「――それほど難しい話ではないはずだ。とにかく何があろうと一人でどうにかしようと抱えこむことはない。困ったら姉上やシリンデに相談するんだ」
軽く両手を組みながら、穏やかな表情でオロフェアは諭した。スランドゥイルの斜め横に立つシリンデも、そっと励ますような微笑を浮かべている。
ユールから二月ほど経った。来月には目覚めの湖に出発すると父親に告げられて、スランドゥイルは彼に民をまとめるための心得を習うことにした。
オロフェアはふと考え込むように目線をあげたが、すぐに元に戻す。
「今のところ、みなは落ち着いているようだし、特に何か起こるとも思えないなぁ。あまり気負わないことだよ、スランドゥイル。私など、さして深く考えたことはなかったけれど、それでも何とかなっているのだから」
なあ、とオロフェアは面白げな笑みを浮かべ、傍らに立つ副官を見上げた。タルランクは軽く眉間にしわを寄せ、真顔でスランドゥイルの方を向いて「その通りです」と断言した。
フォローをしないあたり、まだオロフェアに言い負かされたことを恨んでいるのだろうかと思ったが、父の方では少しも気にしていないようなので、スランドゥイルは黙ることにした。長いつきあいがあるだけに、傍目からはわからないこともあるのだろう。
オロフェアはひとしきり押さえた声で笑うと、口元を引き締めた。
「まあ、ちょっと気にかかることがあるとすれば――」
最後まで言い終わらないうちに、扉が大きく開け放たれ、エレナカレンが飛び込んできた。
「オロフェア、入るぞ」
オロフェアは「ば」の形になったままの口をかくんと閉じると、困ったように眉尻を下げる。
「姉上、入るぞと言うのは部屋に入る前に言わなければ意味がないと思うのですが」
「細かいことを言うでないよ。聞かれて困る話でもしていたというの?」
腰に手をあて、エレナはふんぞり返る。
「そんなことはありませんが」
「なら良かろうに」
オロフェアは小さくためいきをつくと、苦笑した。
「それで姉上、何かご用でしょうか? わたくしは息子に訓辞を垂れるという父親らしい重要な役目を果たしているところだったのですが」
「たいして実のある内容とは言えませんけれどね」
スランドゥイルが思わず口を挟むと、エレナは詳しく聞きたがった。なので脚色することなく話して聞かせると、彼女は盛大ににやにやと笑った。オロフェアはというと、むっとするかと思えば一緒になって笑っている。それどころか姉に向かって、
「そういうことですので、息子の補佐をよろしくお願いしますね、姉上。それから、慣れないことで色々迷惑をかけることもあるでしょうが、どうぞご容赦くださいますように」
「わかっておるよ。安心おし。そなたはそなたのするべきことに邁進するのだよ」
自分の頭越しに話が進むのを眺めていたスランドゥイルは、肘をついて話題が変わるのを待った。エレナとオロフェアは真面目なのかふざけているのかよくわからないようなやりとりをしていたが、ややあってエレナはぽんと手を打ち合わせる。
「おお、すっかり用事を忘れるところだった。オロフェア、探索行に行く面子はもう決まっておるの?」
「ええ。私とタルランクを含めて二十四人です」
「ではその者ら、今日明日中にでもわたくしのところへ来るようにしておいで。わたくしは忙しいので部屋にはいないことが多いだろうが、グラシエルかグラジエルのどちらかはいるようにしているから」
「何のためにです?」
オロフェアは首を傾げる。
「何って、旅装束を用意しないと。まさかドリアスから持ってきた衣類だけで済ませるつもりではなかろう? せっかくの上等の布をわざわざ旅路の間に駄目にしてしまうこともあるまいに」
「あ……」
オロフェアは思いつかなかったと小さく口を開ける。エレナは満足そうな笑みを浮かべた。
「ようやく必要十分になるくらいの布が織りあがったから、これから仕立てに入るのだよ。だが寸法がわからなければ仕立てようがないからね。わが森の織物はドリアスのものほど上等だとはいえないけれど、丈夫さには引けを取るまいよ」
「ありがとうございます、姉上。早速随員たちに知らせましょう。タルランク」
主の呼びかけにタルランクは軽く一礼をすると、用件を果たすために部屋から出ていこうとした。しかし彼が歩きだそうとするより早く、エレナが制止をかける。
