お風呂上がりから、しばらく。
 洗った髪もほとんど乾いたのでもう少ししたら寝ようと、腰掛けていたベッドからぽん、と弾みをつけて立ち上がった。数歩あるいて、わたしは立ち止まる。真下を見下ろすと、緩く広がったドレッシングガウンの裾が揺らめいていた。床につくかつかないかという長さのそれを、わたしは軽く持ち上げる。
 ついうっかり掃除熱が高まってしまい、重たい絨毯を持ち上げようとして肩から腕の筋を痛めてしまったのは、午前中のこと。それというのも、この部屋の床は広い範囲が絨毯で覆われていることが原因だった。
 石や木の床ならば拭き掃除ということができるけれど、絨毯ではそれも難しい。時々は絨毯用のブラシをかけていたし、糸くずや髪の毛、埃などの目に付いた摘み取れそうなものはその都度取り除いていたけれど、焼け石に水だろうと思っていた。けれど、どうにかしたかったのだ。
(どれもこれも、裾が長いんだもん……)
 わたしは腰に手を当てて、どうしたものかとため息をついた。
 さすがにドレスを着ることには慣れてしまったが、だからといって感性までもがこの時代のものと同化したわけではない。特に衛生観念などというものは容易なことでは変わらないのだろう。過去の世界とはいえ、現代とあまりにもかけ離れた文化程度の時代だというわけではないのだ。映画やらなにやらでそれっぽく作られた世界を見聞きしたこともそれなりにあるだけに、たいていのことは許容範囲内に収まるもの。もちろん驚いたり納得がいかなかったりすることだってあるけれど。
 朝から夜まで、たっぷりの布地を使った衣服を着て家の中をうろつき回っていれば、そりゃあ埃も溜まるというものだ。おまけに、ここフランスは靴文化だ。外へ出ていった時の靴そのままで家の中を歩き回るのだって当たり前のこと。もちろん靴の裏の汚れをこそげ落とすような玄関マットのようなものもあるし、わたしに関して言えば、外出した後は靴をはきかえるけれど。
 だがこういう国のこういう時代なので、どれだけ気をつけていても、ドレスの裾の、特に縁あたりが薄汚れてしまうのは避けきれない。ゴミキャッチャーみたいなものだもんね。
 濃い色で染められているスカートはまだましだ。けれど淡い色のものや生成のペチコートなどは、本当にため息が出るしかなくなる。そしてその汚れを落とすための洗濯も重労働ときた。悪循環よね、これって。
 だから一度、徹底的に絨毯を掃除したいと前々から思っていたのだ。けれどベッドなど、いくつか家具を動かさなければいけなかったので、なかなか手を出せなかった。
 それを実行に移した理由は、特にない。しいて挙げるのならば今朝はやけにすっきりと目が覚めてしまったから、だろうか。気分がよくてやる気がみなぎり、「何かやりたい!」という気になってしまったのだ。その「何か」の具体的な内容は決まっていなかったので、朝食後に日課の部屋の片づけをしていたら、それに対してスイッチが入ってしまったようだ。「どうせいつかやらないといけないことよ。なら、今日やってもいいじゃない!」という謎の感情の盛り上がりが起こり、わざわざ汚れてもかまわないようなドレスに着替え、袖まくりをしたりスカートを絡げたりしてやる気満々で念願の絨毯掃除に取りかかったのだ。
