暗く寂しい、しかし静謐と安らぎに満ちた我が家に住人が増えた。
 私と我が心の慰めであるアイシャしかいなかったこの地下の館に……。
 それも、私の人生で最も欠けていた存在が。


 年若い娘が。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 初めは、侵入者だと思っていた。好奇心からここへ忍び込んでみたのだと。
 だが普通の家庭だって、住人に許可なく入ってきたものがいれば、警察に突き出すものだ。
 ここでは警察や判事の代わりに私がすべてを決定する。
 そしてルールはいたってシンプルなものだった。
 侵入者は、死刑。
 私は、私が生き残るために骨の髄まで染み付いた規則に則って、侵入者を片付けようとした。
 だが変わった衣服に包まれた身体は明らかに女性であることを示していることに気付き、手を下す事ができなくなった。
 そしてやっかいなことになった、と我が生涯で何度目かわからないが、心の中で神を罵りつつ、気を静めるために茶を入れにキッチンへ向かった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「二〇〇五年、だって?」
 湯が沸騰するのを待っている間に起った悲鳴のような呼び声に、私は慌てて居間に戻った。
 そうしたら、彼女は一昨日の新聞を広げて、これはいつのものかと蒼白になって問い詰めてきた。
 私が答えると、彼女は力なくへたりこむ。そして自分は二〇〇五年の人間だと叫んだのだった。

