さて。

 あんまり気の進まない様子だったエリックを引っ張ってお菓子屋さん巡りをした次の日、わたしはオペラ座内のマダム・ジリーの部屋を訪ねた。
 もちろんエリックも一緒に。
 マダムが比較的手の空いている時間が午後の早い時だというので、エリックがオペラ座の諜報活動に行くついでに一緒に連れて行ってもらったのだ。
 暗くてくねくねした通路――壁の間なのだから、当然真っ暗なのだ。ところどころ、エリックが外を覗くための隠し窓みたいのはあるけど――を歩き、マダムの部屋の壁の裏に到着すると、エリックは壁に耳をつけて中の様子を窺った。
 大丈夫だとわかると、わたしに合図を送り、おもむろにノックする……。
 と、中からマダムが厳かな感じに返事をした。
 それを受けてエリックは壁を動かす。
「まあ、!」
「こんにちは、マダム・ジリー」
 中に入るとマダムは驚いたように目を見開いた。
 わたしはぺこり、と頭を下げる。
「どうかしたのかしら? 何か困りごと?」
「あ、いえ、えっと、この間のお礼に参りました。本当に、お騒がせいたしました……。心ばかりですが、これ、メグちゃんと食べてください」
 綺麗に包んだお菓子をマダムに渡す。
「あら、ご丁寧に」
 と、それまで黙っていたエリックが気まずそうに帽子を取った。
「私からも礼を……。が世話になった」
 しばらくのあいだ、マダムはエリックを見つめる。
 と、小さく噴出した。
「マダム・ジリー」
 エリックは不機嫌そうに声を落とす。
 不機嫌そうに聞こえるが、これは照れ隠しだろう。普段、やりなれてないから……。
「いえね、珍しい事もあるものだと思ってね」
 くすくすと肩を揺らしてマダムは笑う。
「せっかくですから、ありがたく頂きますね。それにしても……」
 マダムはまだ笑っている。
「オペラ座の地下に二人暮らしだなんて、と心配していたのだけど、仲が良いようで安心しました。だって、この間のムッシュウの顔といったら……!」
 エリックはむっつりと唇を結んだ。
 冷静になってから思えば、確かにあの時のエリックの慌てようはすごかった。
 普段はあんなに怜悧冷徹冷静冷然といった風にしているのに、幼稚園児くらいの娘がいなくなった親のようだったもの。驚きを通り越して笑いたくなる気持ちもちょっとわかる。
 ……あ、これだとわたしが幼稚園児並みだということなってしまう。ううむ。
「では、私はこれで」
 少し怒ったように眉を上げて、でも礼儀正しくエリックは軽く頭を下げて開いた壁に向かっていった。
「あら、もう?」
 マダムは楽しげに首を傾げた。
「劇場内を見てきますので……」
「そう」
 エリックは何かいいたげなマダムから顔を背ける。
「……しばらくを頼みます」
「わかりました」
 壁が動いてエリックの姿が消える。
 と、しばらく壁の方を見ていたマダムが、出し抜けに振り返った。
「変わりましたね、あの方」
「エリックですか?」
「ええ、そうよ」
「どんな風に?」
 マダムはわたしに椅子に座るように言い、コーヒーの用意を始めた。
 カップが触れあう小さな音が静かな部屋に響く。
「雰囲気が柔らかくなったと思うわ。以前は同じ部屋にいるだけで鳥肌が立ったものだけど、今はそんなことはありませんし。あの方、意識しているのか知りませけど、いつだってこちらを威嚇していましたからね」
「それは……エリックがマダムを信用するようになったからじゃないですか?」
「いいえ。あの方はなにも信用していなかったわ」
 きっぱりと断言されて、わたしは複雑な気分になった。
 何も信用していないと言い切られてしまうほど、エリックは厳しい態度で接していたのだろう。
 マダムはいつまで経っても態度を和らげない相手と、それも、オペラ座に害を与える相手と、同僚にも支配人にも、他の誰にも言わず向き合っていた。
 それは非常に苦痛なことではないだろうか?
