まだぼんやりとした眠気が抜けきらないまま、着替えをすませたわたしは寝室を出た。
 朝とはいえ、ここは地下だ。太陽の光など入ってこない。
 エリックは自室に戻っているようで、居間は闇に沈んでいた。わたしは手燭からランプに火を灯して回る。
(エリック、昨日は何時頃に帰ってきたのかな)
 彼は夕食後にマダム・ジリーに用事があると、オペラ座へ出かけていったのだ。その後はわたしが寝る時間になっても戻ってこなかった。だから今日は起きてくるのが遅いのだろうと予想している。
 居間の明かりを全て付け終えたので、キッチンへと向かう。ふあ、とあくびが出たので手を口元へ当てた。
 それに気を取られたのがいけなかったのかもしれない。
「あっ……っ!」
 キッチンの床は他の部屋と違い、無骨な石畳で覆われている。水洗いができるようにという機能面優先で作られたそれは、わずかにでこぼこしていた。そのちょっとした起伏に靴の先がひっかかり、つまづいてしまう。
 わたしは反射的にバランスを取ろうとしたが間に合わず、キッチンの中央付近を占める作業用テーブルに突進する勢いで手をついた。
 危ない、と思う間もなかった。
 手燭がぶつかり鈍い音を立てる。それから間をおかず、派手な破壊音がキッチン中に響いた。
「え!?」
 いきなりのことで、声が裏返るほど驚いてしまう。
 どうやらテーブルの上になにかがあったらしい。わたしがぶつかったせいでテーブルが押されて揺れ、弾みで落下したようだ。
 そう気づいたものの、手燭の火は消えてしまい、居間からかすかに漏れ届く明かりしか頼りになるものはなかった。火事にならずに済んで良かったと思うものの、一体何を壊してしまったのか……。早く確認したかったわたしは、もどかしく思いながらもキッチンに備え付けてあるランプを探した。
「これ、エリックの……。どうしよう」
 テーブル付近の床を照らしていくと、きらきらと透明な輝きを放つものが散っていた。
 壊れたのはおそらくワイングラスとカラフだろう。砕けてもなお煌めく破片に混じって赤い液体も飛び散っていたのだ。
 夕食の時に使った食器は二人で片づけている。だからこれはその後に出かけたエリックが帰ってきた後にワインを飲み、そして使い終わったグラス類をここに置いていったというところだろう。
(うう……。せめて流し台の中に片づけてくれたら壊さなくて済んだのに……!)
 わたしはエリックの無精さをちょっぴり恨みつつ、とにかく片づけなければと掃除道具を取りにキッチンを出ようとした。
……っ!」
「ひゃ……っ」
 そこへエリックが飛びこんできたので、わたしは彼に激突しそうになる。
「ど、どうしたの?」
「それはこっちが聞きたい。今の音はなんだ?」
 エリックは焦りの表情を浮かべてわたしの両肩をつかんだ。
「え……。あの、ガラスが割れた音だけど……」
「ガラス?」
 エリックは両の眉を寄せて怪訝そうな顔になる。
「そう、あれよ」
 わたしは身体をひねって先ほどの場所に注意を促した。つられてエリックの顔がそちらへ向く。
「ごめんなさい。つまづいた弾みでテーブルを押した感じになってしまったのよ。それで……」
「ああ……。あれか」
 エリックはほっと息をはいた。
「端に置きすぎたようだな。ああ、お前は悪くないよ。私がうかつだったんだ」
 それから彼はわたしの肩をつかんでいた手を離す。
「怪我はないか」
「ええ、それは大丈夫。眠っていたところを起こしてしまってごめんなさいね。すぐ片づけるから」
 するとエリックは頭を振る。
「それは私がやろう。割れたガラスで怪我でもしたらどうする」
 心配性ねとわたしは笑った。
「ガラス製品を割ったことくらい何度かあるもの、平気よ」
 しかしエリックは頑として受け付けなかった。片づけは自分がするから、わたしは朝食の支度をすればいいと言い残し、掃除道具を取りにいってしまう。
「……珍しいもの、見ちゃった」
 彼の姿が見えなくなってから、わたしは呟く。なんだか少し得をしたような気分になったのだが、エリックからしてみればそれどころではなかったのだろう。わたしの反応を知ったら、怒るか脱力するのではないだろうか……。
