とうとう別れの日がやってきてしまった。
覚悟はできていたはずなのに、いざとなるとあれもこれもまだ話し足りないような気がしてきてしまう。喉の奥が締め付けられるような寂しさがスランドゥイルを悩ませていた。
中央の広場には馬たちがすでに待機していた。背には荷をくくられている。そして用意の整った随員たちは別れを告げようと集まった友人や知人たちに取り囲まれていた。
スランドゥイルはそれを離れたところから眺めていた。彼らとの挨拶は昨日のうちに済ませている。エレナカレンの発案で昨夜の晩餐は彼らを招いてのものとなったからだ。全員参加の宴ではなかったのは、うっかり飲み過ぎて二日酔いになられると困るからだという理由からだ。このような場合に宴を行えば、随員たちは次から次へと酒を注がれることになるだろうからというのが彼女の言い分だった。その状況がはっきりと思い浮かべられたので、スランドゥイルも同意した。宴をするなら帰ってきた時にすれば良い。そうすれば心おきなく酔いつぶれることができるだろう。
(もっとも、全員が無事に戻ってくればの話だがな)
これから先はどのような困難が待ち受けているかわからない。自分にできることは、ただ祈ることだけだ。
広場にはシンダール、シルヴァンを問わず大勢が集まってきており、ざわめきが波のように大きくなり、小さくなりしながら、途切れることなく続いてきた。そのざわめきが一瞬、ごく弱くなったかと思うと、わっと一気に盛り上がった。スランドゥイルは声の向けられた方へ視線を転じる。父だ。
オロフェアは隣にエレナを、すぐ後ろにタルランクを従えて少しも気負っていない様子で館から出てきたところだった。彼が身につけているのは森のエルフたちが作った衣で緑と茶が主体であり、この森の風景にとけ込みそうな色合いのものだった。マントは灰色がかった緑。それを木の実を象ったピンで留めている。随員たちも着ているものはほとんど同じだ。
森のエルフと変わりのない衣装をまとっていると、シンダールもシルヴァンとさほど区別がつかないのだとスランドゥイルは発見した。ただ、口を開けばすぐに見分けはつくだろう。森エルフと灰色エルフとでは発音が異なり、まれにではあるが、聞き取れない場合もあるのだ。最近では森エルフの発音には慣れたので、まったくわからないということはないのだが。
他にオロフェアの装いで目を引くのは、髪を高い位置で一つにまとめていることだ。柔和な顔立ちが引き締まり、きりりとした印象が強くなる。彼は頭が痛くなるからとあまり髪を結うことをしないのだが、そのために彼がこの旅にかける意気込みが伝わるというものだ。
ふと気がつくと傍らにシリンデが立ち控えていた。
「ご苦労だったな。全部終わったか」
シリンデはオロフェアとタルランクの手伝いをしていたのだ。副官は頷く。
「はい、すべて滞りなく」
シリンデは一瞬笑みを浮かべたが、それにはどこか寂しげなものが混じっていた。
「お別れの挨拶をなさらないのですか?」
問われてスランドゥイルは父の様子を見やった。
オロフェアは大勢のシンダール、シルヴァンの両エルフたちから激励や無事を祈る言葉をかけられていた。それに微笑むことで返答としている。
「行くか」
スランドゥイルは無造作に歩きだした。シリンデも無言でついてくる。
彼らが人垣に近付くと、自然に道が作られ、混雑に煩わされることなくオロフェアたちの側に行くことができた。
「すごい人数だ。こんなに大勢が私たちのことを気にかけてくれるとは、嬉しいことだね」
息子の姿を認めると、オロフェアはにこやかに話しかけてきた。先のことを憂いている様子はかけらも見あたらない。
「本当にね。まさかここまで集まるとはのう。出発式は公式の行事ではないので知らせなども特にしていなかったというのに」
エレナは眉をあげて大袈裟に驚いている様子を示した。
「シンダールたちは父上の民なのですから気になる気持ちはわかりますが、シルヴァンたちまでこうも大勢集まるとはと、私も驚いているのですよ。もっとも、いつもと違うことがあるというのでとりあえず参加してみただけなのかもしれませんが」
スランドゥイルが冗談混じりで言うと、エレナがそれに便乗する。
「それはありえるのぅ。娯楽の種類は限られているからね」
オロフェアは笑った。
