オロフェアが帰還してから約半年が過ぎた。
シンダール達の中には先遣隊のもたらした目覚めの地周辺の激変の話を聞いて動揺したものもあったが、それも一過性に過ぎず、現在は落ち着きを取り戻している。
それはオロフェアがいつもと変わらぬ穏やかな様子をしていることとも関係しているだろう。彼が泰然としているのだから、状況は悲観するほど悪いものではなく、なにかしらの解決策がそのうち示されるのだろうと。
ふと耳に入ってくる会話の端々などからそう思われているのだと、スランドゥイルは感じていた。
確かに、父は平素と変わらぬ風にしている。
だがそれも表向きのこと。
副官たちやエレナ、それに自分などの気を許せる相手しかいない時には深刻そうに表情を曇らせ、物思いにふけることも度々だった。右腕たるタルランクや姉であるエレナには相談などもしているらしい。
スランドゥイルはオロフェアが戻ってきてからさほど経たない頃に、この先どうしたいかと尋ねられただけだった。エレナとのことはまだ伏せておくにしても、自分の心はすでに決まっていたので、この森に腰を据えることにしたと答えた。オロフェアは息子のそんな答えを聞いてやや意外そうに、しかし次には嬉しげな顔になって了解したと告げた。
そして目立った変化もないまま現在に至る。
以前のスランドゥイルであれば、何ヶ月も答えを出さない父にやきもきしていただろう。しかし目的地に向かうことはできないとはっきりした以上、急いで行かなければならないところもない。ましてや自分は森に残るのだ。父の決断が父との離別につながるのかもしれないと思えば、悔いの残らぬよう気が済むまで悩んでほしいとすら思えた。悩み事がある間の精神状態が快いものではないことはわかっているが。
オロフェアの意志はオロフェアのもの。相談をされたのならばともかく、そうではないのだから横から口だしするものではない。となればスランドゥイルが隣で深刻そうな顔をしていても仕方がないので、彼は早々にいつも通りの生活に戻った。
定期的にシリンデやマキリオンと稽古をし、森を散策し、エレナとは魔法の鍛錬を行う。魔法の鍛錬はエレナと恋仲になったばかりなので、真面目にやろうとは思うものの、どこか上の空になってしまうのが欠点だった。
ところで自分達の恋についてだが、少々驚かれる組み合わせではあるだろうが、禁忌に触れるようなものでもない。誰に知られても恥じるところなどはないので、知られても構わないはずなのだが……オロフェアただ一人にはまだ教えない方が良いというエレナの助言もあって沈黙を貫いていた結果、結局公表できないでいるのだった。
そうはいってもお互いの腹心にはそのうち勘付かれるだろうと、シリンデとグラシエル、グラジエルの姉妹には伝えてある。シリンデの反応はというと、さすがに驚きを露わにしたものの、素直に祝福を述べるといったものだった。ただしその後に「しかし若君とエレナカレン姫が並ぶと、どう見ても若君の方が貫禄負けしているんですよね……。親戚の客人であるうちはともかく、王配になるのであればせめて同等に立ち並べるくらいでないと、シルヴァンエルフたちには納得してもらえないかもしれません。でも、時間が解決するのを待つしかないのでしょうか……」と心底心配そうに付け加えられたのは癪だったが。
なぜ王配と決めつけるのだと言い返しても、シリンデはけろりとしたものだった。共同統治者となるには、まだ未熟であろうと彼は断言したのだ。
そんなことは言われなくともわかっているが、他人から言われればやはり腹が立つものだ。シリンデを見返すために、またエレナと森と民を守れるようになるためにも、できるだけ早く誰からも認められる男になってやろうとスランドゥイルは密かに決意する。
ということもあって、時間があれば何かしら、己を鍛えるために修行をしているスランドゥイルだったが、やはりできるだけ愛しい相手と一緒にいたいのが偽りのない本心だった。なので気がつくと、エレナに魔法を教えてくれるよう乞うている。エレナも都合がつけば喜んでそれに応えてくれるものだから押しとどめる要因はなにもなかった。
だがエレナは婚約者と会うというよりも、むしろ鍛え甲斐のある相手を構い倒せるのが嬉しくて仕方がないだけではないだろうかと思えた。二人きりになろうが、およそ甘やかな雰囲気とはほど遠い。そのせいもあって、特に隠れることなく堂々と会っていても、誰からも不審がられないのは、喜ぶべきなのか嘆くべきなのか、迷うところだった。
