自室へ戻ると、シリンデが明かりを灯しているところだった。夕暮れの残滓は徐々に薄れてゆき、濃い藍色の空が広がっている。
窓を開けているので小さな炎が揺れていた。エルフにとって夜の闇は視界を妨げるものではないのだが、温かな赤い熱源は大きさに関わらず安らぎを与えてくれるものだった。
繰り返される日々の光景。副官が行っているその当たり前の動作にふと我に返ったスランドゥイルは、つい先ほど己がしてきたことを――かなり冷静に――思い返し、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
(うわあああああーーー!!)
「若君、どうされたのですか?」
作業の手を止め、驚いたようにシリンデが声をかけてくる。心の絶叫が聞こえたのかはわからないが、部屋に戻って早々、主が頭を抱えだしたのだから異様に思っても無理はない。
「な、なんでもない!」
スランドゥイルは心の壁を作ってシリンデに読まれないように防御した。遅かれ早かれどうせ知られることになるだろうが、今は彼のからかいに――本人は年長者としての助言というだろうが――耐えられないと思ったのだ。
「なんでもないようには見えませんが」
心を閉ざされたことに気がついたのだろう、心配そうにシリンデが返してくる。
「とても今は言う気にはなれん。だがとても馬鹿なことをしてしまったんだ」
うわごとのようにスランドゥイルが言うと、シリンデは軽く首を傾けた。
「それが誰かに迷惑をかける類の馬鹿なことなのでしたら、早急に謝罪なりなんなりの手を打たなければ、こじれてしまうのでは? わたくしでよろしければ相手方の元へ行き、話を聞いて参りますが」
そうすればスランドゥイルが話さずとも状況把握はできるということだ。しかし問題は自分の個人的な感情に端を発する暴走行為なのだ。自分はただ気持ちを伝えたかっただけなのに、相手が理解するのに手間取ったので、つい怒鳴りつけてしまったのだ。しかしこれはどう考えても愛の告白をするという場面にはふさわしくない。そして自分がそんな間抜けな告白をしたと副官に知られるのは、できれば遅い方が良かった。
(せめて、返事を聞いてから……)
そうは思うものの、あの反応では色良い返事が来るとも思えない。取りあえずその場しのぎとして、シリンデにはこの件に触れぬように命じる。もっともどういった件なのかは、彼にとってはさっぱりだろうが。
星を眺めて心を落ち着けようと、ふらつく足で窓辺に寄る。それからさほど経たないうちに、扉の開閉音も激しく、エレナカレンが飛び込んできた。
「スランドゥイルはおるか!?」
「エレナ?」
唐突すぎる出現に、スランドゥイルは目を見開く。早くても翌朝にならねば会わないと思っていたので心の準備ができていなかった。
「ああ、いたか。外に出られていたら探すのが面倒だと思っておったよ」
「いかがなされましたか、エレナカレン様」
ほっとしたように肩の力を抜いたエレナに、シリンデが問う。スランドゥイルから見てもエレナの様子が普段と違うことがわかるのだ。事情を知らないシリンデがいぶかしむのも当然だろう。しかし愛の告白から一刻過ぎたかどうかという時間にこの様子はおかしい。受けるにしても、断るにしてもだ。なので別の用件かもしれないとスランドゥイル思った。どんな用件なのか想像もつかないけれど。
「シリンデ、しばらく席を外しておくれ」
静かな声でエレナが命ずる。シリンデはかすかに眉を寄せたがすぐに胸に手を当て、一礼した。
「承知いたしました」
音もなく扉を閉めてシリンデがいなくなると、エレナはつかつかとスランドゥイルの前に歩み寄ってきた。表情は硬く険しい。
「エレナ、どうしたのですか」
問うと、しばし待てと言いながら、スランドゥイルの横を通り過ぎる。そして窓をすべて閉めていった。外からのあえかな星明かりが遮られ、室内を照らすものはいくつかのか細い炎だけになった。
「余人には聞かれない方がよいからな」
言いながら、エレナはスランドゥイルの前に戻ってくる。そして強く両肩をつかまれた。
「もう少し早く気づくべきだったのだけど、そなたはわたくしのためにここに残りたいということをオロフェアにはもう伝えておるの?」
「それは……まだですが」
「では、オロフェアが気づいておるかどうかわかる?」
立て続けに彼女は尋ねる。
「わかりません」
「そうか」
