最年長らしき老人だった。灰色の長衣を身にまとい、絵に描いたような魔法使いのごとき杖を手にしている。
 老人はその傷をなんとかせねばならんなと呟いた。その言葉に凍りついたように固まっていた面々がはっとしたように動き出す。
 はとにかく座れとうながされ、金髪の青年が脱いだマントの上にあれよという間に座らせられた。黒髪の厳しい顔つきをした男が傷口を見せてほしいと言ったので、は片手でローブの前を開ける。途端、男が表情を強張らせた。
 自分でもまだ確認していなかったが、の左腕の負傷は相当ひどいものだったのだ。怪我の程度がわからなかった時は必死だったこともあり、そこまで痛みを感じていなかったのだが、血に染まった左腕を目にしてしまった今では、「重症というほどではない」と自分を誤魔化すことはできなかった。
 放っておけば壊死しかねないと、男はの着ているワンピースの袖を切り落とす。タートルネックにタイトスカートなので、片腕だけを引き抜くのは難しかったためだ。その行為は有無をいわさぬものではあったが、見知らぬ男性しかいないここで服を脱ぐよりはましだと、は素直に了承する。
 男が自分の荷物から傷の手当てに使うらしきものを取り出したので、痛みに意識の大半を取られていたは制止をかけた。自由のきく右手で自分の鞄を開けると、携帯用応急処置セットを取り出した。
 それからペットボトル入りの水を出す。傷口を洗うために必要だと考えたのだ。このあたりに水場があるか定かではないし、彼らの飲み水を使うわけにもいかないだろう。
「そんな状態なのにすまんが、少々話を聞かせてもらえるかね?」
 灰色の髭の老人に聞かれ、は頷く。
「わしはガンダルフ。魔法使いじゃ」
 それから彼は手早く残りの面子の名を紹介していった。エルフにホビット、ドワーフなど、には聞いたこともなかった種族が半数以上を占める構成だった。一体彼らは何のためにこんな寂しい山の中にいるのだろうと疑問を覚える。だがその前に自分の身元を明らかにしなければならないようだった。ガンダルフはに、彼女が何者で、なぜこんなところにいるのかを問いただしたのだ。
 どこから説明したものかとはしばし考える。できるだけ誤解のないように話さなければ。そうでなくとも荒唐無稽すぎる内容になるのだから。
 そして彼女は緊張しながらも口を開く。

 わたしの名前はといいます。
 種族は人間。人種はモンゴロイド。民族としてなら日本人ですね。
 性別は女。年齢は十九。え? 十二、三歳くらいだと思った? ああ、そう見えるかもしれませんね。童顔なので、実年齢より若く見られがちなんです。でも十九歳なんですよ、本当に。
 職業は、巫女。
 知らない? うーん、それなら魔女は? それと似たようなものよ。

 声にだすと意外と調子よく話せた。はそれに気を良くする。

 ことの起こりは、そう、昨日のこと。
 わたしはその日、山にいたの。こっちの世界じゃなくて、わたしがいた世界、ガイアのね。
 わたしのいた国は、というよりも、世界は人間がすごく多いの。だから山を削ったり、川や海を埋めたりして人間の住むための土地を増やしていっている。
 そうするとどうなるかというと、「元々そこにいた者たち」がすごく迷惑するわけ。当然よね。自分たちのねぐらに、勝手に人間が侵入してくるのだもの。
 だから「彼ら」は人間を排除しようと色々するの。
 けれど人間の多くには「彼ら」を見ることができない。
 結果、原因不明の事故が続発したり、そこに住み着いた人間に不幸が立て続けに起こったりと、面倒ごとが起こるのよ。見えないものは信じないという人間は多いからね。
 それでも気のせいだと言い張るなら、そういう人はそういうスタンスでいればよいでしょうと特になにもしないわ。
 でも、どうにかして欲しいと言う人もたまにいて、そういう人から依頼があったらどうにかする、というのがわたしの役目。
 具体的にどうするかって?
