エリックという人間はとにかく秘密が多い。
 一緒に暮らすようになって四ヶ月ほどになるが、わたしはまだ彼のことをほとんど知らないのだ。
 性格についてはおいおいわかってきた。
 彼は神経質で気難しく、およそ陽気なたちではない。
 天才と呼ぶにふさわしい才能の持ち主だが、その性質の持つイメージそのままの振る舞いをする。一度集中してしまうと周りがまったく見えなくなるところなどは特にそうだ。
 それに結構気短で、激昂しやすいのだろう。
 音楽新聞を読むときの彼ときたら、十中八九、文句を言いながら部屋をぐるぐる歩き回るのだ。
 そんなに腹が立つのなら読まなきゃいいのに、と思うのはわたしが彼ほど音楽に思い入れがないせいだろう、と思う。
 そうそう、それから美しいものが非常に好きである。
 だが唯美主義者とは違うようだ。
 彼は美しいものが好きだが、理性の方により重きを置いているようなのだ。
 そうでなければ彼の空間にわたしがいられるはずもない。
 そしてその、彼の美しいものが好きな性質が、仮面の下に原因があるのだろうということも、居候の身になって数週間もすれば自然に理解できたのだ。


 しかしそういったことがわかっても、エリックという人間が、たとえばどこで生まれて年はいくつなのか、などという、およそ初対面の人間同士ならばとっくに話していることも、わたしたちはしていない。
 どういう暮らしをしていたのかということも。
 多くの国々を渡り歩いていたらしいことは言葉の端々から察せるにしても、それ以上のことはわからない。
 いや、一つだけあった。
 彼は犯罪者だ。
 それは間違いない。
 現在でも多分恐喝の類をしているのだと思うし、以前には殺人もしたことがあるのだろう。
 わたしの性格からいってこの、およそ欠点だらけの男性と暮らすなど耐えれるはずはないのだ。
 特に犯罪行為に関しては看過できるものではない。
 それが小市民的思考であるにしても、嫌悪を催さずにいられるはずはない、のだが……。
 わたしは彼を嫌うどころか、日を追うごとに好意を感じるようになってきたのだ。
 それというのも、彼は自身の気まぐれさや傲慢ぶりをわたしに向けないよう努めているのがありありとわかったからだ。
 わたしという闖入者に、彼は非常に辛抱強く親切に接してくれた。
 エリックの住まいが誰もこない地下にあることを考えれば彼の紳士的な態度は重要な意味を持つ。
 つまり、人間は誰にも見られていないと考えているときは少々の逸脱は構わないと考えるものだ。実行するしないはまた別の話であるが。
 この場において支配者はエリックであり、わたしはどんな扱いをされても逆らうことなどできない。
 すべてがエリックの意思次第。
 そのことの危うさに気付いたのは、実は一緒に住むようになって何日もたってからだった。
 それくらい、エリックは優しかったのだ。
 だから拷問部屋のことを聞いても、多少揺れ動いたものの、わたしは変わらず彼のことを好意的な目で見続けることができたのだ。


 変わっているけれど、それなりに平穏だった生活。
 だけどそれは、一本のマッチで簡単に崩れることになった。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 パリ見物を終え、いまだ興奮の覚めないまま、地下の家に向かう。
 エリックは滑りやすいから気をつけるように再三に渡って忠告してきた。
 それに対して適当に返事をし、たところで足を踏み外した。
 衝撃は一瞬。
 気がつくとわたしは彼を下敷きにしていた。
 ぴくりとも動かないエリックに、頭を打ってしまったのではないかと心配したが、様子を見ようにもランプが見当たらない。
 そして立ち上がろうとした拍子に左の足首が痛んだ。
 ぶつけたか捻ったかしたのだろう。
 その場から動けずにどうしようと泣きたい気持ちになったとき、エリックが身じろいだのだ。
 背中を打ったとかで、辛そうな声をしている。
 それでも心配をかけまいと、平気そうにするものだからたまらない!
 わたしはもう一刻も早くエリックの様子を見たくて、仕方がなかった。
 バッグの中にマッチを入れておいたのを思い出し、取り出して火をつけた。
 エリックが制止するのも聞かずに。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 オレンジ色の小さな灯りの中に浮かんだ顔。
 エリックのものだと気付くのに少しかかった。