そうして今日も午前中から広間で新たな技を習っていると、ふらりとオロフェアが通りかかった。
「二人とも、熱心だね」
基本の表情となっている穏やかな笑みを湛えてオロフェアは言った。
「そなたの息子は教え甲斐があるからね。なにしろいきなり大技を使える片鱗を見せたのだもの」
エレナはにこやかに笑って、スランドゥイルの肩をぽんぽんと叩いた。
誉められるのは嬉しいが、この程度の接触であっても父に見られるのが気恥ずかしく感じたスランドゥイルは、口を噤んでわずかに俯いた。婚約する以前であっても、これくらいの触れあいはあったというのに、今となってはどうして意識せずにいられたのかわからない。
だがエレナはお構いなしに話を続ける。
「今は幻術をやっているんだ。結界はわたくしとスランドゥイルとではやり方が違いすぎて、わたくしではうまく教えられそうにないのでね。ほかの術を覚えていけば、そのうち自分なりのやり方を編み出せるのではないかと思っているのだけど……」
二人の傍に歩み寄り、オロフェアは腰を下ろした。
「なるほど。それで、息子は幻術に関してはどのような感じですか?」
「やはり筋は悪くないね。先が楽しみではあるよ。しかしな、オロフェア」
エレナは眉をひそめる。
「なんでしょう、姉上」
「たまにはそなたも息子に技のひとつも伝授したらよいのではないの? 父として子に教えたいものがないわけでもなかろうに。それどころでないことはわかるが、気分転換のつもりでも……」
姉の忠言にオロフェアは苦笑する。
「私の覚えている魔法は本当にわずかなものなので、むしろ私が姉上に教えを請わねばならないと思っていたところですよ。そうでなくても、スランドゥイルは姉上と一緒にいるのが好きみたいなので、よけいな邪魔をしないのもむしろ親心かと思っていたのですが」
「……っ父上!」
スランドゥイルは思わず声をあげた。気持ちを隠していたつもりであったがばれていたのかと焦ったのだ。
だがエレナはそういう見方もあるのかと納得したように頷いた。
「そうさの。スランドゥイルは本当にわたくしが好きだからね。まあ、わたくしのように強くて美しい年上のおねーさまに憧れる気持ちはわからなくもないがな」
「自分で言わないでください」
真顔で言い返すエレナにスランドゥイルは肩を落とした。自分でオロフェアには言うなといっておきながらこれだ。隠すつもりが本当にあるのだろうか、それとも彼女の言葉を額面通りに受け取った自分が真面目すぎたのだろうか。スランドゥイルは頭を悩ませた。
オロフェアは愉快そうに笑い声をあげる。
「おや、違ったのか、スランドゥイル」
「父上まで……からかわないでください」
双方から温かな視線を向けられているのが居たたまれなくなり、スランドゥイルはそっぽを向いた。オロフェアはひとしきりくすくす笑うと、困ったように唇を歪める。
「二人の仲がいいことは私にとっても嬉しいことなのだよ。親戚であっても不仲である場合だってあるのだからね。でも我々はうまくいっている方だと思っています。だからこそ、それを壊すようなことはしたくはない」
オロフェアの様子が変化したことを感じ取って、エレナとスランドゥイルは表情を改めた。
「オロフェア?」
探るように、エレナは固い声で弟の名を呼ぶ。
オロフェアは痛みを堪えるかのように目を瞑るが、ややあってゆっくりと瞼をあげた。
「姉上、大事な話があります」
「わかった、聞こう」
エレナはオロフェアをひたと見つめる。自分は席を外した方がいいのかとスランドゥイルが腰を浮かせかけると、父親は制止をかけた。
「スランドゥイルも残ってくれ。お前にも関わってくる問題だ、聞いてほしい」
「わかりました」
スランドゥイルが座り直すと、オロフェアは咳払いをした。
「話というのは他でもない、私自身の身の振り方のことです。クウィヴィエーネンへ戻ることが実質不可能となり、我らシンダールは足止めを食っている状態となっています。一部の者はこの森で暮らす決意を固めたようだけれど、私の判断を待っている者もいる。皆をここまで連れてきたのは私なのだから、はっきりとした結論を出す必要があるでしょう」
ふう、と固い表情のまま息を吐き、オロフェアは続ける。
「けれど結論を言う前に、私がこの決定に至るまでの経緯を聞いてほしいのです。異論があることもあるでしょうが、安易な気持ちで決めてはいないのだとわかってもらいたいから……」
勿論です、とスランドゥイルは答えた。
