先には何もない。
 相も変わらず奔放に育った木立が立ち並び、その合間を縫うように下草が生えている。
 エレナカレンは不審を覚えるスランドゥイルたちの前を軽い足取りで進んでいった。
 ふと、彼は足を止めた。
 一瞬だが彼女の姿が歪んだように思えたのだ。
「ああ……」
 少し前を歩くオロフェアが思わずといったように呟いた。
「父上?」
 言葉少なに訊ねると、父は振り返って事も無げに告げた。
「目くらましがかかっているみたいだ」
「なるほど」
 それならばスランドゥイルにも覚えがあった。彼の育ったドリアスも魔法で守られた地だったのだから。
「これも姉上がなさっていることなのだろうな」
「警備の手伝いをしているということですから、ありえますね」
 だがその力はメリアンの足元にも及ばないようだ。少しも威圧感がない。これほど至近距離にいるのに、いや、すでにもう魔法の圏内に入っているかもしれないのに、だ。これでは本当に目くらましにしかならないだろう。敵を退けることは、無理だ。
 そのような『魔法』に守られているこの国の中心地にスランドゥイルは哀れみを覚えた。
 堅固な魔法によって守られていた故国ですら滅んだ。それを思えば彼女たちの国が生き残っているのは、類稀なる幸運であり、いつ自分達と同じ境遇になってもおかしくはないのだと。
 そのような思いを胸に、彼は中へ足を踏み入れた。人家も人影もなかったのに、ある地点を越えた途端にそれらがたちまち目に入った。
 心構えができていなかったわけではないが、余りにも唐突だったため、彼はゆっくり瞬きをし、気持ちを落ち着ける。
 そこには大勢のエルフ達が集まっていた。
 先頭を行くエレナが道を開けよと叫ぶと、ざわつきながら左右に別れる。彼らは濃淡や彩度の差はあれど皆銀髪で、興味津々とスランドゥイルたちを見つめていた。
 身につけているものはは良く言えば素朴、悪く言えば野暮ったい、と思われる代物だった。
 丁寧に作られているようだが、染めも仕立てもスランドゥイルからすれば、よくこのようなもので我慢ができるものだと驚きを通り越して感心してしまうほどだった。
 装飾品は、宝石を付けているものはほとんど、いや、まったくいない。
 男ならば上着の胸元などに、女ならばさらにスカートに、単純な草花の刺繍をしているか、組みひもで出来た飾り帯をしているくらいだ。あとは花を髪に飾るくらいか。
(なんとも、まあ……)
 スランドゥイルはゆっくり左右を見渡しながら、こっそりため息をついた。
 こんなに鄙びた者たちは見たことがない。父の親族であり、それなりに身分のある姫がいるからといって、その国が都然としているとは限らないのだ。
 そう思うと急に故郷の雅やかさが懐かしくなってきて、スランドゥイルは切なくなった。ドリアスが失われたことが改めて強く感じられ、自分がこの世の果てとも思われる遠い地に来てしまったのだと実感してしまう。
「どうした、ほら、そなたたちが進まんと、後ろがつかえるではないか」
 エレナが振り返り、明るく声をかける。
 スランドゥイルははっとして顔をあげた。そして顔をあげたことで、いつの間にか自分が俯き加減になっていたことに気付く。
 不覚だった。
 歓迎してくれているエルフ達の前で、これはあまり褒められた態度ではない。ドリアスの礼節が疑われてしまう。
 彼は表情を改めると、歩む速度を少しあげた。
 未知なる国を見ることは、自分にとって有意義なことだ。そう言い聞かせてよく観察するつもりで視線を巡らせた。
 ドリアスではネメグロスを中心に、主要な場所には敷石で舗装された美しい道があったが、ここにはそのようなものもなさそうだった。
 周囲は完全に森に囲まれており、その内側に家が点在している。あまり隣り合って建てないのがこの国の流儀のようだ。素材は周辺から得られる木材であろう。少なくとも、目に見える範囲に石造りの建物は見当たらなかった。そして高さもない。たいていが平屋だった。そのどれもが衣服同様素朴な造りをしている。