 マダムが何を思ってエリックの協力者になったのか、立ち入ったことのようだから、まだ聞いてはいないけど……。
「あなたのお陰ね」
「え? 何がですか?」
 物思いに耽っていたわたしは、我に返った。
「あなたはあの方に普通の人間と同じように接しているのね。だから彼は心を開いたのでしょう」
「それはマダムもでしょう?」
「いいえ、わたくしはあの方に同情はしましたが、それ以上にはなりませんでした。気の毒だと思っても、恐ろしさのほうが勝って、手を差し伸べることはできなかった。わたくしがあの方の協力者をしているのも、きっと罪滅ぼしがしたいだけなのでしょう。あの方を、一人の人間として見られない、自分の弱さのね」
「マダム、エリックは恐ろしい人なんかじゃありませんよ!」
 思わず立ち上がり、意義を申し立てる。
 だけどマダムは首を振って、
「そう言い切れるだけ、あなたは強い人なのよ」
「違います!」
 わたしがエリックを恐れないのは、単に情報量の差だと思っている。
 毎日テレビで国内どころか海外のニュースだって見ることができる。
 ラジオに新聞、雑誌にインターネット。
 知ろうと本気で思えば、知ることができないほうが少ないのではないだろうか?
 そして、そんな時代に暮らしたわたしは、世の中には生まれながらに障害を持っている人が少なからずいることを知っている。
 そして、ある程度は手術で治せることも……。
 だけど、そんなことは言えなかった。
 ここは十九世紀後半のフランス。
 百三十年後の技術のことを言ったって、なんの解決にもならないのだ。
 マダムの罪悪感を和らげる事はできないのだ……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 少し気まずくなったわたしたちは、それ以上エリックのことを話すのはやめた。オペラや音楽のこと、それに当たり障りのない世間話をして過ごす。
 化粧棚の上においてある時計が二時を回った頃、ノックがして会話が中断された。マダムが返事をするより先に扉が開き、ひょっこりと金色の頭が覗く。
「ママ、あのね。……!」
「メグちゃん、こんにちは」
 入ってきたのはマダムの娘のメグちゃんだった。後にもう一人、女の子がいる。
「メグ、返事がある前に扉を開けてはいけないと何度言ったら……」
「ごめんなさぁい。急いで呼んでこいって言われたから。ママ、ムッシュウ・ルフェーブルが支配人室に来てって」
 小言を言われたメグちゃんはぺろりと舌を出して謝った。だがあまり反省しているようには見えない。
 マダムは額に手を当てて、だけどすぐに気を取り直したようにわたしを振り返る。
「少し失礼しますね、。ここにいてくださる?」
「ええ、お待ちしています」
 マダムは軽く頭を下げると、部屋を出て行った。その前にいそいそとわたしの向かいに座ったメグちゃんに釘を刺してゆくのも忘れずに。
「メグ、わたくしは席を外しますけど、を煩わせては駄目よ」
「そんなことしないわよ、ママ。楽しくおしゃべりをするだけだから」
 語尾にハートマークがついていそうな娘に、少し納得がいかないようだったが、ともかくマダムは退室していった。
 母親が出てゆくとさっそくメグちゃんは目をきらきらさせて身を乗り出してくる。
「ねえねえ、それで、あの後どうなったの?」
「メグちゃん……」
「気になってたのよ〜。ママは全然教えてくれないし!」
「あ、あはは……」
 好奇心旺盛な子だなぁ。
「話すのは良いんだけど、その前に、そっちの子はどなたかな?」
 メグちゃんと一緒に入ってきた女の子は見覚えがあった。あの時群舞の子たちと一緒にいたのだ。ただ、思い思いにおしゃべりをしていた子たちとは違い、ほとんど誰とも話をしていなかったけれど。
 オペラ座の女の子たちはわたしの時代で言うアイドルのような存在だ。だから皆それ相応に可愛かったり美人だったりするんだけど、その子は内気そうで、弱肉強食の世界には向いていなさそうに見えたので却って印象に残っていたのだ。
「あ……」
 その子はおどおどしたように口に手を当てた。
 栗色の巻き毛に大きな目。可愛いけど、その怯えたような表情で損しているんじゃないかと思った。
「この間もいたよね? わたしのこと覚えてる?」
「はい。クリスティーヌ・ダーエといいます」
「クリスティーヌね。よろしく」
 ぺこりと頭を下げると、クリスティーヌはきょとんとして、しかし次の瞬間にはわたしと同じように頭を下げてきた。
 あ、そうだった、こういう挨拶の仕方はフランス的じゃなかったんだ。
「クリスちゃんて呼んでも良い?」
 見るからに社交的なメグちゃんと違い、クリスティーヌは大人しげな子だ。馴れ馴れしいと思われたかもしれない。が、クリスティーヌはにかんだように微笑んで「はい」と頷いた。
 やばい、なんかこの子可愛い! わたしが男だったら絶対口説きたいわ!