 うーん。この役目ははっきり言って、人間のためにしているわけじゃない。だから「彼ら」を無理やり追い出すとかはしないわ。双方の妥協点を見出して何とか共存できる方法をとるのよ。
 まあ、中にはどうすることも出来ないほど強力な相手だった場合には、人間のほうに出て行ってもらったりもするし、その逆もありだし。ケース・バイ・ケースね。
 それで、そんな仕事を一件片付け終わって帰ろうとしたら、急に目の前が暗くなって……多分気絶したのだと思う。
 気づいたら、わたしのいた国ではまず見られないような、荒野の真っ只中にいたのよ。
 何が起こったのかよく分からなかった。
 しばらく呆然としていたんだけど、とにかくここがどこか調べようと思ったの。
 ちょうどいいことに今回の件で、「白鳥のローブ」を着ていたからそれで変身して、上から誰か話しの聞けそうな人がいないか、探したの。
 ええ、わたしが変身していたのはこのローブと、それからこの眼水晶(クリスタル・アイ)の力よ。
 でもどこまで行ってもだーれもいない。そのうち夜になったから野宿をして、そして朝になったらまた変身して。
 ……気がついたら、やけに大きな鴉のようなものの集団に囲まれていたの。なんだか普通の鳥じゃなかったわ。悪意が目に見えるくらいはっきりわかったもの。
 クリバイン? そういう名前なのね。やっぱり普通の鴉じゃないんだ。
 数が多くて何度か攻撃を受けてしまって、それでも何とか振り切ってここまで逃げてきたわ。だけど運が悪いことに、変身を解除するスイッチになっているこの眼水晶が攻撃を受けた衝撃で壊れてしまって、元に戻ることができなくなってしまったの。鳥のままでは手当てもままならないし、どうしようか途方に暮れていたところを見つけてもらったという訳。
 改めて御礼を言わせてくださいね。ありがとうございます。
 あのままだったらわたし、きっと死んでしまったに違いないもの。

 いくつかの質問に答えつつ、は語り終えた。
 大変だったんだね、とエルフのレゴラスは美しく整った顔を憂いに染めて優しく声をかけてくる。なんて良い人、ではなくてエルフなんだろうとは思った。
 自分で話していても突拍子もないことこの上なくて、嘘をついているのではないかと勘繰るのも馬鹿馬鹿しいほどの内容だ。嘘なんてついていない、これは現実に自分の身に起きたことなのだとは断言できるが、それを証明できるものはない。
 だから元の姿に戻ったのも、一世一代の賭けだった。
 鳥の姿のままならば、おそらく手当てをしてもらった後、傷が治りさえすれば放してもらえただろう。それまでの間、彼らの会話から必要な情報を得られれば、彼らを警戒させず、自分も安全を保ったまま次の手を考えることもできたはず。
 けれど、どうしてだか、そうする気にはならなかった。ずっと気を張っていて、人恋しくなっていたのかもしれない。
(いけない。今は落ち込んでいる場合じゃないんだから}
 は少し俯いて自嘲すると、顔を上げてぐるり、と男たちを見渡した。
 案の定、困惑した顔、疑わしそうな顔、ただひたすら難しげな顔、とお世辞にも好意的ではない。
 迷惑をかけてしまっているとわかっているが、自分もかなり困っているのだ。ようやく出会えた言葉が通じる相手だということもあり、見捨てられることに対して遅まきながら恐怖感を覚える。
 それと同時に自分が置かれた状況を口に出したことで客観的な視点を取り戻したようだ。自分のことで精一杯だったは、自分が消えてしまったことを、家族はもう知っているのかと考える。
(向こうとこちらで流れる時間は同じ速さなのかしら。そうだとしたら、さすがに丸一日経っても連絡がないんだもの、さすがに心配しているでしょうね。……もう行方不明になった原因は特定されているのかしら。ああ、こちらから連絡する手段があればいいのに)
 そして、もし家に帰った時に自分の葬式が終わっていたらかなり嫌だなと思い浮かべたところで、ふいに胸が締めつけられる。
 帰ったら……?
 帰れるのだろうか……?
