薄明かりの下を、少女は駆けていった。
小さな足は裸足。
だが露に濡れた草が傷つかぬよう優しく守ってくれる。
押さえようとしても押さえきれぬ歓喜の衝動が、細やかな叫びのように口からこぼれた。
今日も一日の行程が終わったのだ。
ゆっくりと、あまりにもゆっくりとした旅は、時折少女を苛立たせる。
早く終わればいいのに。
もっと早く進めばいいのに。
ことあるごとにそう口にして、彼女は母親に窘められる。
どこへ行くのか、なぜそこへ向かうのか、まだ幼い少女には理解するのが難しかったから。その目的地までの道のりが、彼女らの種族をもってしても遠く、気が遠くなるほどの時間がかかることを知らなかったから。
「――てよ。待てったら!」
「やーよぅ」
背後から呼ぶ声に、彼女は笑った。彼に追いかけられるのは、いつものことだったからだ。
「待てったら。エレナ!」
「兄上、遅ぉい」
振り返りながら、エレナははやし立てる。少し後ろを走っていた兄は、むっとした顔になったかと思うと、無言のまま速度を増した。
「わ、わわっ」
少女は追いつかれまいと焦りだす。慌てたせいで足がもつれ、彼女は草の上に倒れた。
「捕まえた、エレナカレン」
「やだやだ、離してぇ」
「駄目だよ。遠くへ行っちゃいけないって、父上にも母上にも言われてるだろう。なのにお前はいつもいつも休憩時になるとすぐに走り出すんだから」
「だって、ずっと歩いているのはつまらないんだもの」
頬を膨らます妹に、彼はやれやれと肩をすくめた。少女は尚も兄に言い募る。
「進むのは遅いのに、立ち止まると『早く進みましょうね』なんて言われるんですもの。うんざりよ。綺麗なものを見つけても、よく見ようとすることもできない。ああ兄上、わたくし戻りたいわ。わたくしたちが生まれた湖の傍へ戻りたいわ」
いい終わる頃には、エレナは半分泣きそうになっていた。兄はひるんで掴んだ手を放す。
ぐずぐずと鼻を鳴らす少女に困惑した彼は、しゃがみこんで妹の頭をなでた。
「泣くんじゃないよ……。そのうち、素晴らしいところへ到着するのだと、父上が仰っていたじゃないか。父上はエルウェ様から直々に聞かせていただいたのだから、本当のことだよ。いつまでも湖に戻りたいなんて駄々をこねるのは、小さな女の子がすることだ。エレナは小さな女の子なのかい?」
するとエレナはきっと顔をあげて言った。
「わたくしはお姉さんよ。小さな女の子じゃないわ」
勝気そうに眉をつりあげてきっぱりと言った。それからごしごしと目をこする。
それを見て兄はほっとしたような笑みを浮かべた。彼女の鼻っ柱の強さには時折辟易させられるけれども、めそめそされるよりはましだと彼は考えていた。小さな女の子に泣かれては、まだ年端の行かない彼としてはどうしたらよいのかわからなくなってしまうから。そんな彼は自分のことを『しっかりしたお兄さん』で、大人だとはまだ言えないにしても、子供ではないと思っていた。だが傍目から見れば彼も一人の『小さな男の子』に過ぎなくて、少し離れたところから大人たちが微笑ましげに彼らのやりとりを眺めているなどとは思いもしなかった。
「さあ、戻るよ、エレナ」
「はい兄上。あ……」
兄に手を引かれて立ち上がろうとしていたエレナは、こちらに向かってよたよたと走ってくる小さな影に気がついた。エルフの鋭い目は、薄暗い中であってもそれが誰であるのかを見間違えたりはしない。それが特に目立った特長を持っているのだから尚更だった。
「あにうえぇー。あねうえぇー」
振り返った少年は、大げさにため息をつく。また面倒をみなければならない者が増えてしまったのだ。
「オロフェア……」
「まあ、オロフェア。一人でうろついてはいけないでしょう。オロフェアの父君母君が心配してよ」
兄が注意をしようとするより先に、妹がこましゃくれた口調で近付いてきた少年をたしなめた。兄は静かにむっとするも、せっかく治った妹の機嫌を損ねるのはつまらないと、口をつぐむ。
注意をされたオロフェアは、きょとんとして兄と姉の顔を見上げた。
「でも、ぼくはあにうえとあねうえのところへゆくよって、ははうえにいったんだよ?」
