エレナの屋敷は、屋内であっても風が通る。
中にいるのに外にいるような不思議な開放感があった。
そこには数人の召使いがおり、スランドゥイルらは召使い頭に先導されてエレナの兄が使っていたという棟に入った。
故人の部屋だが、長い間放置されていたような形跡はない。普段から手入れをしていたのか、オロフェアたちが使うということで急遽掃除をしたかのどちらかだろう。
オロフェアは部屋の中ほどまで進むと、『兄』の面影が残っていないか探すようにゆっくりと見回していった。スランドゥイルもざっと視線を走らせる。床も壁も天井も家具もすべて木製だ。大きな石が近くにないという話なので当然といえば当然なのだろうが、建物だけではなく家具にも石を多用していたドリアス生まれの身には珍しく見える。やはりこれらも家と同じく、壊れてもかまわないことを前提に作られているのだろうか。
(強度はどの程度なのだろう?)
ふと疑問を覚えて、スランドゥイルは手近なテーブルに片手を付ける。
特にグラグラしたりはしなかった。
手の甲で軽く叩いてみると、中身の詰まったような音がする。
少なくとも、素材はしっかりしたものを使っているらしい。
テーブルの縁には、彫り物が施されていた。何度も磨かれたせいで、縁が磨耗しているところがある。
それを指でなぞりつつ、テーブルに沿ってぐるりと一周をした。
衣装ダンス、椅子に長椅子。床にはざっくりと編まれた絨毯。続き部屋になっているらしい、ドアのない入り口が二つ……。素焼きの壷には野の花が生けられ、大きな窓から小さな羽音をさせて、尾羽の美しい鳥が囀りながら飛び込んできた。
「おやおや、さっそくお客さんがやってきたようだ」
可愛らしい訪問者にオロフェアは笑い声をあげる。
「うん、何をしているんだ、お前?」
そしてテーブルの周りをぐるぐる回っている息子に気がついて、不思議そうに首を傾げる。
「いえ……なんでもありません」
「ふうん?」
納得をしていなさそうな声音だったが、追求する気はなさそうだった。彼は部屋を振り仰いで、悲しげに目を細める。
「離れ離れになっていた年月が長すぎて、ここには私の知っている兄上の記憶は何一つないようだ。絵姿の一つでもあれば……。いや、それでも実感はわかないだろうな」
「……どのような方だったのですか?」
訊ねるべきではないのかもしれない。しかしあまりにも父が寂しそうだったので、声をかけずにはいられなかった。
「優しい方だったよ。私を含め、年下の兄弟たちの面倒をよくみてくれた。姉上は小さい頃から奔放でね、本人には悪気はなかったのだろうけど、よく騒ぎを起こして、その後始末を引き受けさせられたりしていたな。そのことで文句を言うけれど、結局、何だかんだいいながらも助けてくれるんだ。そうだね、今にして思えば統治者としては向いていたのだと思う。彼がこの森の王をしていたのも、きっと偶然ではないのだろう」
自分に言い聞かせるようにオロフェアは言った。
二人がぼんやりしたり部屋を眺めたりしている間も、腹心たちはそれぞれ己の仕事を果たすべく、黙々と働いていた。現在の役目は己が主の身支度を整えることである。戦火の中からなんとかして持ち出せた衣装を広げてブラシをあて、それに合った飾りを取り出して揃える。
スランドゥイルは広げられた衣装の中から身につけるものを指さすと、おもむろにマントを外した。用意された洗面道具で顔を洗うと、椅子に座る。すかさずシリンデが髪を解きにかかった。櫛ですかれている間、ふと思い出した疑問を父にぶつける。
「父上」
「なんだい」
やはりタルランクに身支度を整えられている彼は顔を動かさずに答えた。
「本人のいる前では聞きづらかったのであえて問いませんでしたが、エレナはどういったつながりのある親族なのですか?」
「ああ、言っていなかったか。彼女は私のはとこにあたるんだよ。だからお前から見ればはとこ伯母だな」
「そんなに近い方だったのですか!」
はとこならば確かに身内同然だ。家族といっても差し支えない。なればこそ、父の喜びも悲しみも少しはわかるような気がした。
オロフェアは薄っすらと微笑む。
「少しだけ、救われた気がするよ。私は大事なものをすべて失ってはいないのだと。一度切れた糸がつながることもあるのだと、ね」
絶望とともに始まった旅の途中での再会に、父はどれほどの光を感じたのだろうか。それはまだ若いスランドゥイルには窺うことのできない感情だった。
「しばらくここに滞在するのですね?」
なので、そのことにはもう触れずに彼は必要な確認だけをした。
「そうなるだろう。皆も疲れが溜まってきているし、少しゆっくりさせていただこう」
「……そう、ですね」
