まぶしい陽光が差し込む。
昼間の緑森大森林は雪を反射して目に痛いほどだった。数日降り続いた雪が大地を覆い隠し、さながら白く厚いじゅうたんのようになっている。木の枝は重さでしなり、時折ばさりと塊を振り落とす。
エレナと氷滑りなどをしていたものの雪にはしゃぐほど幼くもなかったため、それからは屋敷でのんびりしていたスランドゥイルは、父の機嫌伺いでもしようかとオロフェアの私室へ向かった。部屋が別々になって以来、顔を合わせる頻度が減ってしまったのだ。
ノックをしようと腕を挙げる。するとまるで自分を待ち構えていたかのように内側から扉が開かれた。
スランドゥイルは思わず目を丸くする。
「どうしたんだ、タルランク」
父の副官が苦虫を噛み潰したような表情で立っていたのだ。自分よりも頭半分ほど高い彼にそうされると威圧されてしまう。身分としては己の方が高いとわかっているものの、子供の時から厳しく接せられてきたため、こんな時にはとっさに身構えてしまうのだ。真顔が怖いということもあるが。
「……いえ、失礼をいたしました、若君。していかがされましたか?」
タルランクはスランドゥイルを認めて一瞬動きを止め、表情を取り繕う。しかしピリピリとした雰囲気は隠し切れていなかったので、スランドゥイルは心持ち背を仰け反らせた。
間が悪い時に来てしまったらしい。しかも目的の人物もいないようだ。タルランクの背後に見える範囲には誰の姿も見えない。
「父に挨拶を、と思ったのだが……」
動じていない風を装って、スランドゥイルは言った。タルランクもそれに習う。
「先ほど外へ出てゆかれました。エレナカレン姫に馬を見せてもらうのだと」
なるほど、とスランドゥイルは頷いた。それと同時にタルランクの不機嫌の理由に見当がつく。
「とうとう押し切られたのか」
言ってから、しまったと彼は口を押さえた。タルランクがむっつりと唇を下げたからだ。
目覚めの湖の様子を探りに行くというオロフェアとそれに反対していたタルランクだったが、彼の様子から察するに、タルランクにとって不本意な形で決着がついたのだろう。
だがそれを口にするべきではなかったのだ。少なくとも、今は。
「主命とあらば従うしかありません」
言葉少なに訥々と答えたが、受け入れきれていないことは明白だった。
聞きたいことはもう聞いたので帰ってもよかったが、腐っている彼を放っておくのもどうかと思い、スランドゥイルはしばし留まることにした。
「命令をされたのか?」
オロフェアは命ずるのではなく、納得してもらうために言葉を尽くしてきていたはずだ。しかし主命だとタルランクは言った。つまりは命令されたということだ。
彼は答えたくなさそうに目を逸らしたが、スランドゥイルはわざわざ回り込んで視線を合わせた。
「そなたが言わないなら父に聞くだけだ。どの道私は知ることになるのだから、今吐いてしまえ。楽になるぞ。……多分な」
いたずらめかして唇をあげると、タルランクはやれやれと小さく頭を振った。
彼は扉が閉まらないように押さえたまま、身を脇に寄せた。中に入れということだと解釈したスランドゥイルは勝手知ったる気安さで父の私室に入る。
堂々と椅子に座り、足を組む。部屋の窓は開いていた。太陽は顔を覗かせているものの、外気温は雪が溶けない程度には低い。窓枠の上側には短いつららが荒い櫛の歯のようにひょこんと顔を覗かせ、ちらちらと透明な光を散らしていた。
タルランクは立ったまま、思わし気に顔をしかめる。スランドゥイルは待った。気乗りがしない様子ではあったが、大きくため息をつくと、ややあって彼は口を開いた。
「わたくしたちは何度も同じことを話し合いました。その内容については今更言わずともおわかりでしょうが――」
「ああ、だからその辺は省略していい」
軽く頷いて先を促す。こういった反応は予想していたのだろう、タルランクは戸惑うことなく言葉を続けた。
「そろそろ準備を始めなければ春の出発に――正確に言えば雪解けの頃に、ですが――間に合わなくなるとオロフェア様がおっしゃいまして。これが最後の話し合いだと。わたくしはもちろん反対いたしました。そしてオロフェア様はどうしても自分の目で確かめなければ気がすまない、と」
だろうな、とスランドゥイルは思った。これでどうにか解決できるのであれば、もっと早くに解決していただろう。
「わたくしがどうあっても引かないと悟られたオロフェア様は、ならば話し合いはもう不要だ、と。主として、自分が緑森大森林に戻るまでスランドゥイル様を助け、シンダールを取りまとめることを命ずる、と」
スランドゥイルは眉をあげた。反対するなという命令ではなく、タルランクについてくるなと命じたということだ。予想していなかった展開に、スランドゥイルは掛け値なしに興味がわきあがった。先ほどまでは古馴染みの臣下の、言わばガス抜きに付き合うつもりでいただけだったのだ。
