進んでは留まってしばらく時を過ごし、そしてまた進んでは止まる。
漠然とした目的地しか持たないがゆえに、オロフェアの一行の歩みは遅々として進まなかった。
しかしそれもベレリアンドを横断するまでの話だ。
エレド・ルインという高く険しい山を越えようというときに、そのような悠長なことはやっていられない。標高が高くなればなるほど、風は冷たさと激しさを増す。身を守れるような木立もどんどん少なくなった。
エルフは他の生き物よりも頑健で、寒暖の差にも強いとはいえ、好んで厳しい環境に居続けたいと思うほど酔狂ではない。自然と足は速く、休憩も少なくなり、結果としてはこれまでで一番早く進むことができた。
しかしこの山を越えた者は、登った者たちの六割ほどにすぎない。
他の者たちは来た道を戻っていったのだ。
エオンウェによってもたらされた知らせは放浪のシンダールたちの心を大きく揺さぶった。
隠されていたヴァリノールへの道が再び開けたのだ。
この機会を逃せば、もう二度と西へ渡ることはできなくなるかもしれない。
彼らは疲れ果てていた。
故郷を滅ぼされ、同族を殺され、流浪の身となっていることに。恐ろしいほどの震動とともに、大地が海へと沈んだことに。
中つ国に留まれば、再び同じことが起こらないとも限らない。ここはエルフ達にとって祝福された地ではないのだ。永遠をこの移り変わってゆく世界で過ごすことは、櫂のない小舟に乗ることに等しい。自らできることは少なく、ただ流されるばかりである。
だが西へ行けば――。
ヴァリノールならば、悲しみも辛さも洗い流されるだろう。
かの地には尽きることのない光があり、喜びと幸せが保障されている。
少なくとも、そう伝えられている。
彼らは迷った。これから先、どこへ行けばよいのか。
東へ。最初のエルフが目覚めた地へ行くか。
西へ。大いなる存在の待つ輝かしい地へと行くか。
オロフェアは各自よく考えて結論を出すようにと言い渡すと、少しでも風を受けにくいところまで降りた。すでに結論を出していた彼は泰然と構え、皆が答えを出すのを待った。そしてスランドゥイルには、「お前ももう成人したのだから、私の言いなりになる必要はない。西に心惹かれるのならば、その通りにしてよいのだ」と言った。
反射的に西になど行かない、と言いそうになった息子を制し、
「意地や弾みで決めてよいことではない。これはとても大事なことなんだ。たとえ親子が離れ離れになることになったとしても、もう一方の選択をするべきだったと後悔をするよりは」
普段から穏やかな人柄だったがこのときもやはりそうで、それで彼はかえって真剣に考えざるを得なくなったものだ。
スランドゥイルは太陽と月が三度ずつ顔を出した後、結論を下した。
すなわち、西へは行かない、と。
彼はまだ中つ国に未練があった。いや、未練というよりは愛着と、野望だろうか。
彼はこの世界で生まれ、育った。他の地など知らない。知らずとも生きてこられた。
幸福だった年月。それを過ごした国が失われようと、中つ国に対する愛情が減じるわけではない。
それに、彼は若かった。
失われた故国がなぜ失われるに至ったか。何かを変えれば滅ばなかっただろうかと、彼は考えた。再び己の所属する国ができ、それを何者からも守り通すことができたなら――自分はドリアスで受けた喪失感を埋めることができるのではないだろうかと。
そのためには、ここに留まらなければならない。
敵のいないヴァリノールでは意味がない。中つ国でなければ。
しかし、と彼は首を傾げる。
これでは戦いを自ら望んでいるようではないか。
