ぼんやりと明るくなり、周囲の石壁の様子が判別できるようになる、地上と地下の境界とでもいうべきところ。
 もうすぐ外へ出られるという階段の途中で、私はに気づかれぬよう深呼吸をした。腹に力を込め、己を叱咤する。
 これから人通りの多い通りを行き、買い物をせねばならぬ。
 私たちは二人でたびたび外出するようになったものの、目的地への移動には馬車を使っていた。だが今回はベルナールを呼んでいる余裕がない。それに店はオペラ座から歩いて十分少々のところにあった。距離が短すぎるため、辻馬車を止めても断られる可能性が高いと予測できる。だから今回の外出はこれまでになく難易度の高い『店まで歩いていく』ということをしなければならなくなったのだ。今までにも大なり小なり面白くないことが起きているので、今回もきっとそうなるだろうと思うと、憂鬱になってしまう。
 それに……。恐れていた事態はやはり起きつつあるようだった。
 私との結婚を決意した彼女だが、これまでの外出を経て、そのことを後悔し始めているのではないかという懸念が生じているのだ。彼女も私同様、地上へ踏み出す直前に己に活をいれるような仕草をするようになった。本人はこっそり行っているつもりのようだが、気配などで私にはわかってしまうのだ。
 私が理想として描いていた想像の中の妻は、いつだってにこやかに微笑み、私の傍らにいてくれた。
 だが現実というものはやはりそんなに甘いものではない。
 冷たい眼差しにひるみ、居丈高な様子に不快になり、聞くに耐えない言葉に傷ついていく。愛があったとしても、それは世間の強い冷遇にすり減っていくものだということを私は痛感した。
 だからを外出に同行させるのはやめようと、連れて行く度にいつも思った。私と彼女だけの世界であれば、まだ愛が磨耗することを遅らせられるだろうと。だが――。
 午前中の陽光が、階段に光と陰の線引きをする。後一歩で光の中に立つという時になって、がすっと息を吸った。
 ちらと視線を向けると、顔をあげた彼女と目が合う。は同じ企みを共有している者への共感を湛えた笑みを浮かべ、しゃんと背筋を伸ばした。戦闘開始とでも言い出しそうな雰囲気で日傘を取り出す。白いレースのついたそれがぱっと花開いた。
 そうして光に満ちた世界へ足を踏み出すと、早速飛んでくる不躾な視線など気づいていないとでもいう様子で私の腕に指を絡ませる。ただの恋人同士のように。どこにでもいる夫婦のように。
 そうだ。結局、こうするしかないのだ。
 ただ立っているだけでも他人の嫌悪を誘ってしまう私だ。その私が人並みな生活を得ようとするのならば、他の人間の何倍もの苦労をすることは避けられまい。それは私の伴侶にとっても言えることだ。
 温かく迎えてくれない世間に慣れ、折り合いをつける術を覚えること。ただ優しいだけ、辛抱強いだけの女ではこんな立場を引き受け続けることは難しいだろう。
 のように現実を知り、それを乗り越えようとした先にしか、私の望んでいた妻というものは存在しまい。
 だがなんと皮肉なものだろう。私は妻になってくれる女性に、いらぬ苦労などさせたくはなかった。どんな辛いことからでも守り、優しくしてやりたかったのだ。それができない自分を不甲斐なく思う。
 しかしの意欲はまだ消えたわけではない。ならば私もひるむわけにはいかないだろう。
 そんな風に自分に言い聞かせていると、がくいっと私の袖を引いた。
「いいお天気ね。このままピクニックをしたい気分よ」
 目をあげて彼女は気持ち良さそうに微笑んだ。ピクニック、か……。ああ、そんなことをした日もあったと思い出す。あれは私にとっても楽しい記憶だった。
「そうだな。今日は無理だが、日を改めて行ってみようか」
「本当?」
「ああ」
 瞳を輝かせて喜ぶ彼女に愛おしさがこみ上げ、そっと彼女の肩を抱き寄せた。私に寄り添う形になったので、歩く度に彼女のたっぷりとしたスカートが足に触れる。くすぐったく感じながらもそれを表情に出さないように顔の筋肉を引き締めた。
「向こう側に渡ろう。急ぐぞ」
「あ、うん」
 行き交う馬車に挽かれないようタイミングを見計らい、通りの反対側へ渡る。それからまたオスマン大通りに向かって歩き続けた。仮面の男と東洋人の女という組み合わせに向けられる視線は多い。それにこちらの存在に気がついて、すれ違う際に距離を取れるようにそれとなく進路変更する者は相当いた。
