「ひどい顔色だな」
レゴラスが顔を上げると、アラゴルンが腕を組んで立っていた。冗談めいた口調でも、そのまなざしは真摯だった。
「の具合は?」
「アラゴルン……」
レゴラスは頬が引きつるのを感じた。どこに行くとも言わずに出て行ったのだが、彼にはお見通しのようだった。努めていつもどおりに聞こえるようにレゴラスは答える。
「怪我自体はもう治っていましたよ。あとはゆっくり休めば大丈夫だそうです」
「そうか……。話はできたのか?」
「話?」
澄みきった空の如き青の瞳が強張る。
「起きていたんだろう? ここなら安全だとちゃんと教えてやったんだろうな?」
「あ、ああ。そのことなら」
歯切れの悪い物言いに、アラゴルンは頭を掻きむしった。
「場所を変えるか」
人気のないところまで移動すると、ようやくレゴラスは重い口を割った。
「貴方がうらやましい、アラゴルン」
「一体、何があった?」
「夢を見て、うなされていました」
「夢――?」
レゴラスからはいつもの屈託が消えていた。抑揚の少ない声で淡々と話す。
「ええ。彼女が半身と呼んだガイアのヴァラール。彼の君が呼んでも答えない、声が聞こえないと取り乱していました。あんなを見たのは初めてです。いつだって前を向いていたから、私は彼女の嘆きに気づかなかった」
レゴラスは上着の胸元を苦しげに握りしめる。
「レゴラス。一応確認をしておきたいのだが」
「なんです?」
「お前はのことを……」
「愛していますよ」
やっぱり、という表情のアラゴルンにレゴラスは小さく笑う。
「といっても、気づいたのは昨夜のことなんです。さすがに驚きました。どうしてよいのかさっぱりわからなくて」
「そのようだな。喜怒哀楽の哀が抜け落ちているような森エルフが、ここまで暗い表情をしているのは私もはじめて見た」
「ずいぶんな仰りようだ」
くすくすとレゴラスは笑う。アラゴルンもにやりとした。
束の間、空気が和やかなものになったが、二人ともすぐに真剣な面持ちに戻る。
「気持ちを伝えたのか?」
「いいえ、今の彼女は不安と悲しみに囚われています。伝えたところでさらに混乱させてしまうだけでしょう」
「わかっているだろうがは人間だぞ。それも、異世界の」
「そうですね」
「彼の地のヴァラールに愛されている。どう贔屓目に見ても稀有な存在なのだろう」
「ええ、そうでしょうね」
「迎えが来るとも言っていた」
「初めて会った時からね」
レゴラスの瞳に剣呑な光が灯るのを見つけて、アラゴルンの心に不安が生じた。
「……お前、まさかと思うがを帰さない気か?」
「そんなこと、どうやればできるのですか? 異なる世界を渡ってくるようなものを相手に、私に何ができるんです?」
きっとアラゴルンを睨みつけて振り絞るようにレゴラスは叫ぶ。
「昨日、私が彼女への想いを自覚したとき、何を一番恐れたかわかりますか? 今にも彼の君が現れて、を連れ帰ってしまうのではないかということです。彼女がまだここにいると、すぐにでも確かめに行きたかった……。ロスロリアンに残すこと自体に反対する気はないんだ、アラゴルン。旅はこれからさらに過酷になるのだろうしね。ここに残るのが彼女のためだ。でも……! 今はまだいい。でも我らが再び旅立ち、使命を果たした後、もう一度ここに来ることができたとして、その時まで彼女がまだここにいると、一体誰に断言できるというんだ!?」
鈍い音が響く。マルローン樹の灰色の幹にレゴラスは拳を叩きつけていた。
「必ず待っていてくれるというのなら、私は必ず戻ってくると誓うのに! だけどアラゴルン。私とは、貴方とアルウェンとは違う。アルウェンは貴方を愛しているけど、は私を愛しているわけじゃない。故郷にいる家族の話はしても、彼の君のことは話さなかった。なぜだ? 愛しているからだ、思い出すのが辛いほど。彼女が愛しているのは、私ではないんだ!」
「レゴラス、落ち着け……!」
アラゴルンは激昂するレゴラスの両肩をつかんで揺さぶる。我に返ったレゴラスは傍らのマルローン樹に力なく背を預け、ずるずるとくずおれていった。
「恋とは喜びに満ちたものだと思っていたよ。だけど今、私の心は苦しみで張り裂けてしまいそうだ。一体、どうしたらいいんだろう」
星灯りの瞳に影が差す。
「どうしたいんだ?」
アラゴルンは膝をついてレゴラスと目線をあわせた。
「お前の気持ちはよくわかるさ。かつての私と同じだ。求めても得られないと知りながら、それでも諦めきれず、裂け谷から離れ、時間が忘れさせてくれることを願いながらも、忘却が訪れることを恐れた。だから私はお前に忘れろとは言わない。諦めろとも。だが、心の整理だけはつけるんだ、レゴラス。再び旅立つまでに」
表情は厳しかったが、声音は優しい。アラゴルンは口の端だけを上げて笑うと、宥めるように肩を叩いた。
「都合の良いことを考えてしまうんです」
しばらく黙ったままだったレゴラスは、アラゴルンの視線を避けるように顔を背ける。