〜。ねえねえ、続きは〜」
 メグちゃんが業を煮やして机の下で足をばたばたさせた。
「あ、そうだった。と言ってもねえ、話すようなことはあんまりないのよね」
「ええ!? だって、召使いと怪しい男が共謀してなにか企んでたんでしょう?」
「企んでない企んでない。ぜーんぶ、わたしの勘違いだったの」
「勘違い?」
 メグちゃんは小鳥のように首を傾げた。さらさらの金髪が肩にかかる。
 なんだか、うらやましいなあ。金髪って、華やかに見えるのよね。
「その人ね、わたしがお世話になってる方の知人だったの。だけどわたし、何も聞いていなかったから、声をかけられてびっくりして逃げちゃって……。わたしが怪しい人だと思って家に帰らずにオペラ座に行ったものだから、心配してみんなと一緒に探してくれてたの」
「何も聞いてないって、どうして……? あ、お世話になってるって言うからには、ご両親と一緒に住んでるわけじゃないのね?」
「ええ。親戚でもないわ。だから……後見人、っていうの? そういう方がいるの。で、わたしに声をかけてきたのはその方の知人だったのよ」
「どうして後見人の知人を知らないの?」
「会わせてもらえなかったからねぇ」
 わたしは腕組みをして、深々とため息をついた。
「わたしの後見人って、ちょっと……じゃないな、ものすごく変わった人でね、人付き合いがほとんどないの。誰かを招くことなんてわたしが知る限り一度もないし。それに、わたしが外出するようになったのって、最近なのよ。だから必要ないと思ったらしいの」
「はあ……」
 理解不能、とメグちゃんの顔には書いてあった。
 クリスちゃんは不思議そうな顔をしている。
 とはいえ、エリックの事をオペラ座に住んでる、とか、ファントムなんです、という説明を抜きにすると、こうとしか言えない。
さんは、いつからパリに?」
 クリスちゃんが問う。わたしは思わず指を折って数えた。
「えっと……半年経ってないわね」
「あ、そんなものだったんだ。で、外出できるようになるまで、何してたの?」
 今度はメグちゃん。
「フランス語と、あとはこっちのお作法の勉強とか、いろいろ。こういうドレスって着たことなかったから、歩き方から特訓したの」
 ドレスのレースを摘む。
 さんざん嫌ってたコルセットにも、邪魔としか思えないバッスルにも毎日身につけることですっかり慣れてしまった。
 恐ろしい事に、コルセットをつけるようになって――それでもぎゅうぎゅうに絞るのは怖くてできなかったけど――ウエストが8センチも細くなったのだ。驚くやら呆れるやら。
 ま、ドレス姿では運動ができない、ということは予想していた通りだったけど。
「そういえば、どうしてパリに来たの? 留学?」
 とうとう聞かれたか、とわたしは笑顔のまま頬をひくつかせた。
 マダムやベルナールさんにもそうだったけど、本当のことは言えない。
 言っても信じてくれないだろうし、万が一、信じてくれたとしても、彼らにはどうすることもできないのだ。
 悪い事を聞いてしまったと悔やませてしまったり、不用意に重い秘密を負わせてしまうことは避けたい……。
 そう考えて、本当のことはわたしとエリック、二人だけの秘密にすることにしたのだ。
「なんとなく、かな」
「は? なにそれ」