敵などいない方がよい。そのほうが民は安全だ。もう二度と屍が折り重なり、血が川と流れる様など見たくはない。
それにも関わらず、彼はもう一度この世界でやり直してみたいという考えを消し去る事ができなかったのだ。子供っぽい意地を張っているに過ぎないとしても、どうしても。
彼は考えたすべてを父に告げた。若さゆえの無鉄砲を含んだ矛盾したものだが、オロフェアは笑ったりしなかった。
それから数度、太陽が昇り、月が沈んだ。
最初の召しだしにおいてはなかなか結論を出せなかったというテレリの末裔であるシンダールだが、怒りの戦いが巻き起こした爪痕の余りの凄まじさに、さすがの彼らものんびりとはしていられなかったのだろう。
少しでも西に心が傾いていた者は次々とヴァリノール行きの意思を示し、日を追うごとに膨れあがっていった。それは半数近くにも達したのである。
別れの日、スランドゥイルは半減した隊に一抹の寂しさを覚えたが、それでも新天地を目指す同胞の無事を祈った。
再び東へと進んだオロフェアの一行は、やがてエレド・ルインを超えてエリアドールに入った。
歩きに易い道を探して進んでいると、やはり同じような考えからか、行き逢うエルフの一行に出会うこともしばしばだった。
かれらはこの辺り一帯やその先、ヒサイグリアの向こうに住んでいたエルフたちだった。エオンウェから知らせを受け、旅立ちを決意し西進しているのである。
彼らは東に向かうオロフェアたちに、なぜ今更と驚きながらも、不案内な土地を進むシンダールに色々と役に立つことを教えてくれた。彼らが元々住んでいたあたりを点々と進めば、比較的楽に先へ行けることがわかった。
そして再び大山脈が現れる。霧の塔という名を持つヒサイグリアだ。エレド・ルインの時と変わらぬほどの苦労をして彼らは山を超える。超えたと思ったら、さほど進まぬうちに広い河に行き当たった。これがアンドゥインで、その先には広大な森が続いていた。
森は木が密集しているため薄暗い箇所もあるが、清いものだった。
敵が隠れていないとは言い切れないが、敵の勢力下には入っていない。物見の話ではそういうことだった。
この森を通りぬければ難所は少なくなるという。とはいえこれまでの道のりが険しかったため、さすがに疲労する者が増えてきた。しばらく安全な場所を見つけて休憩を取ろうとオロフェアは提案する。異論のある者はいなかった。
休むには少し開けた場所があったほうがよい。
少人数ならばまだしも、千人近い大所帯だ、あまりにも分散しすぎると万が一のときの危険が大きくなってしまう。
魔法帯の中を、自由に歩きまわれた時代は終わったのだ。自分と同胞の身を守るのは自分達の武器だけである。堅固な門も砦も持たない以上、用心をしすぎて困るということはない。
とはいえ、彼らはいつも神経質でいるわけではない。特にこの森のように、生気にあふれ、エルフを歓迎してくれる処では自然と緊張が解けてくるものだ。
枝は密集しているが、時折隙間からカーテンのように木漏れ日が差す。風は木や花の良い香気を運び、好奇心旺盛な小動物がちょろりと顔を覗かせる。
ビロードのような下生え、宝石のようにつやつやと輝く草の実、どこからともなく飛んできた蝶が先導するように羽を動かす。
綺麗な森だった。まるでレギオンの森のようだとスランドゥイルは思った。
小鳥の囀る声が耳に快い。
半ば夢の小道を漂いながら歩いていると、先を進んでいたオロフェアがふいに足を止めた。
はっと気付くと、父の腹心であるタルランクが剣の柄に手をかけている。音もなくシリンデが寄ってきたかと思うと、誰かからかかばうように、スランドゥイルの横に立った。