「父上が傍目にどれほど淡々としているように見えているにしても、内実は違うのだということは、息子である私はきちんと理解しているつもりです。それは長の年月離ればなれになっていたエレナカレン姫であっても、同じことでしょう」
いつになくオロフェアの慎重な様子に心配になったスランドゥイルは、少しでも心痛が軽くなればと思ってそう言った。エレナカレンも頷く。
「そうじゃ。なにをそうぐちぐち悩んでおるのか知らぬが、わたくしたちの前でまで己を飾る必要などないぞ」
彼女の言い方は励ますというよりも背中を叩く勢いだったが、オロフェアはそれで気が軽くなったらしく、二人に向かって目礼をしてくる。そして静かに口を開いた。
「私は目覚めの地があれほどまでに変わっているとは思っていなかったんです。姉上の話を聞いても、姉上自身がその目で確かめたことではないのだからと、楽観視していたのだと思う。だけど事実は逆で、話よりももっとひどかった。さすがに堪えました。だけど自分でも驚いているのだけど、向こうにいる間も、緑森に戻ってくる間も、衝撃は受けていたものの、まるで他人に起きた災難のように思えていたんです。姉上にこの先をどうするのかと問われてようやく、自分の問題として考えることができた――」
衝撃が大きすぎたのだろう、とスランドゥイルは思った。我が身に起きたことと思えば、己を保つことができなくなるほど、彼は打ちのめされたのだ。
オロフェアは自嘲するように唇を持ち上げる。
「とはいえ先のことをと思っても、うまく考えをまとめることができなくてね。はっきりしていることは、西に行く気はさらさらない、ということだけだったんです。それはヴァリノールだけではなく、海に沈むことなく残ったベレリアンドの地も含めてのことです。特にベレリアンドはドリアスの同胞たちも多く避難しているとはいえ、ノルドの残留組もいるのですから。彼らは私にとって、厭わしい敵です。だが彼らもエルフであり、つまりは同族です。いつか――何千年か先には彼らと再び手を取り合おうという気が起きるかもしれないにしても、今はただ一人といえども顔を合わせたくはない」
まったく同感だったので、スランドゥイルは力強く頷いた。やはり似たり寄ったりの気持ちなのだろう、エレナも同様の仕草をする。
オロフェアは額に指を添えて遠くを見るような目になった。
「ああ、この考えのまとまらなかった時期のことは、あまり思い出したくないな。我ながら無茶無謀なことしか頭に浮かばなかったから。放浪の旅に出ようかという考えも浮かんだけれど、それは皆を連れて気が済むまで進み続けるということではなくて、全部投げ出して、一人でふらりと出ていくということだったんだ。……何も持たずにね」
「無謀などというものではないぞ、それは。狂気の沙汰だ」
エレナははっとしたように口を開いた。オロフェアは姉を安心させるように頭を振る。
「ええ、わかっています。もうその時期も過ぎました。大丈夫ですよ――」
ふと窓の外の鳥のさえずりに耳を傾けるように、オロフェアは目を四角く切り取られた空へと転じた。だがすぐに姉と息子に視線を戻す。
「改めて、私が東に向かおうとした理由を思い返してみました。西方向へ行くことがどうにも気が進まないということもあったけれど、一番の要因はエルフの故郷があったことです。そしてなぜそこへ行きたいと思ったのか自分の心に問えばそれは――はじまりの地へ行けば、すべてをやり直せるような気がしたからだったんです。悲しみと憎しみに彩られた記憶もすべてなかったことにできるのではないかと。……そんなはずはないのに!」
オロフェアは語尾を荒げた。
「起きたことはやりなおせない。失ったものは失ったまま、どれほど似たようなものを手に入れたとしても、なくしたものの代わりにはならないんだ。西へ、ヴァリノールへ行くことを拒むのは、だからなのです。話によるとかの地では不幸を忘れることができるとか。だがこの身を焼き焦がすような思いは、それまでが幸福であったことの裏返しでしょう。どうでもよいものに対して、心が動くものですか。だから不幸を忘れるということは、その不幸となる以前の幸福を忘れるにも等しい。忘れるだなんて! 私は何一つ忘れたくはないんだ。たとえその記憶の行き着く先が火と刃で血塗られていようとも、私は愛したものの記憶をそのままにしておきたい。優しい忘却などいらない。私にとって、それは恩寵でもなんでもないんだ。……とはいえヴァリノールへ行った者が中つ国での記憶をなくすわけでもなさそうなので、私のこの考えには真実でない部分も含まれているでしょう。だからといって、ヴァリノールへ行って確かめる気もありませんが」
