++ エリック氏の家計簿〜2万フランの使い道を考察してみた〜その4パリの水事情 ++



☆ 概要 ☆


水です。
洗濯掃除炊事と生活するには必要なものです。
これが家計簿考察と何の関係があるのかというと、パリでは水は買わなければいけなかったから…というのは表向き、調べたら面白かったからというのが本当のところです。
(エリックさん家の周りには地下湖があるんですから、別に買う必要ないだろうしね。水道代は0円だと思ってます。)

「オペラ座の怪人」の設定年代である19世紀後半について書く前に、まずは19世紀前半でのパリの水事情を簡単に説明します。
それは「とんでもなく悪く」て「少量しか使えなかった」のです。
各家庭には上水道も下水道もろくに整備されておらず、水はセーヌ川や市内に50箇所程度しかなかった給水泉で汲んでくるか、水売りから買うしかありませんでした。一応井戸もありましたが、セーヌ川の左岸一帯は非常に堅い岩盤で出来ているため井戸を掘るのが大変な上、掘っても良質の水はでてこなかったのです。
こう書いただけでは民衆が1日にどれだけの水が使えたのわかりにくいでしょう、大体一人7リットルといったところです(1997年の東京都民の水道使用量は1日平均230リットルです。すごい差ですね)。
また下水道が整備されていなかったので、通路には家庭からでた生ごみや汚水、馬車を引く馬が落とす馬糞が馬車の車輪に砕かれて真っ黒な泥状になって体積していたそうです。それが非常に臭く、服についたら洗濯をしても落ちない染みになってしまうのだそうだ。
このあたりの描写を延々書いても不快になるだけですのでやめときますが、さすがに街があまりに不潔すぎ、人口爆発による都市機能の麻痺状態になっていたため、都市改造計画が徐々になされてゆきます。
もっとも大掛かりだったのは19世紀半ばのオスマンの改造です。
『ファントム』の中にもちらっと書かれていたこの改造によって、通路の幅は広くなり(というか、前が狭すぎたという方が正しいみたいですが)緑地広場などを設けられました。上下水道の整備にも着手しているのですが、計画こそ徹底していたものの、整備には時間がかかりました。

そして19世紀の後半。
徐々にですが、改善されてはいます。
上下水道網が完成されたのは1900年頃。富裕階級を中心に、水道加入者が増えてゆきます。それにともない、一日の一人当たりの使用量も、1858年には30リットル、1896年には95リットルまで上昇しました。
…とはいえ、ここには数字には表れないレトリックも存在しています。
水道網が広がるにつれ、給水泉が減り(給水泉には飲用できるものと、できないものがありました。で、減ったのは飲用できる方)、水売り自体も減少。加えて「水売りから必要なだけ水を買う」という行為から「水道設備の設置及び水道会社への加入」という、水代以外の出費が求められるようになり、貧しい人びとにとっては大きな負担となったのです。そのため飲用に適さない、濾過されない水を供給している給水泉(街路等の清掃用)から水を汲んで使用するしかなくなりました。しかしこれもまた、歩道すれすれに設置された流水口に取って代わられるようになります。そうなると今度は側溝のゴミですぐに汚されてしまう流水口から水を汲まざるを得なくなったのでした。
水は19世紀の後半でも、使用量にまだまだ格差が残っていたのです。

では次に、生活をする上で水を大量に使うこと――炊事、掃除、入浴、洗濯について書きましょう。ちなみにここでは家庭内に上下水道設備がない人びとはどうしていたか、ということ扱っています。上流、富裕階級などの屋敷内に上下水道の設備を持っている人びとなら、水を使いたい場合には蛇口をひねればいいのですし、捨てたいと思ったら流せばいいのですから…。


☆ 炊事、掃除 ☆


材料の下ごしらえや、煮炊きをするための水、或いは洗物や掃除に使うための水。水売りに運んでもらえるだけの経済力があればまだましで、そうでない人びとは自分で汲んでこなければなりません。水は重いです。当然、汲んでこれる量も限られてくるので、その中からやりくりしなくてはなりません。また、使い終わったあとの汚れた水…これも外に運んで捨てなければなりませんでした。
上述した、19世紀前半での水の一人頭の使用量というのは、ほぼこの炊事や掃除でしか使われていなかったと思われます。


