彼と初めて会った日の話。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 ここでわたしが力説しなければいけないのは、『わたしは何もしていなかった』ということだろう。
 クロゼットに入り込んでもいないし、屋根裏部屋にも行っていない。……もともと家には屋根裏部屋なんてないんだけど。
 どんな予兆も、なんらかの変化もなく、わたしは、気付いた時には十九世紀末間近のフランスはパリにいたのだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 意識が浮上する感覚が起こった。
 だからわたしは自分が寝ていたのだと思ったのだ。
 もう朝かと目を開ける。
 自分の部屋ではないことを理解するのに五秒はかかっただろう。最初に思ったのは、「ここはどこ?」ということだった。
 目に入ったのは石造りの薄暗い天井。視線を下へと下げていくと、片側にはアンティークな形のオルガンが、もう片側には絨毯敷きの床があった。身体は動かさず、目だけで周囲の様子を探るが、人の気配はない。見える範囲に据え付けられている家具は、本物であるのなら幾らするかもわからないような代物だった。

 おそるおそる起き上がる。そしてわたしは少し形の変わったソファに寝かされていることを知った。ぐるりと周囲を見渡すも、やはり誰もいないようで……。だが突き刺すような視線と気配を感じてそちらを見やると、
「ねこ?」
 少し離れたところにある戸棚から、雑多な品々に混じるようにして座っていたシャム猫がじっとわたしを見下ろしていた。
(動かないけど……本物の猫よね……?)
 するとわたしの声に反応したのか、シャム猫は耳を後ろに伏せて不機嫌そうに鳴いた。


「起きたのか」
 別の方向から声をかけられた。反射的にフランス語だ、と気付く。
 語学には興味があったので、フランス語も日常会話くらいならなんとかなる。それが幸いした。
 だけどそんなことはどうでもいい。
 たった一言、呟くような小さな声であったにも関わらす、わたしはその場に縫い付けられてしまった。
 世の中には美声の持ち主というものがいるが、それとは比べものにならない。音が最大限に研ぎ澄まされ、一点の曇りもなくなればこんな感じだろうかと思えるような。耳の中に美の化身が住み着いてしまったようだ。

 わたしがあまりにも身動きをしなかったせいか、声の持ち主はこつこつと靴音を鳴らして近寄ってきた。
 やばい、ぼーっとしていたから、気分を害してしまったのかもしれない。
 なにがなんだかよくわからないが、勝手に人様の部屋に入り込んでいたのなら謝らなきゃならないだろう。そんな記憶はかけらもないにしても。

 その人の方へ向き直ろうと立ち上がりかけたわたしは、再び固まった。

 ……なんでこの人はタキシード仮面みたいな格好をしているんだろうか。
 反射的に頭の中にムーン○イト伝説が流れ出した。

 よーく見ると、その人が着ているのはタキシードではなく、いわゆる燕尾服、テール・コートというものだった。仮面も顔の上半分ではなく、縦半分を隠すようになっている。
 わたしがじーっと見つめているのが気に障ったらしい、仮面の奥と素顔のままの二つの目が不機嫌そうに細められた。
「フランス語はわかるかね?」
 声も不機嫌そのもの。それにしても綺麗な声だ。
 自分には声フェチの気があるとは思っているが、その気はなくてもヤられる人が続出するんではないだろうか。
「ああ、はい、わかります」
 ぼうっとしながらその人を見上げる。
 結構背が高いな。
 わたしの頭二つ分はある。
 年は肌の様子からすれば四十を越してるだろう。
 彼は座るように身振りで示したので、わたしはおとなしくその場に座り直した。
 彼はこちらにゆっくり歩いてくると、オルガンの椅子を持ってきた。足を組んで座り、尋問官よろしく威嚇するように両手を組む。
「さて、色々聞きたいことはあるが、まずは君が誰で、ここにどうやって来たのかを答えてもらおう」
「はあ、えーと……」
 とりあえず名乗ると、その人は軽く眉を顰めて、
「変わった名前だね。中国人かい?」
 ううむ、中国人だと思われてたか。
 ま、わたしだって、イギリス人とフランス人が並んでたら区別できないだろうし、仕方がないか。
 日本人だと訂正すると、彼は興味を引かれたように身を乗り出してきた。
「日本人? それは珍しい」
「そうですか?」
「そうだとも、一体またなぜ日本人の君がここに? 留学生か? いや、女子留学生が来たというニュースは聞いていないから違うか……」
「あの、ここって、フランスじゃないんですか?」
 地方に行けば外国人が珍しがられることはあるだろうが、ただ日本人だというだけでこういう反応はしないだろう。だいたい、留学生がニュースになるってのはどういうことだ。海外留学をする女子学生など、毎年何人もいるだろうに。
 フランス語圏だけどフランスじゃないのかな。
「無論フランスだよ」
 彼に問うと、そんな返事が返って来る。……わけがわからない。
「フランスのどこです?」
「パリだ」
「パリで日本人は珍しくないでしょう?」
「いいや、珍しいよ……。まあ、それはいい、君がどうやってここに来たのかを答えてくれるかい?」
 どうやらわたしが日本人だということで警戒を緩めたらしい。声が優しくなった。
「どうっていわれても、わたしにもわからないです。家にいたはずなのに……」
 それになにより、ここで目覚めたということはその前に眠っていなきゃおかしいのだが、自分が寝た記憶がないのだ。
「朝起きて、着替えて、ご飯を食べて、今日はお休みだからなにしようかなって考えて、そこから先は何も覚えていないんです。いつのまにパリまで来てたんだか……」
 彼はじっと考え込むと、ややあって口を開いた。
「ここに君が来た時のことをお話しよう。ほんの一時間ほど前だが……」