 そういった建物の屋根の上や、家と家の間にも生えている木の枝の上にも、見物しに来ているエルフたちが鈴なりになっているのだが、それはご愛嬌というものだろう。大通りというものがないのであれば、自分達という珍客を見るためには高いところに登るしかあるまい。
「さあ、ついたよ」
 エレナが再び振り返る。彼女の行く先からはようやく前方を塞ぐようにしている見物人たちがいなくなっていた。そこは広場のようだった。
 見物人たちが押し寄せないようにぐるりと兵で囲んでおり、その中で女官らしい娘たちが忙しそうに、だが楽しげに動き回っている。
 中心には大きな焚き火があり、木でできた腰掛がそれを囲むように並んでいた。腰掛は大きな木の幹を輪切りにしただけのもの。いくつかのテーブルがぽつりぽつりと置かれており、その上には酒杯が並べられている。一方食べるものは皿や敷物の上に乗せられて、直に地面に置かれているのだ。
 その光景にスランドゥイルは絶句した。
 宴というものは、国の威信を問う性質があると彼は教えられてきた。宮殿で行う時にはもちろん、外で行うにしても、美しい細工の施されたテーブルや椅子を並べて優雅に執り行われるべきものであると。これまで彼が見聞きしていたものはそういうものだったし、他でもそのようなものであると思っていた。
 それがどうであろう。これでは流浪中の今とさして変わりはしないではないか。
 もしかしたら、自分達はそれほど歓迎されていないのではないだろうか。そうでなければそこまで礼を尽くす必要はない相手だと思われているか。
 薄っすらと不愉快なものを感じて、彼は唇を噛む。だが。
(いや、そうではあるまい)
 スランドゥイルは内心頭を振った。
 ここは文化程度の低いところなのだ。彼らが身につけているものや建築物、態度物腰からもそう察せられる。西の光の恩恵を少しも受けていないというのはこういうことなのだ。
 考えてみれば、彼がベレリアンドで接したことのあるエルフは、多かれ少なかれ、西方の恩寵を受けているのだ。自分達はメリアンから。ヴァリノールから帰還したノルドールは言うに及ばず、ファラスリムはマイアのオスセと繋がりが強い。それ以外の森などに点在していたエルフたちも、ベレリアンドに住まっていたものたちは少ないながらも交流があったため、全く恩寵を受けていないというわけではないのだ。
 それがここまでの差を生むとは。
(このことを知っただけでも、東へ来た意義はある。西に向かい、噂に聞く美しく清浄な地へ行っていたら、このような哀れなエルフがいたことにずっと気付かないままでいただろう)
 彼らなりの歓迎に対する礼として、ここで何かを成していこう。スラドゥイルはそう決意すると笑顔で手招きしているエレナの元へと向かっていった。





「ここでは席の上下はないので、好きなところに座ってほしい」
 広場を示しながらエレナは集いつつあるシンダールたちにそう言った。そしてテーブルの杯を一つ取るとオロフェアに渡す。
「まずは一献」
 彼は目礼して杯を受け取り、唇を湿した。次にエレナはスランドゥイルに渡す。それを見届けた彼女が小さく合図をすると、控えていた女性たちが次々と出てきて、他のシンダールたちに渡していった。
 杯の中身は酒ではなかった。いくつかのベリー類の果汁を混ぜたらしい、甘味よりも酸味の強いさわやかな飲み物だった。
「旅路の汚れを落としたい方々は随分いるだろうから、近くの家を空けてもらった。化粧や着替えはどうぞそちらで。手伝いのための女性達を何人かつけておいたので、何かあれば、その者たちに言いつけてほしい。できる限りのことはさせていただく。宴を始めるのはそれからで良いかな?」
「ご配慮ありがとうございます、姉上。ええ、私もそれで構いません」
 オロフェアは側近に命じてそれを後列の者たちに伝えさせた。指示を聞いて列から離れる者と、案内や手伝いを頼まれていたらしい森の女性たちが入り乱れてゆく。
「私たちも着替えをしたいのですが」
「さして広くもないが、わたくしの家においで。兄上が使っていたものが残っているから不自由はないだろう」
「ではそうさせていただきます」
