一夜明けて、突如として現れた少女、は目を覚ますと非常に困ったことになっていることに思い当たった。
いつの間にか知らない場所にいたのは参ったし、怪我を負い、変身が自力で解けなくなった時には本気で死を覚悟した。たまたま通りかかった旅の一行に助けられたのだが、正体を明かしたのは、やはり早まったかもしれない。
目の前で笑うエルフの青年を見て、はため息をついた。
彼女は今、怪我をしていて左腕を動かすことが出来ない。
そういう訳で何をするにも誰かに手伝ってもらわなければならないのだが、いかんせん、その旅の一行は全員「男」だったのだ。
着替えはなんとか右手で行い、洗面は手伝ってもらった。食事はこれからなのだが、昨夜のように膝だっこをされての介添えはとても居たたまれないので、どうにかして断ろうと決意する。
どうしても一人で出来なかったのは髪を結うことだった。
は普段から邪魔にならないように束ねるか、結い上げるかしていた。そうでなくてもこれから道なき道を歩くらしいので、きちんとしなければあっという間に埃だらけになるだろう。
そこで前日から良くも悪くも世話をしてくれたレゴラスに、世話焼かせついでに結ってもらおうと頼んだのだ。
しかし快く引き受けた彼は、の髪を梳いただけだった。
「ちゃんとしてって、言ったじゃない」
抗議をするも、レゴラスはどこ吹く風だ。
「したじゃないか。とても似合ってるよ」
「そういう問題じゃないわ」
やり直しを要求すると、レゴラスはそれも気持ち良く引き受けたが、しかし今度は前髪と横の髪を取って編みこみにし、他はそのまま流す、という自分の髪型と似たり寄ったりなものにされてしまう。言葉は通じても意志が通じないことにはなんだか頭が痛くなってきた。
しかしエルフであるレゴラスが知っている女性の髪形は、下ろすか一部編みこみを作るかのどちらかだ。髪をまとめて頭の上に乗せるようなの髪形は見たのも初めてで、結うことなど出来はしない。
埃っぽくなるとは言うが、彼女の腰まである栗色の髪は結っていたにもかかわらず、ほとんど癖もつかないほどさらさらとしている。櫛で梳けばそれほど酷いことにはならないだろう。
そうレゴラスが言うとは昨日よりは血色の良くなっている頬を膨らませ、上目遣いで睨みつけた。それはまったく迫力のない代物だったため、エルフと少女のやり取りを見ていたものたちの笑いを誘う。
「まあまあ、。朝ごはん出来たってよ」
「さあ、食べよう食べよう!」
一方的に険悪な空気を放っているをメリーとピピンが両側から引っ張って、レゴラスから引き離そうとした。これ以上言い争っていても仕方がないと、は大人しく二人について行く。
メリーやピピンも初めは一応を警戒していたのだが、快活な二人のこと、あっさり警戒心を解いて少女に色々話を聞きまくった。彼らにとって「他の世界から来た」人間の話は、だんだん過酷になってきている旅の中にあって格好の娯楽になっていたのだ。
も初めて見る自分よりも小さな種族の気さくさには救われるところがあった。不可抗力とはいえ、見ず知らずの人たちの面倒ごとを増やしてしまったと申し訳なく感じていたので、こうして親しげにされるのは素直に嬉しかったのだ。
ホビットたちとじゃれあいながら仲間の元に向かうの後ろ姿を眺めながら、レゴラスもゆっくりとついていく。朝日を浴びて輝く栗色の髪は美しく、わざわざ小さくまとめようとするの気持ちはさっぱり分からない。
(下ろしているほうがいいのに)
心底残念がっているレゴラスは、ふと視線の先に黒い点があることに気がついた。じっと目を凝らすとその点は数を増し、猛スピードでこちらに近付いてくる。それは大型の鴉の群れだった。
「クリバインだ!」
レゴラスが叫ぶと、アラゴルンがさっと立ちあがり、空を見上げて叫ぶ。
「隠れるんだ!」
和やかだった空気が一気に固まり、一拍をおいて全員がばっと動き出した。
料理をしていたサムは火を消すとフライパンを持ち、そばに居たフロドは荷物を抱えて岩陰に向かう。
ボロミアはそばの木の陰に。
ギムリとガンダルフは近くの岩陰に。
メリーとピピンは枝を張った低木の下にもぐりこんだ。
