「シリンデ。シリンデ!」
 鋭い声を張り上げると、すぐに冷静な声音が返ってくる。
「私ならここに。若君、スランドゥイル様」
 ぱっと振り返ると、そこにはひっそりと従者の――幼い頃には世話役であり、現在では腹心である――シリンデが立っていた。
 相変わらず、何を考えているのかわからない表情の薄さである。
「剣の稽古をする。付き合え」
 スランドゥイルは傲岸不遜に命じ、返答を聞く間も持たずに歩き出した。従者は静かに頷くと、足早に主の後を追いかける。
 思い思いの場所で休憩をしている仲間たちから充分離れたことを確認すると、スランドゥイルは担いでいた剣を抜き放った。剣は木々の間から零れ落ちる光を受けてぎらりと輝く。刃先を潰してある練習用のものだが、重さは真剣のそれと同じなのだ。
 無言のまま、シリンデも剣を抜き放った。唐突に命令されたというのに練習用の剣を持っていたのは、主の気まぐれを察知していたからではない。
 彼らは旅の途中であり、荷物は各々が持てるだけしか持っていないのだ。或いは、馬の背に乗せられるだけの分しか。
 打ち込みをする前に素振りをするスランドゥイルに、ふとシリンデが呟く。
「お休みにならなくてもよろしいのですか?」
「ここまでついてきながら、何を言う。それともお前は疲れたのか?」
 スランドゥイルは怪訝そうに目を細めた。その色は澄み切った青空と同じ色だった。
 彼らは半刻前にこの付近でしばし旅の疲れを取る事を決めた。そのしばしという間が、一日なのか一週間なのかは彼らの先導者たるオロフェアしか知らないことだが。その彼も、確たる目的を持って進退を決めているわけではないということは、彼に付き従っているものならば誰でも知っていることだった。
 従者は頭を振った。
「いいえ。行軍はゆっくりとしたものでしたから、私にはさほどの疲労はございません。ですが若君。貴方様こそお休みになるべきかと存じます。なぜならこの旅が始まって以来、ほとんど休憩らしい休憩を取っていないことを、私は知っているからです」
「心が騒いで落ち着けぬ。休んでなど、いられないのだ」
 スランドゥイルは言いかえした。苛立ちを隠さず、彼は剣をひゅうと振るう。
「がむしゃらになっても、逆効果です。それでは私にも勝てませんよ」
 冷静な反駁に、スランドゥイルの秀麗な眉が不快気に寄せられた。
「私は一刻も早く強くならねばならんのだ」
「そのために、貴方自身を損なっては意味がない。……まあいいです。始めましょう」
 その言葉が空にかき消される前に、スランドゥイルは地面を蹴っていた。
 金属が立てる激しい音が辺りに響く。驚いた鳥達が慌しげにばたばたと飛び去った。
 踏み込み、打ち込み、身をかわす。そのたびにスランドゥイルの金色の髪が翻り、広がり、舞った。
 シリンデは立て続けのスランドゥイルの攻撃を凪のように穏やかな表情のまま受け止める。その銀色の髪はやはり彼自身と同じように、大きく揺れもしなければ乱れもしなかった。
「動きが雑すぎます。攻撃の数を増やすだけでは、体力を無駄に消耗するだけですよ。戦は事と次第によっては長丁場にもなるのです。もっと私の――敵の動きをよく見て!」
「そうしているっ……!」
 打ち込んでも打ち込んでも、顔をしかめることもない。シリンデは自分よりは強いが、一族の中では抜きん出て強いというわけではないのだ。その彼にも簡単にあしらわれるということは……。
「くっ……!」
 焦りがスランドゥイルの集中を乱した。シリンデが踏み込んでくる。
 こらえようと剣を構えたが、鈍い衝撃と共にそれは弾き飛ばされた。
 弧を描いて空を飛んだ剣は、草地に落ちて転がる。
 ふう、と息を吐いたシリンデは、構えを解いてすっくと立った。
「続けるのならば、剣をお取りなさい」
 彼は従者であるが、剣術の師としては相手が主人であろうが一切容赦はしないのだった。





 十五度打ち込んで十五度ともあっけなく退けられた。
 半ばふてくされたスランドゥイルが草地に寝転ぶと、シリンデは、
「よく身体を休めておく事ですよ。できることならば、精神も」
 とだけ言い残して立ち去った。
 従者が主人一人を残していなくなるなど、本来ならば許されることではないが、ここは危険から隔てられているのだ。見張りが四方に放たれており、変事が起こったらすぐに知らせが来るようになっている。スランドゥイルがいるこの草地は、仲間たちからは離れているが、まだ見張りの輪の内側にあった。つまり、安全なのである。
(それなりの安全だがな)
 仰向けになり、流れ行く雲を眺めるともなく眺めながら、ひとりごちた。
 強くならねばという意志とは裏腹に、技量は少しも上達していないように感じる。シリンデに言わせれば、焦りがスランドゥイルの目を曇らせているということだった。だが、どうして焦らないでいられる?
