シャ、シャ、シャ……。
タン タン タン。
ちらり、と作業の手を止めて脇に置いておいた懐中時計に目をやる。
「くそっ! まだ戻ってこないのか!」
苛立ちと共に私は拳を叩き付けた。
ポム・フリット(ポテト・フライ)用に拍子に切っていたジャガイモが、ボウルともども宙に浮く。
時刻はもうじき7時。
リラは……まだ帰ってこない。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
三十分ほど前にオペラ座の見回りから戻った私は、またもや彼女がいないことに気付いた。午後には散歩に行く事はもう珍しくはないことで、だからその事については何かをいう気はない。
出かけるときには行き先をメモしておく事と、遅くとも六時には戻ること、それから週に一度、私が指定する曜日だけは外出しないこと……。
それだけを約束してもらい、後は彼女の自由にさせた。
私の秘密を知っている者に対しては、寛大な処置だと言えるだろう。他の人間になら、このようなことはさせない。門限を決めるどころか、新しい罠の一つでも作り、絶対に外へは出さないようにする――。
だが、彼女に対してはもうそんな心配はしていない。
あの子はもう私の最大の秘密――この仮面の下――を知って、それでも逃げ出さなかった稀有な人だ。
そして、帰る場所はここ以外にはない。信じ難いことだが、彼女は未来から来たのだから。
となれば、これくらいの譲歩は私にもできるというものだ。籠の中の小鳥にだって、空を見る自由はあってもよかろう。
だというのに、7時近くになっても彼女は帰っていないのだ。
(帰ってきたら説教だな)
苛立ちを鎮めようと、ことさら冷静に考えてみようとしたものの、どんどん悪い考えが浮かんでくる。
事故に巻き込まれたのではないか?
それとも事件?
いいや……。もう戻ってくる気などないのかもしれない。
最後の一つを思い浮かんだ時、あまりの恐ろしさに身体が震えた。そんなことはあるわけがないと思いつつも、どこか信じきれない思いも確かにあった。
信じたいと、思っているのに……。
「……リラ」
もう待てない。
探しに行こう。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
テイル・コートに着替え、帽子とステッキを用意する。
手間がかかるが致し方がない。
どんなに焦っていても時間にあった格好をしなければ奇異の目で見られてしまう。特に、私のような男は。
小舟で対岸に渡り、スクリブ通りに出る入り口へ向かう。明かりは必要なかった。目をつぶっていても歩けるほど、通いなれている道なのだから。
と、上から足音が近づいてきた。
ああ、やっと帰ってきたのかと一瞬安堵したが、その足音が彼女のものよりもずっと重い音だと気付く。
(侵入者だ!)
とっさに私の手は内ポケットに向かう。
パンジャブの紐を握り、息を凝らして哀れな獲物が近づくのを待った。
ここまで来れたのは褒めてやる。散々私の罠に手こずらされたことだろう。しかし、私の秘密を知った以上は無事に帰すわけにはいかない。
私にとって特別なのはリラただ一人。詮索好きな侵入者の一人や二人、どうなろうと知った事ではない。
私は間合いを計って紐を投げた。
紐は的確に相手を補足する。
「っあぁ!」
男のくぐもった悲鳴が聞こえた。
それもすぐに止むだろう。
私は紐を強く引っ張った。
これで首がしまり、哀れな犠牲者は物言わぬ屍となる――。
「!?」
驚愕に思わず目を見開く。手ごたえが変だった。一定以上には紐が閉まらないのだ。
さらに、
「エリックか!?」
呼ばれて私は心底ぎょっとした。
私の技を交わし、私を呼び捨てにできる男はただ一人……。
「ナーディル?」
ナーディル・カーン。
ペルシア時代からの腐れ縁だ。
しゅっと紐を回収し、私はナーディルに近づいた。
「君の特技を知らなかったら、死んでいたところだよ」
彼は怒ったような素振りをしていたが、それよりなにか非常に心配しているらしいことが暗がりでも読み取れた。
この男は私が悪事を働かないかと常々見張っている男だ。彼女と約束した、週に一度の外出禁止というのは私がこの男と会うことになっている曜日なのだ。こいつに彼女のことを知られたらうるさく言われるのは目に見えていたし、リラには私以外の男の知り合いなど作ってほしくないので、双方ともに何も言っていない。