は自分が小さい人二人と同じところにもぐりこむのは無理だと判断すると、大き目の隙間のある岩の下に向かって走り出した。レゴラスはの後を追おうとしたが、アラゴルンに目で制され、やむなくその場にあった木の下に隠れた。もちろん目だけは大鴉の群れから外さないまま。
アラゴルンはの腰を抱くように抱えると、岩の隙間に放り投げるようにして奥に押し込み、自分の体で隠すようにした。
少しの間、痛いほどの緊張感が漂い、次にいくつもの羽音が聞こえたかと思うと、おびただしい数の大鴉たちがギャアギャアという耳障りな鳴き声を上げながら次々に通過して行った。
長いとも短いともつかない時間が過ぎたあと、クリバインが完全に行ってしまったことを確認すると、レゴラスはもう大丈夫だと声をかけた。そろそろと仲間たちが隠れ場所から這い出てくる。
アラゴルンは安堵して息を吐くと、を引っ張り出そうと振り返る。すると少女が真っ青になっていることに気がついた。早く隠さなければと思うあまりに、彼女の体勢まで考えることが出来なかったのだ。は左腕を下にした横向きの姿勢で、ぎゅうと目を瞑っている。
「すまない、!」
そういえば彼女を隠すときに押し殺した声が聞こえたなと思いながら、強張っている体をゆっくり引き出した。怪我の具合を見ようと、腕を固定してあった包帯を外そうとする。
だがはそれを押さえるようにして止めた。
「へ、平気です。だいじょぶ」
「いや、しかし……」
「今痛いのはどちらかというと、縫ったほうだから。少ししたら治まると思う」
「悪かった。君が怪我をしていたことを忘れていた」
「ううん、いいの。隠れなきゃいけなかったんでしょう? なら、そっちの方を優先しないと」
細い呼吸を繰り返し、己の右腕で左腕を抱くようにし、青ざめながらも笑顔で答えるにアラゴルンは頭を抱えたくなった。最後に「あんの鴉ぅ」と小さいがかなりドスの効いた声を聞いてしまったせいもあるかもしれないが。
この少女はとても我慢強い。それは昨日の治療の時に既にはっきりしている。
それに判断力は悪くない。警戒しているのはお互い様だろうが、彼女は自分から語ることでそのほとんどを消したのだ。
それからとても前向きだ。いや、前向きと言うよりは、大雑把というか無頓着というか。戸惑ってしかるべき状況で、不安を感じていないわけではない様だが妙にあっけらかんとしている。
見た目は十を少し越したくらいにしか見えない、砂糖菓子で出来ているような少女が、一体どんな育ち方をすればこうなるのだろう?
もっとも、ここは裂け谷ではなく、人里ですらなく、進む先にあるのは命の危険もある道程だ。それを考えれば彼女のこの性質はむしろ歓迎するべきものなのだ。
なのだが……。
(調子が狂うな……)
あまりにも劇的な登場シーンと落差のありまくる言動に、アラゴルンはこっそり溜息をついた。
目の前の男がそんなことを考えているとも知らず、やや痛みが治まったはもつれて埃だらけになった髪を手櫛で梳き、あまり巧くいかないと、頭を振った。
「やっぱり、結ったほうがよさそうだね」
近くに隠れていたフロドが先ほどのエルフと少女のやり取りを思い出したのか、クスクス笑いながら近寄って来た。
「ねー。だから言ったのに」
座っているせいで目線がフロドより下になっていたために、見上げるようにして小首をかしげ、にこりと笑うとしっかりと視線が合ってしまったフロドは、一気に真っ赤になった。
「フロド、やってくれる?」
「え!?」
思わず自分を指さしてしまい、がそれにコクンと頷く。
「む、ムリ、ムリ。出来ないよ! だって、ホビットはみんな髪が短いんだもの。やったことないし」
フロドはやたらと動揺して腕を振り回し、慌てて左右を見渡した。予想通りレゴラスが櫛を握りしめ、足早にこちらに向かって来る。唇は笑みの形を刻んでいたが、その目は全く笑っておらず、言外に「断れ」と告げていた。
レゴラスがに一目惚れでもしたのではないかと思うほど彼女を気に入っていることは、すでに仲間内では周知のこととなっていた。うかつに刺激するのは危険だと、フロドはじりじりとあとずさりする。
