「あそこの部屋、何があるの?」
彼女が拷問部屋の入り口を指差したとき、とうとう聞かれたか、と思った。
いつかは問われるだろうと思っていたが、実際に聞かれると教えるのが怖くなってくる。
あの部屋は私の罪の証だ。
地上に安息の地をもたない、化け物の罠。人殺しの道具。
まだここで死んだ者はいないとはいえ、私の身に染み付いた死の臭いがそのまま移っている……。
とはいえ隠す気はなかった。それも含めて私の『家』だから。
彼女は非難するだろうか、それとも恐れおののくだろうか。
……ここに居たくないと言うだろうか。
だがね、可哀想な人。
望むべからずしてここに現れた君は、すでに私の虜囚なのだ。
アリアドネの糸を持たない君は地上に戻ることは叶わない。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「オペラ座の人が知らずに迷い込んでそのまま……ってこと、今までにも……?」
放心した様子で拷問部屋の中に立ち尽くす彼女を引きずり出し、落ち着かせるために茶を入れた。
我に返った彼女は血の気の失せた顔で恐々訪ねてきた。
ここのはない、と答えると、途端に複雑そうな表情になる。
人殺し。
非難の目こそ向けなかったが、彼女がそう考えていることはわかった。
だが意外なことに、彼女は取り乱すことはなかった。
責めもしなければ怒りもしない。
懇願することも……。
ただ、彼女の態度はよそよそしくなったと思う。
それとて、無理もないことだ。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
地下で暮らしていると、時間の感覚があいまいになる。
実際、オペラを聴きに行くこともなければ朝も夜もない生活になっていただろう。公演のない日は気の向いた時間に食事をし、眠っているのだから。
しかし彼女と共に暮らすようになって以来、オペラのある日は地上ではまだ太陽の残滓が残っている夕刻に夕食をすませるようになった。以前は先でも後でもどちらでもいいという生活だったが、公演は長時間に及ぶため帰って来た時に彼女から空腹を訴えられたことが何度かあったからだ。
会話らしい会話もなく、食事を済ませると、着替えるために寝室に入る。
彼女はすでに自分の部屋にこもっていた。
鏡の前で最終点検をしながら、そろそろ出かけようかと思ったとき、部屋の扉が叩かれた。
「少し待て」
仮面の位置を直し、扉を開けた。そこには、化粧着一枚という姿の彼女がいたのだ。
「なんて格好で歩き回っているんだ、すぐに服を着ろ!!」
一体彼女は私をなんだと思っているのだ。
顔を隠した地下暮らしの変わり者は何も感じない木石だとでも?
何をしても安全だとでも?
初めての同居人に私がどれほど心を砕いているか、まったくわかっていない。あまりの無防備さに、ほほえましく思うどころか、怒りすら覚える。
だが、怒鳴りつけても彼女はやり過ごすように肩をすくめただけだった。
「そんなこといったって、洗っちゃったんだもの。他に着替えはないし」
……洗った?
ほら、と彼女は抱えていた桶を私に見せるように傾けた。
そこには濡れた衣類が畳まれて入っていた。
「なんだってこんな時間に洗濯をするんだ」
「寝る前に洗っておかないと乾かないんだもん。今までもそうしてたのよ。でも部屋からは出てなかったからエリックが気付いていなかっただけ」
呆れたように言う私に、彼女はあっけらかんと答える。
なるほど、理由はわかった。
「だから着替えを買うといっただろう?」
「だから、コルセットはいやなんだってば。この時代の女性の服って、みんなコルセットつけなきゃいけないんでしょう?」
彼女が来たばかりのころもこんな言い合いをしたものだ。
使われることなどないと思っていた客間に彼女が住むことになって、私が始めにしたことはリンネル類や着替えを用意することだった。
だが、リンネル類はともかく、着替えに関しては彼女は頑として「いらない」と言い張ったのだ。それというのも、どうやら百三十年後の世界ではコルセット害悪論が勝利を収めているようで、あんなものをつけたら気絶してしまうと彼女は頑固に思い込んでいる。まあ、その感想は間違いではない。しかしご婦人の健康がフランスの未来にかかっていると日々ペンをとっている医者や軍人が聞いたら、彼女の態度を泣いて喜ぶに違いない。
もっとも、ご婦人方とてコルセットの締めすぎは身体に良くないことは承知しているのだろう。それでも見るからに不自由そうなあの矯正器具をつけているのは、より細い腰を手に入れ、自分をさらに美しく見せるためなのだ。
「まあね。だからといってこのままではどうしようもないだろう?」
「わかっているけど……」
彼女はためいきをついた。
本当に憂鬱らしい。しかし洗濯のたびに化粧着だけで過ごされるのは、私としてもたまったものではない。
これは薄い布地でできているのだ。前で合わせて帯で結ぶという、着るというより羽織るもので、襟にはレースが縫いつけられているとはいえ、身体のラインはくっきりと浮かび、肌の色すら透けて見えそうなしろものだ。普段の彼女はスニーカーという靴を履いているが、今は裸足にスリッパを引っ掛けているだけだ。
丈はくるぶしが隠れる程度。動くたびに裾が割れ、ふくらはぎが見え隠れしている。それに、合わせのあたりからは柔らかそうな胸の膨らみがわずかに覗いていて……。
オペラ座はデコルテの貴婦人や、短いスカートのバレリーナが当たり前のように存在する場所であるが、それとこれとは別だ。
手の届く位置で、くつろいだ、それゆえ無防備な格好の女性がいては、耐えられる欲望にも耐えられなくなる。
私のためにも彼女のためにも、着替えは早急に必要だ。
早速明日にも買いに行こう。
「そういえば、何の用があったのだ?」
明日の予定が一つ追加されたことで我に返る。
何も彼女は化粧着姿を私に見せに来たわけではあるまい。そろそろ出かけないと一幕が始まってしまう。
「あのね、拷問部屋使いたいんだけど、鍵貸してくれる?」
……。
……。
…………。
何だと?