 メグちゃんは目を丸くした。
「行くあてがなかったからね。あのね、日本のこと、どれくらい知ってる?」
「キモノとかサムライなら……」
 急な質問にメグちゃんは自信のなさそうに答える。
「あはは、ごめんね、突然。えっとね、日本って、鎖国っていって、外国との交流を一切していなかったの。といっても、オランダとはしてたっていうんだけど。二十年くらい前かな、アメリカの船が来て、それまで開国しろっていっても全然聞かなかったものだからとうとう武力で脅されて、で、開国したんですって」
 この辺は歴史の授業で習った程度しか覚えていないから、穴ぼこだらけの知識なんだけど、日本の事情を詳しく知らなければ気付かないはず。
 案の定、メグちゃんもクリスちゃんもぽかんとしたような顔になっていた。
「交流をしないって、無理なんじゃない? だって、見つからないようにこっそり行っちゃえば誰でも出入りできるんじゃないの?」
「日本て、島国だから」
「そうなの?」
「メグちゃん、日本がどこにあるか……」
「中国でしょ?」
「……違うよ?」
 わたしは机の上に指で簡単な地図を描いた。
 そこでようやく二人とも納得したようだ。あの国が海に囲まれているということに。
(この時代の日本の知名度なんて、こんなもんよね……)
 仕方がないとは思いながらもさすがにちょっと――がっかりした。
「で、日本人は海外に出ちゃいけない、外国人は日本に入っちゃいけない、っていう政策を取ってたわけだけど、出たくて出たわけじゃない人が少しいたのよ。漁師さんとか」
「漁師?」
「そう。漁の途中で流されて、日本の海域から出てしまったりしてね」
「あ、なるほど」
「わたしの父がそういう、流されてしまった人だったのよ」
 この辺は、子供の頃に読んだジョン・万次郎の伝記を思い出してでっちあげた。
 嘘をつくのは心苦しいが、背に腹は代えられない。
「こういう、流されてしまった人って、その後どうなるかわかる?」
「連絡とって、帰れるんでしょう?」
「それが、駄目なのよ」
「ええ!?」
「うそ!」
「流されたのでもなんでも、日本を出てしまったのだから、戻ってくるなって」
「なにそれ、ひどい!」
 憤慨する二人に、私は罪悪感を覚えた。
 ごめんね、二人とも。わたし、いま嘘ついてるよ。 わたしの父は漁師じゃない。だから漂流もしていない。彼女たちが想像しているであろう大変な思いは、何一つわたしも本当の父もしていないのだ。
 しかし流された人が戻れなかった、というのは、残念ながら歴史的事実らしい。
「そういう理由で、日本に近い国とか島とかには戻れないでいた人がいたのよ。わたしがもの心ついた頃にはすでに父は亡くなっていて、他の日本人がわたしを育ててくれたわ。そうこうしているうちに、政府が変わったって知らせが入って、もう戻れるんじゃないかって言っていた人がいたんだけど、結局戻ってもいいのかどうか、わたしは知らない。なにしろ、父はしたくてしたわけじゃないけれど、密出国って大罪を犯していたんだもの。政府が変わったからって許されるとは限らないじゃない。面倒なことになったら困るから、確認もしてないし」
「じゃあ、は日本人だけど日本で育ったわけじゃないのね」
「ええ」
 わたしは頷いた。
 あああ。心が痛む……!