 果てしなく暗い考えに陥ることになるだけだと努めて考えないようにしていたことを、うっかり頭に思い浮かべてしまった。だがそうと悟った時には遅かった。胸の内に広がった不安は、氷のように冷たくを満たしてゆく。
 しかしそうであるにも関わらず、の唇はいつものように笑みの形を作り、考えるよりも先に言葉を紡いでいた。今度はこちらの世界のことを教えてほしい、と。
 朗らかとすら感じる自分の声が、どこか遠くから聞こえるもののようにの耳に響いた。

 傷ついた鳥を拾った、と思ったら人間の女の子だった。
 最初の驚愕が過ぎ去ると、レゴラスはより一層彼女に対する興味を強くする。
 別の世界から来たと言うの言葉には、さすがに全員が驚いていた。さらに魔女のような存在であるというので衝撃は増す。
 あの登場の仕方から彼女が魔法を使う存在であることは認めざるをえない。通常の人間にはそのようなものは使えないのだ。中にはアラゴルンのように特殊な能力の持ち主もいるが、それは魔法とは少し違う。ということは、やはりは本当に別の世界から来たのだろうか。
 否定するだけの要素は、見当たらなかった。
 そこまで考えると、レゴラスは改めて青い瞳をに向けた。
 自分の国から出ることがほとんどなかったレゴラスは、人間それ自体を見た経験があまりなかった。
 けれどその少ない経験からでもわかる程度には、彼女がこのあたりの人間と――基準はアラゴルンの一族だ――顔立ちが違うことがわかった。
 肌は淡いクリームのような色。大きな濃い茶色の目に形の良い唇。そして艶やかな栗色の髪は優雅な形に結い上げてあった。ただし唇は普段ならばベリーのように赤く色づいているのだろうが、今は失血のせいでくすんでいた。髪も風やクリバインに襲撃された影響か、ほつれ毛が目立っている。
 ボロボロになったローブの下の服装も、見慣れないものだ。真っ白なドレスはスカート丈が膝より短い。そうなれば当然、足が丸見えである。白いタイツをはいているが目のやり場に迷うところだ。
 さらに今は治療のために左の袖を切り取っていた。袖が細いので、腕を引き抜くことができなかったからだ。そのため律儀なボロミアなどはを見ないように一生懸命視線をそらしている。
 少女を見ないようにしているのは、ホビットたちも同様だった。ただし彼らはの怪我が酷くて直視できないのが理由のようだが。それに対してドワーフは警戒感をあらわにして、むしろ睨みつける勢いだった。
 平然としているのはアラゴルンと魔法使いくらいのものだろう。アラゴルンは長年放浪をしているため様々なことに関わっている。だから多少のことでは動じないのだ。その彼はが持っていた応急処置道具を使い、怪我の手当てをしている。
「なるほどのう。状況は分かった」
 と話をするのは、もっぱらガンダルフの役目になっていた。
「こちらのことを話すのはかまわん。だがその前に、いくつか聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
 は可愛らしく首をかしげた。
「わしもこのような事は初めてでな。お前さんはこんなことになったというのにあまり驚いているようには見えんのう」
「いやだ、驚いていますよ? でも、それはほとんど昨日のうちにすませてしまいましたから」
 はまるで、面倒な雑用はさっさと片付けたのだとでも言うようにあっさりと笑い飛ばした。
「それに、聞いたことがあるんです」
「何をだね?」
「どこか別の世界に飛ばされてしまうということ。ガイアではたまにあるみたいなの」
「ほう」
 興味深そうにガンダルフは話をうながした。
「姉様がそういうことにお詳しい方なの。だから、わたしが普通の……つまり事件や事故に巻き込まれての行方不明じゃないって、気づいていると思うんです。姉様はガイアで最も力のある魔女で、以前にもわたしのような行方不明者を探したことがありますから」
「それって、のことを迎えに来てくれるってこと?」
 唐突なレゴラスの問いに、は少し困ったように笑い「ええ、多分」と答えた。
「多分?」
「いつになるか、わからないんです。なんでも世界ってたくさんあるんですって。それで、その世界の一つ一つに時間の積み重ね、歴史があるわけでしょう。たとえここの世界をすぐに見つけ出せたとしても、探す時間軸がほんの一年、ううん、一週間前なだけで、私は見つけてもらえない。逆に百年先なら死んでいるでしょうから、やっぱり見つけてもらえない。本当に運次第だからどうなるかわからないんですよ」
「じゃあ、もし見つけてもらえなかったら?」
 言ってしまってから、レゴラスはしまったと口をふさいだ。アラゴルンが眉をしかめてこちらを見ている。無神経なことを言ってしまった。