とはいえ、もうすでにこの男は彼女の存在自体は知っているだろう。リラは頻繁に外に散歩に出かけるし、ベルナールの用意した品々からも、女性がいるということはすぐに知れようから。
「なぜここにいるのだ?」
私は訊ねた。今日は彼と会う日ではない。
するとナーディルは非常に真剣な顔で、
「エリック、君のところに女の子がいるね? 東洋人の」
単刀直入に切り出してきた。
「何を言い出すんだ? こんなところに住みたがる女がいるはずないだろう?」
私は空惚ける。
「隠す必要はない。もうずいぶん前から知っていたから。ただ、確証がなかっただけで……。君が彼女を脅しているんじゃないかっていう、確証がね」
「……」
「最初は、あんまり当たり前のような顔をして君の秘密の入り口に入っていったから、何にも知らない娘が、恋人と逢瀬をするためか何かで入り込んだのかと思ったんだよ。あの入り口自体は一見、使っていない門のように見えるからね。ところがそれがあんまり頻繁で、しかも誰かと待ち合わせをしているようにはまったく見えなかった。その女の子が出てくる時間は大体午後になってから、そして入るのは夕方。だから私は別の可能性を考えたんだ。君が彼女の弱みを握って、自分と住むように強要しているんじゃないかってね。そう考えて今度は君の部下の様子を探らせてもらった。ここのところ、ドレスだのレースだのをずいぶん買っているようだね。ああ、答えたくないのなら答えなくてもいい。とにかく私は君のところにいる女性を助けなければいけないと思って、声をかけたんだよ」
「なんだって、いつだ!?」
ナーディルの長口上をうんざりと聞きながらも、しかし最後のせりふにぎょっとして私は思わず叫んだ。
彼は顎に手をあて、少し考えながら。
「一時間……ちょっと前だな」
「それで、彼女は?」
「ああ、それで……」
ナーディルは困惑した表情になる。
「逃げてしまったんだよ。ずいぶん慌てた様子で」
「逃げた? どこへ?」
まったく、余計なことをしてくれる。しかしこれでリラが帰ってこない理由はわかった。
「わからない。最初は、私の姿が見えなければ戻ってくるだろうと思ったんだが、十分待っても二十分待っても戻ってこない。オペラ座以外から出入りできる入り口は、ここ以外にはないはずだろう? 私が知らないだけかもしれないがね」
確かに外から出入りできる入り口はここ以外にもある。しかしそれは緊急脱出用とでもいうべきもので、リラには教えていないからそこには行っていないはずだ。そしてこのことはもちろんナーディルには知らせる気はない。
「私はな、ナーディル。彼女が門限になっても帰ってこなかったので探しに来たんだよ。お前が余計なことをしなければ、今頃は二人で夕食を食べていただろうに!」
ナーディルは悲しそうな顔になる。
「やはり彼女は君と関わりがあるんだね。まあ、このことについては後で話そう。まずはその子を探さないと。酔っ払いも出てき始めたし、それに今は人が多い。あんなに身なりの良い格好をして、お供も連れずにうろうろしていたらどんな目に逢わされるかわかったものじゃないからね。もっとも、君のところにいるよりはるかに良いのかもしれないが……」
まったく、知らないと思って好きにさせておけばこれか。
勝手な事ばかり言ってくれる。
「言っておくがな、私は何も彼女には強要していない! あの子の方からやってきたのだし、振り回されているのはこちらの方だ! それに……彼女は知っている。この化け物の顔を……」
ナーディルは息を飲んだ。そして、
「信じられん」
と失礼極まりない台詞を吐く。
しかしそう思ったのはこの男だけではなく、実際のところ、私本人こそが一番信じられないでいるのだ。
「だが、事実だ」
私は断言した。
そうだ、事実なのだ。
あの子はナーディルのことを知らないから、私の秘密を探っていると思しき男に声をかけられてパニックになったのだろう。
スクリブ通りの入り口に戻らないのも、これ以上秘密がばれるのを防ぐためと考えれば納得はいく。
あの子はわがままと言うわけではないが、生まれ育った時代も環境もまったく違うのでこちらを面食らわせることがたびたびあった。しかし人間としての節度は持ち合わせていると思っている。
とはいえ、逃げて、どこへ向かった?