エレナは腰に手をあて、ほうっと息を吐いた。その拍子に顔が伏せられ、銀色の髪がさらりと滑り落ちる。
「エレナ? 一体どうしたんです」
心の準備はできていなかった。だが意外にいつも通りに話せるようなので、スランドゥイルは内心安堵していた。エレナに妙な勢いがあるからかもしれないが。
彼女は顔をあげると、口を開きかけ、やめた。それから顎に指を当てて小首を傾げつつ、順番が大事かと呟いた。
エレナは一歩後ろに下がる。話をするには適度に距離となったために、スランドゥイルにも精神的な余裕が生まれた。
しかしエレナの発言はそんな余裕を彼方まで吹き飛ばすようなものだった。
「先ほどのことだけど、そなたをどう思っておるのか改めて考えてみたのだよ。そうしたら、わたくしもそなたを愛しているという結論がでてね。いや、驚いた驚いた」
エレナは真剣な顔で真っ直ぐスランドゥイルを見つめる。
一方スランドゥイルは瞬きもせずにその場に立ち尽くした。言葉は耳に入ったのだが、それを認識し、どういう意味を持っているのかを理解するまでに時間がかかったのだ。
「……驚いたのはこっちですが」
ようやき吐き出せたのはそんな台詞だった。
「ずいぶん早く結論が出たようですが、本当によく考えたのですか?」
想いが通じたのだ。嬉しくないわけがない。しかしそれ以上に出来すぎているという思いが強かった。エレナはもしや、まだ自分の言ったことを誤解しているのではないだろうか。そんな懸念も込めて彼女に問う。するとエレナは顔をしかめた。
「失礼な奴じゃのう、自分から言いだしておいて。わたくしと結婚したいということだろう?」
「そ、そうですが」
直接的な物言いに、スランドゥイルは思わず赤くなった。最終的な到達点は確かにその通りなのだが、そうなりたいと思うことと、それを実感することはまるで別だ。恋人同士になった自分たちのことすら想像できないのに、結婚となれば尚のことだ。
エレナは表情を和らげて微笑んだ。
「良かった。わたくしはまた何か思い違いをしているのかと思ったよ」
「いえその、わ、私が告白した時のあなたが、珍しいほど察しが悪かったので、ちゃんとわかるように言ったとは思うものの、まだ誤解されているのかと思ったものですから」
「ああ」
真実ではあるが言い訳としては拙いものを口ごもりながら伝えると、エレナは苦笑した。
「まあのう。そなたは甥っ子だという思いこみがあったからね。わたくしの方がずっと年上だということもあるし」
「ええ」
それは自分にとってもそうだった。この想いが変化したのは、いつからだったのだろうか。初めて会った時から気になる存在ではあったがそれが特別なものへと変わったのは――。
(いや、最初から気になっていたのだから、自覚したのがいつだろうと関係はないな)
スランドゥイルは心の内でひとりごちる。
エレナの恋する乙女としてはどうだろうかという態度が引っかからないでもないが、その気がないのにこんなことは言わないだろう。エルフは何度も恋をするということはない。通常は一度切りだ。必ずしも想いが実るとは限らないが、その代わり想いが通じあえば婚約期間を置いて結婚することとなる。どちらかの両親が反対しなければの話だが。
愛を告げるのは神聖なものだ。いくらエレナがスランドゥイルを傷つけるのが嫌だと思っていようと、冗談などに紛わせたりはしないだろう。だからこれは、現実のことなのだ。夢などではないのだ。
ようやく実感がわいてくるのと同時に、喜びがあふれて自然と顔が綻んだ。
「エレナ、ありがとうございます」
「礼ならわたくしが言いたいくらいだ。気づかせてくれて、ありがとう」
ふふ、と彼女は微笑んだ。
目と目を見交わす。緑の瞳に映るのは、幸福に上気する自分だった。
「父上にも報告しなければ」
成人しているとはいえ、父の意向は無視できない。オロフェアにとって姉であるエレナが義理の娘になるというのは複雑なものだろうが、反対される要因にはならないだろうと考えた。
エレナははっと顔を強ばらせる。
「駄目だ」
鋭く告げると、先ほどまでの甘やかな雰囲気が掻き消えるほどの勢いで、エレナはスランドゥイルの腕をつかんだ。
「そのことを確認したくて、日を改めずに訪れたのだよ。オロフェアがそなたのわたくしへの想いをすでに知っているのならば仕方がないが、そうでないのならばまだ伏せておいた方が良い。わたくしが承知したこともね」
「なぜです?」