 エレナとオロフェア、そしてスランドゥイルは並んで歩いた。二人の一番の側近であるタルランクとシリンデもそれに続く。
 エレナの家は広場から見える一番大きな屋敷だった。外観には彫り物がされており、風雨を受けて味わいが出ている。しかし特徴的なのはそれくらいで、あとは他の建物同様、造りはいたって簡素なものだった。
 四隅と中央に柱があり、地面から浮かせるように床を敷いている。室内は壁ではなく、衝立で仕切っているので、開放感があった。そして壁が少ない。だからこそ中心に柱があるのがわかったのだが。
「この国に入ってからずっと思っていたのですが、随分無防備な造りですね」
 たまらずにスランドゥイルがそういうと、
「そうだね。だが、木の家はどれだけ堅固に作っても限度があるからな。これくらい簡単な造りなら壊れても建て直しやすいし、別段困りはしないよ」
 当然のようにエレナは返した。壊れても構わない事が前提条件らしい。スランドゥイルは思わず目が丸くなった。
 やはり気になっていたのだろう、オロフェアも問う。
「それならせめて、国の重要人物の屋敷くらいは石造りにしては? それくらいならなんとかなるでしょう。敵の侵入を阻む強固な壁もないのに、これでは万一の時に立てこもれないではないですか」
「建物を造れるだけの大きな石は遠くへ行かないと手に入らないんだ。それができるくらいならばとうにそうしている」
「そうかもしれませんが」
 エレナは真面目な顔で弟に言った。
「それにもしも敵がここまで来たら、わたくしたちはここを放棄するつもりでいる。だから結果的には、壁も砦も必要ない、ということにもなるんだ」
「戦わない?」
 オロフェアはたまらず大きな声を出す。スランドゥイルも目を見開いた。
「そうだ。ああ、そなたたち、もしやわたくしたちの兵が強いと勘違いをしておらぬか?」
「違うのですか?」
 慎重にオロフェアは返す。
「違う。陽動や不意打ちや隠密作業ならば得意なのだが、正面切って戦うのには向いていないんだ。敵の、特にオークの柄はわたくしたち以上に大きいし、その分力も強い。おまけに鉄や青銅の鎧を身につけている。わたくしたちには金属の鎧を作る技術がないんだ。この辺りでは鉄も銅も出てこないから作れない、ということもある。時折交易は行うが、それでも短剣と鏃にする分の金属を得るのがせいぜいだ。だからわたくしたちは守りの戦いはできないのだよ」
 そう言われて思い返すと、サンディオンを初めとする警備隊は皮製の防具をつけていた。見張りや斥候としての役割が強いので、軽い装備にしているのだと思っていたのだが。
「放棄をして、どこへ行くというのです。……姉上を責めても仕方がないとは思いますが」
 エレナは薄く笑った。
「ここは森だぞ。隠れる場所ならいくらでもある。それが女子供を守る盾になってくれるし、敵に対しては目くらましになる。平原などと違って、大隊が入り込むには不向きだし、第一この辺りは敵らの親玉からはさほど重要視されておらぬようだからのう。来るにしてもはぐれものが徒党を組んだものくらいだ。さほど組織だってもおらぬ」
「そうかもしれません。ですが、それで今まで無事だったのですか?」
 オロフェアは眉を寄せた。スランドゥイルも頭の痛い思いになる。これで今まで生き延びてこられたなど、奇跡のようなものだ。
「いいや。何度か侵入されたよ。それでどうにかして撃退した。中心地も何度か移動している」
 シンダールの公子とその息子はその答えにため息をつく。
「それで、この森の王……公子なのかもしれないが、彼はどうにかしようとはしないのですか」
 上に立つものとして、無責任だと言わせてもらいます。
 オロフェアは力強い調子で言うと、エレナは困ったような表情になった。
「この森に、王はいない」
「…………は?」
 長い間をおいて、オロフェアは間抜けな声をあげた。
「だから、この森には王はいないんだ。公子もな」
「……まさか」
 自分でも驚くくらいに落ち着いた口調でスランドゥイルは返した。いくら鄙でも、民を統治する者くらいいるであろう。彼女の答えはとても本当のものとは思えなかった。