「だからって、一人で来るやつがあるか。お前はチビなんだから大人のそばを離れちゃいけないんだぞ。誰か従者くらい連れてこいよ」
オロフェアとエレナたちは実の兄弟ではない。大勢いる親族の中で特に親しい家族の子供なのだ。正確に言えばハトコ同士になる。エレナたちにはこのような親族間の友人がたくさんいて、実の家族であるなしに関わらず、兄や姉、父や母と呼んでいるのだ。
兄弟の中でも年嵩の少年に強く言われて、オロフェアはしゅんとなった。
「だけどオロフェアは偉いね。ちゃんとわたくしたちのところへ真っ直ぐ来たでしょう?」
弟が泣きそうな顔になったので、エレナは彼女なりになだめようと明るく言った。ちゃんとした『お姉さん』としては、弟の面倒を見なくてはならない。
姉に優しくされたオロフェアは、にっこり笑って言った。
「ぼく、エレナあねうえだったら、どこにいてもすぐにわかるよ。あねうえの目はほかのみんなとちがうもの。それに、あねうえのちかくにいるのはあにうえだから、あにうえもすぐわかるよ」
「――僕はエレナのおまけか?」
「おまけ?」
兄はふてくされたように唇を尖らし、弟は兄の不機嫌の理由はわからず、首をかしげる。
この場で唯一の女の子のエレナカレンはきゃっきゃっと腹を抱えて笑った。
「それをいうならわたくしもオロフェアならどこにいるかすぐにわかるわ。オロフェアはヘルルインみたいな色の目をしているんだもの」
ヘルルインは天空に輝く星のひとつだ。彼女が聞かされたところによると、最初に生まれたエルフが始めてみたものが、星々の女王ヴァルダが作った星であり、その星の輝きが目に差し込んだため、エルフの目は星の輝きを宿しているという。
その星のほとんどは彼らの髪のような銀色だが、いくつかの目立つ星は別の色をしていた。ヘルルインは彼らの言葉で「凍える青」と言い、他にも「赤き星」の意を持つボルギルなどがあるが、エレナカレンと同じ色をした星は見当たらない。ゆえに、彼女は自分の目の色をなんと表現してよいのかわからないのだ。
「でもぼくとおなじいろの目をしているのは、ほかにもいるよ」
姉の言い分に納得できないように、弟は眉を寄せた。
「だけど、あんたはその中でも一番小さいもの。わからないわけがないよ」
わけもないことだと言いたげに、エレナは返す。
「そっか」
まだ幼いゆえに単純な弟は、感心したように姉を見つめた。
「なんでもいいや。とにかく皆のところに戻るぞ」
弟と妹ののん気な会話にいい加減飽きた少年は、ついて来いと身振りで示して、さっさと進む。
「あ、兄上待ってー」
「まってー」
妹と弟はその後を追って行った。
そして月日は流れる。
少年と少女は旅の初めの頃よりも背が伸び、知恵も体力も増した。
自分たちのおかれている状況を理解するようになり、そしてそれと同時に、不安も大きくなっていった。
知れば知るほど、目的地になど永遠にたどり着けないように思えるのだ。
エレナカレンが理解しているところでは、自分たちは遥か西方の彼方にあるというヴァリノールへ向かっている。エレナたちは道を知らないが、先頭を行くヴァラールが一人オロメが導いてくれているのだ。
ヴァラールとは、この世界を造り上げた大いなる力を持った存在。彼らより力は劣っているが、エルフより遥かに優れた力を持つマイアというものもいるのだという。ただし、エレナはまだそのマイアなる存在には会ったことがない。オロメを近くで見たこともなかった。エレナはまだ子供なので、大人の、特に高貴な人びとが集うところには参加させてもらえないからだ。とはいえ彼女自身、家系を辿ればテレリ族の王であるエルウェとオルウェの兄弟に連なる身、いずれはその輪に加われるだろうと思っている。
さてヴァリノールだが、なぜそこを目指すのかというと、エルフを発見したヴァラールが薄暗がりの危険な世界にいるエルフの身の上を案じ、彼らの住むヴァリノールで暮らすことを許したからだ。その国は光に満ちているということだが、光といえば遠き天空に輝く星やエルフの目に宿った星明かりしか知らないエレナにはいまひとつピンとこない。しかしエルウェとヴァンヤール族のイングウェ、ノルドール族のフィンウェが使節としてヴァリノールへ赴き、その地の素晴らしさを各々の一族に広めたため、彼らは旅立つことを決めたのだという。
