ここ最近の私はこれまでにないほど浮かれていると思う。
 どれほど浮かれているかと言うと、朝、目覚めた時から全身が幸福で包み込まれているように感じるほどだ。
 意識がはっきりするとともに心臓は早鐘のように打つのでまどろんでなどいられない。
 すぐにでも部屋を出たい衝動を抑えて風呂に入り、身支度を整える。
 その間も頭に浮かぶのは彼女のことばかり。知らず、頬がゆるんでいたことなど数え切れないほどある。
 いつもなら苦行でしかない顔剃りも、今では恐るるに足らず。
 本当に、彼女と言う存在は私の生活を一変させてしまったのだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 着替えを済ませて食堂へ入ると、彼女が明るい笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、エリック」
 ドレスが汚れないようにと付けている白いエプロンが眩しい。
「ああ、おはよう」
 少しの間見惚れてしまったが、気付かれないよう何気ない風を装って挨拶を返した。
 ……ああ、もうすぐだ。
 彼女は持っていたパン籠を置くと、ととと、と駆け寄ってきた。
 私の肩に手を置いて爪先立ちになったが、それだけでは届かない。私は逸る気持ちを押しとどめ、不自然でない程度に素早く身をかがめた。
 その瞬間、彼女の柔らかい唇が私の頬に触れた!
 ああ! なんて喜び!
 こんな日が来るとは思ってもいなかった。
「おはよう。良い朝だね」
と、私もキスを返す。
 彼女は照れくさそうに微笑んだ。

 昨日も一昨日も良い朝だった。
 からキスをもらえたのだから。
 明日も明後日も、そうであることを願う。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 朝食が済んだあとは細々とした雑用を片付ける。
 その間にには学習を義務付けた。
 彼女はこの時代の人間ではない上に外国人である。聞き取れないほどではないが、フランス語はそれほど上手いというわけではない。なにはなくともまずこれだけは教育せねばなるまいと、毎日の課題を設定し、そのかいあって、すっかり上達した。
 ほかにも何か彼女が学ぶにふさわしい学科があれば考慮しようと思っていたのだが、それは思ったより少なかったのは誤算だった。
 何しろ彼女は百三十年後の未来から来たのだ。
 科学や歴史など、分野によっては彼女の時代の方がより進んでいるものもある。
 そう言ったら彼女は「習ったけれど、興味のないものはすぐ忘れちゃうわよ」と答えたが、まったく知らないのと習ったけれど忘れたとでは雲泥の差がある。
 彼女はこの時代からすればかなりの教養の持ち主なのだ。
 これで芸術的な素養さえ身につければ、どこへ出しても恥ずかしくない淑女になるだろう。
 手始めには音楽だろうか。
 楽譜が読めないというから、少々厳しくなるかもしれない。

 そうこうしているうちに昼になる。
 昼食を作るのは私の役目だ。
 今日はイチゴが籠一杯に届けられていたので、クリームをかけて出そう。
 しかし、こんなに大量に買ってこられては処分に困る。イチゴは痛みやすいのだから。
 ベルナールは私の手足として申し分ない働きをするが、どうもに関することとなるとたがが外れたような事をするのが困りものだ。今度、注意しよう。
 それよりもイチゴの調理方だ。
 コンフィチュールでもよいが、それもありきたりなのでイチゴ酒にしてみようと思う。
 気に入ってくれるといいが。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 午後はオペラ座へ「視察」に出かける。
 気をつけていたつもりだが、オペラ座の人間にたびたび見られているのでどれだけにせがまれようとも連れて行くことはない。
 その間には好きに過ごしていて良いと言って置いてある。
 彼女は最初の頃は図書室や実験室で過ごすのを好んでいたが、しばらくするとそれにも飽きがきてしまったようで、少し歩き回りたいと言ってきた。
 それも当然であろうと、愚かにも私は家の鍵を閉めないまま出かけるようになった。
 そうすれば彼女は好きなときに私の地下通路を歩く事ができるからである。
 私が教えた通路以外にはまだ彼女の知らない危険な仕掛けがあるので、そこには決して行かないように言い含めて。
 確かに、彼女は私の言いつけを守っていた。
 しかし、同時にこちらが思っていないことも実行していた。
 ある日、いつものようにオペラ座へ出かけたのだが、途中で仕掛けの一つが壊れていた事に気がついた。修理道具を取りに行くため一度家へ戻ると、そこはもぬけの殻だった。
 どこにも彼女がいない。
 以前あったように、寝椅子で眠っているというわけでもない。
 もしや地下通路のどこかへ行ったのかと見て回ったが、見つからない。
 その時私は彼女が外へ出て行ってしまったのではないかという恐ろしい考えに取り憑かれてしまった。
 何度か共に外出している間には外へ出るための道順をすっかり覚えてしまったのだ。
 のような外国人の女が一人で外をうろついていたら、どんな危険に逢わないとも限らない。
 さらには不埒な輩が彼女にまとわりついたらと考えると、居ても立ってもいられなかった。
 しかし何よりも私を悩ませたのは、地上の輝かしさだった。
 彼女は私の地下帝国にじゅうぶん満足していたように見えたが、ここには外界の明るさだけはない。
 太陽の光は彼女を誘惑するだろう。
 彼女がふと現実に立ち戻って、お世辞にも普通とはいえない地下の暮らしを厭ったとしても不思議はない。
 一体いつからこんな事をしていたのか。裏切られた思いで呆然としているうちに彼女が帰ってきた。