「気が乗らなそうだな」
「気が乗らないわけでは。ただ……私の知っているなにもかもと違う国なので、いささか戸惑っております」
オロフェアは小さく笑い声をあげた。
「あまりにも洗練されていない?」
「腹蔵なく申し上げると、これほど田舎染みたところがあるとは思っておりませんでした」
くっく、とオロフェアは肩を振るわせる。
「私は逆に懐かしいくらいだけれどね。クウィヴィエーネンで暮らしていたときも、こんな感じだった」
信じられないとスランドゥイルが目を見張ると、父はしたり顔で言い諭す。
「エルフも最初から優雅だったわけではないということさ」
新しい衣に着替え、髪を結いなおし、準備万端整えると彼らは連れ立って部屋を出た。
「少し派手すぎましたかね」
スランドゥイルは前髪を軽く引っ張りながら言うと、オロフェアは何を今更、と呆れ顔になった。
彼の装いは白い絹地にびっしりと銀糸で刺繍のほどこされている長衣だ。ところどころに色のある宝石が縫い付けられており、それが花として輝いている。帯は濃い青で、片方の端は中に押し込まずに垂らしている。額には細い銀の輪。彼は自分の金髪に紛れて目立たなくなってしまうからと、首から上の装飾品に金を使ったものをつけるのを頑なに拒否しているのだ。
オロフェアは濃い灰色の、袖と裾に染め文様のされた長衣だ。額にはやはり銀の輪をつけているが、息子と違って髪の色と混じるから、などというこだわりはない。全体的に品の良さを全面に押し出した装いは、派手さはなくとも王族の威厳を感じさせる。
外へ向かう途中、反対側の廊下から軽い足音がした。もしやと思って待っていると、角を曲がってエレナが姿を現す。
「……エレナ?」
スランドゥイルは我知らず、呟いていた。
「おや、見違えたね、綺麗だこと。さすがはドリアスに住まっていただけはある。先ほどの装いでもずいぶんと立派だと思っていたけれど、今の方がもっと素晴らしい」
エレナは満面の笑みを浮かべて賛辞を送るが、スランドゥイルはそれどころではなかった。
見違えたのは彼女のほうだ、と彼は心の中で叫ぶ。
「ドレス……なんですね」
「ん?」
甥の言葉に、エレナは眉を歪ませた。そして、
「あ痛っ!」
無言で彼を張り倒す。
「女に向かってなんだその言い草は。わたくしがドレスを着るのがそんなにおかしいか!」
せっかく褒めたのに、と額に青筋を浮かべながら彼女をそっぽを向く。
「す、すみません、じゃなかった、申し訳ございません。つい……」
「ついとはなんだ、ついとは」
「まあまあ、姉上。お怒りを抑えてください。姉上のズボン姿の印象が強かったんですよ」
オロフェアが取り成そうとするが、彼女は腕を組んで頬を膨らませたままだ。
「ドリアスにはズボンをはく女性はいませんでしたからね。まあ、私も見たのは姉上が初めてでしたけど、姉上でしたら納得できるというかなんというか……、それであまり驚きませんでしたし」
「だからといって普通にドレスを着ただけで、化け物でも見たような顔をされて黙っていられるか」
「そのような顔などしておりません!」
スランドゥイルは断固として叫んだ。
「いいや、しておった! 自分の表情など鏡でも見ない限りわからぬだろうが、生憎わたくしはそなたの真ん前におったのだぞ、スランドゥイルよ」
そっぽを向くのをやめてきっと睨みつけるエレナに、彼はたじたじとなる。
エルフの目には星の輝きが宿っているものだが、それとは違う炎のように強い煌きに圧倒された。
スランドゥイルは口ごもる。
化け物ではないが、この世のものとは思えないようなものを見た気分になったのは確かだ。
だが、それはけっして悪い意味ではない。
「驚いたのは、美しかったからです」
「……ああ?」
エレナの顔がひくりと歪む。そしてその唇から思わず、といったように漏れた声は、見目麗しいエルフの姫から発せられたものとは到底思えない頓狂なものだったが、スランドゥイルは聞かなかったことにした。
「見ほれてしまい、何も考えられなかったのです。ですがそのことでご気分を損ねてしまわれたのでしたら、謝ります。どうかご容赦ください」
やはりドリアスの女性たちに比べれば、森の主の着るものとはいえ、洗練さにかけては足元にも及んでいなかった。それでも彼女の侍女たちは主人の麗質を理解しているのがわかる。
着るもの一つで印象が変わるのは、男も女も変わらないだろうが、それでも彼女の変貌ぶりは凄まじかった。
襟ぐりの開いた胴衣、ドレープの美しいスカート。それに少し走っただけでも崩れてしまいそうな結い髪。わずかに除くつま先から、靴はきゃしゃな絹靴だとわかる。爪は淡い紅色に染めているが、化粧気はない。というよりも必要ないのだ。
