「失礼、お嬢さん」
 家に帰ろうとしたとき、声をかけられた。
 もうスクリブ通りの入り口はすぐそこで、ああ、これは一回遠回りでもしないと怪しまれるなと思った。
 そうなると、門限にギリギリどころではなく、破ってしまうことになるだろう。エリックの帰りがわたしより遅ければいいなあ、と心の中でため息をついた。
「なんでしょうか?」
 振り返ると、声をかけてきた人はエリックより少し年上くらいの人で……そして、外国人だった。
 この顔の濃さは多分、アラブ系ではないかと思う。手入れはされているものの、古いフロック・コートに縁なしの帽子を被っている。
 道でも聞きたいのかと思った。今は国内外を問わず観光客が大勢来ているから。
 ところが、その人はこんなことを言い出したのだ。
「これからどちらへ行くのですか?」
「どこって……家に帰るところですが?」
 何を言い出すんだろうと首を傾げる。
「家って、オペラ座の、地下にある?」
「!」
 わたしは反射的に後ずさった。
 この人はエリックの家を知っているのだ。
 彼の知り合いだろうか?
 ううん。それならいくらなんでも、もう紹介されていると思う。
 それなら、彼のことを探っているのだろうか?
 ……そうかもしれない。わたしが思わず唾を飲みこんだ。
 エリックのもう一つの名前は「オペラ座の怪人」という。
 オペラ座の人間なら知らない者はいない。
 また、『まことしやかな噂として』たまに新聞に載ることもあった。
 と、いうことはフランス中に知られていると思っても間違いじゃないだろう。そんな存在が本当にいるのか、探してみようと思う人が出てきても不思議はない。
「いいえ。まさか。そんなところに家があるはずないでしょう」
 わたしはとっさに嘘をついた。変な間が空いたので、怪しまれてはいるだろう。
 案の定その人は、
「いいんですよ、隠さなくても。私は知っているんですから。あなたはここのところ頻繁にそこの」
 と言ってスクリブ通りの入り口のある門を指さす。
「入り口から出入りしている。今日も午後二時過ぎにここを出ているでしょう?」
「え……? や……あの……?」
 二時過ぎって、ここのところ頻繁にって、何それ? この人、わたしのことを見張っていたの!?
 ……ストーカー!?
 わたしの動揺に確信を持ったのか、
「ところで、お嬢さん。あなたももちろん『オペラ座の怪人』のことはご存知ですよね?」
 と男は聞いてきた。
 目が笑っていない。
 もう駄目だ、やばい!
「し……」
 わたしはじりっと後ずさった。
 背中にじっとりと脂汗が流れている。
「お嬢さん?」
 男は詰め寄ってきた。
「知りません! 違います!」
 わたしは、自分でも何を言っているのかよくわからなかったが、叫ぶだけ叫ぶと脱兎の如くそこから逃げ出した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 走って、走って、走って。
 とにかく人の多いほうへと走り、気がつくと、わたしはマドレーヌ寺院の近くまで来ていた。
 荒い息のままあたりを見回す。
 あの男はいない。
 追いかけてこなかったのだろうか。それとも撒けたのだろうか。
 それよりも、これからどうしよう。戻ったところで、あの男が見張っていないとも限らない。近づくのは危険だ。かといって、他に帰り道なんて……。
 目の前が真っ暗になるとはこのことだ。
「どうしよう……」
 早く帰らないとエリックが心配する。だけど連絡のしようもない。あああ、ケータイが使えればいいのに!
 エリックは地下住まいだから、たとえケータイがあったとしても電波が届くか微妙だけど。でもあの人だったら自分で電波が届くようにするくらい、わけなさそうだもの。
 ……そういえば、たしか。
 いいことを思い出して、わたしはバッグを漁った。
 エリックからはお小遣いと一緒に、彼の名刺が渡されていたのだ。
 わたしには馴染みのないことなのだけど、フランスでは、というか、この時代では付け買いということができるとのことで、その時には名刺を渡しておくと後でそこに料金の請求が行くのだそうだ。もちろん現金清算で、というところもあるのだけど。
 一般の名刺同様、エリックの名刺にも名前と住所が書かれている。と言っても、本当の住所を書くわけにはいかないので、ベルナールさんの家の住所なのだそうだ。
 ベルナールさんの家はここから遠くない。行って、わけを話して、助けを求めてみようか?
 ……でも、ベルナールさんだって、スクリブ通りの入り口を介さずにエリックと連絡を取れるわけではないだろうし。わたしは、家に戻れればいいのであって、これは、あんまり意味のないことなのかも。
 それよりは、オペラ座に正面から入って、エリックがわたしを見つけてくれるのを待った方がいいのかもしれない。何しろ彼は、オペラ座のあらゆるところに出没できるという「怪人」だもの。うん、その方がいいわ。
 エリックが今日も見に来るのかはわからないけど……。
 わからないなら、マダム・ジリーを訪ねてみよう。
 よし、決めた!

