++ フィユトンとガストン・ルルー ++



オペラ座の怪人に限らず、ガストン・ルルーの著作はほとんどが新聞に連載されたものなのだそうだ。この、新聞小説をフィユトンという。


注意:ここから先は長い上に興味のない人にはまったく興味がない内容になります。
オペラ座の怪人の話題も特にありません。
それでもよろしければ、続きをどうぞ。






フランスの新聞は、大衆化される以前は、紙をパルプから作り出す技術が確立されていなかったこともあって、書籍や新聞は一般の生活水準に比べてはるかに割高で、個人が新聞を定期購読したり、新刊本を購入することはそう簡単にできることではありませんでした。
19世紀前半の政治新聞の年間予約購読料が平均80フラン(現在の日本円で約8万円、月額にすると6700円くらい)、この当時の肉体労働者の月収は50フラン(5万円)だったそうで、どれだけ高かったか、少しはわかると思います。
本はともかく、新聞は読みたい日だけ買えばいいじゃないか、という意見もあるでしょうが、当時の新聞は自宅配達はしてくれず、郵便物扱いだったそうで、パリではともかく地方では年間購読契約を結ばないといけなかったのだそうです。

当時の新聞は一つの政治思想に則って構成されており、それに関係のない海外ニュースやそれ以外の(現在の新聞で言えば家庭欄とか)なかったそうで、聞いただけでもあまり面白くないなあという感じがします。
この新聞業界を一遍させた男が19世紀前半に出現しました。
エミール・ド・ジラルダン(1806〜1881)です。

当時の新聞は、政治新聞以外にも文学新聞、演劇新聞、法廷新聞、モード新聞、演劇新聞と色々なジャンルはあったのですが、これらはすべて予約購読制なため、いくつも掛け持ちできるものではありませんでした。
またどこの新聞屋でもよその新聞記事を剽窃(平たく言えばパクリ)していたそうですが、パクるにしても同系統内でのことだったらしい(政治新聞は他の政治新聞からパクる、というような)。
ジラルダンの新聞も例に漏れず、ほとんどがパクりで構成されていたけれど、各種新聞の面白い記事を抜粋、編集し、さらに格安で販売することによって多くの読者をつかんだのです。たとえばジラルダンが最初に作った新聞、「ヴォルール」は年間購読料が22フラン(2万2千円)でした。
これが当たって、彼には一財産ができたのですが、類似新聞が続々と出現したりとそれなりに紆余曲折があり、1831年に「ヴォルール」とモード新聞「ラ・モード」を売却してしまいます。が、この後も新しい新聞を立ち上げたり、買い取ったりといくつもの新聞発行に関わっています。
その中でも特筆すべきは「プレス」の発行です。これは、年間購読料を安くするため、赤字分を広告料で賄う、という手法がとられた初めての新聞でした。これ以前にも新聞広告は存在していたのですが、記事が主体であったため、広告に割ける紙面が少なかったのです。ここから発想を転換させたジラルダンは、財政基盤を予約購読料から広告料に変化させました。現在の新聞、雑誌、テレビ他、広告業界はここの流れから発展してきたようです。そう考えるとすごい人だなーと思いますが、やっぱ、知名度としてはそんなに……(苦笑)

フィユトンの先駆けとなったバルザックの「老嬢」はこの「プレス」に載ったのですが、フィユトン欄ではなく、バラエティー欄に載っているのです。というのも、まだ連載長編というものがしっかり確立されていなかったため、書きあがったものを区切りのいいとことで切るためにこうなったらしい。
とはいえ、フィユトンはいわば学芸欄なので、載っているものは小説だけとは限りませんでした。アレクサンドル・デュマの歴史読み物、美術批判や劇評、科学記事、公共事業、農業、商工業の最新ニュース、海外ニュースなど。なかでも「プレス」で人気があったのは「パリ便り」という記事で、これはパリで流行っているものを紹介するものでした。
しかしこの「プレス」には強力なライバル紙があり、多少とも左翼的な読者はそっちを予約していました。そのため「プレス」は非政治的な新機軸を導入しなくてはならなかったのですが、それには小説がうってつけだとしたのでした。というのも、当時の単行本は高かったけれども、新聞連載なら他の記事とも読めるし、また時代的な特徴として活字熱が高かったのだそうだ。
新聞小説は最初のうちは目立った発行部数の増加にはなりませんでしたが、ウージェーヌ・シュー、アレクサンドル・デュマ、フレデリック・スーリエという新聞小説のテクニックをマスターした作家の登場によって状況は変わりました。新聞小説の人気は明らかに予約購読者数と連動するようになったのです。
それによって他紙も新聞小説を載せるようになり、それまでフィユトンを担当していた日替わりの記事は次第に連載小説に席を譲ることになり、フィユトンといえば新聞小説を指す普通名詞になってしまうほどでした。

