ふと、夜中に目が覚めたの。
 のどが渇いていたので、ベッド脇のサイドテーブルの水差しを持ち上げてみたのだけど、中身はからっぽだった。
 ちょっと億劫だったけど、しょうがないなあと起き上がって部屋を出た。

 裸足の足に、床の冷たさが気持ちいい。
 歩いているうちにふわふわした眠気が剥がれてゆく。
 くあ、と小さくあくびをして、なんとなく頭を動かすと、エリックの地下帝国でもっとも存在感を主張しているパイプオルガンが蝋燭の明かりに揺らめいた陰影をつけて鎮座ましましている姿が目に入った。


 わたしがこのオペラ座の地下に住みはじめて半月ほどになる。
 当初はお互いにぎこちない感じだったけど、ようやく普通に話ができるようになってきた。
 とはいえ、わたしたちはどちらも、あまりプライベートなことには立ち入らないようにしている。
 だから、エリックの過去をわたしは知らない。
 仮面の下の素顔も見たことがない。
 ……興味がないわけじゃ、ないんだけどね。


 エリックはここのところ熱心にパイプオルガンの前に座っている時間が長かったのだけど、ようやく一区切りが付いたのだろうか、今はそこに彼の姿がない。
 ここはエリックの世界で、わたしはそこに紛れ込んだ異邦人で、だから彼のすることにあれこれ口出しする権利なんてないとは思っているのだけど、ろくに休憩もとらないでいるのをみると、小言の一つも言いたくなるのよ。
 ……実際に言ってみたけどまったく相手にしてもらえなかったわ。
 ようやく寝に行ったのね、とちょっと安堵していたら……んん?

 ソファーの端から、靴が見えた。

 近寄ってみると案の定、エリックはソファーに横になっていた。
 よっぽど疲れていたようで、身体を投げ出したような、ちょっとだらしない姿。
 眉間にはしわが寄っている。
 作曲が上手くいっていないのかな?
 なんにせよ、このままじゃ風邪を引きかねないわね。
 わたしはエリックの部屋に入って(勝手に入っちゃって、ごめんね)彼のベッドから毛布を取ってきた。

 それを身体にかけようとして、ちょっと考え込んだ。
 ……靴は脱がせたほうがいいわよね。
 毛布が汚れちゃうし、第一窮屈だろう。
「ん……」
 靴を脱がそうとくるぶしを触ったら、エリックが身じろぎした。
 起きちゃったかな、と顔をあげてみたけれど、身体の向きを変えただけで、起きてはいないみたい。
 ちょっとほっとした。
 別にやましいことなんてしてないけど、なんとなく恥ずかしかったから。
 靴を脱がし終わると、毛布を広げて、隙間ができないようにぽふぽふと包む。
 タイも外した方がいいのかなあ。首周りがきつそう……。
 いいや、外しちゃえ! どうせもう靴を脱がせてしまったのだ。
 タイを外すのに少し苦戦して、ついでとばかりにシャツの第2ボタンまで外した。あ、胸毛がある……。
 ま、これで多少はいいでしょう。
 上等の服にしわができちゃうから本当は上着も脱がせた方がいいと思うのだけど、さすがに長身のエリックを抱えることはできないので、そのままだ。

 一仕事が終わって息をつく。
 ああ、なんかすっかり目が覚めちゃったなあ。
 このまま起きていようかな。

 立ち去る前に、エリックの顔を覗き込んだ。
 こんなチャンスはめったにない。
 顔の半分には仮面がついていることもあって、あまりまじまじと見たことがないのだ。
 エリックも顔のことは聞かれたくないような素振りをしていたから、尚更。
 ちょっとくらいなら、わからないよね。
 好奇心がうずうずうず……。
 そーっと、手を伸ばし、でも躊躇して、ひらひらとエリックの顔の上で指を動かした。

 ……。
 ……。
 …………。

 やっぱり、やめよう。
 気になるけど、こんなの、卑怯だよね。
 いつか彼の方から外してくれるのを待とう。

『ごめんなさい』
 声に出さないで、謝った。
 エリックは相変わらず難しい表情で眠っている。
 それがなんとなく可愛らしく思えて、わたしは小さく微笑んだ。
 少し乱れた髪が額にかかっていたので、整えてみる。
 ぴくり、とエリックの瞼が動いた。
 いけない、起きちゃう。
 わたしは慌てて立ち上がり、どきどきする心臓を押さえてその場から離れる。
 ああ、明日、エリックの前で動揺しないといいんだけど……。





はじめて短編らしい短編にチャレンジしてみました。
短編って、難しいですね…



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