エレナの制止に、スランドゥイルは眉を潜めた。エレナはそっと目を伏せ、小さな声でささやく。
「迷っている時にこんなことを聞かせたら、あれの選択を誤らせるおそれがあるからだ。そなたが選んだように、わたくしが選んだように、オロフェアにも誰がなんと言おうと自分はこうするのだと決めてもらいたい。だが、そなたとわたくしが結婚するとなれば、あれは迷うだろう。特に、旅立つ方に心が傾きかけているのであればね」
「父には父自身が納得する道を選んで頂きたいと願っているのは私も同じです。ですが、私とあなたの恋を伝えることが、なぜ父の選択に影響を与えることになるのでしょう。その、エレナが姉でありながら義娘になるということは、さすがに手放しで喜んでくれるとは思いませんが」
エレナにつられてスランドゥイルも声を潜める。エレナはにやりと唇の端をあげた。
「姉であり義娘か……。確かに、あれは驚くだろうよ。しかし問題はそういうことではなくてね、早い話が、群の頭は二つもいらぬ、ということだよ」
「頭?」
繰り返して、気づく。
「そういうことですか」
スランドゥイルは頷いた。
エレナはきつくつかんでいた手を外し、思案するように腕を組む。
「これまでそなたらは客分という形でここにいたからね、互いに波風立たぬよう上手くやっていたとは思うが、正式に森に腰を据えるとなれば話は別だ。これまでのように、シンダールの民をシンダールの指導者がシンダールの流儀で治め、シルヴァンの民をわたくしがシルヴァンの流儀で治めることはできない。細かい決まり事の擦り合わせは後でするにしても、指導者の順位は統一しておかないと、よけいなもめ事の種になる」
つまり、オロフェアとエレナの見解が一致せず、またそれに関して別々の命を出した時にどちらに従うかという問題が生じるのだ。最低限指導者の順位が決まっていれば、より上位の者の命を優先すればよいということになる。エレナとオロフェアが仲のよい姉弟であるということは、しかし今後も諍いを起こさないという保証にはならないのだ。それにここにいるシンダールの指導者がいつまでも彼でいるとも限らない。
「数えるまでもなく、住人の比率としては圧倒的にシルヴァンが多い」
スランドゥイルは指を一本立てた。
エレナはそれを受けて同じ指を立てる。
「エルフの格としては、シンダールが上」
さらにスランドゥイルは二本目を立てた。
「年の順となれば、エレナが上だ」
エレナも二本目を立てる。
「王は男であることが好まれる。わたくしは女であり、中継ぎであると自覚している」
スランドゥイルは首を傾げた。
「あなたは女王をやめたいと、本気で思っているのですか?」
彼女の答えは明確だった。
「オロフェアが留まる決心をしてくれたら、すぐさま押しつけてやろうと思うくらいにはね」
「父が出てゆくと決めたなら?」
順からいけば自分だが。
問うと、エレナは複雑な表情を浮かべて眉尻を下げた。
「考えるまでもなく、シンダールのものらはそなたを望むだろう。しかし悪いが、そなたでは力不足だと思う。そなたの将来性をわたくしは買っているけれど、この森と民の全てを統べるにはまだ早い。わたくしが補佐をしても良いけれど、そんな中途半端なことをするくらいなら、そなたが成長するまでわたくしが女王をしていた方がよかろう。無論、結婚もそれまでお預けだ。わたくしだとて、半人前の男を夫とするなど納得いかないもの」
「はっきり仰いますね」
「なんだ、回りくどく言われたかったか?」
さすがに言い過ぎかと、エレナがこちらを窺ってくる。しかしスランドゥイルは頭を振った。度量も技量も、まだエレナに追いついていないのは自分でもわかっていることだ。ならばここで反発してもしょうがないと彼は思った。
ふう、と息をついてエレナは続けた。
「そしてこのことはオロフェアも気づくだろうから、あれを迷わせるぬよう、わたくしたちのことを言わぬ方がいいと考えているのだよ。オロフェアがおれば、彼が森の王となろう。わたくしがそう望むし、オロフェアならば反対もそう起きぬだろうからな。そうなった暁にはわたくしは中継ぎの役目を引退して、そなたが王の子として一人前になるのを待てばよいだけ。そなたへの期待、そして重圧も、王になることが前提でなければ少しは軽くなるだろう。……だからといって、オロフェアに義務感で留まるようなことはしてほしくない」
彼女が望み、懸念していることが何か、理解した。だがその道のりはなかなか厳しいと言わざるをえない。