 そして結果は、大敗北。まさかあんなに重たいものだとは思わなかったのだ。
 にっちもさっちもいかなくなって、今日はもうこれ、無理よねと結論づけて、わたしはしょんぼりと動かした家具を元に戻した。不発に終わっただけに、その作業をしている間はむなしさで一杯。それに、肩から腕にかけて負荷をかけすぎてしまったらしく、断続的な鈍い痛みが走った。その痛みは強いものではなかったけれど、これまでの経験から、明日はきっと筋肉痛になるだろうという情けない予測が頭をよぎる。なんて踏んだり蹴ったりなんだろう……。
 という話をリビングでくつろいでいたエリックにこぼしたら、湿布を作ってくれると言ってくれた。それからそういう大掃除をする時には自分に頼むようにしなさいというお小言も頂いて。
 本当、その点は反省している。たとえ自力でやれそうだとしても、こういうことは二人でやった方がよい。余裕を持って作業した方が早く終わるし、無駄に疲労困憊しなくてすむもの。
 
 わたしはこきこきと肩を回して、重たく刺すような痛みにげんなりしながら居間へと向かった。
「エリックー?」
 いるかな、と声をかけると、食堂の向こうから彼が姿をあらわす。
「寝るところか?」
 折り曲げてあったシャツの袖を直しつつ、エリックは歩み寄ってくる。
「ええ。エリックの方は大丈夫?」
「ああ、こっちも準備がすんだところだよ」
「じゃあ、お願いします」
 ぺこりとわたしは頭を下げる。エリックはソファに座って待っているように告げると、また食堂の方へ戻った。言われた通りソファに座るも、なんとなく心許なくなって、膝を抱えて背中を丸める。
 寝巻き姿で彼の前に出るのは久しぶりだ。以前はなんとも思わなかったはずなのに、なぜか今日はどことなく落ち着けない。
(……現代の服って、部屋着もおでかけ着も着心地的には大差なかったからなぁ。こっちは日中は鎧みたいに完全武装しているのに、夜はこんなにゆるゆるすかすかだもんね。落差が激しいから、ちゃんと着ているのに、なんだか不安になっちゃうのかな)
 真夏の昼間にTシャツ短パンノーブラだと、お客さんが来てもそのままの恰好では応対するのが恥ずかしい、という感じに似ていると思う。
 なんてことを考えているうちに、小さい陶器のボウルのようなものと白い布を手にエリックが戻ってくる。
「待たせたね、。さっそく始めようか」
「はーい。お手数おかけします」
 わたしはぼんやりした思考を振り払い、ドレッシングガウンを脱いだ。
(肩だけ出せばいいのよね?)
 その下に着ている、現代の呼び名でいうネグリジェとよく似ているナイトガウンの、縦に並んでいるボタンをいくつかはずす。
 この時代だ。貼る湿布薬などというものはもちろん存在しない。そもそも一時的な筋肉の疲労や炎症に効く湿布薬自体、売っているのかどうか。基本的に安静にしていれば一日二日程度で治るもんね。
 だからこれから行う治療ともいえない治療は、エリックが調合した湿布薬をガーゼなどの布に塗布して患部にあて、包帯で固定するというものなのだ。
 ふと、わたしはボタンを外す手を止める。
(肩に湿布をするとしたらこう……肩から脇の下にかけて包帯を巻くようにする、のよね)
 他に包帯を巻けそうなところはなさそうだし。
(となると……結構がばっと肌蹴ないといけなくなる……?)
