波が来た―――。


 今までも何度か来ていたけど、今回はずいぶんと大きかった。
 神経が高ぶっているのか、ベッドに入ってもなかなか寝付けない。
 眠ったと思ったら、中途半端に目が覚める。
 自分の体温で温まったシーツがうっとおしい。
 涙ぐみながら起き上がり、八つ当たりとばかりに枕にパンチをお見舞いする。
 羽枕がぼふんと情けない音を立てた……。


 この不調の原因ははっきりしている。


 ホームシックだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 時々、胸にぽっかりと空洞が空いたような感じがすることがあった。
 空ろな感覚に飲み込まれるような。
 風が体内を駆け回っているような。
 そんな時は決まっていらいらしたり、ふさぎ込んだり、訳もなく泣き出したい気分になる。
 じっとしているのが苦痛で、当り散らしたい衝動が起こる。

 ああ、やばい。
 このままでは本当に部屋の中のものを手当たり次第に投げつけそうな気がする。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 エリックとの同居が始まってしばらく経つが、地下での生活は日が入らないことを除けばあまり不満はない。
 どういう構造になっているのかは知らないが、空気の入れ替えはされているし、明かりにも水にも不足はない。明かりはさすがに現代人の目から見ると弱いものだけど、物を認識する分には十分の光量あるのだ。
 やることはあまり……というか、ほとんどないというのが現状だけど、休暇と思えばいいだろう。
 本音を言えば、せっかく十九世紀末のパリに来たのだから観光の一つもしたいものだけど、エリックはわたしが外に出るのをとても嫌がるのだ。ここのことが他の人間に知られるかもしれないと危惧しているからだ。
 それはわかるけど彼だって外出しているのだから、その時に一緒に連れてってくれればいいのにと思うのだけど、そうもいかないらしい。
 もう少し信頼関係が築けたら改めてお願いしてみようと思う。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 話がずれてしまったが、つまりここでの生活に慣れたことは慣れたのだが、それに比例するかのように家が恋しくなってもきたのだ。
 一応、東アジアとの間を結ぶ船はあるようなのだが、乗ったところでどうなるものか。百三十年前だなんて、せいぜい曽祖父母が生まれているかどうかというところだ。日本に帰りつけたとしても迎えてくれる者などいやしない。
 そして元に時代に戻る方法は見当もつかなかった。

 こんな状態でどうやってホームシックを治せるというのか。
 いや、治せない。
 つまんない反語表現を使うくらい、わたしは参っていた……。


 エリックに少し話相手をしてもらおうかとふらふら部屋を出ると、彼の飼い猫アイシャが尻尾をふりふり目の前を横切っていった。
「……アイシャ」
 アイシャはうるさそうにちらりとわたしを見る。
 わたしと彼女はあまり仲はよくない。
 しかしこの時のわたしは、温かくて柔らかいものを無性に抱きしめたい想いで一杯になったのだ。

 ああ、そうよ、そうなのよ。
 このもやもや感はそういうことだったのよ!

 矢も楯もたまらず、アイシャを捕まえようと彼女の後を追い始めた。
 もちろんアイシャは驚きと不快を露に、わたしから逃げる。
 最後にはエリックの膝の上に逃亡されてしまった。


「いきなり追い掛け回されたらアイシャも困るだろう」
 アイシャの背を撫でながらエリックは言った。
 深みのある声には苦笑が混じっている。
「わかってるわ。でも、ちょっとだけ抱っこさせて欲しかっただけなの」
 彼に促されて、エリックの向かいのソファーに腰を下ろす。
 具合が悪そうだと心配されて、琥珀色の液体を飲むかと問われる。
 どちらも否定したのがいけなかったのか、何か欲しいものはあるかと聞かれた。
 これは……彼にしては結構珍しい。
 それだけ案じてくれているのだと思うと、何も答えないのも悪いように思えて、正直に心のあるがままを答えた。
「……アイシャをぎゅーってしたい」
エリックは少しの間無言だった。
「それは難しいね」
 呆れていたのだろうが、それを感じさせないよう、さり気なく言葉を続ける。
 アイシャはエリックがすぐさま反対しなかったのが気に入らなかったのだろう、不機嫌そうに低く鳴いた。
 そんなに嫌わなくても……。
 エリックにアイシャへの橋渡しを願い出るも彼女は暗がりへ消えてしまう。残されたわたしは彼の好奇心の的となった。

 しかし……。
 いい年してホームシックになったなんて、恥ずかしくて言えない。
 するとエリックは明らかに挙動不審になった。
「すまない。私は女性のことには疎くて、不躾なことを聞いてしまったようだね」
 ……へ?
 わたしはちょっと驚いて目を見開いた。
 顔を赤くしたからいけないのか、「恥ずかしい」という言葉がいけなかったのか、エリックはどうやら全く違うことを考えてしまったようだ。
「うん? 別に女だけがなるってわけじゃ……。でも生理的な欲求だし……」
 勘違いを訂正しようとしたのだけど、失敗したらしい。
 彼は明らかに悪いことを聞いてしまった、という表情になった。
 ……ううむ、マスク越しでもそれなりに表情って、わかるものなのね。

 ここは打ち明けた方がいいのだろうか。
 と思ったけど、エリックにお家に帰りたいだの、寂しいだの、言ってもいいのだろうか?
 ここは居心地のいい家だけど、日の射さない、人との交流が起こりえない所だ。
 好きで住み始めたのだとは、ちょっと思えない。
 そうしなくてはいけなかった事情が彼にはあるのだろう。
 寂しいなど生温いという想いを、彼はずっとしてきたのではないだろうか……。
 そう考えると、わたしのホームシックなんて、取るに足らないもののように思えてきた。
 うん、親切にしてくれるエリックに心配かけるような真似はやめよう。

「わたし、部屋に戻るわ」
 気持ちを整理しようと立ち上がると、エリックがすかさず
「なにか私にできることがあれば……」
 と言い出してきたではないか。

 ああ、エリック。
 ここでそんな優しいことを言うのはやめてください。
 決心が鈍りそうです。
「ううん、いいの! エリックにしてもらうわけにはいかないもん」
 実は、ちょっとだけぎゅーっとするのはエリックでもいいかなあと思ってしまった。
 もちろんそんなことは、言えるものじゃないですよ!




進学、就職で一人暮らしを始めたお嬢さんたちに奉げます。
いやでも、ホームシックって、結構きついですよね……。




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