++ オペラ座ネズミちゃんとその母親 ++
● オペラ座ネズミちゃん
オペラ座でバレーの群舞を踊っている<子ネズミちゃん>。あだ名された由来はなんとなくわかるような気がしますが(ちょこまか動くあたりからつけられたんだろーな、と)パリ関係の本を読んでいたら詳しいことが書いてあったものがありました。出典は鹿島茂の「職業別パリ風俗」です。
あ、ちなみに、長いので春日なりにまとめています。原文はこのままじゃないですので。
オペラ座の中をちょこまかと走り回り、いたるところでおやつを齧っているところからその名が付いたという「オペラ座ネズミ」ことオペラ座付属養成学校生徒というのは、8〜14、5歳くらいの娘たちで、16歳のネズミはもはや年寄りネズミの部類に属してしまう。
朝はまだ明けないうちに簡素な食事(パンとカフェ・オレ)、母親に付き添われて家を出て、午前中のレッスンに通う。レッスンが終わるとおやつを食べる(当時は1日2食が普通なのだそうだ)。午後は自習の時間に当てられ、これが3時から4時まで続く。このあとは一度家にかえり、夕食を食べ、6時に再びオペラ座に戻る。毎日の公演が終わるのが9時か10時。この間、母親はつねに娘につき添って、悪い虫が付かないようにしているというのですから、いやはや、たいへんなものですね。
どうりで原作で誰々の母親、という脇役が多いなあと思ったわけです。いうなれば、子ネズミたちは今で言うところの子役で、その母親はステージママなわけです。
そしてオペラ座ネズミというのは、こういう生活をしているおかげで俗世間のことなどなにも知らずに育ってしまうが、だからといって純真無垢なわけではなく、子ネズミの母親によって色目使いとつぶらな瞳の動かし方を教わるため、別の意味では非常に大人になっている少女たちのことなのだ。
ところで、上に「悪い虫」とありますが、これはどういう人たちを指しているのかというと、主にジャーナリストや作家です。と、いうのも、彼らは(名前が売れているにしろ何にしろ)貧乏なので、そういう連中を追い払いつつ、娘のパトロンになってくれる金満家を探しているのです。
なんだか殺伐とした話ですが、当時のオペラ座ネズミ(およびその母親、または一般的な意味での女優すべて含めて)というのは、たいてい労働者階級の出身だったそうです。当時の庶民とブルジョワというものの差を一口で説明すると、生活のために必要な、炊事洗濯掃除などを、自分でする必要があるかないか、ということになると思います。一人でも女中がいればプチ・ブルジョワの仲間入り、なのだそう。労働者階級となると女中はいない。旦那一人ならともかく下手すれば家族全員が(女子供も)働かなくてはいけない、というランクになるのです。
女がそういった貧しい生活からの脱出を狙うには、19世紀にあっては高級娼婦にでもなるのでなければ女優になるしかなかったのだそうです。もちろん、成功する保障はないのは今と同じですが。
オペラ座ネズミというのは、たいてい元はこういった、オペラ座ネズミだった母親の娘(オペラでなくとも芝居小屋で端役女優をしていた、とか女優を夢見た浮かれ女(と書いてあったのだけど、つまり高級じゃない娼婦のことでしょうか)または門番女の娘なのだそうだ。
● 門番女って…?
どうやら「門番女」というのは妙に当時のフランス人の想像力を刺激したようで、小説や風俗読み物に頻繁に登場したそうです。で、門番女というのがどういうものかというと、親の職業を継ぐのが当然のような時代にあって、門番女というのは門番女の母親から生まれていない、つまり親の職業を継いだわけではないのにその仕事をしている女性たちらしい。
仕事の内容はというと、その名のとおり、アパルトマンの門の開け閉めや、住人宛の郵便物を部屋に届けるなど、建物の管理を取り仕切ることです。ちなみに、門番の妻なので門番女と呼ばれているのではなく、こういった仕事をするのは門番女の役目で、門番は門番女の旦那だから門番と呼ばれているにすぎないという。
給料は一軒の建物の全家賃収入の5%という歩合制で、家賃収入が多ければそこそこだろうけど、そうでないところではものすごく安い、ということになります。
そういうどちらかというと、経済状態が悪い方に分類される職業なのですが、門番女というのは「もしあの時○○だったら今頃は……」「私は元○○なのよ!」というような過去に執着しているような人たちで、とても自尊心が高く、その自尊心の高さ、傲慢さは間借り人たちに向けられるのだそうです。
といってもその○○というのが、貴族や富豪の妻という立派過ぎるものではなく、せいぜい破産した卸商人の妻か戦死したナポレオン将校の妻といった立場です。が、なんにしろ一度は女優や踊り子として、また界隈一の美人として男たちからちやほやされた経験があったのです。
つまり、元端役女優などだった門番女は自分の夢を娘に託し、自分にはできなかったこと(富裕なパトロンを得ること)を実現させるべく、娘にべったりしているということなのだそうだ。
と、いうことが大体わかってからもう一度原作を読み返してみると…ジリー夫人というのがそのままズバリな設定だということがお分かりになるでしょう。
ジリー夫人は原作では、「プロヴァンス街のビルの管理人をしていた」とありますし、新支配人二人に5番ボックス席について話すシーンで、オペラの歌詞を歌っています。この辺はボックス席の案内人という仕事柄、自然に覚えた、と見ることもできますが、原作ジリー夫人の性格を考えますと、彼女は元オペラ女優かバレリーナ(メグの母親だし)だったのではないかと考えられます。事情聴取のときにいちいち歌う必要は普通はないと思いますし。そもそもジリー夫人がファントムに手を貸すようになったのも、ファントムが書いた「メグは将来皇后になる」という予言(?)を真に受けてのことなのですから。
まあ、皇后になるだなんて信じるのもどーかと思いますけど、最終的にはメグは男爵夫人になったわけですから、ジリー夫人の目的はほぼ叶ったと見てよいのだろうなあ。
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参考文献:「職業別パリ風俗」
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