しかし出発をした頃にはまだもの心がついたばかりの幼子だったエレナカレンが、少女から乙女へと変わりつつあるのに、未だ目的地は遥か彼方にあるという。本当にたどり着けるのかと彼女が疑ったところで、無理からぬことと言えるだろう。
そして現在。
彼女たちの一族は行進をやめていた。星明りも届かない広い森を苦労して抜けたかと思うと、これまで彼らが見た中で最も大きな河が横たわっていたからだ。さらにその先には天に突き刺さっているのかと思うほどの険しい山が聳え立っている。先を進むか、ここで旅をやめるかと、大人たちは頭を悩ませていた。
行く手は厳しいが、行けないわけではない。現にヴァンヤール族とノルドール族はすでに先に進んでいる。
それでもテレリ族は彼らを合わせたよりも人数が多く、大勢が不安を抱えたまま危険な旅を続けるのは困難だと考えていた。
そしてエレナカレンは、進んでもこのまま留まってもどちらでも構わないと思っていた。
未知の美しい国に興味がないわけではないが、見たこともない国への憧れは、生まれた時から慣れ親しんだ星明りの世界に拮抗できるほど強くはない。
むしろ、危険な道を行くよりも、早く安心できるところで暮したいという思いが強かった。
ここは楽園ではないかもしれないが、恐ろしいところではない。
大河を流れる水の音は生まれ故郷の湖のほとりを思いださせた。そして木々や草々を揺する芳しい風があり、広い空があり、愛する家族がいた。
不足など、何もない。
充分だった。
しかし彼女の知らないうちに、大人たちはそれぞれの結論をつけていた。
すべてが決まった後にそれを聞かされ、エレナはひどく驚き、悲しんだ。
そして破裂しそうな心を抱えて、当てもなく走り出す――。
「ねえ、聞いた?」
「本当のことなの?」
「どうして?」
「こんなの、いやだよ」
「でも父上たちが決めたことだし」
「あ、エレナ、エレナ!」
闇雲に走り続けていると、いつも間にか親族の子供たちが集まっているところへ近付いていたようだった。呼び止められて我に返ると、そこには表情を曇らせた友人にして親戚の少年少女たちのほとんどが集まっていることに気がつく。
「話、聞いた?」
エレナより少し年上の少女が尋ねてくる。エレナは頷くことで肯定を示すと、暗い表情になった。
「父上はレンウェ様と一緒に行くって。だからわたくしたちもここで別れることになるの」
エレナの答えを聞いて、年長の少女はやっぱり、と呟いた。エレナの目に透明な水がにじんでくる。
「……こんなのって、ないよ。わたくしは早く旅が終わればいいとは思っていたけれど、それはヴァリノールに着くか、どこかで皆と一緒に国を作るために旅をやめるときだと思っていたのに」
年長の少女は目を伏せる。
「わたくしだってそうよ。まさかここで一族が別れてしまうなんて……」
それが大人たちの下した結論だった。
旅を続けたいと言う者達と続けたくないという者達がいて、長い間双方が譲らずにいたのだが、結局意見を一つにまとめることは不可能であると断じて、それそれが望む道を進むことに決めたのだった。
旅を続けたいと言う者は、これまで通りエルウェとオルウェを主君と仰いで西へと進み、これ以上旅をすることを拒むものは、新たにオルウェの配下の一人であったレンウェを統率者とし、住み着くのに適当な土地を探すのだという。
自らの意志で物事を決定することが許されていない子供らは、当然ながら親の決定に従わなければならない。エレナがどれほど嫌がっても、もう決まってしまったのだ。彼女はこのまま中つ国に留まることになる。何人かの友人たちも一緒だったが、半数以上の子の親はヴァリノール行きを決めたのだ。おそらく、彼らとはもう会えない。一生。あるいは、永遠に。
永遠という想像もつかないほどの時の長さに身震いをしていると、聞き覚えのある泣き声が近付いてきた。見るとぼろぼろと派手に涙をこぼしながら精一杯の速さで走ってくる少年がいた。
「兄上ぇー。姉上ぇー」
オロフェアだった。