 わたしはようやく明るい希望が見えたように思えて、洋々と歩き出した。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 スクリブ通りに差し掛かったとき、あの男がいないか何度も確かめながら劇場正面に向かう。もしかしたらもうあの男はいなくなっていて、いつものように帰っても大丈夫なのかもしれない。
 だけど万一、万が一あの人がまだどこかに隠れていて、エリックの地下の家を探るためにわたしの後をついてきたらと思うと、そこへ向かう勇気は出なかった。
 チケット売場で、一番安い席を買う。
 席の種類がよくわからなくて少し手間取ってしまったが、売場の人はどうやらわたしを観光客だろうと思ったようだ。というのも、すでにホールに入っている人たちの中には、オペラ座の豪華さに圧倒されている明らかにおのぼりさんです、といった風体の人たちがいるからだ。いまパリでは万国博覧会が開催されているので、普段以上にこういった人が多いのだ。
 時計を見ると七時前。今日の公演は終わるのは十時近くだそうだ。
 ……長丁場だわ。始まるまでなにしてよう。
 マダムは……開演前で忙しいだろうなあ。
 観光客を装って、五番ボックス席に行ってみようか。
 メモか何かを残しておけば、エリックが気付くかもしれない。
 ……やるだけやってみようかしら。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 追い返されてしまった……。
 むう。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 そうこうしている間に公演が始まった。
 一番安い席ということもあって舞台の一部は見えなかったりしたが、それでも楽しめた。それよりも目を引いたのは、現代では映画の中でしかお目にかかれないような髪型とドレスの女の人たちだったけど。
 しかし、公演中にお腹が空いてきて、鳴りやしないかとヒヤヒヤする。一人でいるのにも心細くなって、終わった後にはすぐに楽屋裏へ向かった。
 途中、そこに入れるのは定期会員だけだと止められたが、わたしはマダム・ジリーに会いたいという旨を告げ、エリックの名刺を見せた。
 住所を見て納得したのか――ベルナールさんの住んでいるフォーブール・サン=トノレはお金持ちがたくさん住んでいる地区なのだ――それ以上は止められる事はなかった。
 人でごった返す通路をうろうろしていると、テイル・コートの男の人たちと、裏方らしい質素な身なりの人たち、それから舞台が跳ねたばかりのきらきらした舞台衣装を着た女の人たちが入り乱れている様に圧倒される。
 と、向こうのほうから群舞の女の子たちがやってきた。
 マダムはバレエ教師だから、彼女たちなら知っているかもしれない。
「あの、すみません、お聞きしたいことが……」
 声をかけると、彼女たちはおかしなものでも見るようにわたしを見た。後にいる子たちはわたしを指さしながらくすくす笑っている。
 たしかに、わたしはおかしな格好をしているけど……。
 この時間帯で、劇場にいるのなら、着るものはローブ・デコルテと決まっている。なのにわたしは午後の散歩用ドレスを着ているのだ。
 それだって、デコルテを誂えることができないならまだしも、エリックの見立てたこれは、仕立ても生地も上等なもので、そういうものが用意できる者がデコルテを持っていないというのは変な話なのだ。
 わたしは彼女たちの目にはドレス・コードも知らない馬鹿な東洋人女というふうに写っているのだろう。
「マダム・ジリーを探しているのですけど、どこにいるのかご存知ではありませんか?」
 内心ムカついているのを我慢しながら聞くと、中の一人が素っ頓狂な声をあげた。
「ママを探しているの?」
 その子は前の方にいた一際目を引く子だった。綺麗な金髪で、ぱっちりとした大きな目。わたしより年下のようだけど、胸のボリュームはすでにわたしを超えていた。
「ママって、あなた、マダム・ジリーの娘さん?」
「ええ、メグ・ジリーと言います。ママなら稽古場にいると思うわ。わたしたちもこれから行くの。今日の踊りは全然駄目だって、これから稽古をしなくちゃならないの」
「そうでしたか。では稽古場までご一緒してもいいかしら?」
「ええ、いいわよ」
 はきはきした口調、高い声で彼女、メグは言った。