(いつまた、敵の襲撃があるやもしれないのに……!)
 激情が胸を焼く。
 ぎりりと歯を食いしばり、怒りが、絶望が――恐怖が身の内から迸るのを堪えた。
 あまねく地上を照らす太陽の光を、避けるように目を閉じる。瞼の裏には清浄な輝きを感じるが、脳裏に浮かぶのは、忌まわしい赤だった。
 血の赤であり、炎の赤だ。
 多くの命で作られた赤き川が流れ、全てを焼き尽くす赤い舌が王国を舐めた。
 そして王国は滅んだ。
 スランドゥイルが生まれ、育ち、愛し、誇りに思い、滅びる事はおろか、いかなる禍にも打ち勝つ事ができると信じていた国が。
 ドリアスが。
 シンダールの望みが。
(おのれ、ドワーフども)
(おのれ、ノルドールども!)
 それはもう失われてしまったのだ。





 ドリアスとは、シンダールの一族が住まう国の名だ。
 王は灰色マントのエル・シンゴル。その王妃はマイアのメリアン。エルフよりも高位の存在であるが、シンゴルへの愛ゆえに、エルフの姿で彼の傍にいることを決めたという。
 王国の中心地は、千洞宮――ネメグロス――。王の住居であり、多くの民も共に住まっていた。
 スランドゥイルの父オロフェアは、シンゴルの遠縁にあたる。王族としての地位はそれほど高いものではなかったが、シンゴルに連なるものとして丁重な待遇を受けていた。千洞宮の一角に住居を持ち、オロフェア自身の一族と家臣をそこに住まわせていたのだ。宮は広いが、すべてのシンダールが住めるほどではないので、そこに部屋があるということは、それだけ身分があるということになる。
 もっとも、そこに住むのは強制ではないので、地下の都よりも広い空の下を愛する者たちは、屋外に屋敷を構えていたのだが。
 そしてそれがドリアスの内にあるのであれば、門番も必要ないほど安全であることが保障されているのだった。
 なぜならドリアスは王妃メリアンの魔法帯によって守られていたからである。
 その障壁は目には見えないが、岩を積み上げた砦よりも尚強く、ただマイアのメリアンよりも大きな力を持つものでない限り、破る事はできないのだ。
 美しく穏やかな、守られた土地。
 外の世界はそこよりも遥か遠くまで広がり、珍しい景色や物があるというが、スランドゥイルはほとんど興味を持たなかった。
 ドリアスに勝る地などないと心底思っていたからだ。
 彼は歌を歌い、楽器を奏で、星々の下を、明るい日差しの下を、木漏れ日落ちる森の下を逍遥した。
 何一つ悩まされる事なく、何一つ不自由することのない、満ち足りた日々だった。
 そして時はめぐり、彼は成人した。
 その、矢先。
 耐え難い事件が起こった。
 シンダールの王シンゴルがドワーフに殺されたのだ。
 細かい経緯をスランドゥイルは知らない。だがそれは、稀有なる宝物を廻っての凶行だったという。
 その宝の一つはシルマリル。
 まだ月も太陽も昇っていなかった頃にヴァラールの召集を受け、海を渡ったノルドールの一族、その王フィンウェの長子フェアノールが作った宝石である。
 シルマリルはヴァリノールの二本の木、すなわち金色に輝くラウレリンと銀色に輝くテルペリオンの光を封じたものだ。太陽と月は、堕ちたるヴァラ、メルコールと大蜘蛛ウンゴリアントによって枯れさしめられたその二つの木が、最後に残した花と実である。
 一方の輝きしかもたぬ太陽と月とは違い、シルマリルは二つの光を併せ持っていた。
 その美しさには誰もが驚嘆を表したものだった。
 スランドゥイルもそうであった。
