姉上、と父はその女性を呼んだ。
 父に姉がいた話など聞いたことがないが、呼び方から察するにおそらく彼女は親戚の中でも割と親しかった縁者なのだろう。近いのか遠いのかまではわからないが。
 なにしろ自分たちには親戚が多いので、どこにどういったつながりがあるのか、完全には把握していないからだ。だが姉と呼ぶからには、自分にとっては伯母の一人に当たるのだろう。
「そなたたち、見覚えがあるよ。オロフェアの両親たちの近くにいたね。ええと、名前は……」
 エレナカレンは歩きながら、オロフェアを挟むようにして歩むタルランクとシリンデに目を向けた。スランドゥイルは彼らのやや後方にいるので、彼女の目には留まらないらしい。
 甥として未だに挨拶をしていないというのは、儀礼上問題があるだろうと思いはしながらも、自分から声をかけるのは控えていた。父は見知った者に会えた嬉しさから興奮状態に陥っているので、冷静になるまで待ったほうがよかろうと思ったからだ。父子として過ごした月日は短くはないが、こんなにはしゃいでいる彼を見たのは初めてである。
 そんなことを考えながら父たちの後ろを歩いていると、オロフェアが腹心の二人の名をエレナカレンに告げる。思い当たるところがあったらしく、彼女は笑みを浮かべて頷いた。
 オロフェアはやおらスランドゥイルの肩を抱くと、自分達と並ぶように前へ来させた。
「それから姉上、紹介が遅くなって申し訳ない。息子のスランドゥイルです。ほら、スランドゥイル、フードを取って挨拶をしなさい」
 最後の方は小声で言うと、彼は喜色満面と姉の方に向き直った。
「唐突すぎますよ、父上。さっきまで忘れていたくせに」
 やはりぼそっと呟きながらも、スランドゥイルは被っていたものを降ろした。興味深そうにこちらに向けられていたエレナカレンの緑の目が大きく見開かれる。
「おや、息子だったの! どこの公子かと思ったよ。華のある子だから、そなたの親戚ではないと思っていたのでね」
「オロフェアが一子、スランドゥイルと申します。かかるなじみの薄い地で縁者に会えたこと、誠に嬉しく……」
「ああ、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。それよりももっと近くにきておくれ」
 挨拶を途中で遮り、エレナカレンはスランドゥイルを手招いた。
「は、はあ……」
 面食らいつつも、彼は言われたとおりにした。
 こうして並ぶと彼女の背の高さが実感できる。平均値は越えている自分とほとんど変わらないのだから、女性にすれば珍しいほどの丈の高さだ。
「甥っ子というものに会ったのは初めてだよ。親戚は多いけれど、なんだかんだで皆散り散りになってしまったからね。兄上も結婚する前にマンドスの館へ行ってしまったしのぅ」
「そ、そうなのですか!? いつ、どうして?」
 大声で問い質したのはスランドゥイルではなくオロフェアだった。
 エレナカレンは困ったような笑みを浮かべると、
「落ち着けオロフェア。後でじっくりと聞かせてくれるわ。わたくしは甥っ子と話がしたいのだよ、少し黙っておきなさい」
「姉上〜」
 置いてきぼりにされた子犬のような目でエレナカレンを見るオロフェアに、スランドゥイルは口をへの字にした。
 一行の先導者たるシンダールの公子がみっともない。後ろに続く民に示しがつかないではないか。
 情けない気持ちで不満を腹の中に溜めていると、エレナカレンは小さく首を傾げてスランドゥイルの頭をなでてきた。
「なっ……!」
 ここまであからさまな子供扱いをされたのは数百年ぶりだ。怒るよりも先に驚きが先に立ち、声にならない声が出る。
「驚かせてしまったみたいだな。そなたの顔を見ればわかるよ、こんな子供じみた振る舞いをする父親は見たことがなかったのだね」
「……っ」
 スランドゥイルは思わず赤くなった。その通りである。その通りではあるが、それを認めるのは癪に障るのだ。
「許してやれ。オロフェアがわたくしと別れたのは、あれがこんなに小さかった時の話なのだ」