フィユトン(新聞小説)には大別して2つのカテゴリがあり、1つは妨げられた愛や悲劇的な死、家族のドラマがメインテーマの感傷的な心理小説で、これらは女性が主人公のものが多かった。2つめが犯罪、冒険小説です。
ルルーは後者の作家ですので触れるのはこちらの方だけにします。


新聞小説=大衆小説、というわけではなかったのですが読者のことを考えると大衆的な物語にならざるを得ないのが新聞小説です。「純文学では飯が食えない」というのが当時の状況で(これは今でも変わってない様に思いますが)、人気フィユトン作家には、ばかすかお金が入ったようです。
「パリの秘密」のシュー。
「ダルタニヤン物語」「モンテクリスト伯」のデュマ。
などが人気でしたが、とりわけ犯罪(探偵)小説を代表とするものがモーリス・ルブラン、ガストン・ルルー、レオン・サジ、ピエール・スーヴェストル/マルセル・アランのコンビという4組5名の作家たちです。
ルブランは説明不要の有名なあの「ルパン」シリーズの作者、サジは「ジゴマ」シリーズの作者です。スーヴェストル/アランのコンビは「ファントマ」シリーズの作者です。ファントマとファントムはうっすら音は似てますが、それもその通り、ファントマ(Fantomas)はフランス語のFantomeから作られた名前なのですから。邦訳では「幻人」「幻賊」と訳されたことがあります。
ルパンもジゴマもファントマも犯罪者側に立っているという点で共通しています。
ルルーのシリーズキャラ(と書いていいのだろうか/笑)としてはルルタビーユとシェリ・ビビの二人がいるのですが、ルルタビーユは新聞記者という設定ですから、事件を暴く側になります。シェリ・ビビはそもそも1作も邦訳がでていないので、ちょっと確認できないのですが、参考として読んだ本の行間から察するに、犯罪者サイドではないかなーと思いました(誰か読んだ人いないかな…)。

ルルーは「黄色い部屋の秘密」を書いたことから本格推理作家のように思われているようなのですが(私はミステリ小説、それなりに読んでましたけど、本格がどーのこーのというこだわりはまったくないので、この辺よくわからんのです)、アクション主体の作品や、怪奇幻想小説、血みどろサスペンスや冒険小説を書いています。個人的な感想として、オペラ座の怪人はメロドラマだと思いました。他の作品は読んでいないので、といいますか、邦訳されているのが非常に少ないので読もうにも読めないので比較はできないのですが。


最後にこの文章を書く上で参考にした「怪盗対名探偵」のルルーの項から抜粋します。


―日本で、ルルーほど不当な扱いを受けた作家はまれだろう。ルパンは殆ど全部、ファントマも最初の三篇は繰り返し翻訳されたが、ルルーは日本語では「黄色い部屋の秘密」と「黒衣婦人の香り」しか読むことが出来ない。
 ルルーはフィユトン最後の巨星だし、その活劇小説と恐怖小説はいま読んでも充分面白い。改めて、ルルーを見直すときがきたのではないだろうか」―




この「怪盗対名探偵」が出版されたのは1985年です。20年の間に状況は変わりました。
ファントマシリーズは絶版になり書店では手に入らず、ルパンシリーズは子供向けのものだという認識が強くなってしまったのではないかと思います。
一方ルルーは…翻訳数こそ2点(「オペラ座の怪人」と「ガストン・ルルーの恐怖夜話」)増えただけですが、翻訳されている作品はすべて読むことができます。
ルルーは見直されたのでしょうか……?





主な参考文献
「怪盗対名探偵」
「新聞王伝説」
「近代フランスの事件簿 犯罪・文学・社会」
詳しいブックデータは参考文献リストを参照してください




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