今日も真っ暗な中、目を覚ます。
何時かしら。多分、朝だと思うけど。
わたしは手探りでサイドボードに手を伸ばす。
懐中時計の蓋を開け、ぼんやりする頭で文字盤を睨む……。
七時だ。
「ん゛〜〜〜」
ベッドの中で伸びをして、眠気を追い払う。
まだ少し眠い。
だけど朝食の用意はわたしがすることになってるから、いつまでも寝てらんない。
エリックは朝起きてこないことも珍しくないけれど、起きるときにはちゃんと起きてるのでこちらとしても手は抜けられない。ようやくわたしにも家の仕事を任せてくれるようになってくれたんだもの。がっかりさせたくないのだ。
わたしはのろのろと身体を起こして蝋燭に火をつけた。
こんなことも、慣れてしまえばなんてことない。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
朝はわたしはあまり食べられないし、エリックも軽くでいいというから、「朝食の用意」とはいうものの、それは言葉から想像するものとは程遠いものだ。
バゲットとカフェ・オレ。それにバターやコンフィチュールを好みで。
食欲があるときにはハムや卵をつけるけど、わたしは滅多に食べない。
実際の作業なんて、レンジでお湯を沸かしてコーヒーを入れるくらいだ。
キッチンで仕度をしていると、隣の燃料室からボイラーが激しく動く音がしてきた。
ここでは一日中ボイラーを動かしてお湯を沸かしている。
お湯は壁の中をあるパイプを通り、キッチンとお風呂場に繋がっているのだが、隣にあるキッチンはともかく、お風呂場までは距離があるので居間や寝室にもパイプが横切っているということになる。で、それが丁度壁暖房みたいになっているのだ。燃料は薪だから足し忘れると寒い思いをするけれど、そこだけ気をつけていればとても快適に過ごせるというわけ。
そんな講釈はともかく、ボイラーが動いているってことは使っている人がいるわけで、おそらくエリックがお風呂に入っているんだろう。
昨夜はオペラ公演はなかったし、一心不乱に作業をしているということもなかったから、早く起きると思ってたわ。
案の定、テーブルのセッティングをしている最中に食堂の扉が開いた。
エリックだ。
「おはよう、エリック」
「ああ、おはよう」
持ってたパン籠をテーブルに置いて、エリックのそばに駆け寄る。
何があったのか知らないけれど、彼はここ数日ものすごく機嫌がよい。それは今日も変わらないようだ。
(まあ、不機嫌になられるよりはいいからいいんだけど……)
「おはよ」
わたしは少し爪先立ちになって、でもまだエリックの顔には届かないからかがんでもらって、頬にキスをした。
最近気付いたのだけど、ここはフランスだからこういう挨拶がアタリマエなのよね。
エリックはこういうことを全然言わないから、気付くまでずいぶん時間がかかってしまった。さぞかし礼儀知らずな女だと思ったに違いない。
日本人には家族とか友人同士でキスする習慣がないということを知っていたのかもしれないけど、やっぱり郷に入ったら郷に従ったほうがよいと、わたしは思う。
「おはよう。良い朝だね」
そういってエリックもわたしの頬にキスをした。
特別な意味などないとわかっていても、やっぱり、ドキドキする。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「では、行ってくる」
「はーい、行ってらっしゃい」
食事が済むと、エリックは地上の入り口に行って、ベルナールさんが届けてくれている食料や新聞、その他物品を取りに行く。
その間わたしは勉強をしているのだ。
勉強といっても、フランス語だ。
エリックと会話をしているときにも訂正やら発音の練習やらはされているけど、会話だけではカバーしきれない、ウツクシイフランス語を覚えるためのものなのだ。
課題はエリックが決めるけど彼も色々忙しいので付きっ切りで教えてもらえるわけではなく、基本的に一人でやっている。
発音練習及び、フランス語のリズムを覚えるための詩の暗唱。
それからウツクシイ文字を書ける様にするためにひたすら文章を書く。
といっても無味乾燥としたものだとつまらないだろうから、と小説を書き写しているのだ。一種の写経よね。これ。
ちなみに今写しているのは、あっはっは、「八十日間世界一周」だ。原書でお目にかかる機会があるとは思わなかったぞ。
……次は「海底二万里」にしてもらおう。
わたしが詩を暗唱したり暗唱したり暗唱したり休憩したり文章を書いたり書いたり書いたりしている間にエリックは荷物を抱えて戻ってくる。
手伝おうとしたこともあるけれど、勉強中はそのことに集中していなさい、だって。
片づけが終わると、エリックはわたしの勉強の進み具合をチェックする。
最初の頃にはrの発音が下手だと、五十回以上も駄目だしをされたこともあった。言われたわたしはかなり凹んだが、言ったエリックも大変だっただろうと思う。今でほそれも良い思い出だ。
それが終わると昼食だ。これはたいていエリックが作る。
お肉と野菜が入ったスープとバゲット。ソーセージかベーコン、それかオムレツ。チーズ。それにデザート。デザートはたまに生の果物が出る。
どの食材もそうなのだけど、エリックは果物も一度にある程度の量を購入している。だけど果物は傷みやすいから、買った日の翌日にはコンポートかコンフィチュールか砂糖漬けにしてしまうのだ。生で果物を食べられるとしたら、買った日の昼か夜しかない。
加工したものだってもちろん好きなのだけど、生の果物の瑞々しさはちょっと比べ物にならない。
今日のデザートは生のイチゴだった。
