「勝負とは……なぜ?」
気を取り直したエレナは、しかし困惑を隠そうとはせずにオロフェアに尋ねた。
オロフェアは至って真顔で答える。
「こういうことは馴れ合いで済ませていいことではないと思うのです。姉上が女王の立場に執着していないことを皆が知っているとしても」
「馴れ合いのつもりはないが。確かにわたくしは女王の地位を早く降りたいとは思っている。だが誰彼構わず位を押しつけようとは思っていない。それでは無責任だろう」
エレナは素早く反論する。オロフェアはかすかに苦笑するように眉を下げ、口角をあげた。
「わかっています。姉上なりに私を見込んでくださっていることは。それにシルヴァンたちも私たちシンダールを迎え入れてくれるだろうことも」
「なら……」
言い募ろうとした姉を制して、オロフェアは言葉を続ける。
「それでも私たちは新参です。森へ来て間がない。長く居れば良いというわけではないにしても、ぽっと出が、という思いを抱く者も出るでしょう。そうでなくとも王に近い者は何も役職がない者に比べて優遇されやすい。もちろん優遇の裏には為すべき責任というものがあるのですが」
「まあな」
エレナは頷く。
「私が王となれば、側近もシンダールで固められることになるでしょう。もちろんシルヴァンからの登用も念頭に入れてはいますが、私はここには一時的な滞在のつもりでいたので、個人的な親交を持っているシルヴァンたちが非常に少ないのです。それも、姉上が懇意にしている者たちがほとんどですから。姉上から側近を奪うわけにはいきますまい」
オロフェアは表情を陰らせ、わずかに俯いた。
「つまり、選ぶまで時間がかかるのです。私の連れてきたシンダールはシルヴァンたちに比べれば数が少ない。私への不満はすぐにシンダール全体への不満につながりましょう。一部の少数によって、森全体が乗っ取られる、そういう見方をされる可能性がある」
エレナは唇を不快気に歪め、目を細めた。
スランドゥイルは納得できないものを感じて反論する。
「いささか考えすぎなのではないですか、シルヴァンエルフたちが我らに悪意を持つなど……。ヴァンヤやノルドのように系統が違うということもなければ、過去に諍いを起こしたこともないではありませんか。確かに父上が森に残った場合、エレナと父上、どちらが王となるかは難しい問題になるとは思っていましたが」
オロフェアは頭を振って息子を見やる。
「彼らは私たちを歓迎してくれた。だがそれは一時的な客であるからと大目に見られていた部分もあるはずなのだ。だが今後はそうはいかない。姉上と勝負をすることは、誰の目から見ても私が王たる資格があるということを広く知らせるためなのだよ」
「それはつまり、勝負の結果は元からついている、形式的なものだということですか?」
スランドゥイルは首を傾げた。エレナとは一度戦って負けたことがあるが、それは彼女の手の内を知らなかったからだ。今では彼女が幻術を用い、相手を目くらませるやり方をすることを知っている。オロフェアは自分よりも要領良く動けるだろうから、直接対決になれば負けることはないだろうと思えた。そうでなくとも単純な力勝負であれば、男のオロフェアと女のエレナでは勝負になるものではない。第一、エレナは王位に執着などないのだ。だからこそ勝負という形をとった儀式的なものなのだろうかとスランドゥイルは考えたのだ。
オロフェアは薄くほほえむ。
「そのつもりでいるよ。もちろん姉上が望むのであれば本気を出して戦ってもいいけれど、流血沙汰になるのは勘弁してもらいたいな。姉上を傷つけてしまったらシルヴァンたちの心証が悪くなる」
エレナは口を挟んだ。
「悪くなるどころか、算奪だと思われるぞ。面倒なことをせずとも、皆を集めて戴冠式でもすればそれで済むだろう……と思っていたが」
彼女は肩をすくめる。
「明るく気楽に生きるのを信条としているようなシルヴァンエルフであっても、妬みや嫉みを覚えないわけでもないからね。民同士での争い事だって全くないわけでもない。そうでなくとも、わたくしが女王位から機会があれば退きたがっていることは広く知れ渡っていることだ。そしてそなたは新しい国を作ることを念頭に旅をしてきたこともね。つまりこれは双方利害が一致しての、晴れての交代劇となるわけだ。だが」
エレナは冷ややかな笑みを唇に浮かべた。
「ひねくれた見方をすれば、オロフェアはわたくしの王位を重荷と感じている気持ちを利用して王の地位を奪おうとしている狡猾な男で、わたくしは昔馴染みの弟に常住する意志があるのを幸いとばかりに地位を押しつけた無責任な姫というわけだな。そんな状況でシンダールとシルヴァンの間でちょっとでももめ事が起きてみろ、下手すればあっと言う間に森を二分した争いに発展しかねないぞ。シンダールは少数とはいえ、戦いにならないほど少ないわけでもないからのう」
「そんな……」
スランドゥイルは青ざめた。エレナはそんな彼をなだめるように優しい目で見つめる。
「それを防ぐために地均しが必要――。そういうことだね、オロフェア」
すぐにきろりと弟に視線を移し、確認するように固い声で彼女は言った。
「はい。二つの種族が滞りなく混ざりあって暮らせるために」
オロフェアはしっかりと頷いた。
「了解した。わたくしとしてはさっさと引退したいところだけれど、やっておいたほうが良さそうな案件だね」