 信じられない。
 だが彼女はこくこくと硬直した表情のまま頷いた。
「一八七八年って、本当ですか? わたしのこと、からかってません?」
 私は憮然となって冷ややかな眼差しになった。
「生憎、小娘をからかって楽しむ趣味はないものでね」
 すると彼女はびくりと怯む。
「……すみません。疑ったわけではないんです。ただ、ちょっと……あまりにも信じられないことが起きたので……」
 彼女は今にも泣きそうな顔で俯いた。
 まったく、これでは私が悪いようではないかと天を仰ぎたくなる衝動にかられる。
 しかしこんな子供に威嚇するのも大人げがない。ずいぶんと混乱しているようだし、私に何か危害を加えようとしているわけでもなさそうだ。
 大掛かりなペテンということも考えられるが、わざわざオペラ座の地下までそんなことをしに来る物好きもおるまい。
 私は仕方なく、もうしばらく彼女に付き合うことにした。それにこうして誰かと向かい合って話すのも久方ぶりだった。こんなことは私の人生の中でもそう多くはない。
「それで、2005年から来たというお嬢さん? それを証明できることは何かあるかね」
「証明って言われても……」
 彼女は服のあちこちを探る。
『やっぱり、携帯もないか……』
 日本語でなにか呟き、ため息をついた。
「ないのかね?」
「なにも持っていないんです。あのー、これから世界で起きる大きな事件とかなら、いくつか挙げられるんですけど」
「それは今年中に起きることかい?」
 彼女はしばらく考え込み、
「いいえ」
 と首を振った。
「それならば遠慮しておくよ。その時にならねばわかりようがないことなど、今知ったところでどうしようもない」
「そうですか……。なら、他にはわたしにはどうしようも……。でも、わたし、こんなことを言うなんて勝手だと思うかもしれませんけど、あなたの家に不法侵入しようと思ったわけではないんです。ご迷惑おかけして本当にごめんなさい。どうしてこんなことになったのか……」
 彼女の目にはみるみるうちに涙が浮かんできた。
 ああ、また泣きそうになった……。
「落ち着いて。なにも君を責めているのではない。ただ事情がわからない限り、私にも助けようがない。本当に君が未来から来たというのであれば、これは世にも稀なる事例だということになる。しかし正直に言って、まだ私には信じきれないのだ。あまりにも突拍子もないのでね。その気持ちは、わかってもらえるかね?」
 彼女はそっと涙を拭いつつも、頷いてよこした。
「では私の方から聞いてみようか。未来の女性は……君の国だけかもしれないが、ズボンを日常的に履くものなのかね?」
 彼女の格好は、私にとって理解が難しいものばかりだった。形もそうだし、素材もそうだ。
 口には出さないが、そのことに彼女自身が気付いていないということは、やはり彼女が未来から来たというのは本当かもしれない。少なくともこの時代の人間ではなさそうに思える。
「そうですね、わたしが小さい頃からすでに普通でしたよ。それにこれは日本だけじゃないです。ヨーロッパでもアメリカでも、普通になってるはずです」
 彼女は、外国人特有の訛りのあるフランス語で答えた。下手ではないが、多少聞き取り辛くはあった。
「その、履いているものは?」
 彼女の足を包んでいる履物は、革でもなければ婦人用の絹靴でもなかった。
「スニーカーっていいます。運動靴って言えば、わかりますか? もっとも運動する時だけに履くものじゃなくなってますけど」
 しゃべっているうちに落ち着いてきたのだろう。だんだんと歯切れが良くなり、表情も明るくなってきた。
「表面についている光沢のある素材はなんだ?」
「ナイロン、だと思います。あれ、ポリエステルかな?」
「ナイロン? ポリエステル?」
「化学繊維の名前です。両方とも、石油を原料にしてたはずだけど……」
 自信がなさそうに彼女は答えた。
 化学繊維、なるほど。そういうものを研究している者がいるという情報は得ていた。だが、まだ実現したものはないはず。
 となれば、これはその、まだ存在しない技術で作られた衣服ということか。
 面白い。
「ところで寒くはないかね?」
 今更ながら気付き、訊ねた。
 彼女は上には胴にぴったりするような薄い下着のようなものを二枚重ねにし、その上にウエストくらいまでの丈のシャツを羽織っているだけなのだ。
 しかも件のズボンも腰骨に引っ掛けているとしか思えないほど股上が浅い。
 よって、彼女が下手に動くと、隠されていてしかるべき部分の肌がちらちらと見えてしまうのだ。
 日本の位置を考えれば、常夏の国だというわけではなく、単に暖かい季節からこの冬のパリに来てしまったということなのだろうが。
 しかし、これは男の目には毒ではないか?
「いえ、寒いというほどでは……。そういえば、ここは冬なんですよね」
 言いながら彼女は新聞を手に取った。彼女がここがいつであるか気がついた新聞だ。それを複雑な表情で眺めている。
「ようやく寒い季節が終わったと思ったのに……また冬だなんて」
「冬は嫌いかね?」
「いいえ、暑いよりはましです。暑いのはわたし、本当に我慢できないんですもの」
 ふふっと彼女は苦笑めいた笑みを浮かべた。
(笑っ……た……?)
 気付いた途端、周囲が一変に明るくなったように感じ、心臓を射られたような衝撃が走った。
 こんなに警戒心のない女は初めてだった。どんな陽気な女ですら、私の前では一片たりとも笑みを浮かべたりなどしないのに……。私の知っている女の顔は、どれも恐怖や不安で萎縮し、怯えているか、泣き顔ばかりなのだ。
 だが、どうして彼女は違うのだろう。
 未来から来た人間だからか?
 それとも、彼女だから、なのだろうか。
 ふと、この娘を手元に置いておきたい衝動がこみ上げてくる。
 そして優しく、親切にしてやれば、彼女はここで何度でも笑いかけてくれるのではないだろうか。
 この私に。

 何も多くを望んでいるわけではない。
 ただ、行き場のない彼女に手を差し伸べる代わりに、ほんのちょっとの見返りを望んで、悪いわけがあろうか。
 今の彼女は天涯孤独だ。百三十年前の世界に、彼女を知っている人間などいないのだから。

 いずれ戻ることができるかもしれない。
 しかし、それまではこの時代で暮さなければならない。
 そうなったら彼女が日本に行くにしろ、パリで生活するにしろ、後ろ盾になる人物が必要だ。女が一人で生きてゆけるほど、パリは甘くない。おそらくそれは日本でも変わらないだろう。
 誠実な夫や後見人が見つかればいいが、この時代の彼女は身元からしてあやふやだ。好んでなろうとするものなどそうそういるはずもない。ならば、それを私がしていけないことはあろうか?