「タルランク、行くのならばわたくしの部屋に。そなたの寸法も計らなくてはならないもの。知らせを届けるのはシリンデに任せておきなさい」
一瞬たたらを踏んで、タルランクは足を止めた。
「承知致しました、姫君」
続いてシリンデが静かに動く。
「では、わたくしは失礼をさせていただきます」
シリンデが出て行くのと同時にオロフェアが立ちあがる。自分も寸法を計ってくるというのでスランドゥイルも席を立った。せっかく訓辞を聞かせてもらっている最中だったのに――内容が薄いのはまだ始めたばかりでこれから深くなるはずだと思っている――一人取り残されてはたまったものではなかった。それにエレナと顔を会わせるのも実は久しぶりだった。忙しいという彼女の台詞は真実で、ここのところ屋敷内で出会うことも少なくなっていたのだ。
「ところでエレナ、布を織っていたとおっしゃいましたが、どこに機織り部屋があるのですか?」
屋敷の中はくまなく見て回ったはずだが、機織り機を見た記憶はない。
先を歩いていたエレナは振り返って答えた。
「屋敷の中にあるのではないのだよ。あちらの、集落から外れたところに機織りや仕立てをするための専用の建物があってね。寸法を計るのも普段はそっちでやっているのだけど、今はちょっと材料がたくさん置いてあってごちゃごちゃしているものだから」
と彼女は南の方を指さしながら言った。
エレナの話ではその建物は森の民が共有で使うものであり、エレナ専用の織り機を除いては誰でも使いたい時に使って良いものなのだそうだ。そうはいっても機織りなどは女性の仕事なので男が入ってくることは滅多にないそうだが。
「ではエレナも当面はそちらにいるのですね」
仕事の重要性はわかるがあまりにも彼女と会えないのはつまらない。たまに差し入れでも持っていって話をする機会を作ろうかとスランドゥイルは考えた。しかしエレナの返答は歯切れの悪いものだった。
「うーむ。どうであろうね。レンバス作りもしなくてはいけないから、どっちにいるかはその時にならないとわからないよ。レンバスは屋敷で作るから、まあわたくしに用がある時にはまずは屋敷の台盤所に来るといいよ」
いなければ機織り小屋だと彼女は言った。
「姉上はレンバスが作れたのですか!」
オロフェアが驚きのあまりに大きな声を出す。
「レンバス……? ああ、行糧でしたか?」
聞き慣れない言葉だったが記憶を頼りにそれがどのようなものだったかを思い出す。
レンバスは葉の形をした薄い焼き菓子で、一つ食べるだけで一日中歩くことができるほど力の付くものだった。これはドリアスでは王妃のみが与えることができるものだとされていたのだが、外界に出る機会のなかった自分にはまったく縁のないものだったので、名前を思い出せただけでも上出来だろう。
そんな風に考えていると、エレナの足が止まっていることに気がついた。眼を細めて不機嫌そうにオロフェアを見つめている。
「わたくしがレンバスを作れるのはおかしいか?」
「いえ、そんなことは。ただちょっと想像がつかなかったもので」
しどろもどろとなる弟に、姉はわざとらしい大きなため息をつく。
「わたくしも見くびられたものだね。わたくしとてこの森行く末を預けられた身。変則的だろうがなんだろうが、引き継ぐべきものくらいは引き継いでおるよ」
すみませんと冷や汗混じりにオロフェアは謝る。
「エレナ、レンバスというものはとても美味だと聞いたことがあるのですが、本当ですか?」
父への助け船というわけではないが、思い出したら興味がわいてきたのでせっかくだからとスランドゥイルは尋ねてみた。
エレナはちょっと考え込む素振りを見せてから小首を傾げた。
「そう思うよ。といっても普段から食べるものではないし、食する時にはせっぱ詰まっているだろうから、余計においしく感じるということもあるとは思うけれどね。スランドゥイルは食べたことはないの?」
「ええ。これまで旅などしたことはありませんでしたから」
「ああ、そうか。そうだろうなあ。ドリアスを出る時にはそれどころではなかったろうしな」
合点がいったとエレナは頷く。
「……ええ」
あの時には、偉大なる王妃メリアンはすでに西へ帰り、シンゴルの後を継いだディオルの妃たるニムロスはノルドールの手によって殺されたのだ。自分達だけではない。故国の滅亡によって散り散りになったシンダールたちは、どのような祝福もないまま住み慣れた地を離れることになったのだ。
