原作エリックの年齢……。
皆様は幾つくらいだと思っていたでしょうか。
春日は、原作で自分で自分のことを「年寄り」だと称していた場面があったし(注1)、鹿島茂氏の「明日は舞踏会」で『当時は人生五十年の時代である』とあったので、なんとなく五十手前、つまり四十代後半くらいかと思っていました。
注1:「ああ!可愛いことを言ってくれるねえ、お前!……お前はほんとうに可愛い娘だ!……年寄りの私をいたわってくれるなんて、ほんとうに優しい!(後略)」(角川版389ページ)
しかし、ある時「THE ESSENTIAL PHANTOM OF THE OPERA」を流し読みしていたときに、こんな記述に出くわしたのです。えっと、この本はオペラ座英訳版に脚注がついたというものです。
問題の脚注は
He committed a number of horrors because he seemed not to know the difference
between good and evil, and participated in several important political
assassinations as calmly as when, with his diabolical inventions, he fought
the emir of afghanistan, who was at war with the empire.
という文章の下線部の部分に対してついていたもの。この文章は角川版でいうと
彼は善悪の区別がつかないらしく、ずいぶんいろいろ恐ろしい悪事を働き、巧妙な政治的暗殺に何度か協力したときも、悪魔的な発明の才を発揮してペルシャの交戦国アフガニスタンの首長を倒したときも、おなじように平然としていた。
(449ページ)
に当たります。脚注内容は、
There was an Afghani-Persian war in 1837. In it, the British supported
the Afghani side, while the Russians sided with Persia. The Afghan emir
was Dost Mohammad.
Even if he was in his teens at the time of the war, Eric would be a man
close to sixty or more in 1881, the year we have designated as the real
time of the action of the novel.
です。さらにこの脚注を訳してみました。相変わらず滑らかな日本語ではありませんがご容赦ください。
1837年にアフガンとペルシアの間で戦争が起きた。英国はアフガン側に援助する一方、ロシアはペルシアの味方となった。アフガンの首長はドスト・モハンマドだった。
たとえ戦争の時に彼が10代でも、エリックは、1881年、私達が小説の行動の現実時間であると称した年には60代かそれ以上だっただろう。
60代かそれ以上……。
常々おっさんだろう、と思っていた相手が、おっさん通り越してじいさまだったかもしれないというのは、かなり衝撃でした。
現代日本なら60代はまだ若い、と感じられる年ですが、130年前ですからね。この時代、食糧事情はだいぶ良くなっていますが、医療はまだまだですし……。老け方の速度自体が違っていたと思います。
さて、では著者のLEONARD WOLFがいう1837年のアフガンとペルシアの戦争のことを調べようと思い立ち、調べたのですが……、これがもう「だああっ!」と頭を掻き毟りたくなるほどややこしかったので、後回しにします。
要は原作エリックはアフガンの首長を殺した(直訳すれば「戦った」のであって殺したとはヒトコトも書いていないのだけど、格闘ゲームじゃあるまいし、一国の偉い人が民間人とほいほいストリートファイトをするとも思えないので…、これは、戦ったエリックが生きていたのだから、相手の首長は死んだのだろう、という解釈で「殺した」としました)ということになっているのだから、19世紀に入ってから〜オペラ座建設開始の間までに殺された首長がどのくらいいるかどうか、というのを調べてみれば自ずと結果が見えてくるだろうと。
で、調べてみました。
現在のアフガニスタン・イスラム共和国のあるあたりは、歴史的にも民族的にも込み合っています。遡ろうと思えば紀元前まで遡ることもできるのですが、ここではパシュトン人(アフガン人とも)の首長が立ったサドザイ朝からみてゆきましょう。
在位 | 名前 | 死亡年 | |
1 | 1747〜73 | アフマッド・シャー・ドゥラニ | 1773年 |