「拷問部屋を? なぜ?」
自分の顔がこわばっているのがわかる。
「誰か罠にかけたい人物でもいるのかい? 私かな? 化け物の人殺しなど死んでしまえばいいと? それとも君自身が? こんなところにはもう居たくないのかな?」
唇がわななき、まともに言葉をつむぐことができない。腕が小刻みに震える。彼女が決定的な一言を言う前に絞め殺してしまえと、頭の奥で囁く声があった。
自分を誤魔化すのはよそう。
私は彼女に情が移っている。
通りすがっただけの人間に何をいわれようが、今更傷つく私ではないが、短い期間とはいえ、共に生活してきた彼女から拒絶されるのは耐えられない。
それくらいなら、いっそ……。
じりっと私が前に出ると、彼女は怯んだように一歩さがった。
「違う、違うってばエリック! 待って、ちょっと……! わたしはただ、洗濯物を乾かしたいだけなんだってばぁ!」
……洗濯物?
どう反応したらよいのかわからず私が困惑しているのを見て、彼女は早口になる。
「だからね、いつもはお風呂に入ったあとの残り湯で洗濯して、絞って、お湯を抜いたお風呂にかけて乾かしてたの。でもやっぱり一晩だけだとちゃんと乾かないのよ。キャミソールとかはまだマシだけど、ジーンズはもう全然ダメ。それに生乾きの雑巾みたいな臭いがするのよ。地下なんだからしょうがないけど。でも拷問部屋ってつまり温室……というか、サウナっていうか……とにかく乾燥室として使えないかなーって思ったのよ。駄目?」
彼女は首をかしげた。
乾燥室……。
そうきたか。
なんだか疲れを感じて、私は扉の枠に身体を預けた。
「あの部屋の使い道を知って尚、そんな発想ができるとは、恐れ入るよ」
彼女は私が呆れたのだと感じたのか、表情を改めて私を見上げてきた。
「もちろん、色々考えたのよ。あの部屋が実際に使われていたなら、わたしだってこんなこと言い出さないわよ。やっぱり、気持ち悪いもの。でも使われたことがないんなら、あの部屋はただのあったかくなる鏡張りの部屋にすぎないもの」
確かにそうだろう。
しかし私には彼女ほど簡単に割り切ることは出来ない。
彼女はしばらく逡巡していたが、思い切ったように言葉を続けた。
「エリック、あのね、わたし、あなたのことに興味があるの。あなたは自分のこと、ほとんど話してくれないし、わたしもどこまで踏み込んでいいのかわからなくて、今までろくにあなたのことを知らなかった。でも、一緒にいるだけでわかることもある」
私は黙って促した。
「あなた、自分はオペラ座の運営をしているんだって言っていたわね。支配人に意見をしてより素晴らしい公演を実現するのが仕事だって。多分あなたがオペラ座に関わっているのは本当のことだと思う。でも、あなたの仕事は正規のものじゃない。表立って関わってるわけじゃない。違うかな?」
私の顔色を窺うように、彼女は上目遣いになる。
私は……答えることができなかった。
「そうだとすると、あなたが仕事の報酬としてもらってるっていうお給料も、本当にお給料なのかなって。わたし、こっちの物価って、まだよくわからないけど、二万フランは大金よね?」
彼女はじっと私を見上げ、何か言うのを待っていた。
否定しても無駄だろう。彼女はほとんど確信している。
「君の考えている通りだよ」
私は人殺しで詐欺師で脅迫者なのだ。
彼女はほっと肩の力を抜いて、泣き笑いの顔で微笑んだ。
「ありがとう、話してくれて」
そして、彼女は手の平を向けて差し出してきた。
「なんだい?」
「鍵」
貸してくれ、と手をひらひらさせる。
「…………。」
眩暈がした。
「それだけなのか?」
「何が?」
「私を責めないのか?」
「わたしは何の被害にもあってないもの」
本気でそう思っているのだろうか。
ナーディルあたりが今の彼女を見たら、誘拐、監禁だと騒ぐだろう。
誘拐はしていないが、監禁していると言われたら否定はしない。それくらい私は彼女の行動を制限していた。
しかし彼女は私のそんな思いも知らぬげに、先ほどよりはずいぶんのんきな表情になっている。