 私ならば事情はすべてわかっている。
 その上で着るものや食べるものだって最高のものを与えてやろう。それに住むところだって……。
 日の光こそ入らないが、他の設備は貴族の大邸宅にも負けていない。彼女が使える部屋だってある。
 外出はさせてあげられないが、退屈させるようなことはさせない。たくさん話を聞かせて、手品や腹話術を見せて楽しませてやれる。
 ああ……誰かと、私のことを怯えない誰かと暮らすというのはどんな気持ちになるのだろう。
 だが、私の中にあるわずかな良心が暴走しそうな心を押し止めた。

 彼女の未来を私が勝手に決めてよいはずはない、と。
 閉じこめるのは簡単だ。だが気の毒な少女の弱みに付け込むような卑劣な真似はできない。幾多の犯罪に手を染めた私だが、弱者を食い物にしなかったということだけは胸を張って言えるのだ。逆を言えば、それしか誇れることがないのだから。

 私は内心の葛藤を隠し、この時代に生きるものとして、彼女に選べる道を示してやった。

 一つは日本へ戻るつてを探す事。
 一つはパトロンを見つける事。
 一つは仕事を得ること。
 そして最後に、私とここで暮らすこと。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 ここにきてようやく、彼女は事態の重さを理解したらしい。
 自身の思考の中に戻るのではなく、目の前の男の正体を探るような眼差しで私を見つめてきた。
「あなたが、拒まれたのは、もしかしてその……」
「それ以上言うな!」
 とっさに怒鳴ると、彼女がびくりと身体を強張らせた。
 甘かったか……。やはりこの仮面が気にならないはずがないのだ。
「ごめんなさい」
 謝る彼女の顔からは血の気が失せていた。
 私はどれほど恐ろしい形相になっていたのだろう。見境がなくなると、私は本当に自分が何を言っているのかもわからなくなる。
 私は怒りを鎮めようと、ゆっくりと呼吸をした。
「すまない。だが、私に興味を持たないでくれ。それさえ守れば君にはなんの危害も与えない。誓うよ」
 だが彼女の顔がまともに見られず、私は顔を反らした。
 少しはここに住んでもいいかと思っていたとしても、もうそんな気は失せてしまっただろう。こんな癇癪もちの年寄りと好んで暮したがる娘などいるはずもない。
 しかし長い沈黙のあと、彼女は意を決したように顔を上げた。
「あの、もしわたしがここに住むとしたら、見返りに何をすればいいんでしょうか?」
 彼女の問いかけに、希望が甦るのを感じた。
 最後の選択は、彼女の中でまだ有効なのだろうか。しかし『見返り』などと彼女の口から問われるとは……。
 私は期待が膨らむのを止めることができなかった。
 彼女は身につけているもの以外、何も持っていない。返せる材料があるとすれば、その身体だけだ。やはりこれほど若く、世間ずれしていなくとも、感じることはあるのだろう。見ないようにしていた私自身の下心を見透かされたようで大変決まりが悪かった。
 だがこんなことを聞いてくるということは、もしも条件に愛人となることを挙げたら、受け入れる気があるということか?
 いや、先走るのはよそう。それで拒まれでもしたら屈辱に耐えられそうにない。
「いや、そんなことは心配しなくてもいい。何もしやしないよ。そうだね、話し相手になってくれるかい?」
 鷹揚な紳士の物言いを目指したが、どうにも声が震えてしまう。情けない。
 しかし彼女はきょとんを私を見返すだけで、安堵した様子などどこにもなかった。
 この反応は一体なんだ?
 彼女は自分の身が安全かどうか問うていたのではなかったのか?
 違ったのか?
 しかし他に身体で返せるものなど……。