、どうした?」
 わたしが動きを止めたので、いぶかしんだエリックがのぞきこんできた。手には湿布薬を塗り込んだガーゼを乗せている。
 準備万端な彼に、わたしは質問した。
「包帯を巻くには、脇まで出さないといけないのよね?」
 うっかりすると胸まで見られそう。今夜だけならキャミソールを寝巻き代わりに使えば良かったかもしれない。ブラなしのキャミ一枚でエリックの前に出るのは、さすがにかなり恥ずかしいが。
「うん?」
 エリックはかすかに眉根を寄せた。それからどう包帯を巻くかシミュレーションをするように、指を伸ばして空中に線を描く。肩と脇を何度か往復するように上下させると、彼は軽く頭を振った。
「あまり、よくはないな。このやり方では固定が甘いので、あっという間に包帯が緩んでしまうだろう」
「それじゃあ、どうするの?」
 エリックの口振りだと彼は肩付近に対するなんらかの治療をしたことはなさそうだ。けれど彼は医者ではない。薬の調合や医療技術はおいそれと医者にかかれない自分のために覚えたことなのだ。だから包帯巻き一つとっても自身がやったことがないことは、さっとやれないこともあるのだろう。
 エリックは持っていたガーゼをテーブルに置くと、顎の下に軽く曲げた指を添えて考慮する様子を見せた。それからしばし、沈黙。
「こう、だな」
 彼は包帯を巻く順序を指を動かすことで説明しだした。
 始まりは二の腕。ぐるりと二周させ、端の部分が解けないようにする。それから次の一周は肩の関節あたりを通り、背中を斜めに横切って、包帯を巻き始めたのとは逆側の脇の下を通し、胸の上を通過して、再び二の腕に戻る。それを少しずらすようにしつつ二回か三回繰り返せば、肩を覆うように包帯が巻ける、と彼は言った。
 それを聞いて、わたしは驚きに目を見開く。
「そんな大げさな巻き方をしないといけないの? 立派な怪我人みたいじゃない」
 湿布薬塗りガーゼを固定するという目的の前に、それはあまりにも包帯の無駄遣いのような気がする。おまけに湿布は両肩にやってもらうことになっていた。だからこの巻き方だと腕もあげられないほどがちがちに固まってしまいそう。まるで一部分だけミイラになってしまうみたいだ。
 エリックははっと息を吐いた。
「仕方あるまい。腕や足とは違うんだ。この上からドレスを着ないだけ、ましだと思った方がいい。……私も誤算だったよ」
 そうか、エリックもここまでぐるぐる巻きにしないといけないとは思っていなかったんだ。
(どうしようかなぁ)
 この後は眠るだけなんだから、大げさだろうが何だろうが、やるだけやってしまっても構わないだろう。けれど、そのためには相当、前を肌蹴ないといけないわけで……。位置的にかなりぎりぎりなのだ。せめて隠したい部分だって、見えてしまってもおかしくないほど。
(湿布のために上半身裸になるくらいなら、別にやらなくってもよかったわよ!)
 だって、放っておいても治るもの。
 けれど箱から出した貼る湿布を、やっぱりやめたと元に戻すのとはわけが違うのだ。数種類のハーブその他の材料を調合したエリック特製のお薬は、鮮度第一で使える期間が短い。だから今回のための薬も、わざわざこれのために作ってくれたのだ。
(それを、やっぱりいらないなんて、わたしには言えない……)
 恥ずかしさといたたまれなさに、わたしは苦悩する。エリックもわたしがどうして行動に移さないのかを理解しているのだろう。口をへの字にしたまま促すこともできず、動きを止めていた。
「え、エリック〜」
 どうしよう、とわたしは彼を見上げる。エリックはぎくりとしたように半歩あとずさった。それで、エリックもすごくこの事態に困惑しているのだと、悟る。
(落ち着いて。もしも正面にいるのがお医者だったら、治療なんだからと脱いでいたでしょうに。それにわたしとエリックは婚約しているんだから、どうせいつかは全身見られるのよ。……ならここで照れてもしょうがないじゃない!)
 わたしは腹をくくってナイトガウンのボタンに手をかけた。
「えっと……。ちょっと準備するから、後ろを向いていてもらえるかな?」
 だが、急なことだったのでくくりきれずに、わたしは中途半端な抵抗を試みる。
「あ、ああ。わかった」
 エリックはぎこちなく頷くと、ソファから立ち上がり、少し離れたところまで歩いていった。こちらに背を向け、後ろ手を組む。わたしはわたしでエリックに背を向けて諸肌を脱ぎ、ガウンの身頃をしっかり胸にあてた。こんな状態だから背中はがら空き。寒くはないけれどスースーする。
「あの、いいよ」
 背中を向けたまま声をかけると、エリックが振り返る気配がした。かすかな足音をさせ、彼が近づいてくる。
 ソファが揺れ、わたしが座っているところも少し沈む。エリックが腰掛けたのだ。たったそれだけのことに、どうしようもなく鼓動が早くなる。
 目の端にエリックが塗布ずみの湿布を取り上げるのが見えた。
。少しこちらを向いてくれ」
 冷たい指先が二の腕に触れ、わたしは大げさなほどびくっとなる。うわぁ、なにこれ。恥ずかしい……。
「大丈夫か?」
 わたしの反応が大きすぎたせいだろう。エリックが気づかわしげに声をかけてくる。
「だ、大丈夫。大丈夫だから、気にせずエリックは作業を続けてちょうだい」
 わたしは身体の向きを変えながら、どう聞いてもぜんぜん大丈夫ではなさそうな、半分裏がえり気味の声で答える。ああ。少しは落ち着いてよ、わたし……!
