「仮面舞踏会などに興味はあるかい?」
オペラ座の見回りから帰ってきたエリックは、外套を脱ぐ間もなくそう言った。
「仮面舞踏会?」
唐突な質問だったので、よく考えもせずに鸚鵡返しをするわたしに、エリックは丁寧な説明をしてくれた。
「仮面舞踏会というのは、仮装をして、仮面をつけて参加するダンスパーティのことだ。今度オペラ座で開催するのだがね、もし興味があるのであれば連れて行こうかと思っているのだが……」
「それって、勝手に参加してもいいものなの?」
仮面舞踏会だなんて、招待状がなければ入れないのではないだろうか。まあ、わたしたちなら正面から入るわけではないだろうから、招待状など必要ないのかもしれないが。
わたしの疑問を察したのだろう。エリックは頭を振ると、
「貴族や富豪の邸宅で行うものであれば、招待客でないと入れないがね、これはオペラ座の興行だ。入場料を払えば誰でも入れるんだよ」
「そうなんだ……。でも、わたし、踊れないよ?」
「それなら私が教える。それに、必ずしも踊らなければいけないというわけでもないさ。……もしかして、迷惑だったか?」
心配そうに顔を曇らせるエリックに、わたしは急いで首を振った。
「そんなことないよ。ただ珍しいことを言い出したなって、思っただけ。人が大勢集まりそうなんだもん。エリックはそういうところ、好きじゃないんじゃない?」
「確かに好きではないが、たまにはいいさ」
それに、とエリックはにやりと笑った。
「ずっと家にいるお前をみていると、どうも調子がでなくてな。退屈をしているんじゃないかね、お嬢さん?」
寒くなってきたので、散歩に出かける頻度が減ったことを言っているのだ。
まったくこの人は。いなければいないで文句を言うくせに。
でも外国の仮面舞踏会なんてすごそうだし、興味はある。
それでわたしは彼の憎まれ口はスルーして、にっこりと頷いたのだ。





