背中に鈍い痛みを感じて、目を開ける。
 暗い。
 そうだ、私は……。


 先刻のことを思い出し、私は傍らに目を転じた。
 何かを探しているような彼女の気配がある。
 真っ暗で何も見えないのだろう。ひどく慌てているようだった。

 ずいぶん強く背中を打ったようで、起き上がるのに苦労する。
 声を発するのも難しいくらいだった。
 それでも何とか身体を起こすと、彼女は気付いたようにこちらを見た。
「エリック、大丈夫!? 頭打ってない? 怪我は……!」
 泣きそうな声。
 しかしこちらの様子までは見えないのだろう。
 少々見当違いな方から声が聞こえるのだ。
「落ち着きなさい……。少し、背中を打っただけだ」
「本当に? ごめんなさい。わたしのせいで……」
「まったくだ。私はちゃんと警告をしたというのに……」
 私はわざとらしくため息をついた。

 私の後ろについて階段を降りていた彼女は、滑りやすいから気をつけろという忠告に浮かれ調子で返事をして、案の定喜劇のように踏み外したのだ。
 とっさに受け止めたからよかったものの、そうでなければどこまで転がり落ちたかわかったものではない。
 彼女はしょげたように肩を落とす。
 灯り一つない暗闇でも、私の目には彼女の表情を見分けられるのだ。
「まあ、これで二度と同じ失敗は繰り返さんというのなら、学習した甲斐はあるのではないか?」
 皮肉交じりにそういうと、彼女は再度、
「ごめんなさい……。エリック、本当に怪我はない?」
「大丈夫だ。……っ」
 立ち上がろうとして、声がくぐもる。
 打ち身が身体に堪えたのだ。
 それでも長年一人で暮らしていたお陰で自分の身体がどうなっているのか、察知する能力には長けている。骨は折れていないようだから、何日か無理な運動をしなければ良いだろう。
「やっぱりどこか怪我したんじゃないの? 今ね、灯りをつけようと思ってランプを探してるんだけど、落っこちた弾みでどこに行ったんだか……。ああ、もう!」
 彼女は髪をぐしゃっとかき上げた。そんな風にしたらせっかく結った髪が台無しになってしまうだろうに。
「いいさ、どうせ壊れただろう。私には見えるから、まずは家に戻ろう」
 言いながら自分の顔に手をやり――異変に気付いた。
「でも、わたし……。あ、そうだ、バッグにマッチ入れといたんだっけ。ちょっと待ってて!」
 しかし彼女は私の様子に気付くことなくバッグの中を漁り始める。

 マッチだって!?
 誰かが私の顔を見たら、きっと蒼白になっているに違いない。

「あ、あった」
「駄目だ!」
「は?」
 私の大声に彼女は不思議そうな声をだす。
 だが、その手は止まらない。
「点けるんじゃない!」
「どうして……?」
 小さな擦過音と共に、オレンジ色の小さな灯りが灯る。
 彼女はこちらを向き、そして。


 表情を凍らせた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 事の起こりは予てからの約束通り、少しはまともな所作ができるようになったので、彼女をパリ見物に連れてゆくことにしたところから始まる。
 季節は春。
 外は充分に暖かくなっていたので、冬の間に私を人びとの視線から守ってくれるマントはもう着られない。そこに東洋人の娘を連れて歩いたりなどしたら目立ちまくることは火を見るよりも明らかだった。
 そこで、最初の外出であるということもあったので、馬車を仕立てて市内を一周することにした。
 それだけのことだったのだが、彼女はずいぶんと喜んでくれた。

 帰りには彼女のお気に入りのチョコレート屋に寄って好きなものを選ばせた。
 部屋に戻ったらお茶を入れて一緒に食べようと彼女は私を見上げて微笑む。
 甘いものは得意ではないが、せっかくのお誘いを断る必要もあるまいと承諾した。


 楽しかった。
 普通の人間にとっては当たり前であろう、他愛のないやりとり。
 だが私にとって長年求めても得られないものだった。

 それはまだ彼女が私の顔を知らないからなのであって、俄かに喜べることではないだろう。
 しかし今だけは……。
 まだ、今はこの暖かさの中にいたい。


 そんなふうに考えていた。
 甘ったるい感傷だったと、今ならば思う。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 彼女は目を見開き、口を半分開けたまま私を凝視している。
 マッチの小さな灯りに照らされているのは紛れもない化け物の姿だろう。
 彼女を受け止め、一緒に倒れた弾みで仮面と鬘が取れていたのだ。
 そして、反応が遅れ、隠すこともできなかった。
 見られた……!
 絶望が身体中を駆け巡った。
 彼女に本当の姿を見せる機会をずっと待っていたが、これで何もかもがお仕舞いだ。
「熱っ……!」
 彼女が小さな悲鳴とともにマッチを振り捨てると、あたりは一気に暗くなった。
 身じろぐ彼女の腕をがっとつかむ。
「エリッ……」
 びくっと彼女は身を強張らせる。
 私を拒絶するその様子がたまらなく憎くなった。
「立つんだ」
 石の壁に声が冷たく響く。
「あ……」
「さあ、早く!」
 顔を見られた衝撃で忘れていた事実を思い出す。
 ここはスクリブ通りにある入り口からまだそれほど奥に来ていないのだ。
 地上の人間が間違って入ってきても不審がられないように、このあたりにはまだ罠の類を仕掛けていない。
 彼女が私の手を振りほどき、上に向かって走り出したら、ただそれだけで永遠に怪物の魔手から逃れることができるのだ!

 そんなこと、させるものか。
 許すものか。
 逃がすものか……!

「立て! 戻るぞ……!」
 力任せに彼女の腕を引っ張る。
 もう、どう思われようと構わなかった。
 どうせ彼女も私を恐れ、悪魔だ、化け物だと泣き喚くに違いないのだから。
「痛っ! 待って、エリック……!」
 立ち上がりかかった彼女は再び座り込んだ。
 まだ自分の立場がわかっていないのかと腹立たしくなる。
 子供のように駄々をこねれば、私が許すとでも思っているのだろうか?

 馬鹿な子だ。

「逃げられると思うな……!」

 腹の中が煮えたぎった私は彼女を抱え上げ、抵抗するのもそのままに地下へと急いだ。
 途中、紙の箱――きっとチョコレートだ――を踏み潰してしまったが、足を取られかかったと不愉快に思っただけだった。


 湖のほとりまで来ると小船に放り込むようにして乗せ、対岸まで渡るとまた引きずり降ろす。
 部屋に入ると消さないでおいたランプが黄色い光を放っていた。
 仮面を持ってくるのを忘れたことを思い出したが、どうでもいい気持ちになった。
 ちっぽけなマッチの灯りではなく、いくつもの光の中で、彼女は化け物に向き合っている。
 彼女の髪は乱れ、ドレスは泥と埃で汚れていた。
 顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。

 ああ、彼女が私に対して笑いかけることはもうないだろう。
 熱くたぎる心とは裏腹に、冷ややかな声が脳裏をよぎった。






オペラ座創作をやるなら避けて通れないネタですな。

続きます。



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