さん、あの……」
 おずおずとクリスちゃんが口を挟んだ。
「お母様は?」
「そちらもすでに」
 どこまで嘘を言えばいいのだろうか。
 それでも、父にも母にも、会えないことは偽りではない。
「そうでしたか、すみません」
「いいのよ、実感が沸かないっていうのが、本当のところなのだし」
「そうなんですか?」
 クリスちゃんの瞳は泣きそうになって揺れていた。
もクリスも、似たような身の上なんだね」
 ぽつりとメグちゃんが呟く。
「そうなの?」
 聞くと、クリスちゃんは頷いて。
「はい、わたしもすでに両親がおりません。父の知人のヴァレリアス夫人に後見人になっていただいているんです。それに、オペラ座で働けるようになったのも、父のつてで、マダム・ジリーがお世話をしてくれたからで……」
 そうか、クリスちゃんくらいの年の子で、両親がいないというのはきっとわたしが思う以上に心細いものなのだろう。
 わたしの場合、死に別れたわけではないから、現代に戻れば会うことはできる。
 会いたいな、と思うことはあるけど、この世界に来てもうじき半年。
 海外留学をしているような気分になってきて、あまり寂しいとは思わなくなってきているのだ。
 それはもちろん、エリックが親身になってくれているせいもあるけれど。
 だけど……。
「仕事かあ」
 わたしは独りごちた。
?」
「わたしも何か仕事を探さないとね」
 エリックの援助に対する返済としてではなく、自分ひとりでも生きていけるようにしたほうがいいのではないかと、考えていた。
 いつまでもエリックの世話になるわけにはいかないだろう。
 いつかは現代に戻れるという希望はあるものの、それがいつかはわからない。
 いや、もしかしたら、戻れないかもしれないのだ。ならば、自活の道を探るべきではないのか?
 エリックはたまたま、わたしが落ちて(?)来たところにいただけの人だ。
 彼がわたしの面倒を見なければならない義務は、なにもない。
には必要ないでしょ?」
 メグちゃんが真顔で言う。
「そういうわけにもいかないでしょう」
「でも、の後見人って、お金持ちじゃない」
 たしかに、お金はあるけど……。
「どうしてわかるの?」
「だって、そのドレス。すごくいいものじゃない。そういうドレスを作ってくれるような人がお金持ちじゃないわけないじゃない」
 当たり前のように彼女は言った。
 ああ、そうか。そういうことでわかるのか。
「後見人って何をなさってる方?」
 今度はクリスちゃん。
 えーと、エリックのことを不審がられずに説明するには……。
「建築家をしていたんですって。もう引退されて、趣味に時間をかけてるわ」
「ブルジョワなのね、いいなあ」
 いいなって……。
「引退しているとなると、結構年が離れてるのね」
「そうね、倍以上違うわ」
「一緒に住んでるの? 別々に住んでて、費用だけ立て替えてもらっているとか?」
「一緒に住んでるけど……」
 そして家賃は、タダだ。
 エリックが勝手に作ったんだから。
「じゃあ、その方、結婚されてないのね。死別されたとかかもしれないけど」
 結婚は、たしかにしてない。
 わたしが肯定すると、メグちゃんはニヤニヤしだした。
「それもいいんじゃない? さえ良ければ。わたしは軽蔑しないわよ。オペラ座の女の子なら他人事じゃないもの。わたしだって、そうなるかもしれないんだし」
 ???
「ごめん、メグちゃん、言ってる意味がわからないわ」
「もー、にぶいわねぇ。その方、の事を愛人にしようとしてるんでしょ!」
「は!?」
 愛人???
