++ ステージ上の人びと ++
今度はオペラ座で働く人びとの中でも特に華やかな眼差しを注がれていた人びと、オペラ歌手とバレエ・ダンサーについて、階級やその職につくための方法、給料などをご紹介します。
尚、繰り返しますが春日はオペラもバレエもクラシックも門外漢なため、書籍資料しか頼りにできるものはございません。これは違う!というものがありましたら、ご指摘お願いいたします。
では、先へ進みましょう。
・バレエ・ダンサー編
オペラ座のバレエ団について詳しく知りたい方は、ドキュメンタリー「エトワール」をご覧になってください。
…では終わってしまいますので、まずは階級から。
オペラ座バレエ団では階級がはっきりしています。
上からエトワル、プルミエ・ダンスール(女性はプルミエール・ダンスーズ)、シュジェ、コリフェ、カドリーユとなっています。それぞれどんなことをする人かというと、
エトワル | 「星」の意。スター、主要ダンサー、花形ダンサーのこと。 |
プルミエ・ダンスール(男性) プルミエール・ダンスーズ(女性) |
第一舞踏主の意。イタリア語で言えばプリマ・バレリーナに相当する人びと。重要な、主役を踊るダンサーのこと |
シュジェ | 役付きのダンサー |
コリフェ | カドリーユのリーダー。短いソロを踊ることもある。 |
カドリーユ | 群舞。4人で組になって踊るメンバー。 |
言うまでもありませんが、上にいくほど階級は高いのですよ。
この他に、研修生や補欠、準団員などがいます。
あ、あと、階級とは違うのですが、こんな言葉もありました。
BALLERINES PRÉS DE L'EAU(バレリーヌ プレ ドゥ ロー)
「水辺のバレリーナ」の意。19世紀パリ・オペラ座の背景には泉や湖などが描かれていることが多く、コール・ドゥ・バレエ(春日注:カドリーユと同じ意味だと思います)の後列はその水辺にいるので、芽の出ない、或いは衰えたコール・ドゥ・ダンサーのことをこのように呼んだ。(新版バレエ用語辞典より)
…シビアだねえ。
・入団するまで
さて、オペラ座バレエ団に入団するためにはオペラ座付属バレエ学校に入学しなければなりません。「オペラ座の子供たち」から引用します。
『パリ・オペラ座バレエ学校は、この種のものでは世界で最も古い学校である。1713年にルイ14世によって創立された。この頃から学校での教育は無償であったが、プロの高い水準のバレエ団を維持することに貢献しなければならなかった。三百年以来バレエ学校はこの使命を果たしている。早くから生徒たちは医師の診察を受けなければ入学が許可されなかった。まず最初に生徒たちは舞踏の予備コースに入り、それからバレエの完成コースに移った。この時期から教育は無料になる。学校はサン・ニケーズ通りのオペラ座の倉庫内に設置され、授業は火・木・土の午前中に行われた。1860年から学校のカリキュラムの中に一般教育が加えられた。(中略)
バレエ学校の入学の条件として次のことが必要である。
――八歳から十二歳まで(男子は十三歳まで)
――フランス国籍のもの(外国人生徒は五パーセントの割合で許可される)』
のだそうです。
とはいえ、学校を終了しても必ずしも全員がオペラ座で踊れるとは限らないのです。
『最上級の生徒たちは試験を受け(校長が振付けたコーダと作品のヴァリエーション)、合格するとコール・ド・バレエの空白数に応じてバレエ団と契約するか(契約の法定年齢は十六歳)、卒業証書を手に入れて学校を去る。』
席が空いていないと、例え最終学年を終わっても入団できないというところが厳しいですね。以前取り上げた「オペラ座ネズミ」の項で、19世紀当時のオペラ座バレエ団にいた女の子たちは貧しい家庭の少女たちが多かったということを紹介しましたが、なんだか納得できる…。
競争は激しいけれど、教育費がかからず、上手くいけば玉の輿にも乗れるとなれば、熱心になるステージ・ママも多かったでしょう。
またカドリーユから上の階級になるためには年1回行われる試験に合格しなければないのですが、花形であるエトワルだけは特別。
『エトワール・ダンサーはメートル・ド・バレエ(春日注:バレエ監督のこと)の推薦に基づいて劇場の理事会によって任命される。これによってダンサーはコール・ド・バレエには所属せず、劇場と毎年更新できる個人契約を結ぶ』
のだそうです。
推薦による任命ですので、理論的にはプルミエ・ダンスールにならずともなれることはなれます。
・年収は?