 エリックはしばしためらったが、では始めようと言って開始した。指をまっすぐに伸ばした彼の手から少しはみ出るサイズのガーゼを、慎重な手つきで肩の一番高いところを覆うように乗せる。
「冷たっ!」
「あっ」
 しかしそのガーゼに塗られていたものが予想外に冷たくて、わたしは反射的に肩をすくめてしまった。エリックは軽く指を添えていた程度だったので、弾みでガーゼがボタリと落ちる。落下したそれは塗布面を下にしていた。落ちた先は座面に広がっていたガウンのスカート部分。
「あ、あー。ごめんなさい!」
 せっかく用意してくれた薬が……!
「いや、こそ大丈夫か。すまない、先に言っておくのだった。ミントが入っているので、ひやりとするんだよ」
 エリックはガーゼを取る。べちょりとした薬剤は、半分くらいガウンに染み着いてしまった。
「あ、うん。それは匂いでわかった」
 あの独特の香りは間違えようったって、間違えられるものではない。けれどミント臭を認識する前にひやっとしたものだから、わたしの意志に反して身体が勝手に動いてしまったのだ。
「ごめんなさいエリック。やりなおし、しないといけなくなったわね」
「ああ、それよりもお前のガウンが汚れてしまった」
「そんなの、後で洗うから平気よ」
 包帯を巻き終わったら、部屋に戻って新しいガウンに着替えればいいだけだし。
 エリックは未使用のガーゼを布巾代わりにして、ガウンにくっついてしまった薬剤をふき取りだした。けれどどうしても拭ききれなくて、泥パックのような見た目のそれは黒っぽい不定形の染みをガウンに残した。
 エリックは改めて湿布薬を新しいガーゼに塗る。わたしはといえば、さっきのごたごたで緊張感がどこかへ飛んでいってしまった。治療だもんね。意識しすぎたら、エリックだってやりずらいだろう。
「今度は落とさないでくれよ」
 小さく笑って彼は新しい湿布薬を肩に乗せる。今度は心構えができていたので、すくみそうになるのは堪えられた。
「動かないで」
 しいっと言うように、彼は唇の前に指を一本立てた。不意打ちのような優雅なその仕草に、一瞬どきっとする。
 エリックはシミュレーション通り、まず両手を使って二の腕にしっかりと包帯を巻き、端が解けてしまわないように処理をした。それが終わるとぐいっと包帯を引き、肩の関節あたりに持ってくる。片手で包帯を引き、もう一方の手はガーゼがずれないように押さえて、次には背中に回った包帯が巻き込まないようにと髪をかきあげた。
「脇をあけて」
「あ、うん」
 言われた通りに肘を持ち上げ、包帯が脇の下をくぐれる隙間を作る。それから胸の前へ。
 だがエリックの動きが鈍くなった。わたしが前を押さえているので、ガウンが包帯の行く手を少々邪魔をしてしまっている。わたしはそろそろとガウンをずり下げる。恥ずかしさが再燃しそうだった。
 包帯は無事に胸の膨らみの上部を横切ってスタート地点に着いた。もう一度、二の腕に巻いて緩まないようにきゅっと締める。それから少し巻き込まれてしまった髪の毛を引き出した。かすかな刺激に、むずむずしてくる。
 それを二回繰り返し、ようやく包帯巻きは終了した。けれどまだ片方だけ。肩は二カ所あるんだものね……。
 終わったころには気疲れして、どうしてこんなにというくらいへとへとになった。
 それでもなんとか笑顔でエリックにお礼を言うと、部屋に戻ろうと立ち上がる。相変わらず、前は手で押さえたままだ。手を放すとすとんとガウンが脱げてしまうが、すっかり両肩があげにくくなってしまっているので、みっともない恰好ではあるものの、このまま退散することにする。
「それじゃあ、おやすみなさい」
 脱ぎかけのガウンの裾が裳裾のように床になびいた。わたしはエリックの頬におやすみのキスをすると、足にまとわりついてくる裾を引きずって、その場を後にする。