 その瞬間、わたしの思考は一度停止してしまった。
 どうしてエリックの声がする方を見たらガーゴイル――さきほどまでのパリ見物のときにも教会の屋根についているその石像を見たばかりなのだ――があるのだろうかと、そんなことを思ったのだ。
 左はいつもの見慣れたエリックの顔。
 だけど、もう半分は……。

 わたしはそこで、自分が見てはいけないものを見てしまったのだと悟った。
 だが悟ったときにはもう遅かった。
「立て! 戻るぞ……!」
 呆けたあまり、マッチに指先を焼かれてやっと我に返ったわたしは、エリックに腕をつかまれてひたすら地下に向かって急がされた。
「痛っ! 待って、エリック……!」
 足首の痛みはひどく、とても歩けるものではなかったが、わたしが何を言おうとしても彼は聞く耳をもってくれない。
 荷物のように抱えられ、小船には放り投げられた。
 こんなに乱暴に扱われたのは初めてで、悲しくて悔しくて涙が出た。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 地下の家に戻る。
 エリックは仮面も鬘もつけないままで、怒りの形相でわたしを見下ろしていた。
 マッチの灯りとは比べ物にならない明るい光の中で、彼の姿はひどく哀れを催すものだった。
 どう、いったらいいのだろう。
 右の唇の端あたりから頭にかけて、本来なら滑らかな肌があるべきところが、歪み、捩れ、そのまま固着したよう。
 肌の色も白色人種特有のピンクがかった白じゃない。年月を経た古木のように乾燥した茶に近い。ところどころ、赤黒くもある。
 そして右の瞼は動かないようだ。荒く肩で息をし、激しい感情に揺れ動く左目とは対照的に、濁った右目は微動だにしなかった。
 鬘の取れた頭にはまばらな髪。色の薄い金髪なのか、白髪なのかは判断がつかない。
 そして、わたしが最も目を離すことができなかったのは、彼のこめかみのあたりにある、大きな傷跡だった。
 古そうなものだったが、わたしの握りこぶしほどの大きさがある。
 こんなに大きな傷なら、負った当時は相当出血したことだろう。
 ただの不注意でできたものだと考えるには無理があった。


「ごめんなさい……」
 沈黙を破ったのはわたしのほうだった。
 エリックはびくりと身体をこわばらせる。
「ごめんなさい……」
 再び目頭が熱くなってきて、涙があふれてきた。
 エリックは一歩こちらに踏み出す。
 わたしは反射的に後ずさった。
「泣くほど恐ろしいか……?」
 憎憎しげなエリックの声。
「そうなんだろう!? このような化け物などと一緒にいたことを後悔しているんだろう。だがな、ここに住むといったのはお前の方だ。それを忘れるな!」
 わたしが答えるより先にエリックは怒鳴り散らした。
「エリック、わたし……」
「逃げられると思うな! 二度と自由になどさせるものか。お前はこれからもここにいて、ずっと私と暮らすんだ!」
「ねえお願い、話を聞いて!」
「話? 今更どんな話があるっていうんだ。今更……」
 エリックは頭を振る、
 彼の顔が泣き出しそうに歪んだ。
「どうして私の言うことを聞かなかったんだ。お前が火をつけさえしなければ、私たちは今まで通りやっていけたのに。そうしたらたまにお前を外に連れてゆくくらいのことはしてやれたのに……」
「エリック……」
 わたしは思わず息を飲んだ。
 こんなに傷つき、絶望している人の声をわたしは聞いたことがない。
 わたしは立ち上がり、彼のそばに歩いた。
 足首は相変わらず痛みを訴えていたが、構ってはいられない。
「うん。ごめんなさい。もっとよく考えればよかった。でもね、わたし、あなたの顔が恐ろしいとは思わないわ。そりゃ、最初は驚いたけど……」
「嘘をつくな! この顔を恐ろしいと思わない人間がいるはずない! こんな、悪魔のような……っ」
「それは、少しは怖いと思ったけど。でももう平気だわ。お願い、怒鳴らないで。そうされる方が余程怖いの」
 そういうとエリックは戸惑ったような表情になった。
「だったら……どうしてそんなに泣くんだ」
 ぼそぼそとばつが悪そうに呟く。
 問われてわたしは黙り込んだ。
 気がとがめて彼の顔を見ることができない。
 思わず目を背けると、エリックは疲れたように背を丸める。
「ああ、いいさ。これがお前の示せる精一杯の同情なんだね。それでも私の顔を見たことがある人間にしては一番ましだったよ。……怒鳴ってすまなかった」
 そういうとくるりと背を向けた。
 行ってしまう!
 こんな気まずいままで別れたら二度と修復することはできなくなってしまう。
 そう思ったわたしはエリックの腕にしがみついた。
「なにを……!」
「エリック。わたしはあなたが好きよ」
「な……」
「わたしが来てしまったのがここじゃなかったとしたら、あなたにされたほどには親切にされてはいなかったと思う。本当に、どれほど感謝しても足りないくらい。だというのに、わたしときたらあなたの素顔を怖いと思ってしまった。それが情けなくて……自分が許せないわ」
 口を開けて固まったエリックに、わたしは思いのたけをぶつけた。
「それは……当然のことだ。急に目の前にこの顔があれば、誰だって怖いと思うはずだ」
 エリックは頭を振る。自分を傷つけるような物言いをする彼を悲しく思った。
 先を続けることはさらにエリックを傷つけることになりはしないかと不安だが、黙ったままではもっと彼を傷つけるだろうことは容易に想像がついた。
 わたしはもう一度勇気を振り絞る。
「もっと情けないことに、出会った当初にあなたの素顔を見ていたら、わたしは叫んでいたんだろうと思うの。それを思うとたまらない。こんな恩知らず、どんなに罵られても当然のことだわ。ごめんなさい。本当に……」
 エリックは不思議なものを見るようにわたしを見下ろしていた。
 そしてゆっくりと、手を伸ばしてくる。
 皮手袋に包まれた指がわたしの頬に触れた。
 形を確かめるようになぞってゆく……。