 彼の話はこうだ。
 作曲を趣味の一つとしている彼は、この日、新しい曲を思いついてずっと居間兼音楽室であるここで作曲に専念していた。
 一時間ほど前に彼の飼い猫――アイシャという名だ――が餌をねだったので中断し、彼女が食事を始めたのを見計らってまたオルガンの前に戻った。
 アイシャはこの同じ部屋の居間部分、絨毯の敷いてあるところでいつも餌を食べるのだという。
 そこから五分したかどうかというところで、彼女が悲鳴のような鳴き声をあげたので彼が驚いて振り向くと、餌皿がひっくり返り、中身もぶちまけられて、背中の毛を逆立てた猫とさっきまで彼女のいた場所にうつぶせになったわたしが倒れていた、ということだ。
 この部屋の入り口には鍵がかかっており、人の出入りがあればわからないはずがないと彼は断言した。

「どういうこと……」
 わたしが呟くと、彼も、
「まったく、どういうことだろうね」
 と肩をすくめた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 失礼、と断って彼が立ち上がった。
 部屋を横切って別の部屋に向かっていく。
 うーん、これまた見事に動きに隙がない。
 彼が消えていった先をぼんやり見送りながらも、わたしの頭の中は疑問符だらけだった。
 自分に何が起こったのか、まったくわからない。
 それに、これからどうなるのかも。
 来た時と同じように、唐突に戻れるのだろうか。
 それとも自力で帰らなきゃないのか?
 パスポートなどないが、密入国になるんだろうか。でもしたくてしたわけじゃないし。日本大使館に相談すればいいのかな……。だがこんな相談は受け付けてくれるんだろうか。
 それよりもどこにあるんだろう。彼に聞けばわかるかな。

 そんなことを考えながらも手持ち無沙汰に耐えられなくなり、立ち上がってぐるり、と部屋を見渡した。
 途端、にゃあ、と猫が警戒も露に鳴く。動くな、ということだろうか。
 しかし彼女にしてみればとんだ災難だったろう。
 押しつぶすようなことがなくて良かったわ……。ごめん。

 ふと、この部屋が普通と違うことに気がついた。
 普通じゃないという点ではいろいろツッコミどころ満点なのだが、そんなことより奇妙なのが、この部屋には窓が一つもないのだ。
 塗りつぶしたという感じではない。最初から作っていないのだろう。
 室内の証明はなんとランプだ。大小さまざまのものが設置されており、部屋全体をぼんやりと照らしている。蛍光灯に慣れた身にはかなり薄暗いと感じられた。
 最初、朝だと思ったのはそのせいなのだろう。
(地下かな?)
 他にこの部屋に窓がない理由を思いつかなかったのでなんとなくそう思ったが、そうなるとあの人は広大な地下室で暮らしていることになる。
 いまさらながら、あの人の素性が気になった。


 置いてあるものに触らないように部屋の中を歩く。と、戸棚に置かれてる新聞が目に入った。
 強烈な違和感を覚えてそれを広げると、時代がかった装飾文体の見出しと、写真ではなく絵で描かれた図版。それになにより日付がおかしかった。