 彼女が開いた手の間は二フィートもないくらいだった。それくらい小さかったのならば、幼児というよりも赤ん坊なので、オロフェアがここまで彼女のことを覚えているとも思えないのだが、つまり彼女にとってそれくらい小さく思えた時のことなのだろう。
「オロフェアは一人っ子だからね。わたくしたちの両親が家族ぐるみで親しくしていたので、あれはわたくしを本当の姉と思っていたのだよ。そして兄上を本当の兄とな。わたくしも調子にのって、必要以上に姉ぶっていばりちらしていたのでのぅ、そのときの感覚が抜けないのだよ」
 エレナカレンは照れくさそうに手を頬に当てた。
「そういうことで、そなたには不快な思いをさせてしもうたかもしれんが、許してたも。おいおい、大人同士としての距離のとり方もつかめようて」
「私は何も父上と伯母上が昔のように付き合っていることを咎めているわけでは……」
 なんて下手な取り成し方だとスランドゥイルは己を恥じた。ドリアスでは真綿でくるんだような言い回しをすることが洗練された話術だとされていたので、このような率直な話をする相手にどう切り替えしたらよいのか、とっさに考えつかなかったのだ。
 エレナカレンは小さく笑む。
「まあ、あまり心配せずとも、そなたらの民の中にもわたくしのことを覚えているものが何人かおろう。そやつらがそなたの父の評判を落とすまいよ。それからな、スランドゥイル」
 神妙な口調に、彼は聞きの体勢になった。
「この森では深いことを考えていては暮らしてゆけないよ。考えるよりも行動するのが、この森の流儀なのでな」
「……ええと。はい……」
 予想もしない忠告をされて、スランドゥイルはひたすら困惑したのだった。





「随分歩きましたが、まだ遠いのですか?」
 エレナカレンが先頭に立って歩くこと数刻。いつまでたっても森の国の中心部に到着しない。オロフェアは声音に困惑したものをにじませて、姉に尋ねる。
「もうじき見えてくる。そう急くな」
 彼女はいたって鷹揚に答えた。
 オロフェアはしばし黙ると、ふたたび訊ねた。
「姉上たちは普段からこれほど広い範囲を警備しているのですか? 国の規模はいかほどなのです?」
 そういえば、とスランドゥイルもようやく不思議に思えた。ここはドリアスのように魔法で守られているわけではないはず。これほどうっそうとした森ならば、多くの見張りの兵が必要だろう。エルフは遠くまで見通す目を持っているが、障害物を透かしてその先を見ることはできない。
 起伏の少ない平原や高いところからならば少ない人数でも敵の接近に気付くこともできるが、ここではそうもゆくまい。中心部から離れれば離れるほど、見張りをするための人手は大きくなる。
 数刻歩くほど遠く離れた場所にあれだけ大勢の警備兵がいたのだ。この国はかなり大きな国なのだろう。
「いや、警備兵達は普段は中心部の近くにいるのだ。最も民が多かった頃に比べれば半分以下に減ったので、人手を割く余裕がなくなってきているのでね。わたくしは少し魔法が使えるので、敵が襲ってきても逃げられるくらいの範囲に呼子のような働きをする術をかけているのだよ。二本足で歩くものがそこに差し掛かると、わたくしにはそれと感じられるのだ」
「二本足、ですか?」
 スランドゥイルは首を傾げる。
「ああ、そうしないと、森の獣たちが差し掛かるたびに耳元でうるさく警報が鳴ってのぅ。いや、その警報が聞こえるのはわたくしだけなのだが、さすがに参ってしまってな。二本足ならば、なんとかなるのだ。実際に現場に行くまで、その警報を鳴らしたものがエルフなのか人の子なのか敵なのかまではわからないのだがね」
 それで武器を向けられたのかと、ようやくスランドゥイルは理解した。
「姉上、それではこの森の警備は姉上が受け持っておられるということですか?」
 驚いたようにオロフェアが問う。
 なるほど、とスランドゥイルは思った。それならば女性には珍しいズボン姿も理解できないこともないからだ。