華やかなバレエ団の年収は、というと単なる踊り子(つまりカドリーユのことだと思う)で800フラン(80万円くらい)でした。エトワルレベルになると支配人との交渉しだいなので、万フラン単位はいっていたことでしょう。カドリーユといえど、当時働く女性のなかではこの収入、決して低くありません。てーか、この当時の働く女性は、家計の手助けレベルなんだから低くていいんだという雇い主側の思惑もあって、基本給自体が低いのですが。
19世紀後半が舞台の小説を読むと、働き始めたばかりの(10代半ばくらいね)少女の日給は1フランか2フランがせいぜいかなという印象を受けまして、となるとまだ週休二日制など存在しなかったであろう当時、年間300日労働したところで300〜600フランしか収入を得られなかったであろうと考えると、800フランなら悪くないどころか、立派に家計を支えていることになります。
…ま、その、この当時の女優とかダンサーってのは、娼婦と同義語と考えると、他から副収入得ていたとかなんとか色々あるのでしょうが。
尚、ドキュメンタリー「エトワール」によりますと、1999年でのカドリーユの月給は1万34フランだそうです。撮影が行われたのが1999年頃のようですので、大体1フラン=18円くらいと計算すると、18万612円ということになります。年額にすると216万7千円くらい。
また、同じく「エトワール」によりますと、エトワルの月給は3万54フラン(54万972円)です。
ただ、日本とフランスでは物価が違うわけですから、日本円だと実際にはどのくらいと感じるかは春日には今ひとつよくわからない。ので、これを高いと見るか低いと見るか…。
19世紀とはダンサーの位置づけ自体も違うだろうしなー。
・そして気になる登場人物たちの階級について。
原作「オペラ座の怪人」にはバレリーナの名前が結構挙がっています。が、大体はカドリーユの子たちで、それ以外の階級に属しているとわかっているのは、実は二人だけでした。
メグ・ジリーとソレリ。
この二人のそれぞれの所属階級はというと…。
・ソレリ
物語冒頭に出てくるバレリーナのお姉さん。怪人が現れた!と騒ぐ子ネズミたちが彼女のところに駆け込んできます。頼られてるようです。ラウルの兄フィリップといい仲になっています。
『プリマ・バレリーナの一人、ソレリ嬢が楽屋で鏡に向かっていると…』と角川版では訳されているこのプリマ・バレリーナの部分、原書では『um
des Premiers sujets de la danse』となっていました。プルミエがついているので、第一シュジェってところでしょうか。えー、シュジェって、引退後、オペラ座バレエ学校で教師になっている人もいるようですので、決して能力が低いわけではないのでしょうが、門外漢としてはプルミエール・ダンスーズとシュジェの差がよくわからない…。ソレリ、支配人への弔辞を読んだりしているしね。
・メグ・ジリー
はい、メグちゃんです。原作でのママン・ジリーはバレエ教師ではなく、五番ボックス席の案内係です。ファントムの正体は知りません。
『ええ。だって、娘のメグが二級団員になれたのも〈怪人〉のおかげですからねえ』となっているところは原書で『――Oui;
d'abord, c'est à lui que je dois qui ma petite Meg est passée
coryphée.』でした。オペラ座の怪人事件が起こっていた頃、メグはファントムの推薦で(笑)群舞から群舞のリーダーに格上げされています。
で、最終的には彼女、エトワルまで上り詰めた模様。さすがにここまで行ったのは実力があってのことでしょうが。怪人事件、終わったあとだもんね。
プロローグで『かつてパリ・オペラ座の専属バレー団の魅力溢れるスター、〈メグちゃん〉の愛称で親しまれ…』とありまして、スターと英語読みで書かれていますが、原書ではちゃんとétoileとなっています。ちなみに「メグちゃん」という名称は"la
petite Meg"の訳語でした。可愛いね、これ(*^_^*)
・オペラ歌手編
クリスティーヌやカルロッタのようなオペラ歌手は、バレエ・ダンサーほどはっきりした道筋はないもようです。
原作によると、カルロッタは特に音楽学校などは出ていないようで、安酒場やミュージック・ホールなどを経て、有力な愛人を得て徐々にのし上がっていった感じです。
一方クリスティーヌはパパの願いで国立高等音楽院に入学→卒業(?)→オペラ座入団という感じです。あ、この国立高等音楽院というのは、「のだめカンタービレ」で日本でも認知度がアップしたであろう、コンセルヴァトワールのことです。フィクションの世界では、のだめとクリスティーヌは先輩後輩関係になるのだな…。百年以上離れてるけど。学科は違うけど。
入団方法までは調べ切れなかったのですが、経歴が様々である以上、試験とか面接とかしたのでしょう。売り込みもあっただろうし、スカウトもあったんじゃないかな。
・編成
これに関する情報は、「パリ・オペラ座 フランスの音楽史を飾る栄光と変遷」にちらっと載っている分しか見つけられませんでした。
1879年時の歌手の編成は、
第一テノール 3人
第二テノール 2人
コントラルト 2人
バリトンかバス・シャンタント 3人
第一バス・タイユ 2人
第二バス・タイユ 2人
第一ソプラノ 2人
第二ソプラノ 2人
聞き慣れない名称もあるかと思いますが、ここでは「こういうものがあった」ということだけ理解していただければ充分だと思いますので、細かい説明は省きます。
んで、総勢18人。
この数字、1986年の歌唱団員の数とほとんど変わらない…。
やっぱりオペラ歌手の人数はそんなにいないものなのですね。
尚、合唱団員は100名いたそうです。この数も20世紀末とあんまり変わっていないですね。
・収入は?
こちらも、出典は「パリ・オペラ座 フランスの音楽史を飾る栄光と変遷」からです。1879〜84年に支配人をしていたヴォルコベイユの時には、出演料が高騰していたのだそうです。支配人自身がが芸術家肌だったというので、歌手には甘くなっていたのかもしれません。それが財政を圧迫した要因にもなったのですが…。
オペラ歌手の出演料は、個人が支配人と談判して決まっていたもようです。ですからキャリアや階級(バレエダンサーほどはっきりしていないようではあるけれど)だけではなく、いかに交渉能力があるか、押しが強いかによって格差が生じていたようです。
最も高い出演料をもらっていた人は約12万8千フランでしたが、大人しい歌手などは6万フランほどだそうです。
一番高い人で、ファントムの半分か…。やっぱ、あの人、ぼったくりだよ。(オチがそこに行くのか!)
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参考DVD:「エトワール」
参考文献:
「新版バレエ用語辞典」
「オペラ座の子供たち」
「パリ・オペラ座 フランスの音楽史を飾る栄光と変遷」
「バレエに連れてって!」
「もっとバレエに連れてって!」
「ダンス・ハンドブック」
詳しくは参考文献リストをご覧ください。