☆ 入浴 ☆


コレ抜きでは毎日の生活が成り立たないと思う人は多いでしょう。
ですがそれも、使用できる水の量が少なければ、風呂に入ろうと思っても入れなくなります。
しかし、文化や風習が違うというのは面白いものです。
19世紀の民衆にとって入浴は縁遠いものでしたが、だからといって上流階級ならば容易なことだったかというと、そういうわけでもなかったのでした。
それというのも、キリスト教の影響で肉体というものを罪悪視し、裸体になるということ自体が忌むべきものとされていたのです。また、垢は身体の表面を守ってくれるので、それを落とさない方が良いという「医学的」な考えが支配的だったという理由もありました。
そうなると身体の清潔を保つにはどうするかというと、頻繁に下着を取り替えることで良しとしていたようですが、さすがに体臭までは消せなかった。それでも体臭が強いのは健康な証拠だという当時の医学的常識によって歓迎されていたそうです。
しかし徐々に上流階級から入浴の習慣は広がりだしました。
パリでは革命の時にイギリスに亡命した貴族が入浴の習慣を持ち帰ったといわれています。
イギリスの方が入浴の習慣が先に定着していたみたいですね。
そして入浴方法ですが、一口に入浴といっても、種類がいろいろあります。
19世紀末でバスルームがあったのはごく一部。たいていは部屋の中に浴槽を置いて入浴していました。また、浴槽がないのも珍しくなかったので、そういうところでは大きなたらいに水(お湯で入浴というのは、軟弱だからダメだという風潮があったので…。水風呂にしか入らなかったというわけではないようですが)をはってスポンジでこするという方法がとられていたようです。
ちなみに、どれだけ浴室が普及しなかったかを示す事例として、1973年(ほんの30年くらい前ですよ!)の調査で風呂もシャワーもない家庭がパリでは36パーセントあったというから驚きです。
とはいえ、「風呂に入らない」ということと「身体が垢だらけ」だということは必ずしも=で結ばれるというわけではなく、風呂に入らず清潔を保つ、という方法もあったのでした。
これで私が長年かかえていた疑問がとけたので、まずはその「風呂に入らず清潔を保つ方法」について鹿島茂氏の「クロワッサンとベレー帽」から引用します。

 まず、朝起きると、バケツを提げて、中庭の井戸あるいは水道の蛇口のあるところまで水を汲みにゆく。金持ちはこの仕事をお手伝いさんにやらせるが、金のない者は自分でやるしかない。
 次に、バケツの水を水差しに移し、化粧用テーブルに置く。冬ならば水を台所コンロで温めるという作業が加わる。
 次いで、水差しから少しずつ水を金だらいに入れては、裸の体を濡らしたタオルか、あるいはガン(手袋)と呼ばれるミトン型のスポンジで順次ぬぐってゆく。とくに首、顔、腕といった人目に触れる部分は入念にする。水を節約しながらこれで頭まで洗うのである。
 水道が各部屋まで引かれるようになったのちも、水汲みの過程を除くと、基本的にはこの作業に変わりはなかった。


↑のことがわかったことで溶けた疑問というのは、小学生の頃に読んでいた(というか、大人になって再会して、懐かしくて衝動買いしてしまったので現在も持っているのだが…)「すてきなケティ」シリーズの一冊、「すてきなケティの寮生活」の一場面。
学校の規則について、すでにその学校に入学していたいとこ(正確にいえば、ケティの母親のまたいとこの娘)のリリーに聞いているところです。

「でもどんな規則なの?」
 ケティとクローバーは、同時にさけんだ。
「お祈りをなまけないこと、部屋を出るまえにベッドをきちんとすること、自習時間に口をきかないこと、洗面所では自分のタオルは自分の釘にかけること、まあそんなことよ。」
「洗面所ってどこのこと?」
 ケティが、わからないというようにきいた。
「寮のはじにあるわ。みんなそこで顔をあらうのよ。土曜日だけお風呂へ行くの。自分の洗面器や石けんやタオルとタオルかけなんか持ってね。あら、どうしたの? そんな大きな目をして!」
(中略)
 その午後、ケティはお父さまをはなれた席へひっぱっていって、洗面所のことを話ました。
「イジーおばさまは、いつもよい女の子は毎朝スポンジでからだをこするようにっておっしゃたけれど、ひとつの洗面所におおぜいの生徒では、どうしたらいいんでしょうか? こまったわ。」
「なんとかしてあげるから、くよくよするんじゃないよ。」


この続きとして、父親は洗面台を買ってケティの部屋につけ、それをうらやましがった他の生徒たちも次々自分用の洗面台を買ってもらうようになり、結果として洗面所はなくなってしまった…と展開するのですが、これを読んだ小学生当時の春日、部屋に洗面所があるということにも首を傾げたものですが、お風呂に行くのは土曜日だけ、ということにも驚いたものです。
だって…現代感覚からすれば、洗面台を買うということは、水道工事もともなう、結構費用がかかるものだという認識があるじゃないですか。小学生だったとはいえ、春日もそのくらいはわかっていましたので、「洗面台がほしい」「いいよ」で済む話ではないだろう、と思っていたのですが…。
今ならわかります。これはたんに水道など引き込まなくてもよいタイプの洗面台だということを…。そしてケティがおばさまから言い渡されていた「スポンジでからだをこする」ということの意味も。
そして「清潔を保つ」ということはは、「浴槽に浸かる」ということと、場所により、時代により、必ずしもイコールで結ばれるものではない、ということもわかったのが最大の収穫でした。



