〜鮫島尚信とパリ公使館〜

日常シリーズにちょっと登場していた鮫島尚信特命全権公使とパリ公使館について、『ニッポン青春外交官』という本に結構詳しく書いてあったのでまとめてみました。
この本を読んだ感想というのが、エリックやカノジョって、なんだかんだ、日本人とすれ違っているんじゃないか?(行動範囲が被っているという意味で)というものでした。彼らもエリックたちも、パリの街中に住んでいるんだもんなぁ…。特にカノジョは[趣味:散歩]なので、そもそも日本人に会ったのが万博会場が初ってこともなさそうな気がしてきたよ…。史実を創作に混ぜるって、匙加減が難しいんだねぇ。


◎ パリの日本公使館があった場所

まずはこれからいきましょう。
パリは地盤がしっかりしている上に、石造りの建物も多く、100年以上前に建てられたものが普通に残っている上に普通に使用されていたりします。
(そして100年以上前に建てられたからといって、特に家賃が安くもなかったりもする…)
日常シリーズはどの時期の話なのかがはっきりしないものもありますが、カノジョが初めてエリックと遭遇したのは1878年という設定になっています。
1878年に日本公使館がどこにあったか、長らく確定できないでいましたが、ようやく、よーやく、はっきりしました!
場所は当時の名前としてはジョゼフィーヌ街75番地(75 Avenue Joséphine)です。今は道の名前が変わってマルソー街75番地(75 Avenue Marceau)になっています。→グーグルマップ
Avenue MarceauとRue Newtonが交差するところですね。凱旋門が近くにあります。オペラ座とは直線距離で2km離れていないくらい。現在の様子を見てもかなり立派ですね。
この場所に1873年(明治6年)10月29日から1906年(明治39年)にオッシュ街7番地(7 Avenue Hoche)に移転するまで、在仏公使館として存在していました。家賃は年間18000フラン(借りた当初の金額。33年間で変化したかどうかは不明)、これを4回に分けて支払っていたのだとか。
建物は購入したのではなく、あくまでも賃貸のようです。所有者はリール市に住む市議会議員のソワン・ダンカルビという人物だそうですが、家賃が変わらなかったとしても18000フランのものを33年間借りるよりは買ったほうが安かったんじゃないかと思うけど、売ってくれなかったんだろうか。
また、これはパリに旅行に行ったことのある人ならご存知でしょうが、現在パリにある日本大使館はオッシュ街のままなんですね。100年以上同じ場所っていうのもすごいなー。


◎ 鮫島尚信について

お次は日常シリーズでエリックとの対面も果たしている駐仏公使の鮫島尚信氏についてです。
経歴についてはまとめるのが大変なので(取捨選択って、難しいのね…)ウィキペディアからコピペします。

薩摩国鹿児島城下山之口馬場町の薩摩藩藩医、鮫島淳愿の子として生まれる。1861年(文久元年)蘭医研究生として長崎に学び、開成所訓導(句読士)を務める。この時、長崎で知り合った前島密を英語講師に招いている。1865年(慶応元年)、薩摩藩の留学生として森有礼、長澤鼎、吉田清成、五代友厚ら15名でイギリスに留学しロンドン大学法文学部に約1年間学ぶ。1867年(慶応3年)、森有礼、長沢鼎、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵ら6名で渡米しトマス・レイク・ハリスの結社「新生社」に入り、ブドウ園で働きつつ学んだ。途中意見対立があり、森と鮫島は帰国、吉田、畠山、松村はフェリス牧師の仲介でニュージャージー州ニューブランズウィックのラトガース大学へ移った。
ハリスは王政復古後の日本政府で働くことを勧めたので森有礼ともに帰国することとし、翌1868年(明治元年)両名は日本に到着した。長澤鼎のみは、アメリカにのこり、ブドウ栽培のたずさわった。同年10月、外国官権判事、東京府判事などを経て、翌年7月に東京府権大参事となり、1870年(明治3年)8月外務大丞、同年欧州差遣、少弁務使を経て、1871年(明治4年)ロンドンに着任した。1872年(明治5年)、中弁務使に進んだのちパリに着任し、弁理公使、特命全権公使と昇進した。この間、お雇い外国人のフレデリック・マーシャルとともに若い日本の外交官向けに『Diplomatic Guide』(邦題は鮫島が「外国交法案内」と命名)を作成し、1874年(明治7年)4月、帰国。翌年に外務省の次官である外務大輔となった。
1878年(明治11年)1月、再び在仏特命全権公使を任じられフランスに駐在した。このとき、外務卿の寺島宗則から条約改正交渉に入るよう訓令されている。このときはベルギー公使を兼務した。条約改正については、ひとえにイギリスの意向にかかっており、鮫島はイギリスが同意するならばフランスもそれに倣うとの情報を得ている。
在仏公使在任中にパリで持病の肺病に倒れ、35歳の若さで病没した。終世友人だった森有礼はその葬儀にかけつけ、弔辞で「気高き働き人」と述べたという。パリのモンパルナス墓地に日本式の墓がある。