 ひと悶着あったことは言うまでもない。

 結局、私を誘うかベルナールを呼ぶかするように言いつけたが、どちらも彼女の意にそぐわないらしい。
 行き先だけは書置きしているが、未だに一人でふらふら出歩いている。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 しかし、その反面、彼女は地上でも大いに学んで(?)いるようだった。
 ある日、彼女はまた一人で出歩いてきたが、帰ってきた後ひどく難しい表情になって考え込んでいた。
「エリック、あの……」
 はおずおず、という感じで切り出してきた。
 今度は何を言い出すのかと、半ば楽しむ気持ちで続きを待っていた。時代の差か文化の差か、彼女はたまに突拍子もないことをするのだ。
「どうしたんだ?」
「やっぱり、ここはフランスなんだから、フランスのやり方に合わせた方がいいと思うのだけど、エリックはどう思う?」
 どうといわれても、何についてのやり方なのかにもよることであるし、俄かには答え辛い。
「フランスの、何についてのやり方なんだね? それがわからなければ答えようがないよ」
 言うと、彼女はうな垂れた。
 うー、とか、えー、とか唸って、冷や汗を垂らしている。
?」
「……ス」
「聞こえないよ。もっと大きい声で言ってくれ」
「キス! 挨拶の!!」
 は真っ赤な顔になって叫んだ。
 挨拶のキス?
 呆気にとられた私を他所に、彼女はべらべらと喋り捲った。
「フランスでは挨拶するときにキスするのが普通なんでしょ? 「おはよう」とか「おやすみ」とか、「いってらっしゃい」とか言う時に一緒に。エリックは博識だから日本にはそんな習慣がないって知ってて黙っててくれてたのかもって思って。でも、ほら、その国のやり方を知らないからってやらないでいいってことはないじゃない? 人間関係の基本だもん。そりゃあ、わたしはエリックの家族じゃないけど、でも、一緒に暮らしているんだし、エリック、不快に思ってたんじゃないかなって……。でも、ごめんなさい。本当にごめんなさい。無視していたわけじゃないの。本当に、気付かなかっただけで……」
 一体どこで何を見てきたのか知らないが、挨拶のキスはフランス全体の習慣というわけではない。地方差があるようだし、階級によっても違う。
 私の生まれた地方では確かキスの習慣はあったようだ。私自身には縁がなかったけれど。
 母だけではない。今まで生きてきた中で、私に挨拶であってもキスをしてくれる人間などいなかった。
 だから、がキスをしなかったからといって不快に思ったことなど一度も無い。それどころか、そんなことは考えてもいなかったのだ。
 日本の習慣だって知らなかった。だから、彼女は私に謝る事など何も無いのだ。
 そんなことを知らない彼女は、私に失礼なことをしていたとひたすら済まなそうに頭を下げる。に対して誠実であるなら、本当のことを言うべきだ。キスの必要はない、と。
 しかし……。
(間違ってはいないぞ。キスの習慣はあるところにはあるし、パリでも珍しいことじゃないのだから)
 このまま状況に流されてしまえと、囁く声があった。そうだ、間違ってはいないのだ。
 私はごくりと唾を飲み込んだ。
 ここでOuiと言えば、彼女は私にキスをしてくれるということになるではないか!?
 長い間、求めて止まなかったことが手に入ろうとしている。こんな幸運を逃すなど、愚の骨頂だ!
 だが、ここでなけなしの良心が囁いた。
(本当のことを言え。私も気付いていなかったと。不快になど思っていなかったと。その上でどうするか決めたらいいじゃないか。己が欲望のために、彼女の善意を踏みつけにするつもりか?)
 頭の両脇に天使と悪魔がいて盛大な戦いを始めたようだった。
「……ック、エリック!」
「……ああ、?」
 彼女に揺さぶられて我に返った。
「どうしたの、大丈夫? なんだか固まっていたけど……。わたし、変なこと言った?」
 彼女は心配そうに見上げてきた。
「いや、なんでもない。唐突だったから少しだけ驚いただけだよ」
 落ち着け、気取られるな。
 平静に。平静に……。
「まず、覚えてもらいたい事は、フランスだからと言ってどこでも挨拶のキスを交わす習慣があるわけではないのだ」
 自分でも意外なことに、私の口は正直に動いた。
 頭の中の天使が悪魔の背中を蹴り飛ばした図が見えるようだ。
「あ、そうなんだ」
 彼女は拍子抜けしたように気負っていた肩を落とす。
「地域差があるからね。それが当たり前だと考えるところもあるし、馴れ馴れしいと考えるところもある」
 ああ、天使の哄笑が聞こえる。
 くそう、なんだ、その禍々しい笑い方は。
「それで、エリックの暮らしていたところではどうなの?」
 ……そんな無邪気な声で聞くんじゃない。
「それは……」
 一瞬、躊躇していた隙に悪魔が天使を投げ飛ばした!
「あったよ」
 そして悪魔はそれ以上しゃべるなと唇の前に指を立てる。
 彼女はそっか、と頷いて、
「じゃあ、やっぱりキスした方がいいのよね?」
 と真顔で確認してくる。
 復活してきた天使が悪魔に向かって来るが、時すでに遅し。
「ああ、そうだね」
 すっかり体勢を整えていた悪魔はあっさりと天使を返り討ちにした……。