さて、仮面舞踏会にはただ仮面をつけるだけではなく、仮装も重要だということだ。
なのに開催予定日までは二週間しかないという。
なんて急な! と思ったが、彼は舞踏会があることは前々から知っていたものの、今日になって急にわたしを連れて行くことを思いついたので、こんなことになってしまったらしい。
それにしたって、衣服を仕立てるのには半月くらい普通にかかるというのに、今からで間に合うのだろうか。
「どんな仮装をするの? 何か考えはある?」
エリックにそう問うと、
「なくはないが、お前はどうだね? やりたいものがあるのなら、それを優先しようかとは思っているが」
とはいえ、急に仮装を考えろと言われても……。
現代だったら、仮装―と言うよりも、コスプレと呼ぶ方が馴染みやすい―の題材にできるものはそれこそいくらでもあるけれど、この時代のパリでとなると、ちょっとピンとこない。
「エリックの考えを聞かせて? それで異存がなければそれでいいよ。仮装舞踏会なんて初めてなんだもの、どんな仮装がアリなのかもわからないのに、すぐには思いつかないよ」
「仮装は仮装なんだから、なんだってアリなのだがな」
エリックは苦笑いをする。そして、
「動物、などがいいのではないかと思うのだが。題材としては凡庸だが、変に浮いてしまうということはない」
なるほど納得。動物系だったら、わたしの時代でもあるものね。着ぐるみとかパーティ用のアニマルマスクとか、色々。
「動物かぁ。いいよ、それでいこう。で、動物にもいろいろあるけど、やりやすいものといったら、やっぱり……猫とか犬とかうさぎ、とか?」
耳と尻尾をつけただけでも現代なら充分コスプレになると思うのだけど、この時代だともっと凝った衣装を作らないといけないのだろうか。
……はっ。
もしもエリックがわたしと同じ動物の格好をするというのであれば、ネコ耳とか犬耳とかうさぎ耳をつけることになる、のだろうか? それは、見たいような、見たくないような……。
わたしの葛藤などには気付かない様子で、エリックは猫がいいのではないか、と呟く。
「もしかして」
わたしは作り笑顔を浮かべて首を傾げた。
「この間の話の続き?」
つい先日、彼はわたしが猫になりたいと思っていると勘違い―まんざら勘違いでもないのだが―をして、話がおかしな方向に転がったのだ。それを蒸し返しているのだろうか。
するとエリックはまっすぐこちらを見つめながら力説をしだした。
「違う。ああ、いや、少しもあの話が頭をよぎらなかったかといえば嘘になるが、それがきっかけではない。猫ならば誰でもわかるし、仮装としても難しいものではないと思ったまでだ。むろん、犬やうさぎでもかまわないが」
……白々しい、と思うのは勘ぐりすぎだろうか。
そんなに私のネコ耳装着姿が見たいのだろうか。いいけど、別に。マニアック、というほどでもないし。
……いや、マニアックなのかな? うーん。
「エリックも猫になるの?」
なんだか胸のあたりがもやっとしているが、それは言わないでおこう。
「いや、さすがに私が猫というのもな。やるとしたらネコ科の動物……トラやライオンなどがいいのではないかと思うのだが」
「ライオンはともかく、トラって、猫とどう違うのよ」
トラ耳なんて、猫とたいして変わらないじゃない。
「トラの頭をつけていて、トラとわからない奴はいないと思うが」
不思議そうに言う彼に、わたしは自分の思い違いに気付いた。
「もしかして、頭全体の被り物を被るつもりだったの?」
「他にどうすると言うんだい、私のこの顔で」
冷ややかに彼は笑う。心臓に針を刺されたように、ずきり、と痛んだ。
「そういうつもりで言ったわけじゃなかったのよ。仮面舞踏会だというから、仮面をつけるものだと……だから、顔全体を隠すとは思わなかったのよ」
わたしの弁解に、彼は薄く笑みを浮かべた。……かなり自嘲的なものを。
あああ、触れてはいけないところに触れてしまった。
ごめんなさい。本当に、ごめん!
でも、口に出してはいえないけど、彼はずいぶんと変わったと思う。
こうしてわたしがうっかり顔のことに触れてしまっても、怒ったり殻に閉じこもったりしなくなったもの。それだけ信用されていると思うと、それが嬉しくて、同時に不憫に思えて、わたしはこの人を甘やかさずにはいられなくなるのだ。
「話を戻そう」
彼は、さっきまでよりは明るさをなくした声で言った。
わたしは無言でこっくりと頷く。
変にぎくしゃくした空気を長引かせないように、こういう時には無理やりにでも話を別の方向に持っていくようにする。いつの間にかわたしたち二人の間で決まっていた、暗黙の了解、というやつだ。
「わたしは猫をするにしても、衣装はどうするの? 猫の格好、たとえば耳と尻尾をつけて、あとは全身タイツみたいな感じ?」
とはいえ、ああいうのはよほどスタイルがよくないと、お笑い芸人みたいな感じになってしまうだろう。メイクも本格的にしないと、イタい感じになるだろうし。
「そんな格好のお前を、衆目の前につれて行くと思うか?」
真顔で返されてしまった。ええ、そりゃ、お笑い芸人風のイタいコスプレなんて、みっともなくて連れて行けないんでしょうよ。
「参加者はあらゆる階層の人間だ。それが素性を隠しての乱痴気騒ぎをするんだ。酒も入る。どんな輩がいるともしれないのに、必要以上に扇情的な格好をする必要はない」
「……」
「聞いているのか?」
「聞いてます、聞いてます」
思わず目が点になったわたしに、エリックは苛立った様子で畳み掛けた。
いえ、わたしとしては予想の斜め上の切り返しをされてビックリしただけなんだけど。
だけど、今回のはやっぱりエリックの心配しすぎのようだと思うのよね。
全身タイツが扇情的に見えるのは、よほどスタイルのいい人でないと無理でしょう?
彼の目にはわたしはスタイル抜群の美人にでも見えているのだろうか……。
それはさすがに、欲目ってものだと、思うよ……。