一方、がレゴラスをどう思っているのかは――わからなかった。彼女はホビットとレゴラスには気さくに、それ以外の者には目上の相手として接している。レゴラスがホビットと同じくくりに入れられてしまったのは、身長や外見年齢ではなく、主にその言動のせいだろう。旅の仲間の中でも二番目に年長なのに、中身は二番目に若いメリーや最年少のピピンとさして変わらないと判断されたと予想できる。美しい容姿もには特に効果はないようで、見惚れている様子はこれまでのところ、なかった。
フロドに髪を編むことを断られたは、今度は別の相手を探した。
「ギムリさん、三つ編みを編んでくれませんか?」
豊かな髭にほどこされた見事な編みこみには引きつけられる。レゴラスが持っていた櫛を取り、驚きで目を丸くしているドワーフの方へ少女はとてとてと歩いていった。
驚いているのはレゴラスも同様だった。自分が好意を持っていない相手に彼女が依頼したのだ。とても黙ってはいられない。
「! 三つ編みくらい私がやるよ!!」
ほとんど叫ぶようにしてレゴラスは止めようとするが、
「うーん。……いいや、レゴラスって人の髪で遊ぶんだもん。ギムリさん。お願いできませんか?」
そんなエルフの抗議をさらりと退け、ドワーフのほうに向き直り、彼の返事を待った。
ギムリはそれはそれは渋い顔をしていたが、は全く気にした様子はない。それとも本当に気づいていないのかも知れないのだが。
「……三つ編み……でいいのかね?」
このまま睨みつけていても埒が明きそうにないので、仕方なしに確認を取ると、
「ええ」
と、はそれはそれは素敵な笑顔で答えるのだった。
(異界の魔女は判らん)
ギムリはの「魔女のようなものである巫女」だと言う自己紹介を聞いてからというもの、傍目にもわかるほど警戒をして一定以上の距離には近付こうとしなかった。
実を言うと昨夜も眠っている間にネズミやトカゲに変えられてはたまらんと、ほとんど眠れなかったくらいだ。
今もこうして近くに居られるとひどく落ち着かない。しかし丁寧に頼まれたのだし、傷ついた幼子にしか見えない少女の願い事を無下に断るのも気が引けた。
それに、と優に頭二つ分は背の高いエルフをちらっと見やり、思ったとおりものすごく嫌そうな表情でギムリを見下ろしているのを確認して心を決めた。後ろを向いていたためにその事に全く気づいていない少女に鷹揚に頷いてみせる。
はレゴラスのことをうっとおしがっている。ギムリは育ちの良いドワーフなので共通語で声に出す気はまったくないが、今の気持ちをあえて口にするとしたらこうである。すなわち、「いい気味だ」だ。
「ふむ……いいだろう。こっちに着て座りなさい」
「はあい」
はうれしそうに返事をし、ギムリの後について行った。残されたレゴラスは、ギムリの返答がエルフである自分への当てつけも混ざっているに違いないと、腹を立てる。
(あんのドワーフ〜〜〜!)
ギムリがレゴラスの編んだ編み込みを解き、一本の三つ編みをひょいひょいと編んでゆく様子を苦々しく見つめながらふて腐れた。
それから慌しく食事をすませて出発の時が近づくと、ガンダルフから進路の変更を告げられた。あのクリバインらはサルマンのスパイであり、このまま南に向かうのは危険だと判断したからだ。
土地勘のないはこれからどのような道をたどるか、まるでわからなかった。しかし日差しは明るく、差し迫った危険がない今は歩くに気持ちの良いくらいだった。
隣を行くレゴラスは編み込みの件でずっとむくれている。そんな彼を苦笑混じりでなだめながら、はフロドに視線を向けた。
魔法使の隣を歩く小さな身体から、遅効性の毒のような悪意を発する「何か」があることに気づいたのだ。
(さっき話しかけてきたのはあれね……)
はレゴラスの怪訝そうな視線に、何でもないと笑って答えた。
ゆっくりと瞬きをし、先程頭の中に響いた「声」を反芻する。
白鳥よ 白鳥よ 宿りを失った白鳥の娘よ
我を使え 我を手に入れよ
さすればお前はお前の故郷へ戻ることが叶うだろう
「声」はそう言っていた。
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