「それでも構いませんよ。きっかけが何であれ、私達のことを気にかけてくれることには変わりはないのだから」
エレナとオロフェアの表情は晴れやかだった。スランドゥイルも笑っている。だが彼は意識して笑みを浮かべていた。心配なことは数えきれないほどあるが、そのことはもう繰り返し話している。ここでさらに蒸し返して場を重苦しいものにすることは避けたかった。オロフェアとエレナもそう考えて明るく振る舞っているのだろう。
スランドゥイルは簡潔に別れの言葉を継げた。
「父上、どうぞお気をつけて。お帰りになる日をお待ちしています」
表情が緩み、湿っぽい雰囲気にならないよう腹に力を込める。
「ああ、行ってくるよ。皆を頼む。土産話を楽しみにしてくれ」
オロフェアは柔らかく微笑んだ。
広場の中央にオロファアを始めとする旅の一行が並んだ。エレナが前に進み出て旅路の無事を祈る言葉をかける。そして一人一人の額に手を当て、祝福した。
それが終わると一行は馬上の人となる。オロフェアは片手をひらめかせて行ってくると一言告げると馬首を巡らせた。ゆっくりした足並みで残りの馬たちも続く。人垣が割れ、一同を通していった。
オロフェアは振り返らなかった。彼の姿は後ろに続く随員たちの背に遮られてすぐに見えなくなる。最高尾の随員が行き過ぎると、割れた人垣が元に戻っていった。
木々の向こうに彼らが消えてしまうと、歓声は徐々に弱まってゆく。やがて祭の後のような寂寥感が広がっていった。陽気さはぎこちないものに変わり、とまどう表情を浮かべる者もでてきている。
「解散!」
物思いに沈みかけていたスランドゥイルはふいに隣で鋭い声がしたことで我に返る。
エレナは片手を腰にあて、片手をひらひらと振った。
「見送りご苦労。だが旅人たちは行ってしまった。気にかかるものも多かろうがここに集まっていても詮方なきこと。彼らの無事を祈ろう。しかしそれだけで頭をいっぱいにしてはならぬ。いつもの生活に戻ることだ。仕事を放ってここへ来た者たちも同様だぞ」
重いものに変わりかけていた空気が彼女の声とともに払拭されてゆく。
「シンダールたちも、何か困ったことがあったらいつでも我が館に来るとよい。遠慮はいらぬ」
にこりと彼女は笑んだ。それがきっかけで森の雰囲気はいつもの様子に戻っていった。
三々五々に帰ってゆく皆の顔は明るくなっている。シンダールたちだけは感謝と安堵の表情を浮かべてエレナに向かって会釈をする者が多かった。
しばらくの間、帰る民らを並んで眺めていたが、エレナがそろそろ戻るとそっと告げてきた。
彼女は目だけ動かしてそなたはどうすると問いかけてきたので自分も戻るとスランドゥイルが答えると、では行くかと彼女はきびすを返した。
「今日は何をする予定ですか」
何か話していないとまた雰囲気が暗くなりそうだったので、スランドゥイルは当たり障りのなさそうな話を振ってみる。
「そうさのぅ。昼寝でもするか」
「昼寝、ですか?」
たしかにいつもの生活に戻れと彼女は言ったばかりだが、それにしてもずいぶん気の抜けることをするものだ、とスランドゥイルは戸惑った。
「ここのところ忙しかったからな。ちょっと疲れた」
と本当に疲れた声でぼそりと呟く。
「わたくし、しばらくごろごろするので、何かあったらそなたが対応してくれ」
「エレナ……。舌の根はまだ乾いていないと思うのですが?」
シンダールたちに自分を頼れと言ったばかりではないか。
いきなり責任者としての重圧を丸投げされた形になったが、どこまで彼女が本気なのかわからない。スランドゥイルはどう反応したものかと思っていると、エレナは、
「何事も経験だ」
と言い放ち、小走りで館に戻っていってしまった。
(本気か……)
やっぱり自分も旅に出ていれば良かったかと思いながら、スランドゥイルは肩を落とした。
オロフェアが出発して二日が経った。シンダール、シルヴァン両種族のまとめ役を担うこととなったため、初日こそ肩に力が入ってしまったが、何事もなくただ時だけが過ぎていった。
思い起こせばこの森に住むようになってしばらく経つが、これという問題など起きていない。演習や宴で大騒ぎしすぎてしまったことは何度かあるが。それらの後始末をする父やエレナのやり方を見聞きする限り、極端に難しいことをしているようでもなかった。