 歩きながらわたしは自己紹介をする。
 日本人だというと、女の子たちは一瞬ざわめいた。
「ねえねえ、それならあなた、万博会場で売ってるキモノを安く買えるツテなんてない?」
「残念ながら。わたしは万博関係者ではないから……」
 言うと、がっかりした声があがった。
「それじゃあ、しょうがないか。でもいいわ。次のお給料がでたら可愛いヘア・ピンがあったから、それにしようっと。売れ残っているといいけど」
 ヘア・ピンて……。もしかして簪のことかしら……。
「え? セシルもう見に行ったの?」
 メグがうらやましそうに言った。
「もちろんよ! こういうのは早く行かないと。せっかくパリに住んでいるんですもの」
 他の女の子たちも羨望の声をあげる。
「でも、トロカデロ宮はまだできてなかったんでしょー?」
 別の子が意地悪い感じで言った。
「……次に行く時には、できてるわよ」
 セシルはうっと詰まったが、すぐに反撃した。
 トロカデロ宮というのは、今回の万博のために作られた大きな建物だ。中はコンサート・ホールになっていて、両脇にある塔には六十人乗りの水圧式エレベーターがあるらしい。ここではコンサートだけではなく、国際会議も行われるという。
 ……とはいうものの、実はまだ完成していない。
 そして外観が悪いとかーなーり、酷評されている。
 セビーリャのギラルダ宮を模したアラブ風、ということだったが、わたしはそういうのはいま一つ、どころかいま五つくらいわからない。たしかに、妙に目立つなあとは思ったけど。
 そしてエリックはといえば、こんなデザインをした建築家も採用した方も趣味が悪すぎるとばっさり切り捨てていた。
 と、いうことをつらつら思い出していると稽古場に着く。
 オペラ座の稽古場って、天井付近にあるのね……。
 まあ、慣れてるけどさ、階段には。
? どうしたの、こんな時間に」
 中に入るとすぐにマダムが気がついた。
「マダム・ジリー! すみません、緊急の用事があって……」
「そのようね」
 わたしの格好を上から下まで見つめて、マダムは静かに言った。
「いいですか、わたくしはすぐに戻ってきますから、あなた方は今日の踊りを頭からやり直していなさい。よろしいですね」
 多くは聞かずに群舞たちへ指示を出すと、マダムはわたしに自分の部屋へ行こうと誘ってくれた。


 マダムの部屋で、わたしは数時間前に起こったことを手早く説明し、家に帰れなくなったことを伝えた。
 わたしの話を聞き終えたマダムはしばらく黙っていたがやがて、
「その、あなたを探っていたという男を知っているかもしれないわ。オペラ座によく来る外国人で、ずいぶんと『ファントム』のことを聞きまわっている人がいるの。『ペルシア人』と呼ばれているわ」
「ペルシア人……」
 やっぱり、あの人、エリックのことを探っていたんだ!
「そうなると、ちょっと厄介ね」
「ええ」
 わたしたちは深刻な表情で互いを見る。
「彼は今日どうしていましたか? 徹夜をしていたとかいうことは?」
「いいえ」
「では、あなたが戻らないのを不審に思っていらっしゃるでしょうね」
「そうでしょうね……」
 がっくりと肩を落とす。
 ああ、せめて一箇所くらい、オペラ座の中から入れる入り口の道を知ってさえすれば……。
 そんなことを考えていると、ぐ〜〜と情けない音がお腹から響いた。
 恥ずかしくて顔を赤くしていると、マダムは「もしかして、まだ夕食を食べていないの?」と聞いた。
「は、はい」
 一人でカフェやレストランに入ってはいけないって言われてたものだから。
 それに、外から眺めているだけでも、女一人のお客さんて、全然見かけなかったし。
「いま厨房から何かもらってくるわ。わたくしは稽古に戻るから、それを食べて待っていて頂戴。あの方へわたくしの方から連絡を入れることはできるのだけど、いつ気付くかはわかりませんし、もう遅いから今夜はわたくしのアパルトマンに行きましょう」
 マダムは目元を柔らかく和ませる。
「でも……」
「焦ってはいけませんよ。それに、あの方のことが知られたら、それこそ大変なことになるわ。ここは慎重に動かないと」
 重々しく言われ、わたしは反論する術がなくなった。
「わかりました」