「いつ迎えが来るかわからないとは言っていたでしょう。だから、それはずっと先のことじゃないか……とか。もしかしたらのことを見つけられないんじゃ……とか。一年か二年。あるいはもっとかかるかもしれないけど、こちらで過ごしているうちに、ずっとこちらにいてもいいと思ってくれるんじゃないか……とか」
レゴラスは膝を抱えて額を預ける。
「ずっとそばにいたら、いつかは私のことを想ってくれるんじゃないか……とか。すぐにもいなくなるかもしれないと思いながら、こんな都合の良い希望が叶うかもしれないなんて矛盾した考えが起きるんです。なんて……浅ましい」
再び沈黙したレゴラスは、やおら頭を振ると勢いよく立ち上がった。金色の髪が翻る。
「ああ、こんなんじゃ駄目だ! 貴方の言うとおり自分の気持ちを整理してきます。でも、よく考えた上で彼女を一緒に連れて行きたいという答えになったら――その時は反対しても無駄ですからね!」
音もなく駆け出したかと思うと、
「あ、それから」
くるりと振り返って、レゴラスは困ったようにほほえんだ。
「せっかく用意してもらったけど、しばらくテントには戻りませんから。今の私は……指輪を前にして、手を伸ばさないでいる自信がありませんので」
これにはアラゴルンも息をのんだ。
「わかった。よく考えるんだぞ」
「ええ、そうします」
レゴラスが歩み去っていくのを見送ると、アラゴルンは大きく息を吐いた。
しかし一週間後、彼はこの問題は解決しそうにないと理解することになる。
「何だって!?」
「だから、わたしも行くってば」
アラゴルンはの発言に目を丸くした。がようやく部屋から出られるようになったので、久しぶりに旅の仲間がそろったのだ。テントの前に全員が車座に座り、今後のことについて話し合う。
「あ、アラゴルン。なんだか色々文句がありそうだけど、まずわたしの話を聞いてもらえる?」
「む……。わかった。聞こう」
色々文句があったアラゴルンは先手を打たれてひとまず引き下がった。
「はじめに言っておきたいのは、わたしはこの旅が危険だとちゃんとわかっているということ。これまで起こったことを考えればこんなこと言うまでもないことだけど、念のためにね。それから、わたしは出来ないことと出来るかどうかわからないことは、たとえ気休めにだって出来るとは言わないということ。それで、どうしてこんな危険なことに首を突っ込むのかというと……カラズラスでわたしが『本調子だったら、指輪の力を抑えることができると思う』って言ったこと、覚えている?」
「覚えてるよ。本当に……?」
フロドが期待をしていいのかという様子で少女を見上げる。
「できるわ」
はフロドに安心させるように微笑を浮かべながら断言した。自信ありげな様子に、その他の面々は驚き、困惑しながら少女と指輪所持者のやり取りを見守る。
「といっても、ある程度までしか効果はないと思うのよ。だから、あんまり期待されても困るんだけど……。それに抑えつけると反動がくるから、ずっと抑えっぱなしにはできないのよね。だから、これはフロドがどうしても辛い時にすることにして、普段は別の術にしようと思うの」
「別の術?」
フロドは首をかしげた。
「形代というものを使おうと思うの」
「それはどんな魔法?」
「簡単に言えば身代わりのことよ。木や紙で作った人形に穢れを移して災いを取り除くの。穢れというのは誰かに対して害なそうとするものやその意思、現象のこと。もちろん指輪の魔力もこの範疇に数えられるわ」
淀みなく答えるに、フロドの表情が一気に明るくなる。
「すごいや、! それって、すぐに出来るの!?」
も目を細めてほほえんだ。
「もちろんよ。やり方自体は簡単だもの。ただ木や紙の形代では指輪の魔力がフロドに影響を与えた分しか取り除けないのよ。だから現在進行形で指輪に対抗するためにはもっと強力な容れ物が必要なのよね。それが、つまり、『わたし』」
自分の顔を指さして、少女はさらに笑みを深くした。フロドの目が驚愕に見開かれる。彼は釣り上げられた魚のように何度か口をぱくぱくさせた。
「そ、そんなの駄目だよ!」
一拍置いてから、フロドは叫ぶように抗議した。周りからも次々と反対の声があがる。は全員の顔を見渡しながら肩をすくめた。
「反対されるだろうなあとは思っていたけどね」
「当たり前だよ! そんな危険なことはさせられない!」
「そのやり方では指輪所持者が実質二人になるようなものだ。お前まで取り込まれることになりかねん!」
レゴラスとアラゴルンの強固な主張には腕を組んだ。
「危険危険って言うけど、指輪の誘惑についていえば、前にも言ったけどわたしには効かないわよ? そうでなくてもこの手の類にはけっこう抵抗力があるし。別に指輪に触る必要もないし」
あっけらかんと言うに、アラゴルンはめまいを覚えた。
「そういう問題ではないだろう。危険なのは指輪だけではない。大体迎えが来るまで生き延びなければならないというあの話はどこへ行ったんだ!?」