 キッチンからエリックの寝室まではそれなりに距離があるのだし、寝室の扉はしっかりとしまっているはずだ。そしてエリックは寝ていたのである。
 なのに、彼はガラスの割れた音が聞こえて目を覚ましてしまったらしい。そして速攻で駆けつけたという感じのようなのだ。彼の部屋まではっきり届くほどの音だったとは思えなかったが、彼のことだから異変を感知したらすぐに目覚めるようになっているのかもしれない。
 鉄壁を誇るこの地下の屋敷でも警戒をしなければならないのは、なんて切ないのだろう。結局ここでも、彼は心底から安らげていないのではないだろうか。
(……でもエリックが用心しているのは外からの危険ばかりじゃないものね)
 エリック言うところのわたしの突拍子もない行動というものも、十分に彼の警戒範囲に含まれているのだった。
(となると、彼が飛び起きてきたのはもしかして、わたしが何かしでかしたと思ったのかな……。確かにガラスは割ったけれど、そういう方向性じゃない意味で)
 それはそれでちょっと切ないが、切ながってばかりいては日常の生活は営めない。わたしはランプを定位置に置き直すと、コーヒーを淹れる用意から始めた。
 お湯を沸かしている間にコーヒー豆を挽く。ほうきとちりとりを持ってエリックが戻ってきたので、片づけが済んだら一緒に朝食を食べるのか、それとも寝なおすのかと聞いてみた。
 彼は迷うようにしばし視線をさまよわせた。だが食べると答えたので二人分のバゲットを切ることにする。しばらくの間、色々な意味で危険だとして刃物類は遠ざけられていたが、あれから時間も経ち、危険性よりも不便さ――特にわたしが一人の時に食事が碌にできなくなること――の方が大きくなったので、こうして台所仕事はできるようになったのだ。まだ一人での外出には許可がでないのだが……。
「エリック、こっちの準備はすぐに終わるけれど、待っているから着替えてきてね」
 片膝をついて割れ物の破片を集める彼の背に向かい、わたしは話しかける。
「着替え?」
 エリックは顔をあげて不思議そうに聞き返した。そしてはっと目を見張り、自分の格好を確認する。
 見る間に彼の顔から血の気が引いていった。
、なぜもっと早く言わなかった!?」
 エリックは勢いよく立ち上がり、叫んだ。手からほうきとちりとりが落ちる。せっかくまとめたガラスの破片が、また床に飛び散ってしまった。
「気づいていなかったの?」
 逆に驚いたわたしは呆気にとられた。
 寝起きにここへ直行したエリックは、当然ながらパジャマ姿だったのだ。ガウンすら羽織っていない。さすがに靴は履いているのだが、それすら布製の室内履きなので、普段醸し出す威厳などどこへ行ったのかという雰囲気になっていた。そしてエリックにとっては最も重要だろう、仮面とかつらもつけていない。
 エリックは手で顔を覆い、嘆きの声を発した。
「なんということだ。こんな姿をさらすなど……っ!」
「急いだのならそういうこともあるよ。そんなに落ち込まないで……」
 同じ屋根の下で暮らしいているのだ。こういうことだって起こり得ることだろう。いやそれどころかわたしなんて、エリックに注意されるまで、お風呂上りにドレッシングガウン姿で居間で過ごしたりしていたのだ。
 だが彼にとっては受け入れ難いほどの衝撃だったようで、わなわなと肩を震わせる。わたしの声も届いていないようだ。
 それから彼は決然と顔を上げたかと思うと、扉に向かって歩き出す。だが数歩進んだだけで止まってしまった。
 エリックはなにやら葛藤しているようだった。肩越しに振り返り、落としたちりとりを切羽詰った様子で見下ろしている。
「あの、片づけはわたしがやっておくから」
 砕けたガラスを撤去してしまうことと身支度を整えることのどちらを優先するか、迷っているのが目に見えたので、わたしは暗に着替えてくるよう彼に勧めた。ガラスの後始末くらい、たいしたことではないのだ。最初からエリックが大げさなだけだったのだから。
「いや、片づけてからでいい」
 彼は力なくそう言うと、背中を丸めて再び散った破片を集めにかかった。
「エリック、わたし、食堂で待っているね」
「ああ……」
 哀愁を帯びたその姿は見ている方が居たたまれなくなってしまうほど。