 あ……。
 突然、すべてが氷解した。
 つまり、私も彼女も労働による見返り、というものを想定していたのだが、その時間帯が違っていたのだ。
 彼女は昼を。
 私は夜を。

 彼女も同じことを思ったのだろう。
 顔が赤くなっている。
 困ったように眉を潜めているがそれでも、
「話し相手、でいいんですか?」
 と確認してきた。
「ああ」
 私は頷く。
 今更違うなどとは言えるか。
「でも家事くらいは……」
「いや、客人はそのようなことをしなくてもいい」
「えーと、じゃ、その、お世話になります」
 ようよう決心した彼女は頭を下げる。
「ああ、よろしく、お嬢さん」
 そう答えたが、内心複雑だった。ここで暮らすと決めたことが、いささか意外だったこともある。しかしそれ以上に本当にこれで良かったのだろうかとこの期に及んで不安が芽生えた。
 だってそうじゃないか。
 私の人生において、こと女性に関することでこんなに上手くいくことがありえるだろうか。
 何か大きな落とし穴が待っていると思ったとしても仕方がない。
 だが、まだ私の名を聞いていないと言い出した彼女に答えると、彼女は、
「よろしくお願いします。エリックさん」
 と笑みを浮かべた。さきほどよりも、もっと朗らかに、安心したような眼差しで。

 それは、懸念を喜びに変えてしまった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「早速だが君の部屋に案内しよう。ずっと使っていないからしばらくは不便だろうが……」
 立ち上がる私に慌てて彼女も倣う。
 そこは客間、と呼んでいた閉ざされた部屋だった。
 二度と使われることもなく、私の死後、この暗い地下で朽ちてゆくはずだった母の形見の家具が収められている部屋。最後にここを開けたのは何年前だっただろう。特に好んで目にしたいものはないので、ずっと放っておいたのだ。
 扉を開けるといささかかび臭い空気が流れてきた。換気と大掃除が必要だろう。
 居間から届く明かりに、埃よけのために家具にかけていた白布が浮かび上がって見えた。一つ一つ、布を取り除く。すると磨くのを怠ったので、記憶よりもさらに古びた家具が顔を出した。
 彼女が物珍しそうに部屋を見ている間、私は彼女のために必要そうなものを次々とあげていった。

 ベッドには新しいマットレスと羽毛布団を用意しよう。
 柔らかな枕とベッドカバーも忘れずに。
 化粧台には女性の身づくろいに必要な細々としたものを。
 そしてクロゼットにはたくさんのドレス。
 このままでは殺風景なので、部屋を飾るものも何か探して。
 それに、すっかり流行遅れになってしまった壁紙も変えてしまわなくては。
 だが、外出に必要な、ブーツや日傘や帽子は必要ない。

「ああっ! お風呂がある……!」
 私が物思いに耽っている間に、彼女は部屋の奥まで探検をしに行ったようだ。
「エリックさん」
 くるりと振り返った彼女の顔にはまた笑顔が浮かんでいた。きらきらした目と紅潮した頬も愛らしい。
「この床、濡れても大丈夫ですよね? タイル張りだもの」
「ああ」
「良かったぁ。こっちの国のお風呂って、浴槽の中で身体洗ったりするのが普通って思ってたから、どうしようかと思ってたんです」
 はしゃいだ声に、私の頬も思わず緩んだ。
 水にだけは不足しないからと、諸国を放浪していた折に覚えたなかでもっとも贅沢に湯を使う形の風呂にしてみたが、これほどまでに喜ばれるのならば作った甲斐はあったというもの。
 頭のメモに、タオルとバスローブ、それと石鹸、と追加をして興奮している彼女を宥めにかかった。
 これからやらなくてはいけないことがたくさんあるのだから。





サイト3周年企画アンジェエリックを作ってる最中に突発的に仕上げたモノ。
どうしても、逃避したくなるらしい…。




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