捜索を始めて一時間経ち、二時間経ち……三時間が過ぎた。
しかし彼女の行方は杳として知れない。
やはり書置きに気付かなかったのかと地下に降りるも、帰ってきた形跡はなかった。
一体どこへ行ってしまったのか……。
嫌な考えが頭に浮かぶのを止められなかった。
あの子が私から逃げたのでないなら、戻ってこれない事情があるはずだった。
誘拐。
監禁。
強……。
冗談じゃない!!
怒りと不安と恐怖に、どうにかなってしまうそうだった。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
十一時になって、戻ってきたベルナールと落ち合えた。トロカデロあたりの店は閉店になったのだ。
ベルナールにはナーディルと同じく、まだ閉まっていないカフェなどを探させに行かせた。
一度状況を確認したいと、一時間後にスクリブ通りの入り口前に集まるようにと、伝言を持たせて。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
十二時を回ったがはまったく見つけられない。
重い足取りで集合場所に向かうと、ベルナールとナーディルはすでに戻っていた。
「その様子じゃ、見つかっていないようだね」
疲れた表情でナーディルが言った。
「お前もな。少しもつかめなかったのか?」
私は主に人気がなさそうなところを、二人には人が多いところを探してもらった。
特にナーディルは故国では警察長官を務めていた男で、つまりは捜索は得意なのだ。
「東洋人女性自体は何人かいたんだが、どれも違ったよ」
「こういっちゃあ何ですが、旦那には東洋人の顔の区別はできるんですか?」
ベルナールが疑い深そうに聞いた。
自分にはの顔の区別はつくが、お前はどうなんだ、ということか。
「見くびるんじゃないよ。私はここのところずっと観察していたのだから、今更間違うわけがないさ」
ナーディルはふんぞり返ったが、そういうことを臆面もなく言ったからが逃げたのだということをこの男は本当にわかっているのだろうか。
「これからどうする、エリック。こう言っては何だが、この時間になっても見つからないということは、事件や事故に遭った可能性も考えに入れた方が……」
「言うな!」
ぎりっと睨みつけると、ナーディルは言葉を切った。
考えたくもないことだ。
だが、現に彼女は見つからない。
「だがねぇ」
「先生、誰かが来ます」
ベルナールが囁く。私とナーディルはとっさに口をつぐんだ。
この時刻でも人通りが絶えることはないが、それでも聞かれないに越した事はない。
オーベール通りから曲がってきたのは、シルエットから女だと知れた。オペラ座の関係者かもしれない。
足早に近づいてきたその人物が誰であるか気づく。私は思わず声に出していた。
「マダム・ジリー」
マダムの後ろにはもう一人いるようで、私の声でその者は顔を出した。
「!」
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「エリック……」
マダムの後ろから顔だけ出すようにして、彼女は困惑した様子で私の名を呼ぶ。
「探したんだぞ! 今までどこに……。まさか、オペラ座に?」
足早に駆け寄り、腕をつかんだ。
「う、うん。あの……その人はエリックのお知り合いなの?」
彼女の視線の先にはナーディルがいた。
「ああ。……古い知り合いでね」
答えると彼女は大きく息を吐いた。
「先に言ってよ〜。知らなかったからわたし、失礼なことしちゃったじゃない。おまけにマダムにも面倒をかけちゃって〜〜」
半分泣きそうな声で抗議される。
気が抜けたのか、わたしの腕をつかんだまま、しゃがみこんだ。
「ああ、済まない、。まさか私の紹介を待たずに声をかけるとは思わなかったから……」
膝をついて彼女の顔を覗く。よほど心配していたのか、目じりには涙があった。は小さく頬を膨らます。涙を見られたのが恥ずかしかったのか、顔が赤くなっていた。
「紹介する気なんかなかったくせに……」と後ろでナーディルが悪態をついていたが、私は聞こえないフリをした。
「ああ、だが無事で良かった。あちこち探したが見つからなくて……心配したよ。本当に良かった。ああ、お前になにかあったらどうしようかと思っていたよ」
「う、うん。わたしも、どうやってエリックに連絡つけようかと……。オペラ座のどこかにいても、わたしにはわからないわけだし」
安堵のせいか、はにかんだ表情がこの上なく愛らしい。
「どうやって中に入ったんだい? 関係者用の出入り口には門番がいただろう。誤魔化すのは大変だったのではないか?」
聞くと、彼女はぱちくりと瞬きをした。
「わたしはチケットを買って入場したんだけど……」
思いもよらなかったという表情に、私は絶句する。
それはそうだ。普通、劇場の中に入ろうとしたら、入場料を払うに決まっている。は無一文ではないし、格好からいっても入場拒否をされることはなかっただろう。散歩用のドレスを着ているので時間には合わない格好だが、外国人は大目にみてもらえる。ナーディルだって、そうなのだから。
