「クリスティーヌ!」
「メ、メグ?」
部屋に戻ると、中で待ち構えていたメグが抱きついてきた。
「どうしてここに?」
「それはこっちのセリフよ!シャニー子爵があなたが誘拐されたっていうんですもの。あたしたち、最初は冗談かなにかかと思ってたけど、子爵さまがあんまり真剣だから探したのよ。でもどこにもいなくって。一体今までどこにいたの!」
メグはぷうっと頬を膨らませた。
「それは……」
「言えないの?」
ずっと寝ていなかったみたいで、メグの目は赤くなっていた。
罪悪感に駆られたわたしは彼女にすべてを話してしまいたかった。
だけど、それはできなかった。
言えば、エリックは見つかってしまう。
わたしは彼を恐れてはいるけれど、穴から追い立てられたうさぎのように、彼を地上に引きずり出したいわけではないのだ。
「父の……前に話したでしょう?父の知り合いの方のところに行っていたの」
「そうなの?でもそれなら一言言ってくれれば良かったのに」
釈然としない様子で、メグは唇を尖らせた。
「ごめんなさい。急だったものだから。その方にわたしはずっと歌を教わっていたのよ、だから……」
そう言うとメグは納得したように頷いた。
「そっか。あなたがプリマドンナの代役を立派に務めたからお祝いをしてくれたのね。もう、誘拐だなんて子爵さまったら大げさなんだから。ま、ママの様子もちょっとおかしかったからあたしも心配になっちゃったんだけどさ」
ぺろっと可愛らしく舌を出した。
「マダム・ジリーが?」
「うん。なんだか深刻そうな顔をしていたの。あ、いっけない、忘れてた!」
パン、とメグは両手を打ち合わせた。
「クリスティーヌが帰ってきたら、すぐに知らせるように言われていたんだっけ」
「それならわたしが行くわ。心配をかけてしまったんですもの」
「いいって、いいって。疲れてるんでしょ?」
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「クリスティーヌ、良かった……!」
メグの知らせを聞いたマダムは、日頃の様子からは想像も出来ないほど青い顔で部屋に駆け込んできた。
「無事でよかった。あの方はやはりあなたを危険な目にはあわせなかったのね」
「マダム……」
ぎゅうと抱きしめられて、わたしは胸が苦しくなった。
そういえば、マダムはわたしがエリックから歌を習っていることを知っているのだ。
「マダム、あの……!」
マダムは視線でわたしの言葉を遮り、いつもの威厳を取り戻して後ろを振り返った。
「メグ」
「なあに、ママ」
きょとんとメグは母親を見返した。
「私はクリスティーヌと大事な話があるから、あなたは席を外しなさい」
「え~~!どうして?どうしてあたしがいちゃいけないの!?クリスティーヌはあたしの大事な友達なのよ!」
「たとえ親友のことであっても、踏み込んでいけない領域というものがあるのですよ、メグ・ジリー」
淡々としたマダムの口調に、さらに言い募ろうとしたメグは気圧されたように口をつぐんだ。
「わかりました、ジリー先生。クリスティーヌ、後でまた来るわね」
「ありがとう、ごめんね、メグ」
「いいわよ、でも、あとで埋め合わせはしてもらうからね!」
軽く肩をすくめると、バレリーナらしい軽い足音を立てて部屋から遠ざかっていった。
「マダムは、エンジェル……エリックのことをご存知なんですね?」
わたしが単刀直入に切り出すと、マダムは痛みを堪えるような表情になった。
「私が知っているのは……エンジェルではありません」
「え?でも……」
「私が知っているのは、ファントム、オペラ・ゴーストと皆に呼ばれている方です」
わたしはぱちくりと瞬いた。
マダムの言っていることが上手く理解できない。
「でも、エリックはエンジェルです。ずっとわたしに歌を教えてくれた……。ファントムは、だって……」
オペラ座では何年も前から不思議なことが起こっている。
些細なことから、上演にかかわるような重大なことまで。
本気で怖がっている者、面白半分にしか受け取っていない者、憤慨する者と反応はまちまちだけど、事件がただの偶然で片付けられることではないという点では皆の意見は一致していた。
その中でもオペラ座関係者で有名なものは、支配人に毎月二万フランもの給料と五番ボックスを要求していることだ。
「あの方と会ったのでしょう。気がつかなかったの?クリスティーヌ」
マダムは信じがたいというように、眉根を寄せた。
「エリックが、エンジェルで……ファントム?」
マダムはしっかりと頷いた。
「え……でも……でも……」
厚顔無恥な脅迫者、手に負えないいたずら者、気まぐれな暴君。
それがファントムに対する評価のすべてだ。
エリックがそんなファントムのはずはない。
だって、彼は紳士だったのだ。
彼が怒ったのは、決まってあの人がやってはいけないということをわたしがしてしまった時だけだ。
ラウルのことも、仮面のことも……。
だけど。
エンジェルはわたしがエリッサの代役を務めるのだと断言した。
でもそれは、ファントムがカルロッタに背景幕を落としたので彼女が怒って舞台を投げたからで……。
それに、マダムの口添えがなければ実現しなかったはずだ……。
エンジェルが、ファントム。
どうして、気付かなかったんだろう。
「わたしは、どうしたら……」
なんて人に教えを受けていたんだろう。
一歩間違えれば、カルロッタは大怪我をしていたはずだ。
あの人はそのことについてなんとも思わないのだろうか?
組んだ両手がカタカタと震える。
「あの方はあなたに何を言ったの?」
マダムはわたしを椅子に座らせると、肩に手を置いて顔を覗き込んだ。
「彼の音楽に、わたしの歌が必要なのだと……。それで、明日からまたレッスンが……」
そうだ、レッスンがあるのだ。
今後も今までのように声だけの指導なのだろうか。
姿を隠す必要がないからと、堂々、楽屋に現れるのだろうか。
「マダム、あの人は……エリックは何者なのですか?どうして、オペラ座の地下に住んでいるんです?それに……あの顔」
「見たのですね」
マダムは沈痛そうにため息をついた。