 しかしエレナカレンは首を振った。
「そうだ、といいたいところだが、違う。総大将はサンディオンだ。その副官はマキリオン。彼はそなたらが敵だった場合に民を逃がすために中心地に残っていたのだが、今頃はサンディオンと一緒に宴の仕度をしているだろう。わたくしは、彼らの手助けをしているに過ぎないのだよ」
 スランドゥイルは納得がいかなくて首をかしげた。
「彼らは名前と役割が逆のような気がするのですが。そもそもそれは本名なのですか」
 サンディオンは「楯」、マキリオンは「剣」という意味だ。だが今回のことを考えれば、楯が前線に出て、剣が防御に回っている。逆ではないか。
 言うとエレナカレンはからからと笑った。
「たまたまだよ。サンディオンの隊とマキリオンの隊は交互に休息を取っていてね、今回はサンディオンの隊が任務についていたときに警報が鳴っただけ。名前に関しては本名ではない、とだけ答えておこう。こういうのは本人に断りもせず教えていいものではないからね。ああ、兄弟ではない、とだけ言っておこうか」
「はあ……」
 所変われば流儀は変わるものだ、とスランドゥイルは思った。では、森の守護は大きく分けて二つの隊だけであがなっているのか。それは確かに人手不足といえるだろう。
「民の数は今のところ……。何人になるのかな。あちこち分散して住んでいるので、よくわからないのだよ。国境線というのはとくにはないが、森の中に皆住んでいる。この森自体が我らの国というところか」
「なるほど、それから伯母上、民が去ったとのことですが、もしや彼らは西へ行ったのでは? こちらにもエオンウェ様がいらしたのですか?」
 スランドゥイルが訊ねると、エレナカレンは「ん……」と言ったきりしばらく彼の顔をじっと眺めた。
「伯母上……?」
 口を挟んではいけなかったのだろうかと思い始めた頃、彼女はようやく口を開く。
「わたくしのことは名前で呼んでおくれ」
「名前、ですか」
 重々しくエレナカレンは頷く。
「ああ。エレナカレンが長いのであれば、エレナでもエレンでも構わん。伯母上と呼ばれると、急に老け込んだ気分になる」
「甥っ子に会えて嬉しかったのではないのですか?」
「それはそれ、これはこれだ。そなたがわたくしを伯母と呼ばずとも、事実が変わるわけではないのだし」
「そうかもしれませんが」
「だから、そうしておけ」
 スランドゥイルは小さくため息をついた。彼女の物言いは明快で単純なだけに、断るのが難しい。しかしどうあっても出来ないことではなかったので、彼は腹を括った。本人がそうされるのを望んでいるのであれば、不敬にはなるまい。
「私は構いませんが……。ではエレナ、改めて。マイアのエオンウェ様がこの森にも訪れませんでしたか?」
 素直に名で呼んでくれたことが嬉しいらしく、エレナはにっこり笑った。
「そうだね、来たよ。あの大きな地震の後だから多少のことには動じる気になれないでいたけれど、さすがにあれには驚いたね。マイアを直接見たのは初めてだったよ。ああでもそなたらはそんなことはなかったのだね。そなたらの王妃はマイアだったのだから」
「ええ。でもメリアン妃はエルフの姿をとっていたので、マイアであることを感じ取ることはできなかったのですよ。群を抜いて美しく力の強い方ではありましたが」
「そういうものなのか。マイアといえど、中つ国に住み着くにはそのままでいるわけにはいかないのだね」
 意外そうな表情で、エレナは小さく口を開いた。しかしすぐに瞬きをすると真面目な顔つきになる。
「ああ、そうだ、何の話をしていたか一瞬忘れてしもうていた。民が減ったのは確かにエオンウェ様の件があったことも関係している。だがそれ以前からこの森では民が定期的に少なくなっているのだよ」
「定期的、ですか?」
 今度訊ねたのはオロフェアだった。