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 十二時を回って、稽古が終わったマダム・ジリーとメグちゃんと一緒にマダムのアパルトマンに向かうべくオペラ座を出た。こんな時間だけど繁華街でもあるこのあたりは、まだ人通りが多い。ガス灯の明かりもあるので一人で歩いても怖いという感じは受けないだろう。
 オーベール通りからスクリブ通りを抜けることになったが、しかしスクリブ通りに差し掛かったとき、わたしはぎくりと足を止めた。
 例の入り口の辺りに人影がある。後ろを向いているが、濃い色の髪に縁なしの帽子。
 これは……。
「マダム、あの人よ!」
 とっさにマダム・ジリーの腕をつかんで囁く。
「なになに? あの人がを追い掛け回している怪しい男なの?」
 メグちゃんは好奇心でキラキラする目で聞いてきた。
 わたしが二人のアパルトマンに今夜ご厄介になる理由は、そういうことになっているのだ。
「静かになさい、メグ。気付かれたらどうするの」
 マダムは鋭く制した。
 わたしたちは建物の影に隠れてペルシア人の様子を探った。
「誰かと話しているようね」
「仲間がいるのかしら?」
 ふっと、ペルシア人が向きを変えたので、相手の顔が見え……。
(あれ?)
「ベルナールさんだわ」
「知っている人?」
「ええ。エ……彼の使用人です」
 メグちゃんがいるので、エリックの名前は出さない方がよいかと思い、ぼかして答える。
 マダムは眉を潜めた。
「それって、を探っている男は使用人から情報をつかんでたってことね」
 なんだか嬉しそうにメグちゃんは言う。
 そりゃ、わたしだって人事だったらこんなものだろうけど。
「そんなことはないと思うけど」
 ベルナールさんはエリックを怖がっているけど、だからこそ、というべきか、彼を裏切ったりするようなことはしないと思う。
「ええ。あの方は容易に誘惑されるような人間は使わないもの」
「もうー。だからあの方とか彼って、誰なのよ。ママとだけで盛り上がっちゃって、ずるいわよ」
「メグ、静かに」
 マダムはぴしゃりと言った。
「……また誰か来たようだわ。……あら?」
「どうしまし……」
 通りの先から来た新たな人物の登場に、わたしは思わず無言になった。
 あの背格好、あの歩き方。
 遠くから見たってすぐにわかる。
「メグ」
 マダムは静かに娘の名を呼ぶと、おもむろに彼女の肩を押さえくるりと後ろを向かせる。
「な、何? ママ」
 わけがわからないメグちゃんはマダムを見上げた。
 マダムはバックから鍵を取り出し、
「メグ、すぐに家に帰りなさい。暗いから、急いでね。寄り道しては駄目よ」
「なんで?」
「どうしてもです」
「ええ〜〜」
 面白いものが見れると期待していたのだろう。メグちゃんは不服そうな声をあげた。
 そこをマダムに口を押さえられる。
「家へ帰りなさい。ショセ・ダンタンの方を回って……いいですね」
 母親の迫力に恐れをなしたのか、メグちゃんは頷くと名残惜しそうに振り返り振り返り去っていった。
 メグちゃんの姿が完全に見えなくなったのを確かめ、
「さあ、行きますよ」
「はい」
 マダムとわたしはエリックたちの方へ向かっていった。






1878年には5月1日〜10月31日まで万博をやっていました。
日本も参加していたのですが、残念ながらどういうことをやったのか、資料がほとんどみつからず。
というのも、前回パリで開催された時のものは日本が正式参加したものからという点での、これの次に行われたのはフランス革命100周年及びエッフェル塔の建設ということもあって資料が多数あるのですが、78年のはちょうど間に挟まれて……。

あ、場所はトロカデロ宮があったのは現在シャイヨ宮のあるところ、それとシャン・ド・マルス(現在エッフェル塔のあるところ)です。
オペラ座からなら歩いていけます(笑)




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