は寝台に横たわり、まんじりともせずに天蓋を眺めていた。なにか楽しい模様があるというわけではない。ただ眠れないだけだ。
自覚していたよりもずっと衰弱していたようで、眠りと浅い覚醒を繰り返し、気がついたら三日が過ぎていた。その後も体力が回復していないからと、部屋を一歩も出ないまま、すでに一週間が経過している。
ロスロリアンに着いてからすっかり時間の感覚が狂ってしまったが、外が暗いので夜であることはわかる。の世話をしてくれているガラズリムの女性はすでに引き上げたようで、今この部屋には彼女しかいない。
(だめだ、眠れない)
は諦めて起き上がった。寝間着の上にガウンを羽織り、窓辺に配置されている肘掛け椅子に座る。
木の枝の間に作られたタランは、窓も出入り口も広く造られているが、反面ガラスや扉はないので夜ともなるとかなり冷えた。
その大きな窓から、風に乗ってガンダルフを悼む歌が聞こえてくる。はエルフ語はわからないのだが、レゴラスが教えてくれた。
悲しみに満ちた声が昼となく夜となく続くそれに、どれほど彼が慕われていたか、わかろうというものだ。
出会ってから十日も経っていなかった。こんなに早く、あれほど最悪な形で別れることになるとは思わなかった。己の非力さが悔しかった。悔しいと思ってしまう自分に嫌悪した。そう思うこと自体が傲慢なのだと。自分に何かができる程度のことだったら、あの老賢者が命を落とすはずはないのだから。
は意を決して立ち上がると、寝台の陰に立て掛けられていた鞄を取り上げた。適当に中を探って、着替えを取り出す。
この部屋にはクローゼットのようなものはない。起きられるようになってからは毎朝世話をしてくれる女性が部屋着を持ってくるので、この時間に外へ着て行ける服というのは手持ちのものしかないのだ。しかしほとんどのものは血まみれか泥だらけで、着られそうなものは白い綿シャツとジーンズくらいしかなかった。後で洗わなくてはと考えて、他は一度中へ戻す。
これだけでは寒いのだが、ここに運び込まれた日に着ていたものは全部脱がされて持っていかれてしまったので、上着はない。サイドテーブルに畳んであるショールを羽織ると幾分かましになった。
着替えが終わるとできるだけ静かに歩き、出入り口から外をのぞく。そっと辺りをうかがうも、人影はなかった。わずかに後ろめたい思いがあるのだが、外出禁止令を言い渡されているわけではないのだからと言い聞かせて部屋の外に出る。巨大な幹に巻きつくように設えている階段を下りながら、感嘆の思いでロスロリアンを眺めた。
随分長い間ここに住んでいるような気がするが、実際には歩くのもはじめてなのだ。ケレボルンとガラドリエルに謁見するまでは目隠しをしたままレゴラスに抱えられてきたのだし、その後は治療中に意識がとんでしまい、目覚めた時にはあの部屋まで運ばれていたのだから。
(それにしても本当に大きな木ね。この階段、どこまで続くのかしら)
怪我はガラドリエルの癒しの力で治ったものの、失った体力までは戻っていない。息があがらないようゆっくりとしたペースで歩くも、なかなか終わりが見えてこなかった。ローブさえあればすぐに降りられるのにと、失った品を思い出し、は残念がる。
夜とはいっても、足元が覚束なくなるようなことはなかった。月は出ていないのか枝に隠れているのかわからないが見当たらず、そのかわり星の一つ一つが白い火のように輝き、黄金色の葉がそれを受けて朧に光っているようだった。もしかしたら、木そのものも光を放っているのかもしれない。そうであっても不思議ではない光景だった。
ようやく最後の一段を下りて地面に到着した。久しぶりに土を踏んだは思わず顔をほころばせる。高いところは平気なのでタランでの生活は特に苦痛だと感じたことはないのだが、地面の上に立っていると、それだけで安心感がある。塞いでいた気分も少し良くなった。
その勢いで次はどうしようかと考えを巡らせた。行きたいところがあるのだが、いかんせん土地勘がなく、どっちに進めばよいのかがわからなかった。旅の仲間たちはタランではなくテントを張ってそこで寝起きしているとレゴラスに聞いていた。彼らを探して、起きているようだったら案内を頼もうと決める。しかし。
(み、見つからない……っ)
小一時間ほど歩き回ったが、テントらしいものはまったく見当たらなかった。探すと言っても特にあてがあるわけではない。気の向くままに進んだのだが相当に遅い時刻なのか行き会うエルフもおらず、彼らの居場所を聞くことはできなかった。
かといって部屋に戻る気にはならなかった。意地を張っているのでも、頑なになっているのでもなく、そうする必要があると思っているからだ。