「例えば薄暗い路地なんかにひそんで、通りかかった人間を手当たりしだいに襲う殺人者がいたとするじゃない。そっちの方がずっと怖いと思うのよ。でもエリックはそうじゃないでしょ? もちろん、だからといって人殺しを肯定したりはしないけど、そうしなきゃいけなかったっていうことはわからなくもないの」
「驚いた。私を許すというのか?」
「許すなんて」
彼女は首を振った。
「そういうのとは違う。わたしはあなたが人殺しで、多分脅迫者なんだろうと思ってるけど、だからと言って嫌いではないの。あなたがただの血に飢えた殺人鬼なら、たとえ罠に引っかかって死ぬかもしれないってわかってても、ここから逃げ出そうとするもの。外に出たいなとは思うけど、逃げたいとは思ってない。わたし、これでも結構、あなたのこと好きなのよ?」
好き……。
そんなことを言われたのは初めてだった。
私にとって、縁のない言葉だと思っていた。
信じてもいいのだろうか。
心臓がおかしな具合に動いているような気がする。思春期の少年のようにまったく落ち着きがない。
嬉しいのか困惑しているのか自分でもわからない。
だが、胸の奥が熱い――。
「エリック、どうしたの?」
顔を覆った私を心配そうに覗き込んできた。
そんな小さな気遣いすら嬉しくて、泣きたくなってくる。
ああ、君を抱きしめたいと言ったら、許されるだろうか?
「すまない、大丈夫だ。……ありがとう」
ありがとう。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
感激に浸っていた私は、ふといいことを思いついた。
彼女もきっと喜んでくれるだろう。
早速上着を脱ぎ、タイを外し、寝台に放りなげた。
シャツのボタンをいくつか外しながら、部屋の中央をつっきてゆく。
「エリック?」
彼女が驚いたように小走りで追いかけてきた。
「少し待ちなさい」
私は使わないものを適当にしまいこんでいる物置からいくつかの角材を選んだ。
愛用の工具だけはいつも入り口に近い場所においている。これは彼女に持ってもらった。
「何を作るの?」
「物干し台だ。必要だろう?」
「これから? だって、オペラは?」
彼女は大きく目を見開いた。
「公演は今日だけじゃないさ」
彼女と話ながらも頭の中では物干し台の設計図が刻々とできあがっていた。
折りたたみのできる、段差のいくつかある形がいいだろう。
洗濯ばさみも必要だ。
作ったことはないが、作り方なら知っている。ジプシーの男は洗濯ばさみを作る名人だったのだ。
手を動かしながら、明日買うものを思い浮かべてみる。
ドレスは好みのものを選ばせたいのでモード雑誌を見てからにするとして、リボンや靴、ショール、手袋も必要だろう。靴と手袋は後でサイズを測らせてもらわなければ。
コルセットは彼女と同じくらいの背格好の子ネズミがいたので、あとでマダムに聞こう。さすがにこれのサイズを私が測るわけには……。あ。
私は愕然とした。
コルセットだけではない。
女性用の下着が一式必要だ。
これを買いに……いかなければならないのか?
いや、買わねばならん。なければ彼女が困るだろう。
しかし……。
ドレスを買う男がいても変だとは思われないが――プレゼントだと思われるだけだからな――女性用下着を男が買いにいったら、変態だと思われる。
だが彼女に買い物に行かせるのも今は駄目だ。
彼女の服装というのは、上は袖のない下着のようなものを二枚重ね、その上にシャツを羽織っただけで、下はアメリカの労働者がはいているような、インディゴ染めの厚地のズボンなのだ。
こんな格好で外には出せない。
どうしたら……。
「エリック、エリック?どうしたの」
もんもんと思い悩んでいる間中、罪のない彼女の声が遠くから聞こえた。
意外に長くなったな…。
しかしこれでも執筆時間は指輪夢の1/3。
精神的疲労度は1/3以下なんすよ。
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