 腫れ物を扱うようなその反応を意識しないようにと意識する。不快感を伴わないわけではないが、こちらに危害を加えるつもりでなければ、流すしかない。こういったことはきっと、何年経っても変わることはないだろう。小蠅が周囲を飛び交っているものとでも思うしかないのだ。
 とはいうものの、じろじろ見られるのはいつになっても気分のいいものではない。ただでさえ人通りの多い場所だ。自然と歩く速度があがってしまったようで、にもっとゆっくり歩いてと苦情を申し立てられた。
「すまない」
 謝ると、小走りになってしまったせいで息があがったらしく、頬をバラ色に染めたがもう、と唇をとがらせた。わざとらしく顔をしかめていたのが可愛らしい。思わず苦笑をすると、意識しないように意識していたせいで緊張していたのが解けていくのがわかった。……私もまだまだだな。
 それからはできるだけゆっくりと歩くように努めた。が時折ショー・ウィンドーに気を取られて足を止めるので、私もそうする。こうしていると彼女がどのようなものを好むのか、だんだんわかってくるような気がした。
、そこに入るよ」
 曲がり角に近づいてきたので、をそちらへ促す。
「ここを通り抜けるの?」
「そうじゃない。ここの中にあのカラフを買った店があるんだ」
 そういえば彼女には目的の店がどこかちゃんと言っていなかった。徒歩で行かねばならないことに気を取られすぎていたようだ。
 その中へ足を踏み入れると、先ほどまでの喧噪が一気に遠くなった。幾何学模様に敷き詰められたタイルが整然と通路の奥まで延びている。そこを行き交う者は数少ない。日差しも和らいでいるので、は差していた日傘を畳んだ。
 ここは屋外でありながら屋内の如き場所だ。
 パサージュ・クヴェール。ガラスの屋根で覆われた通り抜けの道だ。通りの両側には商店が入居しており、雨風に煩わされることなく買い物をすることができる。 ガラスの天井を通過したため、柔らかさを帯びたように感じる陽光は、なにやら郷愁を誘うような雰囲気を作り出していた。
「ここに食器屋さんなんてあったかしら」
 は通り過ぎる店の看板を眺めるともなく眺めながら、記憶を探るように眉を寄せる。
「いや、目的の店は食器店ではなくワインとワイン用品の専門店だ」
「ワイン専門店? じゃああそこね」
 納得したように彼女は頷く。
「ああ。行ったことがあるか?」
 は頭を振った。
「ううん。この通りはあまり歩いたことがないから……。わたしにとって興味を引くお店がほとんどないんだもの」
「そうかもしれないな。専門店が多いからか、それぞれの店に用がある者以外からは忌避されがちだと聞くよ」 
 ここは近隣にあるパサージュ・クヴェールに比べても豪華な造りになっているが、よそよそしい端正さがある。それが敷居高く感じるので、雑多な品物を眺めて時間を潰そうとする類の遊歩者を遠ざけるらしい。もっとも人出が少ないのは、私にとって都合の良いものではあるのだが。
 目的の店に到着したので、礼儀と形式のために店主に挨拶をする。も続いて声をかけた。この店での買い物は常にベルナールに任せていたのだが、さてどんな反応が返ってくるだろうか。
「ようこそ、いらっしゃいま……せ」
 裕福な階層の客を多く抱えているのだろう。きっちりとスーツを着こなした店主らしき男は最初はにこやかに、だが次いで虚を突かれたような顔になった。
「カラフを探しているのだが」
 これならば悪くはないかと思いながら用向きを伝えると、彼は一瞬弾かれたように身体をびくつかせた。
「あ、ええ、カラフですか……。少々お待ちを」
 焦ったような足取りで、ガラス製品が並ぶ棚へ向かう。見るともなしに視線で追っていると、隣でが感嘆した声で囁いた。
「さすがに専門店だけあって、グラスの種類も多いわね。結構派手なものもあるし。あんなに色々あるなんて思わなかったわ」
「興味があるのか?」
 問うとは戸惑ったような笑みを浮かべた。
「興味というほどではないんだけど、カップとかグラスって衝動買いしたくなることがあるのよ。綺麗なものとか可愛いものとか。いっぱいあっても使わないのはわかっているんだけど」
「ふむ……そういうものなのか」