――別の件もあることだし。という彼女の心の声が続けて飛んでくる。
別件とはなんだろう、とスランドゥイルはエレナに目を向けたが、彼女は素知らぬ顔でオロフェアと話を続けていた。オロフェアも特に何も気づいていないようだった。
特に深い意味もなく聞こえてしまっただけなのか、と内心首を傾げていると、ちらりとエレナがスランドゥイルを見やった。すぐにオロフェアに視線を戻したが、そうされることで彼女がわざと自分にだけ聞こえるように心の声を漏らしたことに気がつく。となるとその別件とは自分に関わることなのだろうとスランドゥイルは気づいた。
(……となると婚約のことしか考えられないよな)
彼女の口ぶりではこれも重要な問題のようではあるが、しかし個人的な事に属する婚姻が父の王位継承になんの関わりがあるのだろうか。
と、そこで気がついた。
(なるほど、それこそ見方を変えれば父は姉であるエレナから王位を奪い、彼女を息子の妻とすることでこの森での権力を一気に掌握するような形になってしまうわけだ)
未遂だが似たような事例があったことをスランドゥイルは覚えている。ベレンを追って国を脱出したルシアンがフェアノールの息子ケレゴルムとクルフィンに出会った時のことだ。二人はルシアンを騙し、ベレン探索に協力すると思わせてナルゴスロンドに連れて行き、そこで自由を奪った。そしてシンゴルにケレゴルムがルシアンを妻にすることを認めるよう迫った。シンダールの王とマイアの血を引くルシアンを娶ることで、彼ら兄弟がノルドール諸侯での勢力拡大をなせると目論んだからだ。
(エレナの場合、認可を与えることのできる両親も親族もいないからな。というよりもこの森にいる最も血が近い者といったら現時点では父上になる。うむ、これは、勘ぐろうと思えばいくらでも勘ぐれる状況だな)
エレナは王位を降りたがっている。オロフェアは王位を継いでも構わないと思っているようだ。そしてエレナとスランドゥイルは双方合意の上で婚約をした。ここにはいかなる悪意も作為も存在しない。ただ三者にとって良い方向に事態が転がっていっただけだ。しかしそれがそのまま周囲に受け取られるのかは、また別の問題なのだ。
スランドゥイルはそこまで考えを巡らせると、エレナにだけ届くように心の声を発した。
『婚約のこと、父に話しませんか。森に残るのはほぼ決定的だと思われます。これ以上は隠していてもいらぬ混乱を起こすことになると思いますが』
エレナからは言葉を濁す気配だけが帰ってくる。
『エレナ、いつまで黙っていればいいのですか』
スランドゥイルはもう一度尋ねた。エレナにも考えがあるのだろう。隠すなら隠すでも構わないが、いつまでも秘密にしておくようなことでもあるまい。実際に結婚をするのは後になろうと、オロフェアに伝えるのは今でも構わないはずだ。
答えぬエレナにスランドゥイルは焦燥を感じた。どうともこうとも言ってこないということは、もしや気が変わって婚約を解消したいと思っているのではないだろうか。
(エルフは伴侶を選ぶのに相手を見誤ることは滅多にないというが、事情があって結ばれないことはあるからな……)
自分の知らない間に何かあったのだろうか。エレナの様子に変わったところはないので、そんな可能性は少しも考えていなかった。だがもし解消するにしても、まだ公にはなっていないので、自分たちが合意してしまえばそれで終わりにすることだってできる。
そこまでスランドゥイルが考えを進めたところで、エレナがぎょっとした顔で振り返ってきた。
「どうしてそうなるのだ、この馬鹿者!」
「あ、姉上?」
いきなり息子に向かって叫びだしたエレナに、オロフェアは目を丸くする。スランドゥイルも驚いてまじまじとエレナを見つめた。
エレナははっとしたような顔になったが、すぐに「しまった……」と呟いて額に手を当てる。わけがわからないオロフェアは姉と息子を交互に見やった。
「どうしたんだ?」
オロフェアは息子に尋ねた。スランドゥイルは首を傾げながら答える。
「いえ、私にもよく……。エレナ、どうしていきなり馬鹿者と言われなければならないんですか」
心外だとスランドゥイルが抗議すると、エレナは心持ち頬を赤らめてスランドゥイルをねめつける。
『順番というものがあろう。そなたはなにに対しても急ぎすぎる。一足飛びに婚約解消では、などと考えるなど、いくらなんでもひどいではないの!』
口ではなく心の声が投げつけられるようにして届いた。
どうやらオロフェアには聞かれたくないようなので、エレナだけに届くようにスランドゥイルも心の声を飛ばす。
『でしたら理由を言ってください。どうしてまだ父に伝えてはいけないのですか』
『それは……』
エレナはまた口ごもった。
オロフェアは自分そっちのけで見つめあう姉と息子をいささか拗ねたように眺める。
「二人とも自分たちの世界に浸っていないで、私にもわかるようにしてくれないかな。あからさまにのけ者にされると、寂しいのだけど」
「あ……」
スランドゥイルは我に返って父の方に顔を動かした。たとえ口に出さなくても、自分たちの様子を見ていれば心話をしていることに気づかないはずがない。
「その……」
さて、どう言い繕おうか。スランドゥイルは頭を悩ませた。大事な話の途中で横道に逸れたのだ。それなりの理由があると父は考えているだろう。誤魔化すのは難しい。
(いや、そもそも誤魔化す必要があるのか……?)