 その宝石は、数奇な運命を経てドリアスに、シンゴルの元へとやってきたのだから。
 シルマリルを手にいれたシンゴルは、その石をフィンロド・フェラグンドのナウグラミアにはめ込ませようと思い至ったらしい。
 フィンロド・フェラグンドとは、ノルドールの公子の一人だが、母親がシンゴルの弟エルウェの娘である。ナウグラミアは、彼のために上古のドワーフが作りあげた首飾りで、ヴァリノールからもたらされた無数の宝石がはめ込まれていた。
 ナウグラミアの持ち主たるフィンロドは、シンゴルの命によりシルマリルの探索を命じられた人の子ベレンに協力し、命を落としたのだった。
 こうして二つの名高い宝物がシンゴルの元に集った。
 彼はネメグロスに滞在していたドワーフたちに――ドワーフは金銀細工を得意としており、ネメグロスでは頻繁にその姿を見ることができたのだった――依頼をした。
 ドワーフはその依頼を受けた。
 そして悲劇が起きた。
 どちらにより非があるのか、スランドゥイルは知らない。
 しかし、確実にいえることは、ドワーフは彼らの王を殺したということ。
 そしてその凶事を起こしたドワーフは追っ手によってほとんど殺されたにせよ、生き残った何人かが仲間を率いてドリアスに攻め込んできたことだった。
 犠牲は大きかった。
 エルフもドワーフも、大勢が死んだ。
 その中には戦の混乱の中ではぐれたオロフェアの妻――スランドゥイルの母――も含まれていた。
 被害が膨大になった原因のひとつとして、ドリアスを守るメリアンの魔法帯が、その時にはもう存在していなかったことがあげられる。
 なぜなら彼女はシンゴルへの愛ゆえにエルフの姿を取っていたのであるが、彼の死とともに、彼女自身にかかっていた魔法が解けたのだった。それからほどなくして、彼女は中つ国から姿を消した。ドワーフが襲ってきたのはその後だったのだ。
 メリアンという偉大な守り手を失ったドリアスの民は、敵の襲撃に多くが右往左往した。戦える者はドリアスにもいたが、それはあまりにも少なすぎた。そうでなくとも外界との接触がほとんどなく、実践を積むには不向きな環境であったことも災いした。
 そしてドワーフが勝利を収め、シルマリルは奪い去られた。
 だがそれもまた再びベレンによって取り返されることとなる。
 ベレンは人間の男であるが、シンゴルの娘ルシアンを愛し、彼女を得るために一度はモルゴスからシルマリルを奪った。そして死んだ。だが、ルシアンの深い悲しみと愛がヴァラールに受け入れられ、定命の存在となることと引き換えに、今一たびベレンを中つ国へ戻すことが許されたのである。
 ベレンとルシアンはドリアスを出、トル・ガレンに住まっていた。ドリアスからの使いが来て、かの地で起きた事が伝えられると、オスシリアンドの緑のエルフたちとともに立ち上がった。そして勝利を収めたのである。
 その後シンゴルの世継として、ベレンとルシアンの息子ディオル・エルヒールが迎えられた。
 彼はドリアスの盛時を再現しようと努めたのである。
 復興は少しずつしか進まなかった。なぜなら千洞宮はドワーフの力も大いに借りてできあがったものだったので、シンダールだけでは力が及ばない部分も多くあったためだ。
 そうしている間にも月日は流れ、しかしエルフの感覚ではさほど経たないうちに、再び訃報がもたらされることになる。
 ベレンとルシアンが死んだのだ。ベレンは人間であり、ルシアンは彼への愛のために定命の存在となった。だからいつかは迎える悲しみではあったのだが、それでもスランドゥイルにとっては早すぎると感じた。