仲間たちを探すのは諦め、適した場所を見つけようと考え直し、は踵を返す。
「姫君?」
「……え?」
急に声がしたのでは驚いて足を止めた。
「あ……。ハルディア、さん?」
斜め横の小道からハルディアが姿を現す。今の呼び掛けが自分に向けられたものだと気づいたはかすかに眉をあげた。
「こんな遅くにどうしました? 何かあったのですか?」
「……何かといいますか、ちょっと道に迷いまして。あの、今って何時くらいですか?」
言って、は自分のせりふの間抜けさ加減に顔から火が出る思いだった。
「真夜中はとうに過ぎています。それにしても迷ったとは。散歩ですか? 人間は夜には眠るものだと思っていたのですが」
「ずっと中途半端に寝て起きてを繰り返したものだから、目が冴えてしまったんです。ハルディアさんこそどうしたんですか?」
「国境警備の強化についての報告と相談を終えてきたところです。モリアのオークどもがこのままおとなしく引き下がるとは思えないので」
「モリア……」
忌まわしい記憶がよみがえり、は顔をくもらせた。
「ともかく、今は姫君を部屋まで送りましょう。こちらです」
ハルディアは余計なことを言ってしまったと思ったらしいが、それは表情には現れなかった。だが先ほどからの硬い声音に気づかうような柔らかさが混じる。
先導するために背を向けかけたハルディアに、は慌てて制止をかけた。
「あ、違うんです。帰り道がわからないんじゃなくて、あの……」
「ああ、行きたいところがあるのですね。どちらです?」
自分たちをここカラス・ガラゾンへ案内した経緯があるからか、ハルディアは今度もを案内する気のようだった。自分にかかずらっていても大丈夫なのか、警備の仕事はいいのかと問うと、ロリアン周辺は警備隊が交代で守っているので、緊急事態が起きない限りは急がなくても大丈夫だという答えが返ってきた。
それならばとは目的を告げる。
「モリアのある方向に行きたいんです」
の希望でカラス・ガラゾンの北側に向かって案内していたハルディアは困惑を隠せないでいた。
ガンダルフを悼むため、彼が亡くなった地にできる限り近づきたいのだという少女の要望には頷けるものがあったが、それだけではないような気がしてならない。
ハルディアは隣を歩く少女の横顔をそっと眺めた。
温かな色合いの濃い茶色の髪は今は下ろしており、柔らかそうな頬を縁取っている。髪より少し薄い色の瞳には悲しみが宿っているが、しかし何かを決意しているように凛と前を見据えていた。簡素な衣服は彼女の世界のものなのだろう。素材や色合いがハルディアには見慣れないものだった。
風が吹いた。
ロスロリアンの中は外に比べれば格段に暖かい。それでも夜風は冷気を含み、体温を奪ってゆく。が身体を震わせたのに気づき、ハルディアは自分のマントを脱いで少女に被せた。
「貴女が人間であることを忘れていました。そんな薄着では寒いでしょう」
「でもこれ、裾を引きずってしまうんですけど」
はマントの裾が地面につかないように持ち上げながら困惑してハルディアを見上げた。そんな仕草はひどくあどけない。
「お気になさらず。せっかく怪我が良くなったというのに病気にさせるわけには参りません」
失礼、と断りをいれて屈みこみ、マントの下に挟まれた髪を外へ出した。肩幅を調節し、喉の位置でピンを止める。
その間、はおとなしくされるがままになっていた。マントを着せ終えると、少女は嬉しそうに笑ってハルディアに礼を言う。実は結構寒かったのだと本音をこぼして。
ハルディアもつられて思わず笑みを浮べる。だがすぐにはっと息をのむと、苦しげに眉根を寄せた。しばし逡巡した彼はひざまずいて胸に手を当て、頭を下げる。
「申し訳ありません」
「ハ、ハルディアさん。どうしたんですか、急に?」
顔を上げてくれと慌てるに、ハルディアは面を伏せたまま口を開く。
「国境での貴女に対する振る舞いは許されるものではないと承知しております。ですが、私はロスロリアンを守る警備隊長としての義務がありました。貴女があの場で身の証を立てられたとしても――実際にはそうなりませんでしたが――私は貴女を自由にはしなかったでしょう。そしてそのことに関して貴女に許しを請おうとは思わない」
は驚き目を瞬かせた。
「今は暗闇が迫り、この黄金の森も危険に取り囲まれています。ロスロリアン以外の世界に信義と信頼を見出すことが非常に稀になりました。それゆえ我々は自分たちの信頼によってこの土地を危険に陥れるようなことはしたくないのです。ですから、私は貴女に謝りません。ですがそれが心苦しくてならない。虫の良い話であることは重々承知。その上で非礼を詫びぬことをお許し願いたいのです」
「そんなこと気にしていたんですか?」