「なあに?」
 呼び止められて、わたしは振り向く。ソファに座っていたエリックは、ひたとわたしを見据えていた。彼はすっと立ち、迷いのない足取りで音もなくわたしのそばに来る。至近距離に立たれてしまったので、首をめいっぱいそらしてエリックを見上げた。
「そのままでは転んでしいまいそうで危なっかしい。私が運ぼう」
「運ぶって……きゃあ!」
 意図をくみ取る前に、エリックは実行してきた。ふわりと身体が宙に浮く。
「え、エリック!?」
 気づくとわたしはお姫様抱っこ状態で彼の腕の中にいた。
「ちょっと、え? あの……エリック?」
 自分でも何を言っているのか、何が言いたいのかわからない。エリックは軽く片眉をあげると、わたしを抱き上げたまま、腕を上下させた。子供相手にならば、あやしていると感じるその動き。けれどここでそれをする意味がわからず、わたしは彼の真意を問うように見上げる。エリックはにやりとした。
「こんなことをしてもふらついたりはしないだろう? いいかね、。私はお前一人持ち上げるくらい、造作もないことなのだよ」
「あ……」
 昼間のあれか。まさかここで蒸し返されるとは思わなかった。
 だけどエリックからすれば、男である自分が女のわたしを重くて抱えられない、なんて思われたのでプライドが傷ついたのかもしれない。別にわたしはそれでエリックのことを頼りないなんて思いはしないし、女の方が重たいカップルだって世の中にはいるだろうから、あの時は本当に、重いと思われるのが嫌だったから、なんだけど。
「あの、ごめんなさい」
「いや、わかってくれればそれで構わない」
 目を伏せて謝るわたしに、エリックは頷く。それから落ち込むな、と額にキスした。
(エリック、今日はやけに積極的だなぁ)
 午前中からそうだったもんね。どういう心境の変化があったんだろう。わたし、何かしたのかな。
 歩きだした彼の腕の中、安定感のある振動に身を任せながら、そのままエリックを見上げていると、ふと彼はわたしを見下ろしそして、含んだようなあえかな笑みを浮かべた。
「さっきお前が立ち上がった時、ヴェニュス・デ・ミロのようだと思ったよ」
 ミロのヴィーナス? それって女神のように美しいということかな。……そんなわけはないか。
 わたしはエリック公認で散歩ができるようになった時、ルーブル美術館に行って実物をみたことを思い出した。
 そもそも有名な像だから大体の感じはわかる。けれどミロのヴィーナスって、均整の取れたスタイルだけど、この時代の感覚でも、二十一世紀の日本の感覚でも、かなりがっしりした体格だといえるだろう。そういえば、あの像は上半身裸なのよね。それで……。
「寸胴?」
 だと言いたいのだろうか。彼は。
「補正下着をつけていない女の身体なんてそんなものよ。きっちりメリハリのあるスタイルの人の方が絶対少ないんだから!」
 などとわたしは自己保身に走る言い訳を口走ってしまった。エリックは歩みを止め、目を見張る。
 なにを馬鹿なことを言ってしまったんだろうと我に返るも、声に出してしまった言葉は取り消せない。エリックは唇を引き結び、顔をそむけた。けれど身体の振動は、こちらに伝わってしまう。彼は笑うのを堪えているのだ。
「ちょ……。ごめん、今のは忘れて」
「いや、すまん。笑うつもりは」
「もういいから……」
 そむけた顔を元に戻したものの、エリックの表情にはいまだ笑いの残滓がある。
 彼はわたしを抱え直すと、再び歩き出した。ナイトガウンをちゃんと着ていないから、だんだん滑ってくるのよね。
「後ろ姿のことを言っていたのだがね。わからないならそれでいいよ」
 拘るなぁ。
 でも後ろ姿?