「ムッシュウ! ムッシュウ!!」
 自分の顔から血の気が引くのがわかった。
 わたしの叫び声になにごとかと彼が駆けつけてくる。わたし新聞を広げ、自分でも切羽詰っているようにしか聞こえない声で叫んだ。
「この新聞、今日の!?」
「いや、一昨日のものだが……?」
 面食らったように彼は答えた。
 おととい……。
 わたしはへたへたと座り込んだ。
「大丈夫かい?」
 彼は膝をついて心配そうに覗き込む。
「一八七八年…?」
「ああ、そうだ。それがどうかしたか?」
「違う……」
 わたしは機械仕掛けの人形にでもなったようにぎくしゃくと首をふった。
「二〇〇五年」
「なんだって?」
「二〇〇五年よ、わたしがいたのは!」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「落ち着いたかい?」
「……なんとか」
 ブランデーを落とした紅茶をすすりながら、わたしは頷いた。さっき彼が席を立ったのはお茶を入れるためだったみたい。
 ひとしきり彼と話をし、今がまごうかたなき一八七八年なのだということを受け入れないわけにはいかなくなった。
「しかし参ったね……」
 彼もまた困惑した様子でカップに手を伸ばす。
「ケルトの神話にこんな話がある。フィアナ騎士団の首領、フィンの息子オシーンは常若の国チル・ナ・ノグの王の娘ニアヴに見初められ彼女の国へ行った。三年の間楽しい日々を過ごしたが、故郷に一度戻りたくなった。しかし故郷に戻ってみると、自分のことを知っている者が誰もいない。妖精の国での数年は、人間の世界では何百年にも相当しており、彼の家族も友人もとうに故人となっていたのだ。君はオシーンとは逆に、未来ではなく過去に降り立って来たのだね」
「……日本にも似たような話があるわ」
 助けた亀に連れられて竜宮城に行ったのは浦島太郎だ。
 この時代はまだSFとかファンタジーは確立されてないと思うけど、過去や別の世界に行ってしまうという話なら、現在のマンガや小説にもいっぱいある。
 でも、ああいうのは主人公がなんらかの使命を持っていると相場が決まっているものであって、取り立てて特技のない一民間人のわたしが百三十年前のパリに来ていったいなにをしろと……。
 いやいや、これはフィクションじゃない。
「これからどうするかね?」
 彼の問いかけにはっと顔をあげた。
 そうだ、なんで過去に来てしまったのか、ということより、これからどうするかを考えなくちゃ。
 今って、もう明治よね。江戸時代だったら鎖国してたんだもん、日本には戻れない。でも明治なら大丈夫、なのかな?
 いくらなんでもまだ海外旅行は一般的でないだろうから、パスポートを盗まれました、なんていい訳は通用しないだろうし……でも、念のため、
「パリに住んでる日本人ってどこにいるかわかります?」
「公使館があったはずだよ。そこならいるだろう。ちょっと、失礼」
 彼は立ち上がって別室に向かった。と、すぐに革表紙の分厚い本を持って戻ってくる。住所録のようだ。
「ああ、あった。ジョゼフィーヌ街だね。行ってみるなら馬車を出すが? 交渉ごとには感知しないがね」
「うーん」
 うちが明治の頃からずっと同じ場所にあるのなら、そこに戻れば曽祖父かさらに前の人たちが住んでいるはず。かといってそこに戻っても、当然ながら誰もわたしを知らないのだ。となると日本に戻ったところで、頼れる人は誰もいないということになる。
 だけどそれはパリに残っても同じことだ。それに公使館の人間が、未来から来たなんて話を信じるとはとても思えない。
「君が取るべき道はいくつかある。日本へ戻るつてを探すのも一つだろう。他にも……君は日本の舞踊や歌はできるかい?」
「へ?」
 わたしが考え込んでいたので、彼も思案してくれていたようだ。人差し指を立てる。
「今パリでは日本趣味が大分流行っていてね。もてはやされているのは浮世絵や工芸品、絹織物……着物がほとんどだが、君に日本の芸能かなにかの心得があるのなら、ブルジョワ連中のサロンに入り込むこともできるかもしれない。パトロンがつけば君が欲しいものはなんでもそろえてもらえるだろう。これが二つ目だ」
 と彼は中指も立てる。
「一応、琴なら弾けます。でも弾けるだけで上手なわけではないし、レパートリーも少ないし、知ってる曲も合奏曲ばかりだから……。駄目だろうな、そもそも琴がないでしょう」
 彼は感心したように頷いた。
「コトか。それは初めて聞いた。案外受けるかもしれないね。売っているところがあるかどうか、私も知らないが……、ひとまず置いておこう。その三は自活の道を探すこと、だね。君のフランス語はまあまあだから、通訳もできるかもしれないし、裁縫ができるならお針子というのもある。給料はたいしたものではないが、とにかくそうした道もある」
「……そうですね」
 これが一番賢明かなあ。でもその仕事だってどうやって探せば良いのか……。
 百三十年前のパリに放り出されたって、右も左もわかんないのに。
「それから四つ目は」
 と、彼は四本目の指を立てる。
「ここに住むことだ」
 わたしはぱちくりと瞬いた。
 たしかに、この人助けてくれないかなあとは思ってしまったけど、顔に出ていたのだろうか。なんか、恥ずかしいぞ。
「ただし、想像がついてるかもしれないが、私は人と隔絶した生活を送っている。ここに私が住んでいることを他の人間に知られたくないのだ。だから君がここに住むなら衣食住の保障はするが、外出は一切禁じる。それでもよければ、だが」
 そんなわたしの思惑は、彼の一言で一瞬にして引っ込んだ。
 ひやりと背中が冷たくなる。
「あなたは、何をしている人なんですか?」
 窓のない部屋で暮らしている仮面をつけた男。
 どう考えてもまともじゃない。
 人間嫌い?
 ううん、人間嫌いならわざわざわたしをここに住まわせても良いなんて言う訳はない。
 隠れて暮らす……。
 犯罪者?
 彼は自嘲するように唇の端をあげ、目を伏せた。
「地上にいることを拒まれた、ただの男だよ。残された時間を気の向くままに使うだけだ。もっとも、私が一番誇りに思っているのは建築家をしていたときだったがね」
 彼の呟きには悲しみが混じり、わたしの胸を打った。
 建築家……。
 ならば、ここも彼が一人で築きあげたのだろうか?
 誰にも見つからないように……。
「あなたが、拒まれたのは、もしかしてその……」
「それ以上言うな!」
 仮面の下のせい? そう聞こうとする前に強く拒絶された。
 眼差しは火のように鋭く、熱い。
「ごめんなさい」
 射殺されそうな視線に反射的に謝る。彼は二、三度大きく息をして、疲れたように視線を逸らした。
「すまない。だが、私に興味を持たないでくれ。それさえ守れば君にはなんの危害も与えない。誓うよ」
「わたしのほうこそ、考えなしに聞いちゃって……」
 気まずい沈黙が流れた。