さて、長々と寄り道してしまいましたが、ファントム自身には自宅に浴室を作っているということから、入浴の習慣がついてると考えてよいでしょう。多分、ペルシャやトルコにいた時期に身につけたものじゃないかと。
彼の才能をもってすれば、地下湖からパイプ引くくらいわけなさそうですし、そうなると「お湯も水も自由に使える快適な浴室」があるのは当然かもしれません。そしてわざわざ「お湯も水も自由に使える」などと書いているところから、当時いかにお湯も水も自由に使えなかったかを物語っているようで興味深いです。
また、クリスティーヌはエリックの家に行ったときに、水風呂に入っていますが、その理由は色々考えられます。温かい風呂は人を軟弱にするという当時の医学的言説や、肌をひきしめる美容法として、また、ある種の医療行為として医師から処方されるといった具合です。
当時の医療行為としての冷水浴について、こんな記述がありました、。

すなわち全身的あるいは部分的衰弱、過剰な発汗、オナニーや過度な性欲のために引き起こされた健忘症、躁病、てんかん、狂気などの場合はこの冷浴が勧められた。恋患いを治すには最適で、とくに大きな悲しみには絶大な効果を発揮する。人を冷静にする効果は不眠症にはてきめんで、即座に静かな眠りをもたらす。
(「自由・平等・清潔」より)


前半についてはともかく…後半はつまり、「水でもかぶって頭を冷やせ」ってことのような気が(汗)
確かに、水風呂に入ったら、冷静になるほかないとは思いますが…。





☆ 洗濯 ☆

最後に、洗濯について。
上下水道の不完備から、洗濯は自宅ではなかなか行われないものでした。
洗濯女という洗濯業を営む女性たちや、洗濯舟、洗濯所という場所へ行って自分で洗うかのどちらかが主です。
その経費もつもりつもれば大変な額になります。
当時「田舎の小さな町なら、パリの家族が洗濯代に使っている金だけで充分生活ができる」とすら言われていましたが、パリの人間にとって、洗濯代は衣食住と並んで必要な経費でした。
洗濯所は洗濯を生業としている女や、自分で洗濯をするおかみさんが集まる、一種の井戸端会議所となっていたようです。当然ながら男は近づけなかったようです。女ばっか集まっているので風紀が乱れないようにと役人が回ってくることはあるそうですが。
この洗濯場の雰囲気について詳しく知りたいという方は、エミール・ゾラの「居酒屋」を読むよよいでしょう。みっちりと取材をするタイプの作家であるゾラが、これでもかというほど教えてくれます(笑)

洗濯の方法はというと、

1 汚れのひどいものは灰汁水につける(そうでないものは湯につける)
2 洗濯台の上に洗濯物を広げ、石鹸を塗る
3 洗濯棒で叩く
4 一度すすいで再び石鹸を塗り、洗濯ブラシでこする
5 白物は仕上げに藍などで青みをつける
6 ゆすいでから水を絞り、干す
7 乾燥後、アイロン+糊付け

こんな感じ。染み抜きや漂白にはソーダや次亜塩素ナトリウムなどが使われました。また、染みの種類によっては塩+レモンなんてのも使われていたそうです。
5の「青みをつける」というのは、ただ白いものより薄っすら青白いものの方がより白く見えますよね?この、より白く見せる効果のために藍などを使っていました。
上の作業工程からも想像がつくと思いますが、このようなやり方では布地はすぐ痛んでしまいます。洗濯女があまりにも強くこするため、5,6回も洗濯をすればぼろぼろになってしまう、ということも「18世紀パリ生活誌」にありました。
原作のファントムはどうだかわかりませんが、スーザン・ケイのファントムがオペラ座の地下に居を移してからの場面で「同じシャツを二度着る必要もなかった」と言っているのは、多分それが理由じゃないかと思います。ジュールに洗濯物を預けて洗濯女に洗ってもらい、次に来る時もってきてもらうということはできても5,6回でダメになるなら買い換えた方がいい、ということかなあと。地下湖ありますから、自分で洗濯することもできるでしょうが、乾燥が難しいでしょうねー。雑菌臭くなって。



4回にわたって続けた2万フランの使い道考察(考察になっているか疑問ですが^^;)はここで一区切りとします。
お付き合いありがとうございました。





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主な参考文献
「18世紀パリの明暗」
「パリの聖月曜日」
「誰がパリを作ったか」
「18世紀パリ生活誌」
「風呂トイレ賛歌」
「明日は舞踏会」
「クロワッサンとベレー帽」
「自由・平等・清潔」
「すてきなケティの寮生活」
「居酒屋」
「ヴィクトリア朝の暮らし〜貴族と使用人(二)」
詳しいブックデータは参考文献リストを参照してください。