2 | 1733〜93 | ティムール・シャー | 1793年 |
3 | 1793〜99 | ザマーン・シャー | 1844年 |
4 | 1799〜1803 | マフムード・シャー | |
5 | 1803〜1809 | シャー・シュジャー | 1842年 |
6 | 1809〜1829 | マフムード・シャー(4代と同一人物) | 1829年 |
まず、上の6人の首長(正確に言えば五人)の中ではっきりと殺害されたとわかっているのは4・6代目のマフムード・シャーです。
彼は息子のカムラン・シャーに殺されました。
この、マフムード・シャーの時代以降、ものすごい大混乱が起こり、しばらくの間、まともに首長が立つことはありませんでした。立ったとしても、その後すぐ廃位されたり追放された模様。
そんな混乱に一応の終結を見せたのが、バラクザイ朝の創始者ドスト・モハンマドです。
在位 | 名前 | 死亡年 | |
1 | 1835〜38 | ドスト・モハンマド | |
2 | 1842〜63 | ドスト・モハンマド | 1863年 |
3 | 1863〜63 | シィール・アリー・ハーン | |
4 | 1866〜67 | アフザル・ハーン | 1867年 |
5 | 1867〜68 | アザム・ハーン | 1869年 |
6 | 1869〜79 | シィール・アリー・ハーン | 1879年 |
1代と2代のドスト・モハンマドと3代と6代のシィール・アリー・ハーンは同一人物です。
また、この後もバラクザイ朝は続くのですが、オペラ座の建設が始まるのが1861年ですので、これ以降は割愛します。
さて、ようやくここで脚注にあったドスト・モハンマドの名が出てきました。
しかし、表を良く見てください。彼が死亡した年は1863年です。エリックが彼を殺したとしたら、こんなに長く生きているはずがありません。そもそも、アフガンとペルシアで戦争が起きたのは1837年だというではありませんか……。
しかし、1837年に死んだ首長は、バラクザイ朝どころか、サドザイ朝にもいない。
どういうことだ? LEONARD WOLFは間違ったことを書いていたのか? と思われるかもしれません。
しかし、そうではありません。言葉足らずではある、とは思いますが……。あの書き方では、「首長がドスト・モハンマドだったのだから、殺されたのも彼である」と誤解されてもおかしくはないもんなぁ。
再びバラクザイ朝の表を良く見てみましょう。ドスト・ムハンマドの在位年におかしな空白があるというのがすぐにわかります。間に別の人物を挟んでいるわけでもないのに、同一人物が初代と二代目に就いているという、妙なことが起きているのです。
まあ、すぐに考え付くことでしょうが、この時期には別の、バラクザイ朝の者ではない人物が首長になっていたというだけのことなのですが。
その人物は、サドザイ朝の5代目を務めたシャー・シュジャーです。
★ あまりのややこしさにギブアップ ★
正直、この戦争は内外の思惑が入り乱れてわけわかんないことになっています。
イギリスの都合、ロシアの都合、ペルシアの都合、アフガニスタンの都合……。
すべて書くとなると、どれだけこのページが長くなるかわかりません。
そこで、どうしても詳しく知りたい方は、イラン史やアフガニスタン史、あるいは「グレート・ゲーム」や「第一次アフガン戦争」などを調べていただくことにして、ここでは要点だけを書いていきたいと思います。
↑は現在の地図です。国境は19世紀前半とは違っていますが、だいたいの位置関係をつかめればよいかと。
小さくて書き込めなかった国名は、
@ アゼルバイジャン A トルクメニスタン B ウズベキスタン C シリア D パキスタン
です。
本当は1837年に近い頃の地図がほしかったのですが、そもそもイランとかアフガニスタンあたりの国では国境が確定したのが19世紀後半とかだそうで、なら基本的な位置が変わったわけではないし、と潔く現在の地図を使うことにしました(開き直りとも言う)。
19世紀前半と大きく違う点といえば、まだパキスタンやシリアという国はなく、アゼルバイジャンがあるあたりは、イラン(当時のペルシア)とロシアで取り合いをしつつイランが劣勢になっていたということ、またトルクメニスタンやウズベキスタンのあたりにはウズベク3ハン国がありました。こっちもロシアに圧されていましたが、一応19世紀前半は独立国でした。
↑は、現在の地図に当時の国名を書いたもの。今ある国がなかったり、今はない国があったりしますが。まあ大体こんな感じ。
◎は、それぞれペルシアとアフガニスタンの首都です。
では、要点に入ります。
1、イギリスはインドを植民地化しつつあり(英領インドとなるのは1877年なので、まだ英国領ではないが)、さらに西進したいと思っていた。あとロシアが南下するのを警戒していた。