オペラ座と私の付き合いは建設当初からあったが、完成してからも正面からまともに入った事はなかったため、こうした当たり前のことに気付けなかった。
私という男はつくづく普通の生活を知らないのだと、思い知る。
「ムッシュウ」
との話に夢中になっていた私は、頭上から降ってきた威厳のある声にはっとした。
そういえば、ここは外だった。ばつが悪い思いをしながらも立ち上がる。
「こんばんは、ムッシュウ」
マダムはにこりともしないで挨拶した。
「……こんばんは。マダム」
「まったく。どうして外なんか探していたのよ、あなたは。あなたに連絡を取ろうと思ったら、オペラ座に行くに決まっているでしょう?」
マダムの言うとおりである。しかし外出中にどこかへ行ってしまったというので、頭がそちらへ回らなかったのだ。おまけに彼女はオペラ座内の通路には詳しくなく、そちらへは向かうはずないと、根拠なく信じきっていたのだ。
しかし彼女からすれば、オペラ座こそが、私にすぐ見つけてもらえる場所だと思ったのだろう。
「申し訳ないマダム。お手間を取らせたようで……」
「わたくしはたいしたことをしたわけではありません。ただ、はとてもあなたを案じていたわ。わたくしにはあなたの交友関係にまで口を出す権限などないと思っているけれど、正体を知られている人くらいはちゃんと教えておかなければ、とだけは言わせていただきます。あなたのところにいる限り、はあなたと一蓮托生なのよ。そこのところを肝に銘じておきなさいな」
私はどっと冷や汗をかいた。マダムにはどうにも頭が上がらないところがある。
「ええ、まったく、マダムの仰るとおりです」
「お気をつけなさい」
「……はい」
「エリック、エリック」
私たちのやり取りを聞いていたが、後ろを小さく指さす。
「どうした?」
「ベルナールさんとお友達の方がすっごく驚いてるわ」
ひそひそと教えてくれた途端、背後の見物人たちの存在を思い出した。
油の切れたゼンマイののようにぎこちなく振り返ると、目を丸くしたベルナールと唖然としたナーディルがそろって突っ立っていた。
話に加わっていいと判断したのか、ナーディルがつかつかと近寄ってきてマダムに向かって手を差し出す。
「はじめましてマダム・ジリー。私はナーディル・カーンと申します。まさか、あなたがエリックの協力者だったとは、驚きましたよ」
私の正体を知りながら黙っているという点ではナーディルと同じだが、被害を被っているオペラ座関係者であるという点ではマダムはオペラ座を裏切っているといってもよい。知られればまずいことのはずなのに、彼女はいつもどおりの落ち着きでナーディルの手を握った。
「はじめまして、ムッシュウ・カーン。あなたがエリックの知人だったというのはわたくしも始めて聞きました。おつきあいは古いのかしら」
「そうですね、初めて会ったときから二十年以上経ちましたよ」
「まあ。……ところで、エリックのことはともかく、若い娘さんを追い掛け回すのは、あまり褒められたことではありませんね」
ぴしりと釘をさすと、ナーディルは先生に叱られた子供のようにおどおどしだした。
「いえ、それは、まあ、私なりに心配していたことがありまして」
「彼のことはよろしいわ。この方のことですもの、知っていたのでしょうからね。だけど何も知らない娘さんに不躾に声をかけるのはどうかと思いますわ。おまけに、あなた、名乗りもしなかったのでしょう?」
「あ……」
ナーディルはしまった、という顔になった。
「以後、お気をつけくださいまし」
「はい……」
ナーディルはうな垂れる。
「あの……カーン、さん?」
「ああ、はい」
マダムの話が終わったとみて、がおずおずと話しかける。
「すみません、わたし、逃げ出すようなことをしてしまって……」
がぺこりと頭を下げながら侘びの言葉を述べる。
「いえ、こちらこそ、驚かせてしまって申し訳ない」
ナーディルは帽子を取った。
そうだ、が謝る事は何もないのだ。ナーディルが悪い。ナーディルが。
「しかし、私のことは何も聞いていなかったのですか?」
「ええ……」
は首を縦に振る。
「私とエリックは週に一度会うようにしているのですが」
「週に一度? それって……」
彼女はとある曜日を口にする。
「ええ、そうです」
「そうですか〜。それでエリック、この時は外に出ちゃいけないって言ってたのね」
あ……。
「出てはいけないですって?」
の答えにナーディルは食いつく。
「そうなんですよ。エリックにはわたしにはわからないようなコダワリが色々あるから、その一環かと思ってたんですけど」
、あまりその話は続けて欲しくないのだが。
「彼には秘密が多いですから」
「そうですねえ」
うふふ、とが笑う。
「は、はは……」
どうして、こういう話をこうもにこやかにできるんだろう。
見ろ、ナーディルなどお前から私の悪事を引き出せるんじゃないかとうずうずしているのに、まったく拍子抜けしたような顔になって。これが天然ならたいしたものだ。演技だったら空恐ろしいが。
しかしナーディルはめげなかった。
「お住まいには不足はありませんか? もしよろしかったら、お詫びに何か贈り物を……」
いい加減にしろよ、ナーディル!