「それで、そなたはどうしたのだ?」
軽く身を乗り出すと、タルランクは不本意そうにスランドゥイルから顔を背けた。
「自分が行けないのならばシリンデを連れてゆくのかと問いました。いくら少人数での行動とはいえ、公子が補佐もつけずにどんな危険があるとも知れない場所へ行くなど無謀というものですから」
「まあ、そうだろうな」
シリンデは自分が生まれる前にはタルランク共々オロフェアの補佐をしていた時期もあったのだ。なのでその提案はすんなりと納得できるものではあった。しかし物心がついた時には自分の世話役であったシリンデに比べて、タルランクは父の副官であるという認識が強いため、シリンデにするようには軽口も言えなければわがままも言い辛い。父がシリンデを連れて行くのだとしたらちょっと嫌だなとスランドゥイルはひそかに思った。
「それで父上は何と?」
「オロフェア様は……」
ふるふるとタルランクの肩が揺れた。両手も硬く握られており、彼の憤りの強さが伝わってくる。
「シリンデは若君の副官なのだから連れては行かないと……!」
「……では、誰を連れて行くつもりなんだ?」
意味がわからず、スランドゥイルは眉をひそめる。タルランクは恨みがましい目つきで中空をにらんだ。
「副官を、という意味でしたら、誰も連れて行く気はないそうです。ただ少数の視察団を作り、自分がそのまとめ役となるだけだと。……近所に散歩に行くということでしたら、それでもいいかもしれませんが、目的地はどのように変貌したかもわからないクウィヴィエーネンですよ。こんなことを言い出されて、怒らずにいられますか! なのに、あの方ときたら……!」
だんだん声が大きく、強くなってゆく。腹立ちのあまりじっとしていられなくなったのか、苛々と歩き回りだした。
「本当はわたくしにもついてきてもらいたかったのだが、わたくしが強固に反対するものだからそれもできない、旅の間、ずっと文句を言われるのが目に見えているから。ああ、わたくしさえねちねちと反対しなければわたくしたちはなかなか面白い旅ができたかもしれないのに、ときたのですよ!」
「あー……それは……」
答えに困るとスランドゥイルの顔がこわばる。しかし同時に、さすがは父だけあって上手いものだと思った。こんな風に言われたら、忠義心に篤いタルランクは折れざるをえないだろう。
「それで結局、父もそなたも行くことになったわけだな?」
そうとしか思えない。指摘すると、憤然としながらもタルランクは頷いた。
「左様でございますよ。ただでさえ少人数なのです。残されてやきもきしながら帰りを待つくらいでしたら、まだわたくしの目の届く範囲にいてくださった方がましです」
「そなたも苦労するな」
腹を立てながらもきっぱりと言い切るのがタルランクらしい。しかし気づいているのだろうか、オロフェアはやんわりと道中に文句を言うことも封じていることを。
問うと、タルランクは疲れ切ったように肩を落とした。
「もちろん気がついておりますとも。わたくしとて長年シンダール公子に仕えている身、己の本分くらいわきまえております。気の抜けぬ道中に主の精神を乱し、結果危難を呼ぶ事態に陥るなど愚の骨頂。旅の間はわたくしは一言たりとも不満を申し上げるつもりはありません」
タルランクのこういうところをシリンデも見習ってほしい、とスランドゥイルは思った。シリンデは主をからかって遊ぶ癖がある。頼りにしているし、信頼もしているが、そこのところはどうしても直してくれない。困ったものだ、と思っていると、タルランクは獲物にとびかかる直前の獣のような目つきに変わった。
「旅の間は申し上げませんが、旅に出るまではわたくしがどれほどこの事態を憂慮し、どれほどオロフェア様の身を案じているのか、うんざりするほどわかっていただこうと思っております。実を申しますと、若君がいらっしゃった時にも、オロフェア様が戻っていらしたのだと思ったのです」
ということは、父は戻ってきたらタルランクに文句責めにされるのか、と少々気の毒に思った。しかしオロフェアのことだ、こうなることくらい予想できなかったはずはない。そして彼が馬を見に外へ出たということは、そのまま遠乗りにでも出かけてしばらく帰ってこないつもりなのかもしれないと思い当たった。エレナが一緒ならば、危険な場所まで行くこともないだろうし、その間、タルランクからは解放される。馬の能力も見極められるし良い気分転換にもなるだろう。いいことずくめだ。
ちらりと父の副官を見やる。なんだか自分も馬に乗りたくなってきた。どうせなら誘ってくれたら良かったのに、と一人で出かけた父に不満を覚える。