鮫島尚信の生涯と人柄について、『ニッポン青春外交官』と『鮫島尚信在欧外交書簡集』で少しわかりましたが、なんというか……ストレスすごかっただろうなというのがもう行間からにじみ出ていた人でした。
(ちなみに在欧外交書簡集は収録書簡が1877年までだったので、日常シリーズの時期にどんなやりとりをしていたのかは不明なままでした…。この本に限らず、普仏戦争終了後(1871年)から第4回パリ万国博覧会(1889年)が始まる前の文化関係の情報って、冷遇されている気がする。その前後はたくさんあるのに……。そんなに他の時代に比べて特筆することがなかったんだろうか?)
こういう方に、創作とはいえ不毛な仕事(カノジョの身元確認)をさせてしまったと気づいて、なんかもう本当にごめんなさいという気分になってしまいました。
けど、まあ、今後の日常シリーズの進行次第では再び登場となるやもしれないので、自分へのメモとして、78年以降の鮫島氏の行動について、わかるだけ書いておこうと思います。


1878年
(明治11年)











1月12日
2月12日
3月30日
5月1日
5月6日
5月14日
6月1日
7月1日
7月6日
7月26日?
8月6日
9月13日
11月27日
12月19日
特命全権公使に任じられ、フランス在勤を命じられる*1
妻サダと共に渡仏*2
パリに到着
パリ万国博覧会開催*3
外相ワダントンに条約改正の必要理由を提示、交渉開始
紀尾井坂の変が起きる
万国郵便連合条約に調印(郵便主権の回復)
ブリュッセルへ赴く
ベルギー国王と面会
パリへ戻る
ドイツのバーデン地方へ療養
パリに戻る*4
大蔵大書記官吉原重俊がパリに到着するも、病臥中につき会えず
パリで英・仏・独駐在公使会議を開催、新通商条約の締結方針で合意
1879年
(明治12年)
1月30日
12月
フランス大統領グレヴィ就任 首相ワダントン。外相も兼任?
フレシネ内閣成立。*5
1880年
(明治13年)
3月24日
4月
6月8日
7月14日
7月31日
12月4日
スペイン・ポルトガル両国の公使を兼任
パリの公使館で舞踏会を開催
スパへ出発
フランス革命記念日、国民の祝祭日となる
スパから戻る
パリの公館で死去


補足メモ

*1 病気療養のため1874年末(明治7年)に帰国していた。

*2 この時の船にはパリ万博関係者も乗船していた。
また、少々情報としては古いけれど明治6年末にロシアに臨時代理公使として向かった花房善質(はなぶさ よしとも)が残した資料『露都赴任渡航旅日記』によると、当時の旅費がいくらかかるかわかるようです。
横浜−マルセイユ間の船賃は1等で2375フラン、2等で1780フラン、3等が1710フラン。
マルセイユーパリ間の汽車賃は1等106フラン、2等79フラン、3等58フラン。
とのことだそうですが、鹿島式計算法でざっと現在の価値にすると一番安くできる船、汽車の組み合わせにするとしてもざっと170万円超え。しかもこれ、片道分だしね。予想はしていたけど、やっぱり高いなー。

*3 6月10日付けの鮫島の故郷に当てた手紙に、日本の出品物の最高売り上げ高が31万3千フラン余であるとある。一ヶ月で31億円か……。これが高いのかそれほどでもないのかわからないけど、ちょっとびっくりする額ではあると思う。

*4 『ニッポン青春外交官』に、「バーデンからパリ公館へ戻った鮫島を待っていたのは、内務卿大久保利通横死の訃報であった。」という一文があるのですが、その次に「すでに電信は届いていたが、詳しい内容は伊藤・中井それに岩倉からの手紙で知った。」という文が続いているんです。これだけ読むと、手紙は療養中に公館に届いたように読めるんだけど、そういう解釈でいいんだろうか…。
電信というのもどこから来たのかよくわからないんだよなぁ。なにしろこの時期だと書簡が残っていないから(あ、いや、参考文献をあたればどれかには書いているんだろうけど)よくわからん。
別の本で、この事件の翌日にロンドンタイムズに記事が載っていたいう情報を得ているんだよね。日仏直通の電信がまだないんであれば、日本からじゃなく、駐英公使から来たという可能性もあるよなー。いつごろ第一報を受け取ったんだろうなぁ。
いや、もう日常その19のシチュエーションはありえないということはこれではっきりしたんだけど(電信がくるなら7月末なんて時期より前に来ているだろうし、療養中にきたのならその19の時期に公使館内があんな風にばたばたするわけがないっていう…)、だったらいつだったらあのシチュエーションはありえたのだろうかとね…。どこかで諦められないんだろうなー、自分(遠い目)。

*5 新外相は首相であるフレシネが兼任。鮫島はこの人物との交流は薄かったようで、交渉に苦労していた模様。ウィキペディアのフレシネを読む限り、ワダントンも首相兼外相だったようだ(けどワダントンのページは無いようなのではっきりしたことは不明)。当時はこういうのが一般的だったのだろうか……?

*その他 在欧外交書簡集に、「日本との通信には4ヶ月かかる」と書いているものがあったので、日本とのやりとりは手紙(を船便で送る)でするというのが基本であると見てよいと思う。4ヶ月というのは往復で、だろう。ちなみに日本からロシアにある公使館への手紙に2ヶ月半かかっているようなので、往復で5ヶ月かかるということに。長い。
電信は78年時点で日本−フランス間でやりとりできたかどうか、はっきりしたことはわからないけど、できたとしても情報漏洩の問題もあるだろうから、不特定多数の人が使うような施設を利用しての電信でやりとりできることには限りがあったのではないかと予想。情報伝達は早いほうがいいだろうとは思うけど、電信を主に使うとしたら、公使館内に電信設備を作らなければならないだろう。現在のパソコンを一台設置する、というのとは全然違うだろうから、予算面で厳しかったのではないかな。



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