パリはもう夜。あの子にどこか行くあてがあるとは思えないのだが。
大概の店はもう閉店している。
開いているといったらカフェやレストランの類だが、しかし私は絶対に入るなと厳命していた。金の問題ではない。小遣いならちゃんと渡している。リラだって小物やなにかは自分で買いたいだろうから。
しかし、カフェやレストランの場合、同伴者も共もいない女と言うのは『客』を探しに来ている類の商売をしていると思われるのだ。彼女にそんな不名誉な烙印は押させない。
入り口と言えば、それこそオペラ座の中にはいくらでもあるのだが、あいにく私はリラを連れて行ったことが二回しかない。
一度はマダム・ジリーに会わせたとき。
もう一度はオペラを見に行った時で、通った通路はそれぞれ違い、また重要な仕掛けを動かす時には彼女には目隠しをさせてもらった。よって、あちらは使えるとは思えないのだ。
となると……。
私は頭を悩ませた。
まあ、期間限定でいまなら深夜まで営業しているようなところがあるが……。
トロカデロに行ってみようか?
人が多いだろうから、気は進まないのだが……。
そうだ、そこへ行くなら途中でフォーブール・サン=トノレを通る。ベルナールの住んでいるアパルトマンがあるから捜索に借り出してみるか? 私が訊ねたりなどすれば、奥方はきっと嫌な顔をするだろうが。
「……ック! エリック! 聞いているのか?」
「うるさい」
「……」
私はナーディルの声を無視し、内ポケットから名刺とペンを取り出した。
空いているところに、ナーディルの名を書き、この人物は本当に私の知人であるということを記して目のまえの男に押し付けた。
「な、なんだい?」
「リラを探す。お前も手伝うんだ。……お前のせいなんだからな」
ナーディルは目をぱちぱちさせると、私の名刺をまじまじと見た。
「わかった。で、心当たりは?」
「ない」
「……」
ナーディルは胡乱げな目つきで私を見る。
「仕方がないだろう? 彼女には身寄りがいないし、ここに来たのは最近で、友人もいないんだ!」
ナーディルは天を仰ぐ。
「エリック。やっぱりそれは彼女の弱みにつけこんでるんじゃあ……?」
「断じて違う! 彼女は……彼女は私が好きなんだ! そんなに疑うのなら本人に直接聞けばいいだろう!?」
言った途端、後悔した。
嘘ではない。私が好きだと、彼女は確かに言った。
しかし、男として好かれているわけではないのだ。
ナーディルは言質を取ったとばかりに身を乗り出した。
「言ったな! もし私が見つけられなくても、ちゃんと紹介して、話をさせるんだぞ!」
しまった。
しかし、一度口に出してしまったものは取り消せない。
「ああ」
「よし、じゃあ早速探そう。まずどの辺から当たるか? 女の足だ、そう遠くへは行けないはず」
「この界隈のカフェやレストランを当たってくれ、その名刺を見せれば彼女も逃げやしないだろう」
「君は?」
「ベルナールを呼びに行く。あいつにはトロカデロ周辺を探させる。私は、教会や公園を」
「なるほど」
「彼女が見つかったら、中に入っているよう伝えてくれ。それから君はここの入り口の柵に何か目印になるようなものをつけておいてくれ。何かないか?」
「ハンカチーフぐらいしか」
「それでいい。私かベルナールが先に見つけた時も同じようにしよう。そうすれば何度も帰っていないか、地下まで確かめに行かずにすむ」
「もし、入れ違いになったら?」
「彼女は帰りにはいつも隠し倉庫を確認しているようだから、書置きを残しておく。今日もちゃんと見てくれるかは、賭けだがね」
皮肉を込める。
「……悪かったと思っているよ。軽率だった」
ナーディルは肩をすくめた。
地上に出ると、ガス灯の明かりが遠くに見えた。書置きを倉庫の目に付くところに残し、門扉を開けた。
「では、な」
宵の始まりの大通りに向かおうとするナーディルに、私は問いかけた。
「ナーディル。何か忘れているような気がしないかね?」
「? 何かあったか?」
「……いや、いい」
「もう行くぞ」
「ああ」
私たちは別々の方向に歩き出した。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
忘れているようだがね、ナーディル。
私はとても嘘つきなんだよ。
君が最初にリラを見つけない限り、私は君たちを引き合わせたりなどする気はないんだ。
こーゆーこと(パンジャブの紐使用)には手が早いなあ、エリック。
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