 わたしは朝食セットを素早くトレイに乗せて、隣の食堂へ移動した。


 それからしばたく経って、一部の隙もなく身なりを整えたエリックが席に着き、朝食が始まった。
 だが非常に気まずい。
 悄然としているのが傍目にもわかるので、どう言葉をかければいいのかわからないほど。
 彼は食事をする気が失せてしまったのだろう。ちびちびとコーヒーを飲むばかりで他のものには手をつけようとしなかった。
 エリックは素顔を見せることをを好まない。いや、素顔だけでなく一定以上の砕けた格好をすることも厭っているところがある。その彼が無防備とも言える姿をさらす羽目になったのだ。そのショックはわたしが想像する以上のものなのだろう。そしてそれはわたしが気にすることはないと言ったところで、簡単に気にしなくなるようなものでもないのだろう。
 痛いほどの沈黙が食堂に満ちる。
「ねえ、エリック」
 それでも何かしら会話をすれば少しでも早く痛手から立ち直るのではないかと、わたしは気持ちを引き上げた。わざとらしさは隠しきれなかったが、なんとか明るいと思われる声で彼に呼びかける。
「なんだ」
 覇気のない声でエリックは答えた。
「今日の予定はなにかあるの?」
 わたしは当たり障りのない質問をしてみる。とにかくさっきのことから彼の気を逸らせるのだ。
 エリックは真顔になってしばし黙った。
「今日の予定は特にはない。……いや」
 急に何かを思い当たったような表情を浮かべ、懐中時計を取り出す。
「しまった」
「エリック?」
 彼は焦りながら時計をしまい、立ち上がる。
「ちょっと上へ行ってくる。すまないが先に食べていてくれ」
「え、あの……」
 エリックはそれだけ言い残すと、さっさと食堂を出ていってしまった。ややあって玄関の開閉音が続く。
「なんなのよ……一体……」
 あっと言う間に取り残されたわたしは呆然と呟いた。
 それからまだ半分も食べていない朝食を途方にくれつつ見下ろす。
 今日のエリックは随分と落ち着きがない。いや、きっかけはわたしなのだということは承知しているが。
「先に食べていろって言われても……」
 エリックは何をしに行ったのだろう。そしていつ頃戻るのだろう。
 まだ中身の残っているコーヒーカップなどは、片付けてしまってもいいのだろうか……?


 エリックが戻ってきたのは、朝食後の洗い物が済んだ頃だった。
 両手にバゲットや牛乳瓶、その他食料の入っている紙袋を抱え、小脇には新聞を挟んでいる。
「おかえりなさい。急にいなくなるからどうしたのかと思ったけど、いつもの荷物を取りに行っただけだったのね」
 それならそうと言ってくれたら良かったのに。だけどあんなに慌てて行くなんて珍しい。
 玄関を閉め難そうにしていたのでバゲットと新聞を受け取りながら言うと、彼はむっつりとした顔で小さく頭を振った。
「いや、これはついでだから持ってきただけだ。今日中にほしいものがあったのだよ。だがベルナールはもう今朝の配達を終えてしまっていて、伝言が間に合わなかったんだ」
 ベルナールさんは朝と夕方の二回、スクリブ通りの出入り口付近にある隠し倉庫に来る。そこは食料等の生活必需品を置いておく場所であると同時に、こちらからのこなして欲しい用件を書いたメモを置く場所となっているのだ。
 だが入れ違いになってしまい、エリックは目的を果たせなかったようだ。
「今日中に? 何が必要なの?」
 並んで歩きながら問う。エリックは残念そうに首を振った。
「カラフだよ。ワイン用のものはあれ一つしかないんだ」
「あ……」
 わたしは思わず足を止めた。エリックは向かい合うように立ち止まり、不本意そうな声音で言った。
「昼はまだ我慢できる。だが夕食の時にワインが飲めないのは、あまり喜ばしい事態ではないな」
「ご、ごめんなさい、エリック」
 そのカラフを壊したのはわたしなので、恐縮しつつ再度謝罪をする。
 エリックは片手を振って気にするなと言いつつも、その肩は落ち気味だった。
「ガラスなのだから壊れることもあろう。こればかりはどうしようもない。それよりも予備の一つでも用意しておけば良かったと後悔しているよ。毎日使うようなものなのだからな」