エレナの部屋に入ると、グラジエルが待機していた。左に編み込みがあるのでそれとわかる。エレナはオロフェアとタルランクを控えの間に追いやると、寸法を計るようにグラジエルに命じた。
その間、自分と話でもしようと、エレナはスランドゥイルに椅子を勧める。椅子はエルフが一人立てるくらいの隙間を開けて配置されていたのだが、彼女は身を乗り出してスランドゥイルを招き寄せた。
一体何だと座ったまま彼も身体を寄せる。エレナはスランドゥイルの耳に手を当て、低い声で囁いた。
「あとで時間がある時にでもわたくしのところへおいで。本当はあまり良くないのだけど、レンバスを味見させてあげるから」
「良くないのに?」
やはり低い声でスランドゥイルは混ぜ返す。互いの顔が近いので、エレナの緑色の眼をのぞき込むような形になっった。彼女はその眼を面白そうに細める。濃い色合いが初夏の旺盛に茂る葉を思い起こさせた。
「オロフェアらは旅の途中でいつかは食すことになろうけれど、そなたはここに残るわけだからね。それに、実を言えば少々失敗してしまったものがあるのだよ。焼いている間に割れてしまったりしたものがね。こういうものは保ちが悪いからこちらで処分しなくてはならないんだ。だからあまり気にすることはないよ」
「なるほど」
そういうことならば遠慮はいらないかと、スランドゥイルは素直に招待に応じた。
「もしやエレナ、今回初めてレンバスを作ったのですか?」
「いいや、どうして?」
スランドゥイルに問われると、エレナは不思議そうに目を見開き、きょとんとする。
「失敗したのは慣れていないせいかと」
エレナは拳を握って彼をぶつ真似をした。至近距離だったので、スランドゥイルは反射的に仰け反る。
「作り方の詳細を知っておればそんな無礼な口など利けまいに。わたくしはつい最近にも作ったばかりだ。どんな名人だとて多少の失敗はつきものぞ」
「それは失礼をいたしました」
エレナは頬を膨らませる。子供染みた仕草だったが案外似合うなとそっと思った。
彼女は一つ息を吐くと、気だるげに髪をかきあげる。
「まったくね。こんな短期間に続けざまに作ることになるとは思っていなかったよ。前回よりは少なくて済むとはいえ、こう度々旅路を見送る立場になるというのはやるせないものだ。もっともこれまでは見送るだけだったが、今回は出迎える役目もできそうなのがまだましというところか」
エレナの愚痴の意味が理解できなかったので、スランドゥイルは眉を寄せた。話が通じていないことに気がついたエレナはほら、と手をひらりと動かす。
「エオンウェ様の知らせで森の住民が大勢出ていったばかりだから。まさか糧食も持たせずに行かせることはできなかろう?」
「あ、ああ。そのことでしたか」
自分たちの仲間もその件で半数近くが別々の道を行くことになったので忘れたわけではなかったが、出ていったという森の住民たちとは入れ違いのようになっていたので、今いるシルヴァンたちが全てだとなんとなく思うようになっていた。西へと向かった住人たちがいたからこそ、大勢で押し掛ける形になった自分たちが住む場所に困らなかったというのに。そうでなければ落ち着くまでに随分時間が必要だったことだろうと彼は思い当たった。
マンウェの伝令から知らせを受けてから太陽が一巡するほどの時間が過ぎた。別れた同胞たちは、新たな道を求めた森の民たちはどうなったのだろう。今頃どこにいるのだろうか。もう海を越え、西の果てにある浄福の地へ辿りついたのだろうか。
「みな息災であれば良いのだがな」
エレナが呟く。スランドゥイルも頷いた。
それからさほど日をおかず、スランドゥイルは台盤所を訪ねた。もちろん事前にエレナがレンバス作りをするためにそちらにいることを確認してからである。
甥の姿を認めた彼女は朗らかに微笑むと、その辺の椅子に座って待っていろと告げた。
台盤所は石を敷き詰めた床でできており、そこに大きな木の作業台と雑多な道具が置かれている戸棚、それに石を組み合わせていると思しき竈が壁に面して配置してある。屋敷の大きさ――及び住人の数――から考えれば随分と広い場所だったが、宴の時に出す料理なども主にここで作られるということだった。
エレナは手伝いの娘たちと共に楽しげにたち働いている。髪が肩に落ちないように結い上げて、こざっぱりしたドレスを着ていた。