 ミロのヴィーナスの後ろ姿って……。
「っ!」
 わたしは反射的にお尻をガードしようと、肘を曲げて胸の上に置いていた腕をおろそうとした。しかし包帯によって肩から二の腕にかけて拘束されているようなものなので、まともに動かせない。
、暴れるんじゃない」
「そういうことは黙っててよ!」
 冷静に注意する彼に、わたしは食ってかかった。
 わかった、わかった。エリックが言いたかったこと!
 ミロのヴィーナスの後ろ姿。つまり、お尻が少し見えていたってことだ。うわぁぁぁっ!
 だってしょうがないじゃない。寝る時にまでドロワーズなんてはいていられないもの!
「背中から線が美しいと褒めたつもりだったのだが」
 わたしの狼狽ぶりにエリックは明らかな困惑を見せる。
「褒め言葉になっていないの!」
 見せるつもりもないのに見せていたなんて、恥ずかしい以外の何者でもない。
「そうか……。すまん」
 エリックはひっそりと肩を落とした。さっきまでの余裕ぶりが消え去り、覇気が失われる。そうなるとこの人は一気に老けてしまったように見えるのだ。……いや、実際に結構な年なんだけどね。
 それからエリックは黙ったままわたしを部屋まで運んだ。両手が塞がっているので、ドアノブを回すことができず、わたしに頼んでくる。ぎこちない動きでドアを開けると、エリックは肩で押しやるようにして室内に入った。
 もう寝るだけだからと、光量を落としたランプが淡い光を放っている。室内は家具の輪郭がわかる程度だ。
 エリックはわたしをベッドにおろすと、化粧台の上においていたランプをサイドテーブルに持ってくる。
「ありがとう、エリック」
 彼は小さく頷いた。
「あの」
 それからきびすを返したエリックに、わたしは衝動的に声をかける。エリックは足を止めて話を聞くそぶりを見せた。
「あの……。ドキドキした?」
 意味がわからないというように、彼はかすかに首をかたむける。右半面の白い仮面しか見えない横顔は、淡い光を受け、そこだけが浮き上がって見えた。神秘的な姿は人ならざる世界の王のよう。
「後ろ姿……。わたしの」
 すると彼はくっと喉の奥で笑った。
「少しな」
「少し」
 わたしはきっと、性格か感性があまりよろしくないのだろう。彼の「少しに」かちんときてしまったのだ。
 だってわたしたちつき合っているのに。婚約しているのに、少しってどういうことよ。そりゃあ色気のあるとはとても言えない容姿だけど、それなりに彼の心をつかんでいるんだと思っていた。「とても」とか「すごく」じゃないにしてももう少し肯定してくれるのだと思っていたのに。
 むくれながら抗議すると、エリックは心の底から絶望したようなため息をついた。それを見て、わたしは頬を膨らませる。
「言い過ぎたとは思ってるわ。でも……」
 彼は気分を害してしまったのだろう。それも無理はない。だってわたしの発言は言いがかりもいいところだからだ。それはわかっている。けれど予想外にがっかりしすぎて後に引けなくなった。

 ただ一言、エリックはわたしの名を呼んだ。ただそれだけでひやりとした空気が部屋を満たす。
 ああ、彼を本気で怒らせてしまったのだと気づいたが、もう遅い。どうしようと心臓がバクバクしたものの、唇が凍りつき、謝罪も弁解もできそうになかった。
 エリックは身体ごとこちらに向き直ると、威圧感のある歩き方でわたしの前に来た。両の腕は自然におろされたまま。だけど、激しい感情を押さえる時にするような、腕組みをしているように感じる。

「はいっ。ごめんなさい!」
 今度は瞬間的に口が動いていた。胸を押さえている手は外せないので、首をかくんと曲げて頭を下げる。
、結婚しよう」
 ……はい?