「その様子じゃ、まだ何にもないみたいね。で、も、油断は禁物よ。いきなり襲われないように注意するのね」
 にこやかに笑う。
 メグちゃん、アナタ、たしかわたしより年下だよね……。
 オペラ座……なんて恐ろしいところ……。
「そういう人じゃないわよ。本当に、ただ、あの人、変わり者だけど根は良い方だから、わたしのこと見捨てられなかっただけで……」
 くらくらする頭を押さえ、訂正する。
は子供ね」
「メグちゃん……」
「あの、メグ、そういう方は確かにたくさんいるって、わたしも知っているけど、中には本物の篤志家だっていらっしゃるはずよ。決め付けるのはよくないわ」
 クリスちゃん、あなたの優しさが染み入ります……。
「まあね。でも本当に本物の篤志家だとしたら、大当たりを引いたことになるわよね。うらやましいわ。なかなかいないもの。でも、そうじゃなかった場合のことも考えたほうがいいわよ」
 人差し指を立て、猫のように目を細めてメグちゃんはそう言った。
「メグちゃん……」
「わたしはを心配してるのよ?」
 面白がっているようにしか見えませんが?
「わたしの言ってる方が正しければ、あなた貞操の危機なのよ。そこのところ、ちゃんとわかってる?」
「それは……ありえないと思うけど。あの方から見れば、わたしなんてほんの小娘なんだし」
「でも、って美人な方だし。一回舞台にでも立ってみなさいよ、絶対引く手あまただから!」
「そんなことにはならないわよ」
 引く手あまたになるとしたら、日本人だという付加価値があるからだろう。
 舞台にあがるつもりなんてまったくないから、心配するだけ無駄だろうけど。
 メグちゃんは何で分からないかなあ、とぶつぶつ呟く。わたしは苦笑してたしなめた。
「もういいわよ、メグちゃん」
「よくないわよー」
 メグちゃんは地団太を踏んで拳を机に打ち付けた。
「この話はもうおしまい」
「ええっ!? じゃあ、じゃあ、最後にひとつだけ!」
「もう、メグちゃんってば」
「本当にこれだけ! ね、ね、ね?」
「仕方ないわね、なあに?」
 承諾すると、メグちゃんはぱっと表情を輝かせた。喜怒哀楽がはっきり出る子だなあ。
「後見人に愛人になれ、とか、結婚してほしいとか言われたらどうするの?」
 どうって、どうもこうも……。
 ありえない思いながらも、一応真面目に考える。
 エリックに迫られたら……。
「嫌いじゃないけど……」
「けど?」
 メグちゃんは期待に満ち満ちた顔でわたしを見る。
「恋愛対象ではないから……」
「ああ……」
 メグちゃんはがっかりしたように大げさに頭を垂れた。
「全然?」
「そうね」
「口説かれても揺るがない自信はある?」
「え? そ、そうね……」
 エリックに口説かれたら……。
 あの声、わたし、弱いんだよね。
 普段はもう慣れてしまったけど、彼が不意打ちのように声を潜め、そこにある種の力が加わると――それは、独り言のときもあるし、わたしに向かって話しかけていることもある――、下腹の奥が疼くような感じがするのだ。
 エリックは気付いていないようだけど。
 いや、気付かれたら困るのだから、それでいいのだけど。
「揺らぐ……かも……しれない……かな?」
「きゃあ!」
 我が意を得たりとメグちゃんは指を鳴らした。
 友人の熱心さに、クリスちゃんはさっきから目を白黒させている。

 と、ここで思い出した。
 女の子ばかりだと思って気にしていなかったが……。
 まさか、いないよね?
 エリック、見回り終わってもう壁の後ろになんて……。
 いない、よね?
 こんな話を聞かれたら、恥ずかしくって顔を合わせられない……!


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 マダム・ジリーが戻ってメグちゃんとクリスちゃんを部屋から出るように言い、エリックの合図があるまで待機していた。
 彼が来てくれたのは、例の話をしてから一時間以上たってたからだったけれど……。
 いつここに戻ってきたのか、問い詰めてしまったのは、言うまでもない。






ヒロインの最後の疑問の答えは、タイトル部分をお読みください(笑)



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