「ああ。最初の旅の途中、そなたたちと別れたわたくしたちはあの場所からさほど離れていないところに国を作った。国といっても、数家族単位でまとまって、あちらこちらに別れて暮らしていたのだがね。だが風の噂でシンゴル様のことが伝えられてね。マイアの妃を娶り、魔法で守られた強大な国を作ったというではないの。ここはそのようなものはないゆえ、オークの襲撃が度々でのう。少数で暮らしていることもあって、被害も少なくなかったのだ。それで安心して住めるところに移住したいという者たちが出てきて、出発したのだよ。レンウェ様のご子息でデネソール殿という方がその先導者だった。ドリアスに向かったのだが、彼はたどり着いたのだろうか?」
 オロフェアはああ、と頷いた。
「彼がそうだったのですか。ええ、こちらに来ましたよ。ただ彼はドリアスには長く滞在しませんでした。オスシリアンドで暮らすことにしたため、そちらへ移動したのですよ」
「オスシリアンド……。たしかドリアスよりも南、だったか?」
「そうです。七つの川が流れている綺麗な地だということですよ」
 エレナは不安そうな顔で押し黙ると、苛立たしげに髪をかきあげた。まったく癖のないそれは、一瞬薄い銀の幕のように流れた。彼女の髪はあまりに色が薄いので、氷でできているようにも見える。触れれば冷たそうだが、生気にあふれた緑の目と時折浮かべる表情が彼女を冷たい美人とさせないのだ。
「エオンウェ様の話では、ベレリアンドはだいぶ沈んだというではないの。あの方々は無事なのだろうか」
 オロフェアは小さく頭をふる。
「それは私にもわかりません。無事であることを願うのみです」
「そなたらは、どうやって逃れたのだね?」
 希望を求めるように彼女はオロフェアを見上げる。
「逃れたなど……。運が良かっただけですよ。怒りの戦いが起こった時に、私たちの一行はエレド・ルインを登っていたところなのです」
「そうか……」
 ふ、とエレナは小さく息を吐く。それから思い切ったように顔を上げた。
「案じてもどうしようもないことを語って、暗い気持ちになるのはよそう。少なくともわたくしには、弟と甥とその民たちが無事であるということがわかっているのだから、そのことを喜ばなくては」
 しゃんと背を伸ばし、前を見据える。
「デネソール殿のことがあったのちも、何度か同じようなことが起こった。といっても必ずしもドリアスへ向かうのが目的ではなく、キアダン殿のいるファラスに行く者あり、自分達で国を興してみたいという野心を持った者あり、ただ同じ場所にいるのに飽いたので、放浪したいと言ってある時ふらりといなくなる者ありと色々だ。わたくしの両親は、放浪することを選んだ。わたくしにも来るように言ってきたのだが、わたくしは森を愛していたので断った。最初の別れの時とは違い、成人してだいぶ経ったので、今度こそ己の望むようにできたというわけだな。あの二人、今頃どこでどうしているのやら。いっそ西へ渡ってくれていれば、娘としては安心できるが」
 オロフェアは一瞬息を飲んだが、肩を落として嘆息した。
「姉上……そういうことは早めに言ってください。兄上のことといい、本当に……」
「おいおい話そうと思っていたのだよ。ああ、そなたたち」
 エレナは前を指差して笑う。
「ようやく到着したよ。ここが我らが緑森大森林の中心地。わたくしたちの住処だ」
 スランドゥイルは眉を寄せた。
 なぜならその指の先には、相も変わらず木々が立ち並んでいるだけだからだ。






あとがきは反転で↓

二フィート……60cmくらい
サンディオンとマキリオンの名前……本当なら彼らはシルヴァンエルフなのでシルヴァンエルフ語を使った名前にしなくてはならないのですが、シルヴァンエルフ語はほとんどわからないので使うことができません。彼らに限らず、今後(ここんちオリジナルの)シルヴァンエルフが出てきたとしても、シンダリンかクウェンヤの単語を使った名前になります。
ちなみに、エレナカレンとマキリオンはクウェンヤ、サンディオンはシンダリンの語を使った名前です。




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