今からでも追ってみるかと、スランドゥイルは腰をあげた。
「話はわかった。そなたの憤りはもっともだ。あとで好きなだけ父に苦言を呈すといい。ところで私も馬を見に行こうかと思うのだが、そなたも行くか? ここで待っていても気は静まらんだろう?」
タルランクは寂しげに頭を振った。
「しばらくついてくるなと命令を受けておりますので」
周到なことだ、とオロフェアの手際の良さに感心する。少々彼が気の毒に思えてきたので、スランドゥイルは抜け道を作ってみることにした。
「別に父の後を追うわけじゃない、私と共に気分転換に外出するだけだ。たまたま会ったとしても偶然だ。第一ここはエレナとシルヴァンたちの森であって、父のものではない。動き回るななどとは言えぬだろう」
平然と返すと、タルランクは苦笑する。
「お気遣いありがとうございます。ですがやはりやめておきましょう」
「だが……」
「ご案じめされますな。自分で言うほど怒ってはおりませんよ。若君にも話を聞いていただけたことですし。わたくしはただ、今度の旅路はどれほど過酷になってもおかしくはないと思っていることを、オロフェア様にわかっていただければそれで良いのです」
「……やはり厳しいものになりそうなのか?」
少人数での行動と聞いている。それだけでも心細くなりそうだが、タルランクが案じているのはそれだけではなさそうだった。
「それはそうです」
タルランクは瞳を曇らせる。先ほどまでの覇気も消え、不安げな面持ちになった。彼は根っからの武人だ。このような様子を見せることは珍しい。
タルランクは窓辺に寄った。白い光が照らすも、目の輝きは戻らなかった。彼は遠くを眺めながらつぶやくように語りだす。
「モルゴスが滅びようと、我らの敵が完全にいなくなったわけではありません。いつ何時、悪しき心を持ったものに出くわすか……。それにクウィヴィエーネンまでの道筋も定かではない。わたくしはかの地からドリアスへ向かったエルフの一人ではありますが、長い年月の間にずいぶんと環境は変わってしまったようです。戻るといっても見覚えのあるものがあまりない。さすがにエレド・ルインやヒサイグリア、アンドゥインなどはすぐにわかりましたが」
言葉を切って、重苦しく息を吐く。
「道がわからないのです。記憶は頼りにならないでしょう。持ってゆける荷は限られている。……わたくしたちエルフは他のどの生き物に比べても頑健といえるでしょうが、それでも何日もの間、何も口にしなくていいというわけではありませんからね。ましてや目的地は大きな変動があったとも伝えられている。何事もなくたどりつけるなどとは思えません」
タルランクは目を閉じた。
「そしてたどりついた先で、何を見るのか……。そこにあるのは古の楽園か、それとも……」
タルランクの悲観に満ちた声に、部屋の中が薄暗くなったような錯覚に陥る。雰囲気に飲み込まれないようにとスランドゥイルはわざと明るく混ぜ返した。
「悪いことしか思いつかないようだな」
「いいえ。善きことも悪しきことも、わたくしには何も感じられません。いっそ悪い先見が見えさえすれば、それを理由にオロフェア様に押しとどまっていただくこともできたのでしょうが」
「見たい時に見えるものではないというしなぁ」
若いせいもあるだろうが、スランドゥイルにはまだ未来の片鱗が見えた経験はない。能力に差こそあれ、エルフならば誰にでも起こるらしいが、体感したことがないので今ひとつピンとこなかった。
「そうなのですよ。まったく、不便なものです」
スランドゥイルは考え込む。黙り込んだことで不振に思ったのか、タルランクが呼びかけてきた。
「若君?」
「……なあ」
「どうかなさいましたか?」
生真面目な臣下の顔に戻ったタルランクは凪いだ水面のような様子に戻った。先ほどまで見せていた苛立ちや不安定さは微塵もなくなっている。
「エレナに、私自身を鍛えるために過酷な環境に身をおくことも一つの方法だと言われた。もしも私が――」
「その先はおっしゃらないでください」
ぴしゃりとはねつけられてスランドゥイルはひるんだ。
「困った姫君ですね。若君をたきつけるなどと……。たとえシリンデも共に来るとしても、ごめんこうむります。……万が一、わたくしたちが戻ってこない時には、あなたに皆を治めていただかないといけないのですから」
「やはりそうなのか……」
戻れないかもしれない覚悟をタルランクはしていた。ならば自分も戻ってこない時のことを覚悟しておかなければ。
「そういうことなら、父ではなく私が行くべきではないかと思うが。万が一を憂うなら、無くしても惜しくない方が動くべきだ」
「若君……! それ以上言ったら怒りますよ。あなたは無くしても惜しくない方では……!」
