++ ジャポニスム ++
マスカレードでのマダム・ジリーの衣装。なんか着物っぽい柄…髪型も…と思っていたら、パンフを読んで納得。マダムの衣装は全部着物生地なのだそうだ。全部ってのは、マスカレードのときだけじゃなく、普段の黒ドレスもそうだってことなのかしら?画面ではよくわからなかったんですけど。
話はちょっと変わって春日が現在一番好きな少女マンガは「レディー・ヴィクトリアン」(もとなおこ プリンセス連載中)なのですが、その主要登場人物の1人、公爵令嬢レディー・エセルの寝巻きは「(エセルの)お父様がパリで買ってきたくださった」という着物風(浴衣か?)のもの。パリではジャポニスムが流行っているらしい、ということはそのときに知ったので(そのエピソードが載っているのは1巻(出たのは平成11年)マダムの衣装もきっとその関係なのだろうなあ、と思ったのです。
レディー・ヴィクトリアンは1878年に始まった設定になっているので、オペラ座の怪人ともヒジョーに近い。
とはいえ、近現代史に疎い管理人、この時代が、日本では江戸なのか明治なのかもわかっていませんでした。そこで年表を作りがてらジャポニスムのことを調べてみました。
主要参考文献は「ジャポニスム・イン・ファッション」です。
あ、それからジャポニズム、じゃなくてジャポニスム、が正しいみたいですね。
ジャポニズムだと、本の検索でヒットしないんですよ…。
ジャポニスムが流行るきっかけとなったのは19世紀中頃から始まった万国博覧会です(2005年は愛知でありましたが)。第1回のロンドン万博(1851年)の成功を皮切りにパリ、ニューヨーク、ウィーン、フィラデルフィア、シドニー、シカゴ、リヨン…とあっちこっちで開催されるようになりました。
51年の万博でも日本のものが出品されたよですが、これは中国セクションの一部に含まれていたそうな。まー、まだ江戸時代ですからね。鎖国政策、解けてないですから人も物もそうそう流出できなかったんでしょう。
で、1855年のパリ万博ではこんどはオランダ展示部門の中に陳列されたのだそうだ。うーん。
ようやくちゃんとした(?)日本コーナーが出来たのは1862年のロンドン万博。とはいえ、出品されたのは玉石混合、「がらくたの寄せ集めの感を免れない」と幕府から派遣された遣欧使節は感じたようだ。
が、いずれにしても半年間に渡ったこの機会に、ヨーロッパ、とりわけイギリスとフランスに<日本趣味>と呼ばれる日本美術愛好の熱が急速に広まっていきました。
1867年のパリ万博は今までのどの万博よりも大規模でした。「おしゃれの社会史」によると、来場者数1500万人だったとか…。
この時の万博には徳川幕府、佐賀藩、鹿児島藩が正式に参加し、出品されたのは、銀・象牙細工、青銅器、磁器、玻璃器、蒔絵、漆器、日本刀、水晶玉、日本女性の肖像、人形、布地、着物、袱紗、掛物、版画など。個人的には水晶玉というのが気になるのですが…。なんで水晶玉なんだろう。特産物とかかなあ?
浮世絵は女絵50枚、風景画50枚が出展されました。この女絵にかかれているものは官女、武家娘、江戸遊女、田舎娘など各階層に渡る女性であり、超一流とはされない作者のものでしたが、日本女性とその風俗をヨーロッパに伝えたものとして意味がありました。さらにこのとき人気があったのは会場に出展されたお茶屋で、そこではお茶のサービスをする3人の日本人女性が大変な人気を集めたという。
また、1878年のこれまたパリ万博の後では日本展示場の出展品が収集家たちの手で法外な値をつけられてほんの数日のうちにすべて持ち去られるというまでになったそうです。
そういえば、日本のものといえば、原作にも登場していましたね。
例のサソリとバッタが日本の青銅細工だと書かれていました。
青銅細工というものも結構な高値だったそうですが、このサソリとバッタが本当に日本で作られたものなのか、日本風の青銅細工(日本で作られたものじゃない)なのかまではよくわからない。
というか、私は「日本風」のものじゃないかな〜と思ってます。
だって、いくら日本の職人さんが細工得意でも、普段見ないようなものを作るとはとても思えないんですよ。
サソリって…本州にはいないぞ。(八重山諸島にはいるらしいけど)
で、話は着物に戻りますと、初めて着物を着ている日本人を見た十九世紀後半の人たちの多くが、ドレープの美しさ、エレガントさ、身体を圧迫せず自由であることを着物の印象としてみていたのだそうだ。が、ここで「着物が身体を圧迫しない」というところに疑問を持った人もいるでしょう。現代の私たちの感覚では、着物は胴をぎっちり締め付ける極めて窮屈な衣類、と感じる人も多いと思います。春日は着物を見るのは好きなのですが、自分で着たいとはほとんど思いません。が、なにしろ当事のヨーロッパはイロンナ意味で名高いコルセット全盛期です。これの素材は鯨の骨(本当はヒゲ)とか鉄の輪でできた窮屈なもので、見るからに着物などよりぎゅうぎゅうに締め付けられているという代物。それに比べれば着物は所詮すべて布地ですからね…楽だったんでしょう。
ドレープ、というのも現代の着物ではあんまりないのですが、盛装として着る現代の着物と違って、それが日常着であった時代は、きっちり隙なく着るものではなかったのでしょう。うーん、例えていえば、現代の制服みたいなものかな、と。もともときちんとした形の制服でも、そのまま着るってことはあまりないでしょう?女の子ならスカート長くしたり短くしたり、ネクタイ、リボンを緩めたり結び方変えてみたり、そんな感じかと。
それに浮世絵に描かれていた着物姿の人物は、こう、ずるっとしたような着方をしているのが見られますし。
ちと、脱線してしまいました。
ジャポニスムという流行を作ったもの要因として大きいのは、現在もロンドンにあるリバティー商会(1875年設立)でした。リバティー商会は日本から漆器、陶磁器、屏風、扇子、着物(反物じゃなくて仕立ててあるものの方が人気があったそうだ)などを輸入、販売し、その品物は入荷と同時に売り切れるほど人々から熱狂的に求められていたといわれています。着物は異国趣味とともにゆるやかさや開放性から、もっぱら室内着として広まっていたようです。
しかし1867年のパリ万博以後、女性誌に日本風とする試みや仮装の服の紹介が見られだしたものの、ファッションの中に影響を与えるのはもう少し先の、20世紀も間近になってからでした。1885年にロンドンのサヴォイ劇場で日本をモチーフにしたオペラ「ミカド」が話題となり、1900年には川上貞奴がロンドン、パリで公演し大変な人気を博しました。貞奴にあやかり、「キモノ・サダヤッコ」と名づけられた着物風の室内着も売り出されたりしました。貞奴の登場によって着物の美しさが再認識され、帯や襟の打ち合わせ、平面的な構造、直線的なシルエットなどがポール・ポワレなどによってモードに取り入れられ、キモノ袖と呼ばれる身頃から続きの袖のドレス、日本風のシルエットのデザインが流行することとなったのだそうです。
マダムの仮装って、流行の最先端だったんだなあ…。
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参考文献:「ジャポニスム イン ファッション 海を渡ったキモノ」