しかしエレナはまだオロフェアには知られたくないようだった。だがその理由は一切言わない。彼女にしては珍しいことだと言えよう。
(どんな理由であれ、教えてくれたら反応のしようがあるのだが)
スランドゥイルはため息をついた。エレナはそんなスランドゥイルをただ見つめている。その顔にはあからさまに言うな、と書いてあるようだった。
(だがもう順番だのなんだの、言っていられる状況ではないだろう……?)
何かあると、父親はすでに気づいているのだから。
スランドゥイルは思い切って行動を起こすことにした。後から文句でもなんでも好きに言えばいい、と半ば自棄な気持ちで中腰になると、エレナを抱き寄せ、頬に唇を押しつける。
「スランドゥイル、何をするんだ!」
親しい身内への口づけにはまるで見えないそれに、オロフェアは蒼白になって叫ぶ。息子を姉から引き離そうと腰を浮かせるが、その前にスランドゥイルはエレナから離れた。
エレナは座った体制のまま、凍り付いたように微動だにしない。表情も同様で、緑の目を見開いたまま固まっていた。
「なんて顔です。この程度で反応できなくなるなど、エレナらしくもない」
スランドゥイルは膝立ちのままエレナを見下ろす。頬へのキスなど軽く受け流す彼女がこうも顕著な反応を見せるとは。いつも余裕のあるエレナに振り回されているのが、今は自分が振り回しているようで、ちょっとした優越感がある。
「スランドゥイル、一体……」
オロフェアは呆然と息子に問うた。スランドゥイルは父に対峙するように座り直すと、表情を改めて率直に告げる。
「父上、わたくしはこれなるエレナカレン姫と将来を誓いあっているのです。今まで黙っていて申し訳ありません」
「な、に?」
意味が理解できないというように、オロフェアの眉が顰められる。
「父上が先のことを――この森に留まるか、はたまたどこか別のところへ向かうのかを――決められるまで言わずにいようと二人で決めていたのです。父上の選択に迷いを生じさせてはならないだろうと」
オロフェアは大きく息を吸うとしばし黙ったままスランドゥイルを見つめた。それから首筋が強張ってでもいるようなぎこちない様子でエレナの方に視線を移す。
「今の話は本当ですか、姉上」
すでに硬直から回復していたエレナは、オロフェアから視線をそらすように顔の向きを変えたが、ややあってオロフェアを見据えて答える。
「そうだ。そなたの息子はわたくしがもらい受ける。反論はしてもよいが、聞く気はないぞ」
「エレナ……」
これでは自分の方が嫁入りする方みたいではないかとスランドゥイルは思った。
オロフェアはエレナの返答を咀嚼するようにしばし目を閉じていたが、気を取り直したのか、再び目を開けた時には元の調子を取り戻していたようだった。世間話でもするような口調で彼は問う。
「事情はわかりました。姉上、これだけは確認しておきたいのですが」
「なんだ?」
「スランドゥイルでいいのですか?」
「スランドゥイルがいいのだ」
迷うことなくはっきりとエレナは答えた。
オロフェアは次にスランドゥイルに目を向ける。
「お前は姉上が――いや、エレナカレン姫がただ一人の相手だと思ったのだね」
「はい」
父の目をまっすぐ見つめてスランドゥイルも答える。
オロフェアはかすかに俯き、誰にともなく呟くように話した。
「そうか、お前も恋をする年になっていたんだなあ。それにしても姉上が相手だとはな……。タルランクがお前がずいぶん姉上を慕っているようだとは言っていたが、私はそれを身内に対する愛情だとばかり思っていたよ」
「私もそう思っておりました。ですが違ったのです。――父上、お許しをいただけますか?」
「いや、それは――」
オロフェアは口ごもった。
「ちょっと、待ってくれ。許可、許可だな――。多分出せるだろう。婚姻の禁忌に触れるほど血は近くはないのだから。かろうじてだがね。だがしかし、正直に言ってとても驚いているんだ。何か見落としをしていることがあるかもしれない。だから日を改めて許可を出すということでいいか?」
「はい」
すぐに持ち直したように見えていたが以外と動揺が大きかったらしい。父の心情を慮り、スランドゥイルは大人しく引き下がった。