「行ったら戻るのは無理だというからな。しかしオロフェア……そなたの気持ちは理解できると思うておるが、いささか激しすぎる。そのうちそなたを内側から燃やし尽くしてしまうのではないかと、心配だよ」
エレナは案じるように眉を寄せる。
オロフェアは不適に笑った。
「それも結構ですね。私は争いごとを好むわけではないけれど、争いから逃げるつもりもありません。今は私の勢力はとても小さなものだけれど、十分力を蓄えたのなら、敵に挑むことも厭いません。結果として燃え尽きることになろうとも、目的が叶うのであれば構わない。もっとも、いくら憎くても同族殺しをするわけにもいかないし、シンゴル王を殺したドワーフらは殲滅させられたので、直接的な敵はいないわけですが」
「モルゴスも滅せられたことですしね」
スランドゥイルは呟くようにいった。
父がここまで思い詰めていたとはついぞ気がつかなかったことに、忸怩たるものを感じた。民を預かる身としてあえて見せないようにしていたのだろうが、それでも自分は息子なのだから勘づいていてもよさそうなものだろう。
(それにしても……)
スランドゥイルは驚きを禁じえなかった。
自分の性格は喜怒哀楽のはっきりしていた母親の方に近いと思っていたのだが、おっとりとしているとばかり思っていた父がこれほどまでに激情家であったとは。結局どっちに似たのだろう、とやや場違いながらもスランドゥイルは思った。
エレナは心の奥底まで見通すような眼差しでオロフェアを見据える。そして静かに促した。
「たしかにモルゴスは滅した。だがあれがまき散らした悪は変わらず残っている。このよからぬ遺産は形を変えて中つ国を揺さぶり続けるだろう。だがそれでもわたくしは変わらず森にいることを望み、スランドゥイルもそうすることにした。さあ、経緯は十分話したであろう、オロフェアよ。そなたの出した結論は何だ?」
するりと、オロフェアの口から言葉が紡がれる。
「私もこの森に留まろうと思います。目覚めの地を目指したのは、かつてのエルフの暮らしをしたいという思いもあったからなのです。姉上たちの暮らし方は私にとっては理想が形をとって現れたも同じです。もちろん、そういう暮らしをかつては私もしていたのだろうけれど、幼すぎて覚えていないのですが。そのせいか、思っていたのとちょっと違う、というところもないわけではないのですが、それでも……」
オロフェアは照れたように髪を掻き揚げる。
「正式な住人として受け入れていただければ、これほど光栄なことはないと思っています」
「そうか」
エレナは喜ばしげに表情を明るくする。父が残るのならば、シンダールの大きな分裂はないだろう、とスランドゥイルも安堵した。
「しかし……」
喜ぶ二人をよそに、オロフェアは困ったような顔になった。
「問題があるんです」
「問題……」
エレナが呟く。スランドゥイルもすぐに思い当たった。
「想像はつく。構わん、そなたが王になれ」
まさに放り投げるとでもいう口調で、エレナはオロフェアに己がついていた席を譲り渡そうとした。
オロフェアは顔をしかめる。
「そういうわけにはいきませんよ、姉上。それでは納得しないシルヴァンエルフが大勢でるでしょう。私はあなたから位を奪うようなことはしたくはないのです」
「わたくしがやると言っているのだ、奪うわけではなかろう」
「事実がそうであっても、そう思われなければ意味がないのです。シンダールとシルヴァン、源が同じテレリであったとはいえ、今ではもう別々の種族となってしまいました。私がここに残るということは、その私とともに残るシンダールもシルヴァンの生活を受け入れ、溶け込むということです。二つの種族の間に、最初から軋轢の元となるものを作ってはなりません」
エレナは視線を流して首筋をかいた。どことなく投げやりな雰囲気であった。
「まあ、わからんでもないがな。で、どうするというんだ?」
オロフェアははっきりとした声で告げる。
「姉上、私と勝負をしてください」
エレナは困惑して口をぽかんとあけた。
「……はぁ?」
あとがきは反転で↓
タイトル思いつかなかった…。
意見の一致というのは、つまり三人ともノルド嫌いだという点で一致しているということです。(でもタイトルにするようなものじゃないなー)
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