何事かと彼は周囲に視線を走らせた。目に見えるもの、耳に聞こえるものには異変はない。
だが誰かがいる。感じるのだ、視線を。
それも一人ではない。
「誰だ? 私たちに何の用だ!」
オロフェアが口を開いた。
こちらが気付いたことを向こうに伝えたのだ。
父の口調は剣呑ではないものの、鋭さがあった。近くにいるのはオークではないだろうが――オークならばここまで殺気を消せるものではないし、第一エルフを見かけたらすぐに襲ってくるものだ――隠れ潜んでいる者が友好的な存在であるとも思えない。
オロフェアのいる場所から十数歩ほど離れた木の影から、背の高い人物が姿を現した。この森に溶け込むような濃い緑のマントを纏い、シンダールが使うものよりも小さな弓を手にしている。髪の色はくすんだ銀。瞳は灰色。その様子からシルヴァンエルフの青年であることがわかった。その青年の後ろから、さらに数人の同じような格好をしたエルフが姿を現す。ふと気配を感じて目を動かすと、横にも後ろにもいることがわかった。
囲まれているのだ。
青年は自分達を――特に先頭にいるオロフェアを――見つめ、
「放浪のエルフの一行とお見受けする。ここから先は我らの住まう地だ。我らは余計な揉め事を好まない。あなたがたがここを通りぬけたいだけであるのならば邪魔はしないが、代わりに速やかに立ち去ってほしい。それを伝えたくて姿を現したのだ」
静かな口調で用件を述べる青年に、オロフェアは小さく右手を動かした。タルランクに剣から手を放せと命じたのだ。
副官が得物から手を外した事を確認すると、彼は被っていたフードを外しながら一歩進み出た。
「私はオロフェアと申すもの。シンダールの王エル=シンゴルの縁者である。ドリアスを離れ、クウィヴィエーネンを目指し旅をしている。あなた方に敵対する気はない。しかし速やかに立ち去ることは難しい。というのも、険しい山と広い河を越えた我らは疲れきっているのだ。源を同じくする者としてお願いする。しばしの休みを取れる場所をお借りしたい」
「シンダール……。ドリアスの……オロフェア様?」
青年は驚いたように目を見開いた。このような場所でもドリアスの名は威力を発揮するらしい。彼は明らかにたじろいだ様子でこちらを見ていた。
「そなたの名は?」
オロフェアは訊ねた。口調に厳しさはないものの、有無を言わせぬ調子だった。
彼は一瞬何を言われたのかわからないという様子になったが、すぐに一礼をした。優雅とはいえないが礼節を弁えたそれだった。
「失礼をいたしました。わたくしはサンディオン。この緑森大森林の警備隊長を務めておりまする」
「ではサンディオン、そなたの主人に我が意を伝えてほしい。できるだけ速やかに」
オロフェアが言うと、サンディオンは妙な顔になった。
「は、その……」
「どうした」
「オロフェア、上をお向き」
男二人のやりとりに割って入ってきたのは、命令しなれた様子の女の声だった。
その声はスランドゥイルたちの頭の上からしたのだ。オロフェアも驚いたのだろう、誰何もせずに反射的に上を向いた。スランドゥイルも同様だった。
思い思いに伸ばされた枝の上、そのさほど太さもないところに、一人のエルフが立っていた。大きく腰をかがめ、値踏みするようにこちらを見下ろしていた。癖のない白銀の髪が顔の両側に垂れている。肌は白い。血の気の通っていなさそうな白さだった。まるでミスリルでできた彫刻のよう。そしてその白いかんばせの中に収まっているのは――。
(緑色の目!?)