必要なことは事実を把握すること、対処は可能な限り速やかに行うこと、だ。それに加え、何か一つに原因を押しつけない、というところか。何か一つに原因を求めることは、逆に言えば何かを贔屓していることにつながる。好きなもの、守りたいものを優遇したいと思うことを抑えることは難しいだろうが、大勢の上に立つのならば自制できなければなるまい。誰に対してだろうと、何に対してであろうと、扱いに偏りがあっては不満が生じよう。王は民があってこそ成り立つ者。誰もいない国でふんぞり返る愚行だけはするまい、とスランドゥイルは思った。
(それが難しいのは承知しているがな)
広間に向かいながら、彼は苦笑した。
この森は平和だ。無駄に力む必要はあるまい。それにせっかく良い機会を与えてもらえたのだから学べることはすべて学ぼう、と前向きにとらえていた。不慣れな自分が間違いを犯しそうになったらエレナやシリンデが諫めてくれるだろう……。
「ん?」
広間に足を踏み入れたスランドゥイルは、その場に立ち止まった。
風のよく通るこの部屋は香しい春の息吹と建材の木の香りが入り交じり、心地よい空間になっている。
その部屋の中央付近、季節がら、火の気のまったくない炉の側でエレナカレンが仰向けになっていた。
髪は扇形に広がり、弛緩した腕も同様に軽く広げられていた。張り骨などの入っていないスカートも、やはり扇形になっている。スカートの先からは柔らかそうな布地でできた靴の先が見えていた。
スランドゥイルはそっと近付き、上から見下ろした。
銀色のまつげがやや伏せられた緑色の目は焦点が合っておらず、ぼんやりと中空に向けられている。紅は塗っていないが十分に赤い唇はほんのわずか、開かれていた。そして頬はいつも以上に白く、血の気というものが見あたらない。誰かがいたずらとして大理石の彫像を横にしているような、そんな雰囲気だった。
スランドゥイルは傍らに膝をついた。
そして顔を寄せ、
「こんなところで寝るな、エレナ」
と呟いた。
「……む?」
ややあって、まぶたがピクリと動き、エレナは呻いた。目に光が戻る。その中には彼女をのぞき込む自分の姿が小さく映っていた。
「スランドゥイルか」
彼女は気だるげに髪をかきあげる。
「夢の小道へ行かれるのならば、部屋へ行かれては? こんなところでひっくりかえっていて、うっかり踏まれたらどうするんです」
「わたくしが自分の屋敷内のどこで寝転がっていようとわたくしの勝手だ」
先ほどよりははっきりした口調でエレナは言い返す。しかし起きる気はないらしく、それ以上の動きはない。
「だらしないですよ」
「やかましいのぅ。急ぎの用などないのだから放っておいてくれ。それより暇ならそなたも一緒にどうだ?」
エレナは片腕を持ち上げて、自分の隣の空間を投げやりな感じで叩いた。隣に来て寝転がれということなのだろう。
スランドゥイルは額を押さえる。頭痛がしそうだった。
「特に眠りたいという感じはありませんので結構です。それよりもエレナ、自分で歩きたくないというのでしたら、私が運んで差し上げますが?」
目を閉じたエレナは囁くような声で言った。
「いらぬよ。それに、今わたくしが戻ったら迷惑になる」
「迷惑?」
「グラジエルとグラシエルが春の大掃除をしたがっているようだったから」
だから遠慮して自室から逃げ出したということか。そういうことなら先に言ってくれとスランドゥイルが思っていると、エレナはふいに目を開いた。
「順に回っていくだろうから、数日中にそなたの部屋にも行くだろう。そうしたら彼女たちを煩わさないようにさっさと出て適当なところで時間をつぶすのだよ。わたくしたちはあの子たちの主だけれど、あの子たちにはあの子たちの仕事がある。その仕事を十分に行ってもらうためにはそれができるだけの環境を整えないと」
「言いたいことはわかりますが……」
その結果が広間でごろ寝、というのも何か違うような気がする。
「細かいことは気にするな」
「勝手に心を読まないでください」
エレナは肩肘をついて身体を起こし、にやりと笑う。
「読むまでもないよ」
三日後も四日後も似たようなものだった。張り切っていた自分がいささか滑稽に思えてくる。
どうすれば状況に変化をつけられるのかとぼんやり思いながらスランドゥイルは窓辺に近づいた。
