次の日。
楽屋に行くのがこんなに重苦しく感じることは初めてだった。
そこにはあの仮面をつけた彼がいて、わたしが来るのを待っているのだ。
扉を開ける前に大きく息を吸い込む。
神様。どうかわたしに、あの人の前に立つ勇気をお与えください……!
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
『おはよう、。遅れずに来たね』
楽屋の扉を閉めると、すぐにエリックの声が響いた。
彼の姿が見えないことに安堵し、ほっと胸を押さえた。
「おはようございます。……エリック」
ぎこちなく笑顔を浮かべ、挨拶をする。
『気の進まない顔だ』
エリックの口調は辛辣だった。
「そんなことは……」
『鏡に顔を映してみたまえ。そんな偽りは二度と言わせないぞ』
「エンジェル……」
わたしは意志のない人形のように、言われるがまま、姿見の前に立った。
血の気がなく、表情も暗い。
ひどい顔だ。
『私を恐れているね、。この世で二度と目にしたくないものを、お前は見てしまったのだから』
「きゃ……!」
鏡の中にはいつの間に現れたのか、エリックがすっくと立っていた。
向こう側ではない。わたしの後ろにいるのだ。
だけど彼がわたしの肩に手を置いて強く胸に押し当てているので、振り返ることが出来ない。
「は、放してください!」
「だが私の言いつけを守りさえすれば、お前に危害がかかることはないのだよ。、今までと同じようにね」
「!」
エリックは背をかがめてわたしの耳元で囁いた。
途端、甘やかな衝撃が全身を駆け抜けてゆく。
「これまでのお前の軽はずみな考えなしの行動は許そう。お前は自分で自分に罰を与えたのだから。だが次はないと思え」
エリックの左手が肩から首に伸ばされる。
「お前の歌はカルロッタなどすでに凌駕している。だがまだ未完成だ。さらなる向上のためには、瑣末な世事に心を向けてはいけない。わかるな?」
「は……は、い……」
彼の手はわたしの首に触れるぎりぎりで止まっていた。
わすかでも力を込められたらわたしの首などあっという間に絞められてしまいそうだ。
そんな状況だというのに、わたしは恐ろしさよりも恍惚を感じ、ずるり、とエリックに身体を預けた。
鏡に映るエリックはわずかに目を見開いたが、すぐに顔を伏せた。
陰になって表情は窺えないが、何かを堪えるかのように唇をかみ締めているようだ。
深く、大きく息を吐いてエリックは手を放した。支えを失ったわたしはずるすると床に崩れ落ちる。
「立つんだ」
苦しげに胸元を押さえ、エリックは冷たく言い放った。
「レッスンを始めよう」