 そんな会話をしているところへ、店主が銀の盆にいくつかのカラフを乗せて戻ってきた。カウンターに向き合い、商品の説明を受ける。大きめのものから小振りなもの。ガラス彫刻をほどこしたものやエナメルで絵付けをしたものと様々だ。
「大きさはこれくらいのものがいいか」
 半リットル分のワインが入る大きさのものを選ぶ。それからまた壊れた場合を想定してもう一つ別のものを買うことにした。葡萄の蔦と房が彫刻されている上品なものと、エナメルで花の模様が描かれた華やかなもの。これらをその日の気分によって変えるのもいいだろう。
「それからグラスを二つ。彼女に選ばせたいのだが?」
「え、いいの?」
 店主に向けて告げると、が驚いたように声をあげる。
「それも壊れたからな」
「でも他にもあるんでしょう?」
「新しく二つ程増えたところで置き場所に困るわけでもあるまい」
「わたし、あまりワインは飲まないけど……」
 反論はするものの、彼女がグラスに興味があるのは丸わかりだった。どれにしようかという期待が声に現れている。
「自宅で使うんだ。誰に迷惑がかかるわけでもないのだから、好きな飲み物を注げばいいだろう」
「そ、そうだね」
 ようやく踏ん切りがついたようで、わくわくとした雰囲気を発散させながら、はグラスの並ぶ一角へ案内されていった。私も彼女のやや後ろをついていく。店主が私に怯えてまともな説明もできなくなるのを避けるためだ。
 は本当にグラスを――というよりも食器類を、だろうか――眺めるのが楽しいらしい。ドレスの生地に対するものに比べて熱心さが違った。ためつすがめつして選んだものは乳白色のガラスに金彩で縁どりをした清楚な作りのもの。ペアで売られているそれを店主に頼むと彼女は振り返ってにっこり笑う。
「ありがとう、エリック」
「いや、別にたいしたことではない」
 グラスも二つと言ったのは、やはり壊れるかもしれないものだから自分の分を二つ選べという意味だったのだが、彼女は違う風に解釈したようだ。だが……まあ、揃いのものを使うというのも……悪くはないのではないかと思う。


 会計を済ませ、壊れないように包装された荷を受け取り店を後にする。自分で持ちたいというのでグラス入りの箱を彼女に預けると、は上機嫌になった。こんなにたわいもないことで、とは思うものの、嬉しく感じる自分を否定することはできなかった。
 帰途の途中、甘いものが食べたいというの要望を受けて、パンと総菜の店で季節のフルーツタルトと昼食用にとケイク・サレ、ジェジェ入りサラダなどを買って家に戻る。こういった出来合いのものを買うということも滅多にないので、なにやら新鮮な気分だった。
 買ってきたものを皿に移すだけという簡単な手間だけで遅い昼食の用意が完了する。
「せっかくだ。軽く飲むか。はどうする?」
 カラフの梱包を解きながら、彼女の意向を聞いてみた。
 は夕食の時にはグラス一杯ほどを飲むこともあるが、昼はもっぱらディアボロ派だ。炭酸水にミントや果実のシロップで甘みをつけたこの飲み物をその日の気分で選んでいる。
「えっと……じゃあ、飲もうかなぁ」
 ところが珍しいことにもじもじした様子ながら、承諾したのだ。昼間から飲酒をするのは気が引けるから飲まないと頑なにしていたのに。
 もっともパリでは昼食にワインの小瓶をつけることは珍しくないことなのだ。これも国による風習の違いというものだろう。気が引けることなどなにもない私は、貯蔵庫へワインを汲みに向かった。
 それから戻ると昼食が始まる。新しいカラフに新しいグラス、それに普段は食べることのない料理が食卓に並んだ。
 物珍しさも手伝ってか、は始終幸せそうな顔で料理を口に運んでいた。ワインの進み方もいつになく早い。もともとアルコールに強いわけではない彼女は、二杯目を飲み終わるころにはすっかり目元が赤くなっていた。
「まだ飲むのか?」
「あと一杯だけ。なんだか今日はすっごくおいしく感じるの」
 少々呂律が回らなくなった口調で笑う。手元が少し危なっかしくなっていたので、代わって私が注ぐことにした。
 しかしやはり飲み過ぎになったようだ。
 デザートのタルトを半分食べたところで、フォークを持つ手が止まる。
、大丈夫か? 部屋へ連れていこうか」
「んーん。たべる」
 ぼんやりとした目つきで彼女はふるふると頭を振った。
「だが満腹なのだろう?」
 問うと、
「ちがうよー」