オロフェアはぼやく。
「……まさか姉上が今よりもっと近しい身内になる事態が起きるとはなぁ。それにしても、一体どうしてこんな話になってしまったんだ?」
元の話題はなんだっただろうかと、オロフェアは真剣に考え込む。スランドゥイルは助け船を出した。
「本来の話は、父上とエレナが穏便に政権交代を行うために儀式的な勝負をするという方向で進んでいました。父上が森に残られるのが確定的となりましたので、私たちの婚約のことも伝えた方がよかろうとエレナに伝えたのですが、言葉を濁して答えてくれない。と思っていたらいきなり馬鹿者と言われまして」
「ああ、そういうことだったのか。うん、いきなり馬鹿者、は驚いたな。ところで姉上、なぜ秘密にし続けようとしたのです。まずは私たちの話が一段落ついてからのほうが混乱は少なかったとは思いますが、とりたてて黙していなければならない事情はないと思うのですが。何か問題が?」
エレナは片腕に体重を預けるように身を傾ける。視線はオロフェアからもスランドゥイルからも反らせていた。
「いや、問題というか、ちょっとこう、このあたりがもやもやとしてな」
と胸のあたりに手を当てる。
「もやもや? 具合がわるいのですか?」
「いや、そうではなく。スランドゥイルといるときは気にならないのだが、オロフェアがいるとどうにも避けられぬ事実に直面してしまうものでね。わたくしとしても意気地がないとは思うが、どうもまだ決心しきれなくて」
「私が問題だったのですか?」
オロフェアがぎょっとした顔になる。スランドゥイルも同様に驚く。問題はエレナ自身か自分にあるものだとばかり思っていたからだ。
エレナは両手を床について肩を震わせた。
「まだ先のことだが、結婚したらオロフェアは夫の父だ。つまりわたくしにとっての義理の父になるということになる。……オロフェアを、ずっと弟であると思っていたオロフェアを義父上だの、お義父様だのと呼ばねばならぬかと思うとなんだかひどくこう、むかついて」
「……むかつくんですか」
思わずスランドゥイルは繰り返してしまった。エレナははっとしたように顔をあげる。
「いや、そのうち覚悟を決めてきちんと気持ちを切り替えるつもりだがな。しかし今のところ、どう考えてもオロフェアの前でかわいらしい義娘の振る舞いなどできる心境にはなれないんだ」
ここで黙って聞いていたオロフェアが叫ぶ。
「しなくていいです! いつもの姉上でいてください! 私の呼び名だって呼び捨てのままで結構! わざわざ可愛らしい振る舞いをされたらこっちがどうしていいのやらわかりませんよ。息子の嫁になろうと、私があなたの弟であることに代わりはないではないですか。それを……可愛い姉上なんて……怖いじゃないですか」
エレナの目が半分にすがめられる。どういう意味だと言外に告げていた。
オロフェアはため息をついてこんこんとエレナに言い諭す。
「私のことはこれまで通りに接してください。そして可愛い態度はスランドゥイルに見せてあげてください。とっくに婚約しているというのなら、もう見せているんでしょうけれど」
「エレナは二人きりだろうと、これまでとさして態度は変わりません。むしろこんな悩みを抱えていたことを初めて知ったくらいですので」
スランドゥイルが答えると、オロフェアはそれも姉上らしいと笑った。
「情けなくて言えるわけがないだろう、こんなこと」
エレナは小声で反論する。
「だが、助かるよ、オロフェア」
しみじみと、心底そう思っているようにエレナは言ったのだった。
あとがきは反転で。
ルシアン事件が起きた時には秘密裏に使者を出していたようなのでスランドゥイルが知っているのはおかしいのですが、ベレンが戻ってきてからその辺も含めて「べレンとルシアンに起こったこと」が知らされたことにしてください……。
ケレゴルムはルシアンに一目惚れしてるので、勢力拡大ばかりが理由ではないとは思うけど、どっちが比重として大きいかは……疑問だなー。
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