彼は集まっている兄弟たちの中に突進してゆくと、誰彼かまわず抱きついて泣きじゃくる。
一族の中でも下から数えた方が早いくらいに小さい彼を放っておけず、年長の少年少女たちは弟をなぐさめにかかった。
ある者は自分もヴァリノールへ行くのでオロフェアとは一緒だと言い、別の者はいつか会えるのだからそんなに悲しむなと言う。
「……あの泣き虫とももう会えなくなるのね」
その様子を少し離れたところから眺めていたエレナカレンは、寂しさを隠しきれない様子で呟いた。年長の少女はくすりと笑う。
「あの子は特にあなたに懐いていたものね」
それが聞こえたのかどうか、オロフェアは精一杯の伸びをしながら周囲を見渡したかと思うと、エレナたちのいる方へ駆け出してゆく。
「姉上、エレナ姉上―」
「オロフェア」
「姉上たちはレンウェ様と一緒に行くって本当?」
「ええ、本当よ」
答えた途端、オロフェアの目からぶわっと涙があふれ出る。
「そんなの、やだー」
「オロフェア……」
手放しで泣き喚く少年に、エレナはかける言葉を思いつけなかった。これほどまでに純粋に悲しんでいる弟に対して気休めを言っても、意味はないと思えたのだ。
「姉上が残るなら、僕も残る。姉上たちと一緒にいる」
「それは無理よ」
エレナは膝をかがめてオロフェアと目線を合わせる。薄青い目の縁は、痛々しいほど赤く腫れていた。
「できないことだって、自分でもわかっているのでしょう、オロフェア。それに、もしオロフェアの父君や母君が残ることを許してくれたとしても、今度はオロフェアが父君や母君と一生会えなくなる。それでも、いいの?」
ひっく、ひっくとしゃくりあげながらも、オロフェアは頭を振った。エレナは弟の手を取ってこれ以上袖で目をこすらないようにすると、ハンカチを取り出して目を拭ってやる。
「だったら、我慢しなくっちゃね。わたくしだって、オロフェアや皆と別れるのはとても寂しいし、辛いわ。だけどわたくしたちはまだ子供で、自分たちでは何一つ決めることはできない。――でも、わたくしたちもいつかは大人になるわ」
そしてエレナは精一杯の力を集めて笑顔になった。別れをただ悲しいものにしないように、小さな弟を励ますように。
「そうよ、いつかはわたくしたちも大人になるの。そしてその時になってオロフェアに会いたいと思ったら、ヴァリノールに旅立てばいいんだわ。逆にオロフェアが中つ国に戻ってくることだってありえるでしょう。ヴァリノールは中つ国ほど住み心地のいいところではないかもしれないもの。なぜって、わたくしたちは中つ国で生まれたエルフなんだから」
最後の方は冗談めかして言ったので、オロフェアは小さく吹き出した。
「ようやく笑ったね。泣き虫君」
泣き虫、といわれたことが不満だというように、オロフェアは唇を突き出した。
「姉上のいじわる」
それから数日が経って、テレリ族が分裂する日がやってきた。エルウェは西へ。大河を渡り、険しい山々を超える道を進む。
そしてレンウェに率いられた一行は、この先に何があるのかもわからないまま、南へ下った。
別れの日、エレナは二度と会えないであろう友人たち一人一人を訪ね、抱き合って双方の旅の無事を祈りあった。
どちらに進んだとしても、祝福された道があることを信じて。
あとがきは↓を反転で……
最初の場面でのそれぞれの外見年齢は人間でいうところの
兄:12〜3歳くらい
エレナ:7〜8歳くらい
オロフェア:3〜4歳くらい
と考えています。
次の場面では↑+5年くらい。
エルフの成人年齢は、20歳だとか50歳だとか色々聞きますが、それが人間の数え方と同じなのか、エルフの数え方なのかがよくわかりません。
邦訳された本に書いていないというのもありますが、ネットの発達した今でも確定情報が出ていないということは、トールキン教授自身がはっきりしたことを書いていないのだと思われます。
ということで、エルフの数え方だろうが人間の数え方だろうが、五年以上旅してるってのにまだ終わんないなんて、どんな旅だよ、などと考えず、この辺りはさらりと流してくださると幸いです(笑)
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