「この話の流れで、嘘や冗談を言ってどうするというのだ。いないといったらいない」
 飲み込みの悪さに苛立ったエレナは、半眼になってオロフェアとスランドゥイルをねめつけた。
「それでどうやって国を維持してきたというんですか!」
 オロフェアが叫ぶ。
「あー……。適当に、な」
 聞かれたくなかったことなのだろう、彼女はふっと視線を逸らした。
「適当って」
 オロフェアは絶句する。
「しかし、警備隊の統率はきちんと取れていたようにお見受けします。彼らはあなたの命令にも従っていた」
 スランドゥイルが指摘すると、彼女は小さく頷いた。
「それはそうだ。いかにわたくしたちが好き勝手にしたいといっても、一人では無力だもの。民やこの森を守るために兵役やそれに付随する労を惜しむわけにはゆくまい。それについては民らと不満が出ないよう約定で決めておる」
「だれが決めたのです?」
 オロフェアは詰め寄る。それを決めるものこそが、王や公子、領主などと呼ばれるものなのだ。
「レンウェ様だよ」
 オロフェアとスランドゥイルはまったく思いもよらなかった答えを返されて絶句した。一体何百、何千年前の話なのだ。
 エレナは少し拗ねたように唇を尖らす。
「だが、あの方はここを去っておしまいになったからね。その後はあの方が決められたことを状況の変更に従い、その時々の最も権威のある……つまり、身分がおありだとか、人望が高いとか、そのような方が、その方なりに治めてきたのだよ」
 スランドゥイルはわずかだが安堵した。まったく無軌道にしてきたわけではないようだ。
「そういう意味では、先代の王が兄上だったのだが、お亡くなりになってしまった。後継者を決めるのに時間がかかって、そうこうしているうちにエオンウェ様の伝言が来る。西への憧れを抱いた民が大勢去り、ますます統治者を決めることが難しくなった。この森の民は、もともと人の上に立つことを好まないものが多いのでね。仕方がないので、兄上の唯一の身内であり、この国の中では最も身分の高いわたくしが、暫定的に取りまとめているのだよ」
 言われてみれば、それしか結論はなかっただろう。
 軍や民に支持を出し、その間他に国王然とした者がでてこない。
(女王の国、なのか。ここは)
 統治者は男がなるものであるという先入観から、そのことに思い至らなかったのだ。
 エレナは驚く弟とその息子に、釘を刺すように一言一言を重みを込めて言った。
「だがね、わたくしは自分を王とは思っておらぬのだよ。あくまでも仮の立場、つまり中継ぎだ。だからこの森に王はいないんだ」
 そうは言うものの、民が従ってる以上は、彼女がこの森の主なのだ。
 スランドゥイルは口には出さなかったものの、そう強く思った。
 妙な雰囲気になってしまった空気を吹き飛ばすように、エレナは明るい声を出す。
「だが、そなたらの処遇に関しては心配しなくてよいよ。わたくしたちは身内だもの。身内とその民らを持てなすことは、王でなくともできることだ。好きなだけいてくれてよいよ」
 にっこりとエレナは笑う。オロフェアは急に俯いた。
「オロフェア?」
 銀の髪の公子の肩は小刻みに震えている。
「父上?」
 様子がおかしいことに気付き、スランドゥイルは父に声をかける。
「あ、姉上……」
 きっとオロフェアは顔をあげた。
「だから、どうしてそういう大事なことを先に言わないんですかー!!」

 彼の悲痛な叫びは、森の遠くまで聞こえたということだ。





あとがきは反転で↓
時々スランドゥイルが上から目線でものを見ていますが、彼は(エルフなのでもう何百歳だかにはなっているけど)若いので、まだ自分のいたところを中心にしか考えられないのです。
都落ちして東下りをしているので(そういえば、本当に東に行ってるんだな。彼は。かきつばたの歌でも詠めばいいのに←在原業平か)、余計に都人としての矜持を保ちたいという見栄もある、というよーに考えて書いています。





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