「ああ、そのことだけは本当に心残りなのよ。せめて今の状況を伝えられたらいいのに。ことは生死の問題に関わってくるものね。心配するだろうし。あ、でもね、断言してもいいけど、両親はどうかわからないけど、吾が神はこの事を知っても絶対に止めないわよ」
は胸の前で両手を組んで、大げさにため息をついてみせた。芝居がかった動作だが、それだけに言っても無駄だと思わせた。
「止めないの?」
信じられないとレゴラスが問う。
「やめた方がいいとか、どれだけ危険かってことを詳細な情報付きで延々と話し倒しても、行くなとは言わないでしょうね」
は揺るぎなく答える。
「……彼の君は、本当にの事を大事にしているの?」
レゴラスは不快感を隠そうともしなかった。
考えに考え抜いて、愛しい少女をここに残すことを何とか自分に納得させた。優しい彼女のことだ、旅を続けてくれるように懇願すればきっと承諾してくれるだろう。だけどそれは自分の我が侭。手元に置いておきたいのは、自分が不安だから。
けれど万が一にも危険にさらすのは絶対にごめんだった。だから願うことはただ一つ。
もう一度会えますように。
さっさと指輪を捨ててここに戻ってこよう。そう覚悟を決めたのに、すべてを否定されたような気がした。
「溺愛されていたけれど、甘やかされはしなかったわ」
レゴラスの変化には戸惑った。
「自分で決めたことには自分で責任を取れっていう方針だったのよ。たとえ結果は最悪なものになっても」
だが世話好きで優しい彼は、多分誤解したのだろうと思った。
「だから、別に吾が神はわたしが生きようが死のうがどうでもいいと思ってるわけじゃないわ」
ナセのことを薄情なやつだと思ったに違いない。
「どちらかというとお人よしで情が深くて心配性なの」
誤解は解かなくてはとは言葉を続ける。
「が言うのならそうなんだろうけど。だけど、本当にいいんだね。旅に出たら彼の君には二度と会えなくなるかもしれないんだよ?」
一緒にいられるのは嬉しい。けれど心配なことも確かだった。どうすることが最善なのかと迷いながらもレゴラスはに念を押す。
「うん。でも、決めたから」
の瞳は揺るがなかった。
「……そうか。なら、私はもう止めないよ」
「、、!」
レゴラスが少女を説得することを放棄してしまったので、フロドは慌ててそれを引き継いだ。ここで話が終わっては困るのだ。
「の決意が固いことはわかったよ。でも、どうしてそこまでしてくれるの? もしも僕たちに助けられたことを気にしているのなら、そんなこと気にしなくていいんだからね。が大丈夫だって言っても、僕はにはどんな危険なことだってしてほしくない。こちらのいざこざに巻き込みたくないんだ。僕には無理かもしれないけど、には故郷に帰ってほしい。ロスロリアンに残って! お願いだから!」
フロドは必死の思いで言葉を連ねた。大切な人が目の前からいなくなる。そんな思いはもうしたくない。
はかすかに俯いて悲しげな笑みを浮べた。
「助けられたことを気にしていないといったら嘘になるけど、それだけが理由ではないわ。わたしはね、最初はどこか落ち着けるところに着いたらそこに残ろうと思っていたの。でもあなたたちの旅の目的を知ってから、ずっと考えてた。わたしにはフロドの負担を軽くすることが出来る。だけどもしそうすることを選んだら、帰れなくなるかもしれない。――わたしがそこまでしなければいけないことかしらって」
それから目をあげてフロドをみつめる。
「ここはわたしの世界じゃない。わたしの手に負えることじゃない。ガイアには私の帰りを待っている人たちがいる。――わたしは、帰りたい。だけどね、モリアでガンダルフの話を聞いて、もう駄目だって思ったの」
魔法使いの名が出てきたことで、全員が一様に反応した。
「ガンダルフ?」
不安そうにフロドが聞く。は小さく頷いた。
「定めの話をしたでしょう。フロド、あなたは指輪を持つことを、ガンダルフは導くことを定められたのだと。指輪もそれを作ったものも邪悪な意志を働かせている。けれどそれ以外の意志も働いていると」
「そんな話もしたね。もうずいぶん昔のような気がするよ」
フロドは目が潤みそうになるのを隠すように顔を伏せた。
「結果のわかっている判決を、宣告されずにすめばいいと期待していたけれど、この言葉を聞いたときにわかってしまったの。道は示されたって。こちらの世界の生まれではないわたしが加わることで、どんな変化が起きるかわからない。だけどあなたが、いいえ、あなたたちが、危険とわかっていても旅立つことを選んだように、わたしも選んだの。もう引き返せない」
少女のまなざしはどこまでも優しく、言の葉は柔らかく紡がれる。
エルフのドレスを身にまとい、髪を結わずに風に遊ばせる。
しかしたおやかで可憐な、力強さを思わせるようなものなど何一つない少女の決意を覆そうとするものは、そこにはもういなかった。
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