 すまない、
 心弱い私を許してくれ。
 だがどうしてもキスが欲しかったのだ。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 さて、そろそろ夕食の時間だ。
 彼女にレンジの使い方を教える必要もあるので最近では一緒に作業をするようになった。
 扱いが難しいこともあるが、それ以上にキッチンには武器になりそうなものがいくらでもあったので、これまでは彼女には出入りを禁じていた。
 すでに処分したが、アイシャを拾う前に使用していた青酸もあった。ここには鼠が多かったから。
 しかしもう彼女が私を恐れて攻撃してくる心配もないだろうと判断し、少しずつ料理を教える事にした。
 彼女はなかなか器用である。

 食後のワインを楽しんでいると、はオペラに行かないのかと尋ねてきた。ここ数日、まったく観劇に行っていないからだろう。彼女にすれば不可解だろうが、これには深いわけがあった。
 オペラを見に行くと、帰ったときにははとっくに自室へ戻ってしまっているのだ!
 これではおやすみのキスをしてもらえない!
 幸いと言っては何だが、現在公演中のオペラは私の好むところのものではなかった。取り立てて出来も良くはない。だから心置きなく彼女との時間を選ぶ事ができた。
 さて、今日は何の話をしてあげようか……?


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 時計の針が十時を指し示した頃になると、彼女は部屋へ戻る。
 が立ち上がると、自然と鼓動が早くなった。
「おやすみ、エリック」
 私が座っているため、は自然と身をかがめるようにして口付けてくる。
 当然私もお返しをするのだが……。
 彼女の滑らかな頬に触れ、その感触を味わっていると信じられない不思議さがわき起こってくる。
 彼女がここにいるのは、神の意思ではないのだろうかと。
 人間が時を移動するなど通常ありえることではない。
 さらに、現れた先が怪物の住処であるとなるといったいどれほどの確率になるのだろう。
 これは、神が失敗作である私の不幸をようやく哀れむ気になって、私を恐れず、私を愛せる資質を持った女性を送り込んできたと考えたほうが正しいのではないだろうか。
 とは言っても幾つもの罪を重ねた身だ。
 私が死んだ後、地獄へ落ちるのは避けられないだろう。
 しかし私の不幸の原因は、元を正せば私の責任ではないのだ。
 せめてもの埋め合わせに、ということだと考えれば納得はゆく。
 ……彼女にとっては迷惑以外の何者でもないだろうが。
 だが、もしもそうなら、本当にそうなら、私は彼女に告白してもいいのではないだろうか?
 の背中を見送って、そんな取りとめもないことを考えた。





ベルナールがカノジョのこととなるとたがが外れたようになるのは、主人であるエリックのたがが外れているからです(笑)
自分で気付いてないのだね。






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