窓枠に手を置いて外を眺めれば、空は穏やかに青く晴れ上がり、めっきり暖かくなったために緑の濃くなった枝葉が微風にそよいでいる。
鳥のさえずりは耳に心地よく、目を閉じて聞き入っていると、不協和音のように地を叩く音が遠くから入り混じってきた。
「?」
思わず顔をしかめてしまう。音の聞こえる方に目を転じるが、距離があるようで音源らしいものは見あたらない。
しかしその音は徐々に大きくなってきているようだった。いつにないことだったので耳を澄ましてその音に集中すると、すぐに正体に見当がつく。複数の馬が駆けている蹄の音だ。大勢の馬がこちらに向かってきているのだろう。
しばらくすると、木々の間から馬が姿を現す。踏み固められただけの通りを駆け抜ける数十頭の馬たちは背にそれぞれエルフを乗せていた。着ているものをから警備隊たちだと見当をつける。彼らが馬で移動するのは珍しい。
警備隊たちは真っ直ぐにエレナの屋敷にやってくるとその前で馬を止めたようだった。館の入り口はスランドゥイルの部屋からは見えない。何が起きているのかも知りたいのでエレナのところに行こうと彼は部屋から出ていった。
館は元々エレナが使っていた部分とオロフェアたちが住むための増築部を広間でつなげるような形になっている。ために出入り口に行くにもエレナの部屋に向かうにも、スランドゥイルは広間を通らなければならなかった。特にエレナの部屋は旧館の奥近くにあるため、直進距離としてはたいしたことはないのだが、実際には大回りをしなければならないような造りになっていた。いつもはそれが面倒だと思っていたが、今日は違った。エレナはどうやら広間にいたようで、スランドゥイルがそこへ入ったとほぼ同時に警備隊たちも到着したのだ。
(今日もここで昼寝をしていたのか)
何日目だ。そろそろ元に戻ってもいいだろうにと思ったが、配下が大勢いるところで説教するわけにもいかず、とりあえず後回しにした。
エレナはスランドゥイルに気がつくと、隣に座るように指で指し示す。彼が腰を下ろすと、先頭に進み出た警備隊員――マキリオンだった――が一礼をする。
「楽に」
エレナが言うと、彼らは半円を描くように散らばりながら座った。
警備隊員たちは全員武装していた。物々しい出で立ちに、重大なことが起きたのかとスランドゥイルは固唾を呑む。
「それで、どうだった?」
エレナが簡潔に尋ねる。
「何事もなく、無事に。帰り際、オロフェア様方一行と行き合いまして、姫様へのお礼の言葉を言付かって参りました。お心遣い感謝いたします、無事戻る日をどうぞ待っていてほしい、と」
「そうか」
言葉は少ない。しかし彼女は満足そうに微笑んでいた。
しかしスランドゥイルには彼らのやりとりがよくわからなかった。警備隊は交互に休みを取りながら任務を果たしている。しかし今はサンディオンの隊が見張りの任についているはずだった。いぶかしく思っていることが表情にも出たのだろう、エレナはこちらに顔を向け、説明した。
「森の途切れるところまで、マキリオンたちに行ってもらったのだよ。もしも敵がいたら排除しておくようにね。出発してそうそう、出鼻をくじかれるような事態になるのもつまらなかろうと思ってな」
「そうだったのですか……」
いつの間に、というのが正直な心境だった。たしかにこの辺り一帯はエレナの魔法で敵が侵入したらすぐわかるようになっているが、その力は森全体に及んでいるわけではない。彼女の力のすぐ外側に敵の残党が迫ってきている可能性はあるのだ。
「もともと定期的にしていたことだからね。わたくしたちの森を汚すような輩がうろついているなど、冗談ではないもの」
当然の如く言い、彼女は微笑んだ。
適当にしているようでも、やる気がなさそうに見えても、やることはやっているのだとスランドゥイルは改めて気がついた。自分もこれくらいのことを余裕でこなせるようにならねばなるまいが、そうなるのはいつのことだろう。まるで予想もつかない。
(先は、まだまだ遠いな)
はっきりわかるのは、それだけだった。
あとがきは反転で。
エルフは目を開けたまま寝るんだよね…。
人間でいうところの睡眠とは性質が違うような気はするけど。
(その間、瞬きはするのかなぁ)
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