我が地下帝国の住人が一人増えてからというもの、予想外の騒ぎが起きるようになった。
 もともと人と関わらずにいたいという願いから地下へ住処を移したというのに、これでは本末転倒ではないか。
 今日、彼女は寝室から出てきてからずっと、アイシャを追い掛け回していたのだ……。


 それまで彼女はアイシャと特に親しいわけではなかった。
 アイシャは彼女を警戒していたし、彼女もアイシャを脅かさないようにしていたので、彼女たちの付き合いは自然と一線を引いたものになっていた。
 それが今日はどうしたことだろう。
 寝室から姿を現した彼女は、アイシャを追い掛け回し始めたではないか。
 アイシャは迷惑そうに逃げ回り、彼女はたまに小さな声で「アイシャ」と呼びかけたり、「待って」と懇願したり。
 本当に、どうしたというのだろう。
 しばらく見守っていると、アイシャは彼女の手をすり抜け、ひょいと高い所へ避難した。しかしいつまで経っても彼女が下から見上げているので、いい加減嫌になったらしい。
 背中の毛を逆立てて威嚇すると、爪を出したまま飛び降りた。
「きゃ……!」
 彼女は腕で顔を庇いながら小さく悲鳴をあげる。
 アイシャはその隙に彼女の横をすり抜け、部屋を横切り、私の膝まで駆け上がってきた。
「アイシャ〜」
 彼女は恨めしそうな表情で振り返る。
 アイシャはつんと顔を背けた。
 良かった。とりあえず顔を引っかかれてはいないようだ。私はアイシャの背をなで、落ち着くよう促す。
「いきなり追い掛け回されたらアイシャも困るだろう」
「わかってるわ。でも、ちょっとだけ抱っこさせて欲しかっただけなの」
 目を細めて喉を鳴らしていたアイシャだったが、彼女が近づくといつでも飛び出せるよう身体に力を込めた。
「どうしたのだね急に?」
 私はアイシャをなだめ、彼女には向かいのソファに座るよう手を動かす。
「……ちょっとね」
 近づいてきてようやく、彼女の顔色が悪いことに気がついた。
「具合が悪いのか?」
「ううん。ただ寝つきが悪かっただけ」
 小さく首を振ると、彼女の真っ直ぐな髪がさらりと揺れた。
 飲むか? とブランデーの瓶を指差す。
 彼女は少し間を置いて「やめとく」とはにかんだ。
 しかしすぐにため息をついて億劫そうにソファーの片隅に置かれていたクッションに手を伸ばして引き寄せ、ぽふりと倒れこむ。その様子はなんとも気だるげだった。
 こんな時、普通の男だったらどのように慰めるのだろうか。人との付き合いがほとんどない私にはこんなことすらままならない。
「大丈夫かね。なにか欲しいものはあるかい?」
 結局口から出たのはなんとも陳腐極まりないこの一言だ。
「……アイシャをぎゅーってしたい」
 顔だけこちらを向いて彼女は呟いた。その眼差しがとても切なげで、私は思わず息を飲み込む。
 ああ、誠実なる我が友よ――「友」という言葉を女性に対して使う日が来るとは――。
 私の罪を許したまえ。
 否定され疎外され恐怖される、それが当たり前だった私に対等の人間として向き合ってくれる君に感謝こそすれ欲情するなど!
 私がアイシャの代わりにぎゅーっとされたい、と考えたことは絶対に気付かれるわけにはいかない!

 しかし長年培ってきた無表情は内心の動揺など微塵も出さなかった。
「それは難しいね」
 いつもどおりの口調。彼女の表情にも変化はない。
 しかしアイシャは少々不機嫌そうに低く鳴いた。ばれただろうか。
「そうみたいだね」
 彼女は身体を丸め、身体と膝の間にクッションを挟み込む。
「ねえ、エリックからアイシャにお願いしてもらえない? ちょっとだけでいいの。すぐ終わるからって」
 すまなそうに両手を合わせてくる彼女に私は困惑した。
 私がどう言っても嫌なものは嫌と意思表示をするのが、アイシャという猫だ。
「抱っこさせてもらえたら、一週間、家事はわたしがするわ」
「いや、それには及ばないが」
 共同生活をしているとはいえ、この時代の生活に不慣れな彼女に雑用をさせる気にはなれない。見るものすべてが珍しく、使い方がわからないようなので今までどおり家のことは私がやっている。もともと自分でやっていたのだから、苦ではない。
 彼女の分担は自分の部屋の掃除くらいだ。
「アイシャ、彼女はそう言っているが、どうだい?」
 アイシャはすぐに膝から降りて尻尾を揺らしながら暗がりへ去っていった。
「……本格的にご機嫌を損ねてしまったようだ」
 私は軽く肩をすくめる。
「……ごめんなさい」
 彼女しゅんとうなだれた。
「仕方がないね。あとで彼女の好物を用意しておこう。しかし君が何かをねだるのは珍しい。よほどの訳があるのだろう?」
「え、えーと」
 何気なく聞いたつもりだったが、途端に彼女は頬を赤らめ、クッションに顔半分を埋めた。
 不思議に思って目線で話すよう促すと、彼女はますます顔を赤くした。
「恥ずかしいから、言えない」
 私は言葉を失った。
 何か大きな墓穴を掘ってしまったようだ。
「すまない。私は女性のことには疎くて、不躾なことを聞いてしまったようだね」
「うん? 別に女だけがなるってわけじゃ……。でも生理的な欲求だし……」
 最後の方はもごもごと喋り、彼女は目をそらす。

 せ、生理的な欲求?
 一体どんな?
 背中に冷や汗が伝っている。ああ、これ以上話を続けてもいいのだろうか。

 気まずい空気が流れる。
 彼女は落ち着きなくそわそわしていたが、ふいに立ち上がると、
「わたし、部屋に戻るわ」
 宣言して立ち去ろうとする。
「なにか私にできることがあれば……」
 その背に向かって呼びかけると、彼女は勢いよく振り返って
「ううん、いいの! エリックにしてもらうわけにはいかないもん」
 真っ赤になってきっぱりと断ってきた。

 一体なにが起こっているんだ?




裏なネタではありません(笑)
しかしうちのファントムはなんてヘタレなんだ…(そして鈍い)。




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