ずーっと気になっていたことを聞いてみた。
「あそこの部屋、何があるの?」
わたしが尋ねると、エリックはしばし無言になった。
部屋の片側には大きなオルガンで占められている居間。その中央あたりには肘掛け椅子とテーブルが置かれており、お茶を飲んだりするのはたいていここだ。
あそこの部屋とは、居間から見える扉の中で唯一、一度も鍵が開けられたことのない扉のことだ。その少し脇には脚立がある。
気にするなというのは無理な話だ。
「ふーむ」
エリックは肘掛にゆったりと身体をもたれかけさせ、リズムを取るように指で頬を叩く。仮面のせいで少し音がくぐもっていた。
「知りたいかね?」
心持ち身を乗り出し、軽く首をかしげて、エリックは暗い笑みを浮かべた。
その表情は「やはり聞かれたか」とも「やっと聞いてきたか」ともとれ、彼の葛藤している様子が透けて見えた。
反射的に「やっぱいーです」と答えたくなったが、そこはそれ、この場を取り繕ってもまたすぐに聞きたくなるだろう。
「……うん」
正直に答えるとエリックは少し待つように言い、自分の寝室に戻っていった。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「さあ、これがあの部屋の鍵だよ」
エリックはわたしの手をつかむと、やや大ぶりのブロンズの鍵を握らせた。金属特有のひやりとした感触に背が粟立つ。
「エリック?」
見てもいいの?と目で問うた。
「構わないよ。お気に召すとは思わないけどね」
わたしは彼の差し伸べてきた手を取って立ち上がった。
エリックはわたしに先に歩かせるようにし、自分はすぐ後ろにくっついてくる。
背後の圧迫感がどうにも後ろめたさを引き起こすのだが、こんなに簡単に見せてくれるのなら、単に使っていないだけの部屋なのかもしれない。いや、物置かなにかかも……。
「それで、ここは何の部屋なの?」
楽しみのような怖いような、どきどきする胸を落ち着かせようと、ことさら明るい声を出す。振り返ったわたしにエリックが一言。
「拷問部屋だよ」
一瞬、何を言われたのかよくわからなかった。
ぱちくりと瞬きながら頭の中で反芻する。
ゴウモンベヤダヨ?
ごうもんって、え? え?
「拷問部屋ぁ!?」
我ながらすっとんきょうな叫び声をあげてしまった。エリックはわたしの反応を楽しむかのように喉の奥で笑っている。
拷問部屋……。
拷問ていうと、やっぱり壁に鎖がついててそこに繋いだりするものとか、ギロチンとか鉄の処女があったりするのかしら……。
鍵穴から鍵を引き抜いたら血の跡がついていたらいやだなあ…って、それは青髭だ。
ああでも、ここってフランスなのよね。妙に説得力があるわ……。
それにしてもわざわざ作ったのか、拷問部屋を?
「えーーーーと」
なんだかものすごく逃げたい。
まさかまさか、中に入ったら拷問にかけられる、なんてことはないと思うけど。思うけどっ!
しかし前は拷問部屋の扉、後ろはエリックに挟まれているので身動きが出来ない。
背中を冷や汗が伝う。
うわああん、どうしよう〜。
「開けないのかい、お嬢さん」
エリックの声は楽しげだ。
「いやちょっと、心の準備が」
「遠慮することはない」
さあ、とわたしの手をつかみ、ノブを回させようとするのだ! ちょっと待って、ちょっと待って、ちょっと待って……!
嫌がっているのがわかっているだろうにエリックは少しも容赦してくれなかった。ノブはわたしの手の中で易々と回り、扉は軽い音を立てて開いていった。
「……!」
反射的に目を瞑ってしまったが、何の物音もしないので恐る恐る片目だけ開けてみた。
「あ……れ?」
目の前にいるのはわたし。
その後ろにはエリック。
部屋の中の明かりがぼんやりと反射し、両斜めにも、奥にも、何人もの同じ男女の姿があった。
「……鏡?」
そこは鏡張りの部屋だった。もちろん扉の内側も鏡になっている。
わたしは扉の脇を拳で軽く叩いてみた。硬い。
「なんだ……びっくりした……」
大きく息を吐くと共に思い切り肩の力を抜いてしゃがみこんだ。
と、その時肩に手をおかれ、またもやびくっとしてしまった。
「いかがかな?」
「とっても驚かされました!」
わざと棒読みで返すと、エリックはさも愉快そうに声をあげて笑う。うう、やられた……!