「食器棚の中に似たような形のものもあったように思ったけど、それは別のものなの?」
「あれはリキュール用だよ。あれもガラスの容器だから使えないことはないが、ワイン用のものはワイン用、リキュール用はリキュール用として分けたいものだ。些細なこだわりかもしれないが」
 エリックは渋面を作る。
「ううん、わかるわ。そういうのって、気になっちゃうわよね」
 似たような形の醤油入れとソース入れがあったとして、いつも醤油を入れているものに、ソースを入れるのは気になる人は気になるだろう。ちゃんと洗えば匂いや味が残るわけではないとわかっていてもだ。
「それならグラスも必要になるわね」
 カラフと一緒に割ってしまったのだから。だが彼はそれは後でもいいと答えた。
「グラスは他にもあるからな。手に取りやすいところに置いてあるものを使っていただけで、あのグラスでないといけないということはない」
「そうだったんだ……」
 エリックの拘りがある部分とない部分の線引きを理解するにはまだまだ時間がかかりそうだ。などと思いつつ、
「夕方にもう一度ベルナールさんが来るはずだけど、その時に急いでもらえば間に合うかしら」
 わたしは首を傾げた。エリックは難しげな顔で唸る。
「ベルナールが何時頃に来るかによるな。間に合うかどうかは賭けになるだろう」
 現代の日本とは違い、この時代のパリでは、レストランなどの一部の店以外は夕方になるとさっさと閉店してしまうのだ。携帯電話どころか固定電話もないこの時代、予定変更があってもすぐに伝えられないのは、なんとももどかしいものだ。
 しかしベルナールさんに買ってきてもらおうとしていたところを見ると、エリックにとってカラフは『質は良いものを、けれどそれ以外の要因はさほど重要ではない』という系統のもののようだ。エリックは上等のものを好むが、使用目的が果たせるのであれば、細かな形状までは気にしないというものもそれなりにある。代表的なものは台所用品や掃除道具だろうか。食器も一部の装飾性が高いものを除いては、食器屋のディスプレイでもよく見かける形状のものが多い。カラフも特にこだわりの職人やメーカーのものを、というわけではないようだ。
「ベルナールさんが頼れないとなると、やっぱりエリックが出かけるしかない……かな? それで、えっと、わたしも一緒に連れて行ってくれたら、すごく嬉しいんだけど……」
 他に良案も思い浮かばず、わたしは彼のご機嫌を伺うように上目遣いで彼を見上げた。 
 壊した責任を取ってわたしが買いに行ってもいいのだけど、エリックはわたし一人では外出させてくれないだろう。だから買い物に行くとなると、どうしたってエリックが出ざるをえなくなるのだ。
 エリックは難しい顔をしていた。彼が判断を下すのを固唾を飲んで見守っていると、エリックは仕方なさそうに肩をすくめた。
「まさか樽を食卓の上の置くわけにもいかないからな……」
 そう、エリックがカラフに拘るのは、彼はワインを樽で保管しているからだ。樽とはいっても小さめなものではあるのだが、瓶よりはずっと大きい。
 飲みたい時に飲みたい分だけ汲めるし、料理で少しだけ使いたい時などにもわざわざ瓶を開けるなどという手間もかからないのだが、今日のようにワインを汲むための容器がないとたちまち困ってしまう羽目になる。
「それじゃあ……」
 久々に外を歩けそうな希望が見えたので、自然と頬が緩んだ。
 エリックはわたしをじっと見つめると、ふっと苦笑する。そして自分が抱えている食料入りの袋を揺すって見せた。
「これを片付けたら出かけるとするか。待っているから外出着に着替えておいで」
 すでにフロックコート姿になっていた彼は、部屋着姿のわたしにいたずらめかしてそう告げたのだった。



特にどの時期でもいい話にしたかったけど、修羅場編の前か後かでこの後の話の流れが変わってしまうので、いっそのこと修羅場編後ということにしました。
(修羅場編前ならカノジョが一人でおつかいに行く、ということになっただろう…。けれど次はエリック視点になるので、それだとカノジョのお使い中の様子が書けないのよ…)




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