 くすぐったいこともあるけれど、こんな状態でどういう態度を取ったら良いのかわからず、わたしはただエリックを見上げていた。
「   」
 小さな声でわたしの名前を呼ぶ。
 と、急に両足が浮いた。
 小さな子共が不安を紛らわすために人形を抱きしめるように、エリックはわたしを抱きしめた。
 優しくはない。むしろ苦しい。
 しがみつかれるように腕を回されて呼吸がひどくしにくくなった。
 それでも拒む気にはなれない。
「エリック……。大丈夫よ。大丈夫だから……」
 囁きながら彼の頭を抱きしめるようにエリックの首に腕を回した。
 手が彼の崩れた皮膚に触れると、一瞬身体を強張らせたが撫で続けていると徐々に緊張を解いていった。
「   」
 何度も何度もわたしの名前を呼ぶ。
 そのたびにわたしは軽く身を起こしてエリックの目を覗き込み、微笑んだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



「お願いがあるんだ……」
 エリックの涙が自身のシャツの胸元からわたしのドレスの肩口まで濡らした頃、彼はそうっと、懇願するように囁く。
「なあに?」
「いや……」
 ふっと顔を背ける。
 言いにくいことらしい。
「どうしたの? 言ってちょうだい?」
 いまのわたしはとにかくエリックに優しくしてあげたくていっぱいだった。
 それでもしばし言い淀んでいたが、何度か目の催促でようやく重い口を開いた。
「キスをしても、いいかい?」
「え……」
 思いがけないことだったので驚いたが別に嫌ではなかったので頷くと、彼は信じられないものを見るような目でわたしを見た。
「本当に……?」
「うん」
 さすがに念を押されると照れくささが襲ってくる。
 目を閉じるとエリックの視線が自分に注がれているのを嫌でも意識してしまい、頬が火照ってくる。
 や、やるのなら早くしてください……!
 ふっとエリックの身体から力が抜けるのを感じた。
 そして、彼はわたしを床に降ろした。


 ……降ろしたのだ。


「いっ……!」
 脳天まで走った激痛に、一瞬息が止まる。
 わ、忘れてた……。足……!
「ど、どうしたんだ?」
 目を見開き、硬直したわたしにエリックは慌てたように声をかける。
「あ、あ、あ」
 痛みで言葉にならない。
「あ?」
「足……」
「足? なんだ、怪我をしていたのか!?」
 エリックはがばっとわたしを抱え、あっという間にソファに座らせる。
「どうして早く言わないんだ!」
「言おうと思ったのに、エリックが聞いてくれなかったから……!」
「ああ、まったく!」
 優しい雰囲気も甘いムードもどこへやら。
 怪我の様子を確かめ、憤然とした足取りで湿布を作りにいったエリックの背中を眺めながら、キスがお預けになったことを少し残念に思った。
 ……なんてことは言わないでおこう。




意外にまともにいった…。
(当初考えていた話では川原で殴りあったあと仲良くなるような、昔の少年漫画のようなノリになりそうだった…)



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