気がつくとわたしは見知らぬベッドに寝かされていた。
身体を起こして見渡すと、そこが窓一つない寝室だということに気づき――
すべてを思い出した。
ここはオペラ座の地下。
エンジェルと慕い、崇拝し、仕えていた、だけど本当はただの人間の男性の住処なのだ。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
遠くから扉の向こうからオルガンの音が聞こえる。
そっと開け、頭だけ出した。
熱心にオルガンを弾いている《エンジェル》の背中と、眠りにつく前に見たまま部屋があった。
わたしは大きな音を出さないようにぶるぶる震えながらも扉を閉めた。
しっかり扉が閉まると、緊張の糸が切れたように、わたしはその場に崩れ落ちた。
これからどうなるのだろうか。
冷静に考えてみれば、わたしは彼に誘拐された、ということになるのだろう。
彼が本当に天使だと信じ込んでいた己の幼稚さがそれを許したということもあるけれど。
『私の音楽にはお前の歌が必要なのだ』
ふいに彼の言葉を思い出した。
威厳があるのにどこか哀願するような、胸に訴えかけてくるものがある声。
わたしの歌が必要だと言ってくれた。
彼は天使ではなかったけれど、彼の持つ音楽は素晴らしいのだということには変わりがない。
それはずっと彼の弟子だったわたし自身がわかっていることではないか。
そう考えると、彼を恐れているのが間違っていることのように思えてきた。
わたしはゆっくりと頭を振ると、立ち上がった。
落ち着いてきたところで、わたしは寝室を見て回った。
部屋の中にはベッドの他に、化粧台と書き物机、クローゼットがある。
家具はどれもルイ=フィリップ様式のもので使い込まれた形跡はあるけど、わたしが寝かせられていた寝台以外はあるべき小物たちは一切なく、侘しい印象を与えた。
《エンジェル》のいる部屋へ続く扉の他にもう一つ扉がある。
開けてみるとそこは立派な浴室だった。
わたしはため息と共に浴室の扉を閉める。
ここは、どういうところなのだろうか。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
《エンジェル》と話をしなくっちゃ。
だけど彼に着替えの途中で連れ去られたものだから化粧着のままで、こんな格好で男の人の前にいたのかと思うと顔から火が出そうだ。
仕方がないのでガウンの前をしっかり合わせる。
オルガンの演奏はまだ続いていた。
きい、と扉は軋んだけど、彼は振り向かない。
ゆっくり、ゆっくり近づいていく。
一メートルほど手前で彼が気がついてくれるのを待った。
でもよほど夢中になっているのか、まったく気がつく気配がない。
鍵盤の上を縦横に動く長い指……。
それに魅入られるようにわたしはそっと近づいていった。
間近に蝋燭の明かりに揺れる白い仮面がある。
エンジェルはどんな人なのだろうか。
こんなところに住み、音楽の才能を持つ魅力的なこの人物に、わたしは抑えがたい興味を覚えた。
仮面を外してみる 我慢する 