初めて見た。エルフの目はほとんどが黒や灰色だ。オロフェアのように青が出ることもたまにあるが、緑というのは珍しい。
スランドゥイルは瞬きをするのも忘れて魅入った。まるで貴重な宝石を眺めているような心地だった。
「おや、まあ」
女性は面白そうな表情を浮かべて、唇を笑みの形にした。
「あ、ああ……」
オロフェアが震える声で呻く。それで我に返ったスランドゥイルは、父の様子に不安を感じた。大きく目が見開かれ、棒立ちになったその姿は尋常ではない。
「父上、大……」
スランドゥイルは大丈夫ですかと声をかけようとしたが、父本人による大声によってかき消された。
「姉上!?」
「え……?」
スランドゥイルは瞬いた。
「姉上! エレナカレン姉上ですか!!」
オロフェアは我を忘れたように満面の笑顔を浮かべて頭上の女性に呼びかける。エレナカレンと呼ばれた女性は身を起こすと、一歩踏み出すように足を前に出した。すぐ下は空中なのだが。
しかし彼女はたいした衝撃も受けていないように軽やかに着地する。目の前に立たれると、女性としては背が高いことがわかった。スランドゥイルとさほど変わらない。
着ているものはサンディオンとほとんど同じだった。若干マントの色が明るめなことと、胴衣にさりげなく刺繍が施されていることが違うくらいだった。それ以外は同じである。つまり、彼女も優雅な乗馬用ではなく実用一辺倒なブーツを履き、足にぴったりと合うズボンを履いているのだ。
スランドゥイルはあっけにとられた。ズボンをはいた女性など見たこともない。珍しい、というよりも見てはいけないものを見てしまったという思いにかられた。それというのも、身体にあったその衣服は、普通ならば隠されているものを際立たせてしまっているからだ。
長く形の整った足の形が。
胴衣ならばわかる。身体に沿った胴衣はありふれたものだ。現に背後にいる同胞のなかから女性をランダムに選んだとしても、そのうちの半数はそのようなものを着ているだろう。だが足は。
男の目にさらされて良いものではない。
困惑したスランドゥイルは父に目をやった。忠告をするべきであると思ったのだ。しかし彼は彼女の着ているものなど目に入っていない様子だった。
「ああ、別れた親族は多かったが再び相見えることができるとは思いませんでした。姉上はずっとこちらに?」
「そうだよ。レンウェ様に従ってわたくしの両親がシンゴル様たちの一行と別れたのは、ここより少し南に行ったところだったのだよ」
「そうでしたか。何分私は幼かったから、よく覚えていないのです。アンドゥインよりも前くらいとしか」
エレナはふと表情を翳らせた。
「幼かったそなたが、楽とはいえない旅を続けられるのか、案じておったよ。大勢の大人がいたとはいえ……。だが」
彼女はオロフェアの頬に手をあてた。
「大きくなったね。顔を見るまで、本当にオロフェアなのかわからなかったよ」
目を細め、感嘆したように見つめる。姉というよりも母親のような慈愛に満ちた笑みを浮かべて。
「姉上……」
オロフェアの目に涙が浮かんだ。自分の頬に当てられた彼女の手に、自らの手を重ねる。エレナはますます気遣わしげな顔になった。
「苦労したようだの。ドリアスのことは我が方の耳にも入ってきている……。ひどいことになったものだ」
「はい」
言葉少なに彼は頷く。彼女は手を下ろすと腰にあて、小さく首をかしげた。
「話したいことは色々あるが、まずは場所を移そう。サンディオン、一足先に戻って客人が来ることを皆に伝えておくれ。もてなしの支度を」
「承知いたしました」
サンディオンは一礼すると、数人の部下を引き連れて駆け去った。
束の間、それを見送ると再び彼女はオロフェアに目を向ける。
「しばらくは賑やかなことになりそうだね。嬉しいこと」
と微笑んだ。
あとがきは反転で↓
ヒサイグリア…霧ふり山脈のこと。
レギオンの森…ドリアスの南に広がっていた森
シンダールもシルヴァンも、元はテレリという種族だったのですが、別れてから結構時間が経っているため、使用している言葉がかなり変わってしまいました。
だから本当だったら、こんなにスラスラと話が通じたりはしなかったのでしょうが(シンダリン(シンダールの言葉)を標準語だとしたら、エレナたちが使っているダニアン(東のエルフの言葉)は方言、だろうな……。方言も地域によっては外部の者には本当に何をしゃべっているのかわからないのもあるから、そういう類と思っていただければ)だからといって「◎□☆▽!」みたいに書くわけにもいかないので、その辺はスルーしました。
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