「ハンニバル」の公演まであとわずか。
演目が変わるたびに経験していることだけれど、日が近づくにつれ練習は厳しくなってくる。
わたしは午前中の練習は割り当てられた奴隷娘の役を。
そして誰にも知られないよう早朝の楽屋ではエリッサ役の練習をこなしていた。
……本当にエンジェルはわたしにエリッサ役が回ってくると思っているのだろうか。
ううん。
エンジェルは嘘なんかつかないわ。
でも、何が起きるのかしら……。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
公演当日になった。
開演前の最後の練習とあって、全員気合が入っていた。
煌びやかな衣装を身に着けたカルロッタは意気揚々と声を張り上げている。
エンジェルは彼女の歌がずいぶん気に入らないみたいでよく貶していたけれど、わたしが彼女以上に歌えるとはやっぱり今でも思えない。
良い役がは与えられることは歌手として名誉なことだけれど、役が良ければ人気が出るというものでもない。
わたしは音楽学校を出たばかりで、下積みとしてもまだまだ新人なのだ。
たとえカルロッタが降板することになっても、彼女の次に実力のある人が代役をやるだろうし……
いささかぼうっとしながら舞台の袖で出番を待っていると、急に客席が騒がしくなった。
見ると、支配人のムッシュウ・ルフェーブルがお客さんを連れてきたようだった。
年配の男性が二人。それからずっと若い男性。
年配の男性は一人はのっぽ、もう一人は小柄で、まるで凸凹なの!
彼らはルフェーブル氏に代わる新しい支配人である、ムッシュウ・フィルマン(大きいほう)とムッシュウ・アンドレ(小さいほう)だった。
周りの子達がくすくすと笑っていたけれど、三人目のお客様を見た瞬間、わたしはそれどころではなくなってしまった。
「ラウル」
「知っている人?」
声に出てしまったようで、メグは好奇心も露に尋ねてくる。
「父が亡くなる前によく遊んだわ。幼馴染なの」
「へえ〜。かっこいい人ね!」
確かにラウルは素敵になっていた。
わたしの記憶よりもずっと背が高くなっていたし、男らしい逞しそうな体つき、声もぐっと低くなっている。
それに彼が身につけているのはどれも上等なものばかり。
彼は名門貴族の生まれなのだ。子供の頃は気にもしていなかったけれど、本来ならわたしのような職業の娘が近付ける人ではないのだ。
今更ながら、子供の無邪気さに驚くやら呆れるやらだ。
だけど喜んだのもつかの間、彼は簡単な挨拶をするとすぐに帰ってしまった。
「やっぱり、気づくわけがないわよね」
がっかりしてため息をつくと、
「仕方がないわ。大勢いるもの」
メグは気にするなと慰めてくれた。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
支配人は新支配人たちへの歓迎の意味を込めて、カルロッタにアリアを歌って欲しいと言い出した。
自尊心をくすぐられた彼女はもったいぶって承諾する。
ピアノの伴奏とともに高い声が場内を満たして――
「きゃあ!!」
突然、カルロッタの上に背景幕が落ちてきたのだ!
幕は彼女を直撃する。
そう重いものではないから、カルロッタはすぐに抜け出したけれど、言いようの知れない不安感がわたしたちの間を漂った。
「ファントム」
「ゴーストよ」
「『彼』だわ」
ひそひそと交わされるささやき声。
もうずっとオペラ座で起こる不思議なことはすべて『彼』の仕業とされていた。
オペラ・ゴースト。
オペラ座に巣くう亡霊だ。
「まあ、こういうことはたまに起こることですよ」
アンドレ氏はそう言ってカルロッタをなぐさめようとしたが、かえって彼女は怒りも露に捲し立てる。
「『たまに起こること』ですって?ええ、その通りよ、こんなことがずっと起きっぱなしなのよ!「たまに起こること」がもう三年もよ!?あんたたち支配人がどうにかしないのなら、あたくしは今後歌いませんからね!」
カルロッタは憤然として取り巻きを引き連れて帰ってしまった。
ムッシュウ・ルフェーブルは自分の役割は終わったとばかりに、立ち去ってしまう。
取り残された新支配人たちは今夜の公演はどうなるのだと戦々恐々だった。
「幽霊だなんて、ばかばかしい」
ムッシュウ・フィルマンは吐き捨てる。
「その幽霊から伝言が届いているようですわ」
マダム・ジリーが二人に赤い蝋で封のされた手紙を差し出した。
彼女はメグの母親で、オペラ座のバレエ教師だ。
二人に促されてマダムは手紙を読み上げる。
『私のオペラ座へようこそ。アンドレ君、フィルマン君。さて、新支配人にはここの流儀を教えなければならないだろう。一つ、五番ボックス席は私のためにいつでも空けておくこと。1つ、給料の二万フランを毎月支払うこと。以上、決してお忘れなきように』
「『私のオペラ座』だって!?」
「二万フランの給料!?」
ムッシュウ・アンドレとムッシュウ・フィルマンは目を白黒させていた。
こんな付録がついてくるなんて、思いもよらなかっただろう。
「こんな馬鹿馬鹿しい話には付き合ってられん。それよりも今夜の公演だ。カルロッタは戻ってくるんでしょうな?」
フィルマン氏はマダムに詰め寄る。
「そうお思いになるますか?」
切り返されたムッシュウ・フィルマンはマダムに気圧されてううっと怯んだ。
「だ、代役は……」
「代役はいないんですよ。なにしろまだ新しい演目ですからな」
と、音楽主任のムッシュウ・レイエが答えると、新支配人たちは絶望的な眼差しになった。
しかしその時、
「・なら歌えます」
はっきりとした声でマダムはわたしの名前を出したのだ。
わたしは驚きで口が利けなくなっていた。
なぜマダムはわたしが歌えることを知っているのだろう。
「、こちらへいらっしゃい」
マダムの威厳のある冷静な声にわたしは疑問をはさむことも出来ず、ただ命じられたまま前に出た。
ああ、エンジェル!これがあなたの知っていた結果なの!?