2、ロシアは南下政策を推し進めており、アフガニスタンやペルシアにも接近したり積極的に戦ったりしていた。特にアフガニスタンをめぐってイギリスとは犬猿の中になっていた。
3、軍事的重要拠点であるヘラートをペルシアはほしがっていた(19世紀前半にはアフガニスタンにあった)。また、カフカースをめぐってロシアと何度か戦い、敗北。1828年に不平等条約であるトルコマンチャーイ条約を結ばされた。
4、1835年からアフガニスタンではドスト・ムハンマドが首長になっていた。彼はシク教徒によって奪われたペシャワルの返還をイギリスに仲介してもらおうとしたのだが、インドとアフガニスタンの緩衝地帯としてパンジャブの安定を考えていた英国はこれを拒否。しかしロシアが接近してきて、交渉は自分たちがすると約束した。
5、ロシアの動きにイギリスはアフガニスタンに親英政権を樹立するしかないと考え、シャー・シュジャーの復位を念頭においてアフガニスタン侵攻の準備をすすめる。
6、それはそれ、これはこれ、とロシアはペルシアを焚き付けてヘラートに侵攻させた(1837年)。ペルシアはトルコマンチャーイ条約が足かせとなり、政治的に拒むことができなくなっていた。
7、ロシアの行動は予想済みのイギリス、アフガニスタンを支援する。
8、ロシア・ペルシア組、負ける。
9、勝ったにも関わらず、イギリスはドスト・ムハンマドはイギリスの有力な同盟者にはなりえないと考えて、シャー・シュジャーの復位とシク教徒のパンジャブ領有を認めるという二つの戦略を掲げてアフガニスタン派兵を決断。第一次アフガン戦争が始まる(1838年)
10、1839年、シャー・シュジャー、復位する。しかし実権はほとんどなかった。
11、1840年、ドスト・モハンマドは復権を求める戦いをしかけるものの、成功せず降伏し、カルカッタに移送される。しかし息子モハンマド・アクバル・ハーンのみは屈せず、イギリスに執拗なゲリラ戦を仕掛けた。
13、1841年、英国に抑圧されることで部族長たちの不満が高まり、カーブル蜂起が計画される。11月、実行に移される。カーブル副総督アレキサンダー・バーンズ殺害される。
14、1842年1月、イギリスはカーブル撤退を開始する。この撤退は凄惨を極め、ジャララバードまでたどり着いたのはたった三人のインド兵と医師ブリトンだけだったと伝われている……のだが、それは侵攻の失敗を隠すためイギリスが誇張したのであって、実際には捕虜として丁寧に扱われたことが、当の捕虜になった人びとによって記録されている。
15、1842年4月、イギリスの保護を失ったシャー・シュジャー、暗殺される。同年第一次アフガン戦争は終結し、ドスト・ムハンマドが復位する。
そういうわけで、たしかに1837年時点ではペルシアとアフガニスタンには軍事的関わりがあったのですが、実際に王が暗殺された事件は、それとは一応別件だったのでした。
さて、とりあえずこれで殺された王が二人いたのがわかったのですが、これによってエリックの年齢を推定するにしてもマフムード・シャーは除外してもよいでしょう。なにしろ1829年なので、オペラ座での事件のざっと50年前ということになってしまいます。LEONARD
WOLFが言っていたように、10代(ぎりぎりの19歳)だったとしても70歳以上とかそんな感じに……。
さ、さすがにあの時代で70代とかは、な……。どんだけ枯れてないのかよ、と思ってしまう^^;
そしてシャー・シュジャーの場合は1842年なので、約40年前。ヘラート侵攻を基点とするなら1837年なのでさらに5年ほど+される。
1842年にぎりぎり10代の19歳なら、1881年には辛うじて50代だな……。それでも58か……。60代まであとちょっとだ(汗)。
エリックの経歴を考えると、この『アフガニスタンの首長を倒した』事件で10代というのも無理があるのではないかと思うのですが、それでも才能だけはたっぷりある人なので、ぜったいに無理であるとも言い切れない。
えーと、ただ、60近い(か、それ以上)となると、19世紀当時の人としては結構長生きの部類にはいると思います。さらにオペラ座を巡回したり、クリスティーヌをさらったり、脅迫したり脅迫材料を探したり、地下でこっそり暮すための細々とした用事もやれているようなので、年のわりに体力もあったのでしょう。
ううむ、エリックは本当に、『問題なのは容姿だけ』な人なんだなぁ……。
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参考文献
「西アジア史U イラン・トルコ」
「アフガニスタンの歴史と文化」
「アフガニスタン史」
「世界現代史11 中東現代史T」
詳しいブックデータは参考文献リストをご覧ください