「停滞しているのが良くないんだ。日本公使館からの連絡が来るまでは、と思っていたが、それはもういい。元々、あれは偽りの依頼だったのだからな。このままではいつかなんて日はいつまで経っても来ないんだ!」
 エリックは一人で何度も頷きながら、苛立ちを押し殺すようにしゃべる。
 ……話が飛躍しすぎてついていけない。
「あの、エリック……」
「白黒はっきりさせよう。私たちの関係を明確なものにするんだ。!」
「はいっ」
 わけがわからないながらも、呼ばれたので脊髄反射で返事をした。わたしの目線に合わせるように膝を曲げた彼の目は、荒々しい光を放っている。
「異論は?」
 疑問形で問うているものの、およそ反論を許すとは思えない口調だった。畳みかけるような、強い響きを帯びている。
 とりあえず結婚することに異論はない。けれどなぜこんな話の流れになったのか、それがわからない。ロマンチックな雰囲気で言われたなら喜んで頷いたものを、こんな風に半ギレで聞かれるなんて。
 半年前のわたしだったら将来が不安になって、考え直させてくれと言ったかもしれない。けれど今はもう少し、余裕がある。
「ないわ」
 日を改めて、エリックの機嫌が良さそうな時に落ち着いて話をしよう。彼がこうなっているのは、エリックの考え方の問題の時もあるけれど、わたしの反応がまずかった場合ということもよくもあるのだ。だからわたしも心身の状態を整えないと。
(少なくとも今日は無理ね。こんな、ガウンを半分脱いでいる上に身動きが取りにくい状態じゃ)
 エリックはわたしがはっきりと受けたことで感情の糸が切れてしまったようだ。力なく頭が垂れ、くぐもった声が漏れる。
「私はたまに、自分で自分を褒めてやりたい気分にかられる……」
 顔は伏せられているが、そぼ降る雨に濡れた小動物のような雰囲気に、わたしはとっさによしよしとなでて抱きしめたくなってしまった。
 さすがによしよしと言わなかったが、片手を伸ばしてエリックの頭に触れる。
「よく頑張りました。……じゃなくて、エリックはとってもよく頑張っていて偉いです」
 頑張りましたとわたしが言うのは上から目線のような気がしたので、言い直す。しかし我ながら妙な言い回しだわ。
 ふるふると肩が揺れたので、背を屈めて彼の表情をうかがう。エリックは泣き笑いの表情を浮かべていた。
 ぐっと彼の上半身が傾き、長い腕がわたしの胴に回されていた。太股の間のくぼみに顔を半分下にして、エリックはじっとする。
 もっと頭をなでてもらいたいのかと、わたしはゆっくりと彼の頬に触れた。堅い仮面越しだったけれど、心地よいのか、エリックは目を細める。
「ああ、頑張った。そして頑張っている。……もう少し頑張ってみることにしよう」
「わたしに手伝えることがあったら、いつでも言ってね」
「お前がその発言を後悔しないよう、気を引き締めよう」
 エリックは力のない声で笑う。
 なぜ、と思ったがそれ以上彼は何も言ってくれなかった。


 わたしがこのかみ合わないまま成立した会話の意味を理解したのは、数日後だった。
 すみませんエリック。エリックは淡白なんだと思っていただけなんです。焦らしていたわけでもなんでもなかったんです。……もっと早く言ってくれたら良かったのよ。わたしだって、頑張るのに。





miloのフランス語読みがミロでいいのか、わからん…。
英語読みだと「マイロ」みたいな感じのようだけど。

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