ドレスにも装飾品にもほとんど色はついていない。そして白すぎる肌と白すぎる髪は、燃える緑の目と赤い唇をこれ以上ないほど引き立てていた。
エルフでなければ、月の精霊といっても通じるだろう。
真意をわかってほしいと、彼はエレナをじっと見つめる。エルフには心を読むことができる能力もあるのだ。彼女の能力の高さがいかほどか知らないが、自分のような若いエルフの心が読めないほど低くもなかろうと思っていた。
エレナは軽く頭を振ると参った、と呟いた。
「まあ、一応、本心から褒めてくれたようだから、先ほどぶったことについては謝ろう。誤解して済まなかった」
「いえ、言葉が足りず、こちらこそ失礼しました」
スランドゥイルは軽く目を伏せる。
「仲直り成立、かな?」
安堵したようにオロフェアが聞くと、エレナは「とりあえずはな」と素っ気無く答えた。そして小さく、
「それにしても、末恐ろしい子だの」
と呟いた。
それぞれ一族を束ねる者としての自覚から、広場に出る頃にはつい寸前まで気まずいやり取りがあったことなどかけらも感じさせない笑顔になっていた。
そこには大勢の者が集まっている。あちらにはオロフェアの民が固まっているかと思えば、そちらにはエレナの民が集結している。見知った顔がいたのか、それとも早速仲良くなったのか知らないが、その二つの民が交じり合っている集団もあった。
「皆、静粛に」
エレナが声を張り合える。澄んだ声は遠くまでよく響き、時を置かずしてざわめきが収まっていった。
「まだ全員揃っていないようだが、いつまでも待っているわけにもゆかぬ。とりあえず、はじめよう」
多くの目がエレナとオロフェア、スランドゥイルに向けられる。エレナは杯を高く掲げた。
「本日は喜ばしい日だ。古のわれ等の同胞、そして現在では我らの誉れたるドリアスの民を客人として迎えられたのだから」
まばらな拍手が起こる。
エレナは優しげな表情になり、シンダールの固まっている方を向いた。
「シンダールたちよ。この宴で旅路の疲れを癒されよ」
目礼を捧げるオロフェアの民に、彼女は笑みを深くした。そしてやおら声を張り上げ、
「そしてシルヴァンたちよ。彼らを悲しみに暮れる間もないほど徹底的にもてなしてやれ! 此度の宴は日が変わっても終わらぬぞ!」
シルヴァンエルフたちが一斉に拳を天に突き上げる。鼓膜が破れそうなほどの大歓声にシンダールたちは目を白黒させた。
「無礼講じゃ! ゆくぞ!!」
エレナが吠えるとシルヴァンエルフ達はますます盛り上がっていった。
「は、はは……」
面食らったスランドゥイルは乾いた笑いが唇から漏れる。
そしてオロフェアはというと、
「あはははは。懐かしいねぇ、この雰囲気」
と手を叩いて喜んでいた。
(どうしよう……)
乗りについていけない彼は、背筋に冷たいものは走るのをどうすることもできないでした。
そして結局、森の主たるエレナの宣言どおり、彼らは徹底的にもてなされたのだった。
歓迎の印にと入れ替わり立ち代り森の民らがスランドゥイルに酒を進め、彼も彼で断るのも悪いと馬鹿正直にすべて受け取った。
森の酒がかなり強いのだと気付いた頃には酔いがすっかり回り、彼は初めて酒量の限界を迎えてぶっ倒れたのだった。
あとがきは反転で↓
森エルフの住居として有名なのは「タラン」ですが、UTによるとタランはロリアン特有のものらしいので、この森にはないことにしています。
で、ならここでの住居はどんな感じなのかといいますと、実は私にもあんまり想像がつかないんで……(←駄目じゃん)
が、エレナの屋敷に関しては「洋風寝殿造り」をイメージしています。
寝殿造りって、平安時代の貴族の屋敷のあれです。
それを洋風に、と言われてもよくわからないかもしれませんが、感じとしてはちゃんと床が木でできていて、でもその床は地面に直に敷かれているものではない、というものです。で、壁は少なくて衝立で部屋仕切ってる、みたいな……。
西洋の古代〜中世の住居は、屋敷や城レベルでも、1階部分は土を固めただけの床か、石を敷き詰めているか、あるいは木の床にしても地面に直接か石敷いた上にさらに敷いているみたいな感じっぽくて、日本みたく柱で床を浮かせている工法は取ってないみたいで(湿気の問題とかもあるんでしょうけど)。
前回「地面から浮かせるように床を敷いている」と書いたのはそういうのをイメージしてのことです。
あ、ただし洋風寝殿造りとはいえ日本の話ではないのですから、靴はいたまま中に入るようになっています。
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