「そんなこと、今考えたって仕方がないじゃないですか。わたしに出来ることはその時が来るまで生きのびることだけです。死んでしまったら、迎えも何もないもの。わたしがここの世界に来てまだ二日よ。絶望するには早いわ。そりゃ、嘆いて事態が良くなるのならいくらでも嘆くけど」
 そういうと、は目元に優しく笑みを作り、言外に気にするなと告げてきた。
(なんだか、すごい子だな……)
 レゴラスは心の中だけで呟いた。
 人間で十九歳といえば、大人に近い年齢だ。とはいえ、それで不安も心細さも消え失せてしまうわけがあるはずもなく、見知らぬ場所に一人放り出されて怪我まで負った。レゴラスたちに会わねば衰弱して死んでいたかもしれない。それなのに、はさっきから笑っている。
 青ざめた顔色ながらもその瞳は強く前を見据え、背筋を凛と伸ばしている様は、侵しがたい気高さに満ちていて、レゴラスは目を離すことが出来なかった。
 そうしてどんどん彼女に対する関心がわき出ていることに気がつくと、レゴラスはエルフらしい美しい瞳を輝かせ、ほほえむのだった。
 その後、長い話になるだろうからと、話は食事をしながら続けることになった。
 は片手が使えないこともあって、レゴラスが介添えを買って出たのだが、やりやすいからという理由でレゴラスの膝の上に座らせられ、一口ごとにフォークを運ばれたは真っ赤になって抵抗した。右手は使えるという抗議をさらっと聞き流し、上機嫌で人間の少女の世話を焼くエルフを、仲間たちはなんともいえない目で眺めているのだった。
 そんな攻防戦も一段落し、旅の仲間たちはかわるがわる話をした。
 アラゴルンやボロミアは人間のことを、小さい人たちはホビット族のことを、レゴラスはもちろんエルフ族のことを。
 ギムリが短いながらもドワーフのことを話したことにはみんなが少なからず驚きを示し、驚かれたことにギムリがむっとするという一幕もあった。
 そしてガンダルフはこの世界の状況と、急ぎの旅をしていることを教える。だが旅の目的については口を濁して話すことはなかった。
 気がつくと日はすっかり落ち、ホビットたちとはうとうとと船を漕ぎだしていた。そこで不寝番を決め、他の者は休むことにした。
 揺り起こされたははた、と目を開けると、所持品であるやたらと物が入る鞄――本当にどういう作りになっているのか全員が不思議がっていた――から毛布を引っ張り出そうとし、それに気づいたレゴラスが手伝う。適当に落ち葉を集めたものの上に毛布を広げるとは礼を言い、ローブを被ってそっと身を横たえた。
 それから彼女はパチンと音がしそうなほど勢いよく目を閉じると、あっという間に眠りに落ちていったようだった。
「一体どうしたものだろうか」
 はぜる炎を眺めながら、アラゴルンが呟いた。レゴラスは視線だけをドゥネダインの族長に向けると、彼の言葉を待った。
「これがいつもの探索ならば、どこか近くにある人里にでも向かうところなのだが……今はそのようなことをしていられる余裕はとてもない。連れて行くのは危険極まりなく、かといってここに置いていけば間違いなく死んでしまう」
「だけどミスランディアは連れて行く気のようですよ。私としても置いていくつもりは全くありません。それよりも、アラゴルン。に指輪のことを言わなくても良いのですか? 彼女はしばらくの間、我らの旅の連れになるというのに」
 アラゴルンはちら、とに目を向けると、また考え深げに焚き火に視線を戻した。
「しかし彼女は指輪の恐ろしさを理解してくれるだろうか。指輪の力があれば元いた世界へ帰れるのではと、考えないだろうか。が偽りを言っていないことは私にもわかるが、だからといって今すぐすべてを話していいものかどうか」
「隠していてもいずれ知られてしまうことです。それより心構えをさせる意味でもには早めに我らの状況を教えておいたほうが良いと思う。それとこれはエルフの勘なのだけど、彼女を信じていい人間だと思うよ」
 穏やかな微笑を浮かべてに視線を移すレゴラスに、アラゴルンはふと疑問を覚え、それを問おうと口を開いた。
「レゴラス、お前……」
「はい?」
 返事をしたレゴラスが澄んだ青い瞳でアラゴルンを捉える。あまりにも無邪気な様子に彼は戸惑った。
「いや、なんでもない」
 まだ聞かないほうが良いと、アラゴルンは喉まで出かかった言葉を飲みこんだ。
「おかしな人ですね」
 にっこりと、それはそれは楽しげな笑みを浮べると、レゴラスは再度眠る異世界の少女を愛しげに見つめた。わずかに乱れた髪が顔にかかり、いまだに血色が戻らない肌が痛々しい。それでも命を刻む音は間違いなく響き、生きていることを教えてくれる。
(危険は去った。大丈夫。大丈夫だ。寄る辺のない小鳥よ。あなたは私が守るから――)




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