「ねえ、仮装用のドレスでも、絶対にバッスルスタイルでないといけないの?」
着たかったわけではないけれど、全身タイツが否定されたので、わたしは新たな路線を探るべく、エリックに問うた。
「いや、仮装の中には過去の時代の流行や他国の民俗衣装というものもあるから、必ずしもバッスルスタイルでなければいけないということもない」
「柄やデザインの要望があるわけじゃないんだけど……というか、どんなドレスにするかも決まっていないんだから、決めようがないんだけど、こういうときに着るドレスって、つまり、パーティ用で、普段着るものじゃないんでしょう」
「まあ、そうだな」
「だったら、バッスルがないほうがいいな、って思って。やっぱりあれ、すっごく邪魔よ」
渋面を作りながら言うと、エリックは苦笑いをした。
「コルセットはまだいいのよ。こんなにきついものじゃなかったけど、わたしの時代だってボディラインを整えるのは女なら当たり前のことだもんね。でもバッスルみたいのはなかったから……」
わたしはため息をついた。
肩パットですら苦手なわたしだ。バッスルなんて、お尻に大きなクッションもどきのものをつけているようなもの。さすがにこれは一年以上着ていても好きになれない。
「ならば極端に言えば、選択は二つに絞られるな。広がったスカートにしたいのであれば、クリノリンをつけるしかないし、膨らみのないスカートで良ければ、どうとでもできる」
「あ、スカートは広がってなくていいの。どうとでもできるのなら、楽な方がいいし」
ひらひらと手をふると、エリックはあごに手をあて、軽く上を向きながらぶつぶつと呟いた。
ディレクトワール、とかフレイヤ、とか聞き取れたけれど、わたしにはさっぱりわけがわからない。
その独り言があんまり長く続いたので、わたしは退屈になって新しくお茶を入れることにした。結論が出たら呼んでね、と言い残してキッチンに向かう。
お湯を沸かしてお茶をいれ、クリームやレモン、砂糖を一緒に持ってゆく。エリックの前にカップを置くと、上の空で「ありがとう」と言った。
「バステトはどうだ?」
それから少しして、彼は唐突に切り出した。
「バステト……って、何?」
「エジプトの女神だ。猫、もしくは猫の頭部を持った女性の姿で表されることが多い。どうだ?」
自信ありげに彼は訪ねる。
「エジプト……」
また随分思いがけないところからネタを引っ張ってきたものだ。
だけど猫でかつ楽なスカートというわたしの希望は充分満たされている、と思う。TVや本などでしか見たことないけど、古代エジプトって、巻きスカートっぽいタイトスカートを身につけている、というイメージがあるもの。
しかし、エジプトは……。
「この季節にはさすがに寒すぎると思うんだけど」
今は冬なのだ。暖かい南の国の衣装を着るには季節が逆すぎる。夏なら喜んでやったんだけどね。
エリックはそれには思い当たらなかったというような顔になった。
むっつりと黙ってお茶を飲みだす。
ゆっくりとカップが置かれると、彼は徐に口を開いた。
指を一本立て、
「控え室を一つ借りて、事前に暖炉に火を入れておく」
そして二本目を立て、
「お前はここで着替えて、コートを着てそこまで移動する。そしてコート含め、荷物はそこに置く。あるいは控え室で着替えをする」
そして三本目、
「衣装は完全にエジプト風にはせず、露出を抑える。会場に出てしまえば暖房と人いきれで寒いというほどではないだろう。これでなんとかなると思うがどうだ?」
……ここまで考えてくれたのに、寒いからヤダとか言い続けることなど、わたしにはできない。
それに人前に出るのが好きではないはずなのに、仮装をするとはいえこれほどまでにノリノリの彼の邪魔をするのもしのびない。
「わかった、バステトをするよ。そのかわり、エリックも何かエジプトの神様をやってね」
「そうだな。その方が釣り合いも取れていることだし」





ということで、わたしは猫女神さまのバステトに、エリックは鳥の格好をしたトート神の格好にそれぞれ扮することにしたのだった。






…続きます



続き  目次