 それを先に破ったのはわたしのほうだった。
「あの、もしわたしがここに住むとしたら、見返りに何をすればいいんでしょうか?」
 さすがにただで、というわけにもいかないけどお金はないし。そうなると労働か。
 炊事洗濯掃除、それくらいしかやれそうなことはないなぁ。機械化なんてされていないんだろうな、やっぱり。
 だけど彼はなんだかひどく動揺して、
「いや、そんなことは心配しなくてもいい。何もしやしないよ。そうだね、話し相手になってくれるかい?」

 ん? なんか、話がかみ合ってないような。

 ……ああ! そういうことか!

 つまり、わたしも彼も「身体で返す」という結論に達していたけれど、方向性が違ったのだ。
 わたしは家事労働をする、という意味で言っていたのに対し、彼はベットの相手をするという意味でとったのだろう。

 彼のほうでも同じことを思ったようだ。頬が赤くなっている。

 うーむ、わたしはそっちの方面は思いつかなかったけど、普通、女が見返りをって言ったらそういう意味も求められるのはありえることだよなー。
 思い当たらなかったっていうのは、やっぱり危機意識が薄いんだろうか。
 平和ボケか。

「話し相手、でいいんですか?」
「ああ」
「でも家事くらいは……」
「いや、客人はそのようなことをしなくてもいい」
 お互い、顔を赤くしながら不自然な和やかさの中でやりとりをする。

 えーと、心配しなくてもいいといっていたし、ここは事情をすべて知っている彼に甘えてしまおう。
 何にもしなくて良いって言っても、そのうち任されるかもしれないし、外出だってわたしがここのことを絶対口にしないと信用してもらえればさせてもらえるかもしれないし。

「えーと、じゃ、その、お世話になります」
 わたしはぺこりと頭を下げた。
「ああ、よろしく、お嬢さん」
 そういえば、と彼を見上げて、
「わたし、まだあなたのお名前を聞いていません」
 少し間をおいて、
「……エリックだ」


 こうしてわたしはエリックの家の居候になったのだ。








無駄に長い…。
あ、今更ですが、ヒロインさんは「オペラ座の怪人」をまったく知らないということでひとつ。
原作もミュージカルも映画も。






戻る  次へ