の前だから大人しくしていればどこまで図々しい真似を!
彼女の口から私の悪口を言わせなければ気が済まないのか!?
「そんな、お詫びだなんて。わたしも失礼なことをしたのですから、ここはお互い様ということで、ねえ、エリック?」
ああ、。
お前の信頼が胸に痛いよ。
……私は、元の世界はともかくとして、この時代だけでは私以外の男と知り合いになってほしくなかった(ベルナールは別だ。あの男は使用人だから)。その気持ちは今も変わっていなくて、ナーディルとこうして話しているお前を見ているだけで、嫉妬の感情すら覚える。
だが、そのことが却ってお前を悩ませてしまった。
これは、私の非だ。
「そうだな、私も悪かった、ナーディル。……紹介しなくて」
初めてできた、私の大事な人を。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「さあ、それでは今夜はこれで解散にしませんこと?」
マダムの声に「あ、そうですね」とは懐中時計を取り出した。
時刻は1時に近くなっていた。
「わたし、ベルナールさんにお礼を言ってくるわ」
は小走りで駆け出す。ベルナールは我々に遠慮して近くにくることはなかったのだ。
「では、おやすみなさい。エリック、ムッシュウ・カーン」
「おやすみなさい、マダム」
なんだか、不思議な気分だ。
マダムと会ったことはこれまで何度もあったのに、「おやすみなさい」というありふれた挨拶をしたのは、これが初めてだった。
いや、それどころか、マダムにナーディル、ベルナール、そして。
味方と言い切ることができないにしても、少なくとも敵ではない私の関係者が一堂に会するなんて……おかしな気分だ。
すっとマダムの気配が遠ざかり、私は我に返った。
「ベルナール、マダム・ジリーを家まで送ってさしあげなさい」
と和やかに話していたベルナールは、私の指示に慌てた表情になった。
「あら、構わないわ。すぐ近くですもの」
マダムは固辞する。
「いえ、せめてもの礼です」
ベルナールに顎でしゃくって早く来るように示す。
「そう、なら、そうさせていただくわ」
マダムは再び軽く目礼をして歩いていった。その後をベルナールが追いかける。
「ではな」
私も家に戻ろうと歩き出した途端、ナーディルに肩をつかまれた。一体なんだとうるさく思ったが、彼はにやにやした顔で、
「良かったな、エリック。いい子じゃないか」
とのたもうたのだ。
なんだ、嫌味か、皮肉かと思っていたらふいに表情を引き締め、
「大事にしてやれよ」
真面目な顔で言った。
「当たり前だ!」
その顔がひどく照れくさく思えて、思わずぶっきらぼうに答える。
ナーディルはすべてを見透かしたかのように、二度ほど私の肩を叩くと自分はさっさと歩き出した。帽子を取ってに挨拶をし、彼の家のあるリヴォリ通りに向かってゆく。
私はぼんやりとナーディルの背中を見送った後、ゆっくりとの元へ向かった。門に寄りかかるようにして待っていた彼女は、私が手を出すと躊躇なく自身の手を私に預ける。
「帰ろうか、」
彼女は私の手をぎゅっと握った。
5人そろいました。
ある程度の長さのある話ならこれくらい登場人物がいるのは普通なのに、オペラ座だと多いように思える……。
あと出てないのは肝心要の二人ですね。
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