 とは緊張感のかけらもない声で答えた。そうしている間にも上半身はふらふらと揺れている。再びフォークを握りなおしたが、それは標的のタルトをかするだけに終わった。
 もうこれは中止させねばと私は席を立った。このままではタルトの皿に顔を突っ込みかねない。
、しばらく休むんだ」
 彼女の手からフォークを奪い、席を立たせようと腰に腕を回す。すると、
「えりっくー」
 ふわふわした笑い声とともに、彼女は両腕を私の右腕に絡めた。とっさのことだったのでかわすことができず、捕らわれの身となる。
 彼女は人形でも抱きしめるかのように私の腕を抱いた。ドレスの絹の感触、その下にある堅いコルセットと、さらにその下にあるものの弾力が渾然となって伝わってくる。酔いのせいか、体温も妙に高い。
、離してくれないか。身動きができないのだが」 
 反応が遅れること数秒。我に返った私はできるだけ平静を保って聞こえるように声をかける。
「いーやー」
 はくすくすと笑いながらそのまま私の腕に頬をすり寄せた。
 酔いが回りすぎたがこうなるのはいつものことだが、理性が飛んでいる女をどうこうするほど墜ちたくはない。だがこんな風に甘えてくるなど、普段の彼女からは考えられず、無防備そのものの笑顔と押しつけられる熱い肢体に身体が自然と反応しそうになった。
 それを無理やり押さえ込みつつ、私はゆっくりと彼女の両腕から自らの腕を引き抜いた。それから彼女の両肩に少々力を込めて急な動作ができないように押さえつける。
 仕方がない、この方法はあまり使いたくはないが、そうもいっていられないようだ……。
 私は彼女の耳に唇を寄せ、脳髄に作用するように囁く。
「立つんだ、
 はぴくりと肩を振るわせると、不思議そうに私を見つめた。それから不自然なほど静かに立ち上がる。スカートが椅子を擦るしゅるりとした音がやけに耳についた。
「歩いて」
 続けて命じると、は操り人形さながらに歩き始めた。私は彼女の片手を取り、誘導するように先に進む。
「座って」
 居間の寝椅子の前までいくと、再度命令する。すとんと彼女は腰を下ろした。私は屈みながらの身体を横向きにさせ、足も寝椅子に乗せるようにした。
「目をつぶって。しばらく眠りなさい」
 頭をなでる手を額から目元へと滑らせる。手の動きに併せてが目を閉じるのがわかった。
 それを確認すると一気に疲労感が襲ってきて、私はその場で盛大にため息をついた。すうすうと穏やかな寝息を立てる彼女の姿に安堵するとともに、恨めしさを覚える。
 ――酔ってさえいなければ。
 ああ、酔ってさえいなければ、あれが私たちの関係をさらに進めてもいいという合図だと判断したところなのに……!
 男と同居している女がああいうことをしたら、男のたががうっかり外れても文句など言えないだろう? いくらとはいえ、そこまで鈍いはずがない。そうだ、彼女が家出していた時にいたはどこだった!?
 理解していないとは言わせない。気づかなかったなどと言われても信じない。は私をもてあそんでいるのか? やはり悪い水に染まってしまっていたのか……? 悪女め……!
(いや、そうではない……)
 心の中で散々罵り、言葉が尽きた後、私は脱力して肩を落とした。
 が酔うと陽気で積極的になるのはいつものことだが……その時のことを覚えていないのもいつものことなのだ。
 覚えていないから学習しないのだ……。
 私は再びため息をつくと、昼食の後片付けをしにその場から離れた。暢気に眠っている彼女を見続けていたら何をしてしまうかわからないということもあったからだ。
 ああ、紳士であろうとすることは、なんと苦痛を伴うことだろう……。
 いっそのこと、打ち明けてしまおうか。
 彼女が愛しくて苦しんでいる男を救ってくれと。






シチュリク二つをまとめて消化。
エリックがぐるぐる悩むだけではなく、行動に移そうとしたので、どうしようか本気で迷った(汗)
脳内二者面談の末、次回以降に改めて書くから、今回は堪えてくれと涙を飲んでもらいましたが…。

パサージュは、現存するパサージュ・デ・プランスをモデルにしています。現存はしているのですが、当時そのままの形で残っているわけではない(改装されたから)ので、あくまでモデルです。



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