はしゃがみこみ、苦笑しながらハルディアの顔をのぞき込んだ。
「ロスロリアンの掟に従うって、言ったはずですよ? 失礼なことをされたなんて、わたしは思っていないです。だから許すも許さないもありません」
「しかし……」
はハルディアの頬を両手で挟むように触れ、視線が合うように起こした。夜風のせいか体温が低いのかわからないが、ハルディアの頬は冷たかった。
「国を守ろうとするのはそこに住まう方の当然の権利です。もっと手荒に扱われたっておかしくないのに、ハルディアさんの態度は立派でした。だから、あなたはわたしに謝ったりしてはいけません」
ね? と小首をかしげていたずらっぽく笑いかける。細められた温かさを感じる茶色の双眸にハルディアが映っていた。
ハルディアはそのまなざしに絡めとられそうになっている己に気がついた。容姿は幼く、身体は強い風にでも吹かれれば折れてしまいそうに細い。それなのにこの目の強さはどうだ。
(ヴァラの花嫁……)
輝かしき浄福の地を知っているエルフは現在ごくわずかしか残っていない。そのうちの一人がガラドリエルだった。彼女の身の内に、瞳に、西方の輝きが宿っているように、異界のヴァラールを知る少女はやはり特別な輝きを宿しているのだ。
「……アさん。ハルディアさん!」
呆然としていたハルディアは、呼びかけられてはっとわれに返った。目の前の
は心配そうに彼の顔をのぞきこんでいる。
「っ失礼!」
思わず身を引きつつ立ち上がると、ハルディアの頬に伸ばされていた少女の手がそのままの形で空に残った。急な動作に取り残された腕を、は気まずそうに下ろす。
「御前にて失礼致しました、姫君」
ハルディアは居住まいを正して再び一礼する。
「……その呼び方はやめてください」
立ち上がりながら言うの表情はくもっていた。
「ですが、貴女は……」
ハルディアが言おうとしていることを感じとったのか、の声はどんどん暗くなっていった。
「ええ、わたしは巫女です。それは変えようのないことだけど、あなたが今わたしに頭を下げたのはわたしにではなくてわたしの後ろにいる方にでしょう? わたしはちょっと毛色が違っているだけのただの人間よ。敬われて頭を下げられたりするような存在ではないの。普通に接してほしいんです。……この話をするの、これで何人目かしら」
はあ、と疲れたように嘆息した。
「無理を仰らないでください。異界のとはいえヴァラの后君であられる方にそのような無礼な振る舞いはできません」
「だから、偉いのはわたしじゃないんですってば。無礼なことなんてないんです」
そしてこれだから言いたくなかったと悲しげに頭を振る。それから向き合うハルディアとの間の距離をつめた。ハルディアはその分だけ後に下がる。はそんなハルディアを見上げて強張った笑みを浮べた。
「こうして距離を取られるのは寂しいものなんですよ」
さっきまでの瞳の輝きは失せ、弱々しく儚げな娘がそこにいた。
「姫君……」
「……莫迦なことを言いました。忘れてください」
は諦めたように俯くと、小さく息を吐いて先へと歩き出した。
「行きましょう。だいぶ時間を食ってしまったわ」
「!」
ハルディアの呼びかけに、は足を止める。
「すまない。あなたを悲しませるつもりはなかった」
彼は数歩で追いつき、少女の隣に並んだ。
「私にとってヴァラールは敬愛の対象であるとともに畏怖の対象でもある。あなたはあなたの世界のヴァラールのそば近くにある光栄に浴した存在だ。それが私にはひどく眩しい。あなたがどう言おうとそれを覆すことはできない」
ハルディアはに目線を合わせるように屈み、小さな手を取った。
「だが、それだけがあなたの価値だと思っていたことは許してほしい」
硬い殻に覆われているように感情を表すことのなかったハルディアの色素の薄い瞳に真摯なものを読み取って、は小さく笑んだ。それも次のセリフを聞くまでだったが。
「私はあなたが好きだ。あなたがこちらの世界へ来てしまったことは不幸な事故だったのかもしれないが、そのお陰で私はという存在に出会えた。このことはわが身の幸いだと思っている。勝手だとは思うが、もそう思ってくれると嬉しい。この出会いは無駄なことではなかったのだと」
は困惑したように目を泳がせた。
「?」
「あ、あの……」
「どうした?」
急に様子の変わった少女に、ハルディアは首をかしげる。
「そう言ってもらえるのは嬉しいというか……光栄だけど、ちょっと大げさだと思うの。レゴラスもそういうところがあるから、エルフの癖みたいなものだと思うけれど、わたしには慣れなくて」
ハルディアは真顔で答える。
「大げさなものだともエルフの癖だとも思わないが……。レゴラス殿のことはともかくとして、これは私の本心だ。一体どうしたんだ? あなたほどの女性ならこれくらい言われ慣れているだろうに」