 彼らの形見として、シルマリルを嵌めたナウグラミアがドリアスに届けられた。
 そして再び、事件は起こる。
 もともとシルマリルは、フェアノールの息子たちが父の亡きあとその所有権を主張していたものだった。ために、息子たちは相集ってシルマリルの返還をディオルに迫ってきた。
 ディオルの真意はスランドゥイルにはわからない。父母の形見として離しがたく感じていたのか、ただその呪われたような美しさに囚われたのか。とにかく彼は何も言わなかった。
 その返礼として、フェアノールの息子達はドリアスを襲った。
 今度こそ、徹底的に打ち滅ぼされ、王国は廃墟と化した。
 生き残った民は散り散りになり、多くは西へ向かっていったという。
 オロフェアもまた、シンダールの公子の一人として、血縁者以外にも大勢の民を従えている。だが彼は西へは向かっていない。
 反対の東へ向かっているのだ。
 ノルドたちと顔を合わせる恐れのあるベレリアンドにいることを厭い、中つ国を捨て海を渡ることも良しとしない者たちが集っているのがオロフェアの一行だった。東にはエルフが最初に目覚めた地があり、父の様子からすると、どうやらそこをもう一度見てみたいらしい。そこに居を定めるかどうかは別として。
 スランドゥイル自身は、ただ父の息子であるから従っているのだが、東に対する思慕はなかった。ただ目覚めの湖を見るのも悪くはないと思っていた。
 それよりも東には西と変わらず悪の勢力が跋扈していると聞く。スランドゥイルは万が一にも民の一人も失いたくなかった。自分自身が強くなり、守れるようになりたかった。
 もう、己の無力さに失望したくはなかった。
 二度の戦いにおいて、スランドゥイルは功らしい功をあげることはできなかった。一度目の戦いではなんとか身を守る事で精一杯であったし、二度目は怒りにかられて剣を振り回していただけだった。運の悪いノルドの兵が何人か倒れたが、それだけであって功らしい功は何一つ挙げられなかったのである。
 彼はエルフとしてはまだまだ若く、力も経験も足りなかった。だが戦いの場にあってのはああだこうだと言い訳などできない。強ければ生き延び、弱ければ死ぬのだ。
 彼は公子の一人であり、民を守るのは――それが直属の一族であろうとそうでなかろうと――父にとって義務であるように、自分にとっても義務なのだ。
 彼は力がほしかった。
 何者からも侵されない力がほしかった。





 太陽が沈み、月が昇った。
 熱を帯びない光が地上に降り注ぐ。そして天空は無数の星星で彩られていた。
 歌声高く鳴き交わしていた鳥達も眠りにつき、世界は静かさを増した。
 スランドゥイルは音もなく立ち上がると、その場を後にした。
 仲間達のところへ戻るために。
 だが、月や星を讃える歌を歌う気にはなれないと思った。






あとがきは反転で↓

ドリアス滅亡までの流れを一応書いとかないと…と思ったら、それだけで半分くらいの分量になってしまった(汗)
そして、微妙になんか違う。間違っていないけど正しくない。
(と、いうわけで気になった方は本読んでください〜)
あ、それと、スランドゥイルはこの話ではかなり若く設定しています。
人間でいうなら(というか、日本人でいうなら、かな)二十歳そこそこです。

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