明日はジャムに姿を変えていることだろう。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「私はこれからオペラ座へ行って来るが……」
昼食の片づけが済むと、エリックはわたしのところへ来てやや疑いの混じった眼差しで見下ろしてきた。
「なにかしら、エリック?」
乾いた笑いを浮かべて、わたしは彼を見上げた。
「念のために言っておくが、今日は雨が降っているぞ」
「……あら、そう」
わたしは明後日の方を見ながら返事をした。
エリックは目を細めて、
「ああそうだ。だから……一人で勝手に外へ出てもろくな事はないぞ?」
暗に外出するんじゃない、と牽制していった。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
午後になるとエリックは「お仕事」にでかける。
わたしは「諜報活動」とこっそり心の中で言っているのだけど。
早い話が、オペラ座内を観察しまくって、噂話から真面目な内容まで、あらゆる情報を仕入れてくるのだ。
何か新しい仕掛けが必要だとか考えるのもこのときなんだって。「だって」と言うのは、わたしは絶対に連れて行ってもらえないから詳しいことは知らないのだ。通り道が狭かったり、人に見つかる恐れもあるから、こればっかりは駄目だって。仕方がないけど。
エリックがいないこの時間が、実は結構苦痛なのである。
夕方まで戻ってこないから、わたしは一人で時間を潰さなければならない。
本を読んだり、部屋の片づけをしたりと、一応、やることはないわけではないけれど、それも毎日だと飽きてくる。
中に篭っていると運動不足になるし……。
ということで、スクリブ通りへの行き方を覚えてからというもの、地図を片手にパリ散策に繰り出すようになった。
現金は持っていないし、歩きとなるとそうそう遠出はできないけれど、近くには大きな公園もあるのでなかなか良い気分転換になる。
とはいえ、四回目に出かけたときにはエリックが予想外に早く帰ってきてしまい、バレてしまったけれど。
もちろん目茶目茶怒られましたさ。
エリック、涙目になってたもん。
今度パリ散策に行く時には自分を誘うかベルナールさんを呼ぶようにと言われたけど、エリックは昼の外出は嫌だろうし、散策に行こうと思い立つのはいつもその日になってからだから、ベルナールさんを呼ぶのは間に合わない。
この件に関しては、上手い方法がないかと模索中である。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「諜報活動」からエリックが戻るのは夕方過ぎ。
だから夕食はだいたい八時頃だ。
この時の料理は二人で作る。
わたしはまだお手伝いくらいしかできなくて、エリックのやり方を見つつ覚える、と言った方が良い。
わたしは決して料理下手ではないけれど、なにしろここは十九世紀のパリ。見たこともない調理器具が目白押しなのだ。
特に薪を使ったレンジは、温度調整が難しくて未だに煮込み料理くらいしか作れない。
うーむ、道は長いぞ。
「今日はオペラはないの?」
食後のコーヒーを飲みつつ、わたしは問うた。
「いや、あるが……。今日は気が乗らないから行かないよ」
ワインを飲んでいたエリックは、グラスを傾けながら答える。
外出する、しないに関わらず、夕食時には正装するというのがエリックのスタイルだ。
テイル・コートをきっちり身に纏い、軽く足を組んでいる様子などは大人の色気を感じる。
テーブルの上には燭台が置かれ、蝋燭の炎が揺れるたびに彼の仮面にえもいわれぬ神秘的な陰影を付けた。
それを見ていると、この人が醜さ故に迫害されていたなどど、信じられないほどだ。
「本当? それならお話できる?」
「もちろんだよ。今度は何の話を聞かせようか?」
酔いが軽く回っているようで、目元を赤く染めたエリックは機嫌良く答えた。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
さて、おしゃべりにも少し疲れてきた十時頃。
そろそろお風呂に入ろうと立ち上がる。
わたしは座っているエリックの横でちょっとかがんで、おやすみなさいとキスをした。お風呂上りのナイトガウン姿での居間への立ち入りを禁止されたので、今夜はこれでお別れだ。
酔ってるときのエリックは、わたしにお返しのキスをしたあと、不思議なものを見るようにじっとこちらを見つめるのだ。
今日もやっぱりそうだった。
これは一体何なのだろう?
☆ ☆ ★ ☆ ☆
さて、お風呂というと。
ここの浴室は床がタイル張りになっていて、濡れても大丈夫なようになっている。ユニットバスは苦手なものだから、これはとてもありがたい。
足を伸ばしてもあまるほど大きな浴槽に身体を沈め、一日の疲れを癒す。
お風呂から上がった後は、髪が乾くのを待つ。
ちゃんと乾かさないと翌朝が大変なことになるから手は抜けない。
十二時。
雑誌をめくって暇つぶしをしていたが、ようやく髪が乾いたようだ。
そろそろ寝ようっと。
飾り棚の上とサイドボードの蝋燭を吹き消して、わたしはベッドに潜り込んだ。
エリックは今日も早く寝てくれるかなあ。
この時代の熱調理器具てのは、薪とか石炭を燃やして使う「レンジ」が主です。
名前はレンジですが、イメージとしてはオーブンとコンロが一体になった感じです。
掃除が大変なんだそうな。
それと、給湯に関しては、滅茶苦茶迷ったのですがカノジョが言ったようにうちではボイラー型にしました。
エリックの技術なら充分可能です。
燃料がたくさん必要だろうという難点はありますが……。
しかし、この時代のガスはまだ危ないから……。
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