しばらく彼女たちが作業をしているところを眺めていたが、一段落ついたらしく、エレナ自ら飲み物を作ると、ざっくりとした蔦で編まれた籠を持ってスランドゥイルの向かいに座った。
「待たせたね。さ、食べてご覧」
ずい、と籠を突き出す。失敗したものというだけあって、十数枚ほどはあるかと思われるレンバスは全部割れていた。
飲み物で口中を湿してから、スランドゥイルは徐に摘む。一口かじると、軽い食感と共にほんのりとした甘さが舌の上に広がった。
「……うまい」
呆然と呟くと、エレナはおかしそうにころころと笑う。
「であろう?」
スランドゥイルはもう一口かじった。焼き菓子ならばこれまで色々な種類のものを食べたことがある。しかしレンバスはこれまで食べたどんなものとも違っていた。
「これを食べるためだけでも旅に出る価値はあると思えます」
正直な気持ちを告げると、エレナはおどけるように眉をあげた。
「おやおや。ならばそなたも出発準備をしなくてはね。……まあ、そんなわけにもいかないのはわかっておるけど。そなたにまで去られたらシンダールたちが困ってしまうだろうよ」
エレナはもう一つ摘もうとするスランドゥイルの手をそっと押さえた。
「その辺でやめておおき。これ以上食べると夕餉が入らなくなるよ。そうでなくとも腹持ちがするものだからね」
残念に思ったが、レンバスはそういうものだということを知っているので、スランドゥイルは素直に従った。
「普通の焼き菓子のように食べられたらいいのに。残念なことだ」
エレナは困ったように笑う。
「子供のようなことを言うね。普段から食せるものといざという時の命綱になるものが一緒ではありがたみがなくなるだろうに」
スランドゥイルは赤くなった。子供のようだと笑われたことが恥ずかしくなったのだ。エレナから見れば子供のようどころか十分子供なのだろうが、自分からそのような振る舞いをしてはますます子供扱いをされてしまう。慎まなくては。
「クウィヴィエーネンはどのように変わっているのでしょうね」
さっきの台詞を忘れてほしくて、スランドゥイルは話題を変えた。エレナはいつまでも引きずるつもりはないらしく、さあのう、と小首を傾げる。
「なにしろわたくしも幼少の頃に離れたきりだからねぇ。何も起こっていなくとも多少は変化しただろうに、明らかに何かが起こったのだと聞かされてはね。想像もできないよ」
「もしもその変化が思っていたよりも小さくて、住むに適した地であれば、戻りたいと思いますか?」
エレナは両手を組んでそこに顎を載せる。そして鼻の際にしわを寄せた。顔は笑っているのだが、威嚇されているようにも見える。
「気が向いたら遊びには行くかもね」
つまり戻るつもりはないということだ。
そんな気はしていたとスランドゥイルが内心で呟いていると、エレナははっとした顔になり、やおらくすくすと笑った。
「エレナ?」
「ちょっと思い出したのだよ。わたくしが旅をしていた時に、つまりクウィヴィエーネンから離れてからしばらくは、帰りたくて帰りたくてたまらなかったのだということをね。すっかり忘れていた。緑森に住むようになって久しいから、自分がこの地で生まれたような気になっていたよ」
「それは……。あなたは本当にここを愛しているのですね」
「無論だとも。それこそこの辺り一帯が海の底にでも沈まない限り、わたくしがここを離れることはないだろうね」
莞爾と微笑むエレナに、スランドゥイルはわずかに胸が痛くなる。
彼女と共にいたい。
しかしクウィヴィエーネンが健在で、父がそこに移住すると決めたのならば、息子として出来うる限り協力をしたかった。だが、そうなった場合には、エレナとは離ればなれになるだろう。
いや、行き先がクウィヴィイエーネンでなくとも、父が別の地へ行きたいと望むのならば同じだ。
自分はどちらかを選ばなくてはならない。
だが、どっちを?
「スランドゥイル?」
黙り込んだ甥を不振に思ったのか、エレナが顔を覗き込んできた。
「なんでもありません」
曖昧な笑みを浮かべて、スランドゥイルは誤魔化す。
(急ぐことなどないさ。まだ当面のところ、私はここにいるのだから……)
思い当たった問題を先送りにしただけだという自覚はあったが、クウィヴィエーネンの在りようも定かではないので、それ以上はまだ考えないことにした。