エレナは無理やり気分を盛り上げるように表情を明るくした。
「ま、それを置いておいても本来結婚をするには、当人たちが望むだけではなくて親族の許可を得る必要があるだろう。通常は両親にだが、生憎わたくしの両親とは連絡が取れぬ状況だ。だからといってオロフェアが承諾すればそれでいいというものでもあるまい。わたくしもそれなりの姫なのだから、体面だの格式だのを考えないわけにもゆかぬ」
「わかりますが、一体何をもってして、私がエレナの夫として――場合によっては森の王として、ふさわしいと判断されるつもりですか。結婚前に婚約期間があることは承知しています。だが『一人前』では条件が曖昧すぎます」
普通に鍛錬を続けていればそれで済むというものでもあるまい。なにか節目というものが必要なのだ。武勲を立ててこいだの、なにがしの宝を持ってこいとでも言われればまだ何をしたら良いのかの判断はつくのだが。
エレナも困惑したように唸った。
「そこなのだよなぁ。別にわたくしは功のある男でなければ嫌だなどとは思っておらぬからのう。そもそも戦いが起こらなければ功などあげようがないし、警戒を怠りこそしないが、モルゴスが滅びた以上、そうそう敵の襲撃も起こりそうにない。この世に二つとない宝を捧げてほしいとも思わぬし、はて、一体どうしたものだろうか」
「私に聞かれても困りますが」
未来の花嫁が望むのならば、それに応えたいとは思うものの、肝心の花嫁が何を望めばよいのかわからないという。どうしようもなかった。
スランドゥイルは小さくため息をついた。
「まあ、最低限呼子の結界を完全に扱いこなせるようになってから、とは思いますが」
オロフェアが留まろうと留まらなかろうと、エレナと森を守るには覚えておいた方がよい技だ。しかし、結婚目標とするにはいささか軽いだろう。こんなもので済むはずがない。だがエレナは目を輝かせて手を打ち合わせた。
「ああ、それは必要だね。ついでだから目くらましの一つや二つも覚えておくと良かろうよ」
「それでいいんですか!?」
気楽そうな反応に、スランドゥイルは脱力する。
「あとはオロフェアに考えてもらうよ。あれが結論を出さぬことにはどの道正式に話を進められないもの」
にこにこしながらエレナは答える。すっかり肩の荷を降ろした気でいるらしい。
「できるだけ父上が早く結論を出してくださるのを願うばかりです」
額に手を当てながら、スランドゥイルはぼやいた。
それから二言三言会話をすると、用は終わったとエレナは退室するそぶりを見せた。同じ建物に住んでいるのだから彼女の部屋まで送るというのはやりすぎにしても、見送りくらいはしようと、スランドゥイルはエレナより先に扉を開けようとする。ノブに手が触れた時、ふと思い返してすぐ後ろにいるエレナを振り返った。
「エレナ」
「なんだ」
「全く色気のかけらも見あたらなかったけれど、私とあなたは相思相愛で、正式な婚約こそまだだが、結婚を前提にこれから付き合うということでよろしいのですね」
「そう事務的に淡々と聞かれるとまるで他人事のようだが、間違いなくその通りだ」
真顔で問うスランドゥイルに、やはり真顔でエレナは頷いた。もっともスランドゥイルは表情を崩さないでいるので精一杯なだけだったのだが。
「では――」
一瞬ためらい、しかしすぐに気を取り直してスランドゥイルはエレナを見つめる。
「恋人としてキスをしても?」
「いいよ。どこに?」
エレナは揺るがない。
「唇に」
「性急だな」
ふ、と彼女は目元を和ませた。
「嫌ですか?」
「いいや」
小さく頭を振る。
スランドゥイルは片手をあげてエレナの頬に触れた。睫が伏せられ、緑の双眸を隠す。
緊張しているのは自分だけかとエレナの余裕を恨めしく思いつつ、スランドゥイルは顔を寄せかけた。そして気づく。普段は血の気を感じないほど白い頬がほのかに薔薇色に染まっていることを。
ああ、同じなのだと、頭の片隅で納得する。そしてさらに顔を寄せた。エレナの肩に一瞬力が入る。だがそれも構わずに、スランドゥイルは彼女の腰を抱き、引き寄せた。距離が縮まる。
互いの心音を感じるほど、近く。
あとがきは反転で。
本気で色気のない二人だ……。
しかしこんなにとんとん拍子に進む話も(私にとっては)珍しい。
あ、「『義娘』は『むすめ』と読んでください(草原の時と同じだね…)。
前へ 目次 次へ