するとはまさかと言って頭を振る。
「言われ慣れてなんかないです。そりゃあナセには大事にされていたとは思っているし、その関係者の方たちにも可愛がられていた方だとは思うけど、でもそれって小動物を可愛がるのと同じようなものだもの」
「そんな事は……」
「あるわ。少なくともガイアの神々についてはわたしの方が詳しいんだから。呼び名がすべてを物語っているもの。わたし、向こうでは『ひいな』って呼ばれていたのよ」
「ひいな?」
聞きなれない響きにハルディアはけげんそうにした。は少し不満そうに唇をとがらせる。
「ひよこ、ひな鳥という意味よ。半人前だということだわ。そりゃあ、わたしたち人間はどうあがいたってあの方々ほど長生きはできないから、いつまでたっても子どもに見えるんでしょうけど……。エルフにもそういうところ、あるんじゃないですか? エルフも不死だと聞いているわ」
ハルディアは頭を振った。
「そんなことはない。これでも種族によって寿命が違うことはきちんと認識しているつもりだ。だから年齢が下だというだけで子供扱いをすることはない。それは相手を見くびっていることになる。きっとの世界のヴァラールも同じだろう。ただその前提があっても特別に愛しく思っているからこそ『ひいな』と呼んでしまうというところではないだろうか」
「どうして?」
不本意だと言いたげに、は聞き返す。ハルディアはかすかに笑みを浮べた。
「半人前ならば保護を手厚くしても言い訳が立つからな。自分にも相手にも、周囲にも。それにこうすることで保護する相手を自分の手の内に留める期間を長引かせることもできる。もちろん正しいかどうかは別の問題だが……」
「それは……なんだか納得できる理由かも」
でもやっぱり半人前扱いは嫌だなあと釈然としないでいるは子供がすねているようにしか見えなかった。自分を圧倒するような雰囲気になるかと思えば、こんな風に見た目相応になることもある。その差が激しくて目を離したくなくなる。ハルディアはもっと彼女を知りたくなった。
ふっとハルディアがほほえむと、はぱちくりと瞬きをした。
「ハルディアさんが笑っているところを見たの、はじめて」
「そうか?」
ハルディアは首をかしげた。言われてみればこのところ、暗い知らせばかりで笑うということをしていなかったかもしれない。気づかなかった。
「そうかもしれないな。ああ、そうだ」
「なんですか?」
「私を呼ぶのに敬称はいらない。それと敬語も」
「え、と。でも」
「頭を下げられたりするような存在ではないのだろう? あなたが自分で言ったことだ。だから私はあなたを友人と思うことにした。ならば敬称も敬語も必要ないだろう」
違うかとハルディアが目で問いかけると、の表情は戸惑いから一気に笑顔に変わった。
「ううん、違わない。ありがとう。すごく嬉しい」
満面の、花のような笑顔だった。ハルディアの胸の中で小波(さざなみ)が立つ。それは今まで感じたことのないざわめきだった。
ハルディアはに軽く腕を広げて一歩近づいた。
「言い忘れていた。今更だが聞いてくれ。ロスロリアンへようこそ、友よ。遠き地よりの訪問、歓迎する」
はハルディアの手を取って上下に振った。想定していたものとは違う反応が返ってきてしまい一瞬対応に困ったが、これが彼女の世界での親愛を現す仕草なのだと解釈して、自分も同じようにした。
ハルディアに案内されて北西の丘に着いたはじっと空を見上げた。木々に阻まれてモリアは見えないが、この先にあるはずのそこを思い浮かべる。あの地で失われた先導者を思って。
(ガンダルフ。ガンダルフ、聞こえますか?
みんな、無事にロスロリアンに着きました。なんて、きっともう知ってるでしょうね。
フロドもアラゴルンも、他のみんなも、あなたに伝えただろうから。
ロスロリアンはいい所だわ。良くしてもらっているし、さっき友人もできたの。
みんなもここでゆっくり休めば、前に進む力が再びつくでしょうね。
もちろん、わたしも。わたしも行くわ。
きっとみんなはここに残れというと思うけど、でもわたしはもう決めたんです。
ガンダルフだけは気づいていたみたいだけどね。
あの暗いモリアで、あなたがわたしの背中を押した。
わたしの世界じゃないからって、必要以上に関わろうとしなかったわたしに、あなたが道を示した。
わたしは、できることをやろうと思う)
この思いが届くように、決意が揺らがないようにとは祈り続ける。
そして少し離れた場所で、ハルディアがそんな彼女を見守っていた。
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