「比例しての話だ。私は未熟だ。そして民は私よりも父の方を頼りとしている。そして旅に出るのは小数だ。切り捨てることになるかもしれないなら、その中に父を入れるのはまずい。そうじゃないか」
タルランクの顔が険しくなる。
「姫君はあなたに何を言ったのですか。さあ詳しくおっしゃってください。厳重に抗議しなければ」
落ち着け、とスランドゥイルは軽く手をあげた。
「エレナはおかしなことを言っていない。ただ、私が強くなりたいと望んでいることに気がついて、一例として方法をあげただけだ。それが手っ取り早くできるというのならそれに越したことはないしな。待て、タルランク」
口を開きかけたタルランクをスランドゥイルは制した。
「しかし、よく考えてみたが、それは私が望んでいる方法ではない」
「と、おっしゃいますと?」
タルランクは怪訝そうな顔になる。
スランドゥイルは腕を組んでゆっくりと歩き出した。
「強くはなりたいが、闇雲に壁にぶち当たり、乗り越えたとしてもそれは私が求める強さではないように思う。……そうだな、度胸はつくかもしれないが、そういったものがほしいのならば、他にも得る方法はあるだろう。こういう言い方もなんだが、それは効率が悪い、と思う」
「……つまり?」
タルランクは首を傾げた。
「一箇所に腰を据えて、これぞと思う師匠に師事するのが一番ではないか? 効率は二の次だ。付け焼刃の強さなど、肝心な時には役立ちそうにもない。そんなものにこだわるべきではないだろう。私は民に末永く、できうることならば永久の平和を与えたいんだ。ここは西方の至福の地ではないが、そこでなければ不可能だ、などとは思いたくはない」
「それは、そのとおりだと、思います」
驚いたような、心配そうな、だがどこか嬉しげなものをない交ぜにさせながら、タルランクは答えた。よほど予想外なことを言われたのか、少々口調が怪しくなっている。が、すぐに気を取り直したのか、安堵交じりの落ち着いた笑みを浮かべた。
「若君ががむしゃらに鍛錬をしていることを、シリンデがひどく案じておりました。身も心も休めることを拒絶しているようだと。ですが、この森に来て以来だんだんお変わりになりましたね」
スランドゥイルは皮肉交じりの笑みを浮かべて腰に手をあてた。
「変わらずにいられるか。まったく、ここときたらシンダールの流儀がほとんど通用しないんだからな。まあ、だが、かえってそれが良かったのだろう」
声をあげてタルランクは笑った。
「あんなに苦手に思っていらっしゃったのが嘘のようですね。ですが、良い変化だと思いますよ。ところで師匠というのは、サンディオンのことですか?」
笑われたことでいささかむっとしたものの、変に反応するのも子供じみていると堪える。
「そうだな。弓や森での戦い方などはやはり彼だろう。しかし私としてはエレナの師事を受けたいと思っている。直接的な強さはないのかもしれないが、なんというか彼女は色々面白いやり方を知っていそうだから」
「それはまた、懐いたものですね」
にやりとするタルランクに、スランドゥイルは鼻を鳴らした。
「懐いたぞ。彼女のことは好きだ」
文句あるかと胸をそらす。苦笑しながら数度首を振りながら、タルランクはからかって悪かったと謝った。
「何を教え込まれるのかと思うと少々心配ですが、それもまた一興というところでしょうか。これならばわたくしどもが戻ってこなくても大丈夫そうですね」
「何をいうか。私はそなたの師事も受けるつもりでいるのだから、帰ってきてもらわなければ困る」
「わたくし、ですか」
タルランクは戸惑う。スランドゥイルは畳み掛けた。
「そうだ。この森では剣を使うものがほとんどいないらしいんだ。私は今はシリンデに鍛えてもらっているが、そなたはシリンデよりも強いだろう。私がシリンデを負かせるようになったら、今度はタルランクを負かせるようになるまでそなたに挑むつもりだからな。だから……」
言葉を切ってじっと見つめる。
「必ず帰って来い。全員だ。誰一人欠けることは許さん」
タルランクは息を呑む。一瞬後、彼は胸に手を当てて一礼をした。
「承知いたしました。わが力が及ぶ限り、手を尽くすと誓いましょう」
顔をあげてタルランクは不適に笑った。
「そして帰ってきたら徹底的に鍛えてさしあげましょう。わたくしに勝つなど千年早いのだと思い知らせてさしあげます」
スランドゥイルは片目をつぶって挑発を受けた。
「楽しみにしている」
あとがきは反転で。
エルフの先見能力って、誰にでもあるものだっけ……?
まあ、タルランク、シリンデあたりは上位貴族くらいのランクで能力は低くない(という設定)だからあってもおかしくはないことにしておいてください。
前へ 目次 次へ