「で、この部屋って、本当は何なの?」
立ち上がって部屋の中央まで歩いた。
部屋は六角形。片隅に木の形の置物があるので密林の中に立っているような錯覚が起きる。
「だから、拷問部屋だよ」
と、エリック。
まだ言うか、この男は。
「ご覧、閉じているからわからないだろうが、天井にはここに飛び降りることの出来る穴が開いている。だがこの高さだ、入っても出ることは出来ない。この部屋の内側から出るためのバネは隠してあるからね」
エリックも中に入り天井付近を指差す。
「穴はオペラ座の舞台裏から通じている。私は近道として使うこともあるし、余計な詮索をするものに制裁を与えることもできる。そのための部屋だ」
わたしは無言でエリックの解説を聞いた。そう言われると急に不気味に思えてしまうから不思議なものだ。
改めて部屋の中を見渡すと、木の枝には縄がくくりつけられてあった。それは不吉な連想を呼び起こす。
エリックは扉が閉まらないように気をつけるよう言い残すと、部屋から出て行った。彼の姿が見えなくなると、天井の明かりがつき、部屋の温度があがったように感じた。
「エリック……? ねえ、なんか、暖かくなってきたわ」
「それはそうさ。これはコンゴの森を模したものなのだから」
扉の向こうから声だけがした。わたしはつばをゴクリと飲み込む。
……ここでようやく『拷問部屋』の意味を理解した。
単に出口のないように思われる部屋に閉じ込めておくだけじゃない、部屋ごと熱して気力と体力を奪うのがこの部屋の本領なのだ。鏡の部屋だとわかっても、出ることができなければ正気を保つのは難しくなるだろう。行き着く先はやはりあの枝の縄の中なのだ。
血を流すことのない、シンプルといえばシンプル、冷酷といえばこの上ない冷酷な『拷問』だ。
「これで気は済んだだろう」
エリックがいつの間にか後ろに立っていた。
わたしはやっと我に返ると、彼の手に引っ張られるようにして『拷問部屋』を後にした。
お茶を入れてもらって、それを一息で飲み干すと、ようやく少し落ち着けた。
「オペラ座の人が知らずに迷い込んでそのまま……ってこと、今までにも……?」
声が自然と暗くなる。これが余計な詮索に他ならないだろうと思いながらも、聞かずにはいられなかった。誰かが死んだかもしれない部屋がすぐそばにあるのは、さすがにいい気持ちがしない。
エリックは脅かしすぎたかなとおどけたように肩をすくめる。
「ないよ、ここのはね」
わたしは眉をひそめてしまったのだろう。エリックは自嘲するようにそっと視線をそらした。
ここのは、ということはこれとは違う拷問部屋ではあったのだろう。
おかしな話だが、それをどこかで納得している自分がいた。
エリックは紳士だ。
この時代の中ではどの程度かは比べられないので知りようもないが、教養もある。
音楽にかけては天才的だし、ここを作ったのが彼だというのだから、設計、建築にも才能があるということだろう。
にもかかわらず、彼には大抵の人間なら誰でも持っている明るさがなかった。
「明るい」というのは性格のことでも物理的な意味でもなく、太陽の下を歩いたことがないような感じがしていたのだ。つまり裏街道を進んできた人なのだろうという印象。
今回のことはそれが証明されただけにすぎない。
「そっか」
わたしはそれだけ言うと、二杯目のお茶を継ぎ足した。
それだけか、と言いたげにエリックはこちらを見たが……言葉が浮かばない。
責めればいいのか?
あの人がどんな人生を歩んできたのか、知りもしないのに。
怒ればいいのか?
それが何になろう。彼は自分のしてきたことを充分わかっている。
怖がればいいのか?
……これは少しある。
あるけど、だからといって、逃げ出したいとかそういうことは不思議と思い浮かばなかった。
嫌いにもなっていない。
もしも彼がそのことを憂いているのなら、無用な心配だといえばいいのだろうが、彼はわたしにどうこう思われることを気にかけているのだろうか。
それこそ、わたしの自意識過剰かもしれないではないか。
気まずい沈黙のなか、刻々と時間だけが過ぎていった。
続きます。
シリアスっぽそうですが、オチはしょーもないです。
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