暗い通路を心の底からありがたいと思ったことは久々だった。
 闇は私を包み、誰の目からも隠してくれる。
 煩わしいばかりの光も、ここには入ってこれない。
 闇の中こそが私の生きるべき場所。
 こここそが、私の安息の地……。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 隠し通路に戻ると、思わず安堵の息を吐いた。
 マダム・ジリーにと共に礼を言いにいったはいいが、居心地の悪さにほとんど逃げ出すようにして離れてきたのだ。
 私は人前ではいつだって醜態を晒さないよう努力してきた。
 この異様な姿だ、構えていなければいつ何時危害を加えられるかわかったものではない。
 威厳という鎧を周囲に張り巡らし、おいそれとは近付けないようにする。牙を隠し、しかしいつでも剥けるのだということはわかるように知らしめる。そして本当に敵意が私に向かってきたら、躊躇なく叩きのめす。
 それはマダム・ジリーの前でも変わらない。
 オペラ座の誰もが恐れるファントムとして振舞ってきていた。
 だが、と一緒にいると、私はいつもマダムの前でみっともない姿ばかり晒しているではないか!
 さっきも、マダムは先日のことを思い出して笑っていた。
 ああ、確かにあのときの私は無様だった。
 全くみっともないものだった!
 あんな姿を見られては、この先どんなに格好つけようとも、噴出されて終わりではないだろうか。
 いや、マダムのことだ、次に会った時には何事もなかったかのように振舞うだろうが……。
 壁越しに二人の話し声が聞こえる。二人は私のことを話しているようだ。マダムはまだ笑っているが、それが蔑んだようなものではないので却って恥ずかしいように思う。
(支配人室にでも行ってくるか……)
 その場から離れる方便として言った見回りを、実行するべくその場から離れた。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



 支配人室ではルフェーブルとレイエが次の公演のことで話し合っていたところだった。
 私が様子を窺ってほどなくしてマダム・ジリーを呼ぶことになり、秘書が使いに出て行った。
 しばらくしてマダムが入ってくると、三人だけで会議は続行された。
 群舞の誰それがあまり良くない、だとか、名前つきの役を新しい者にやらせてみよう、などといった事務的なものだが、私もオペラの出来に心を砕いている者として興味深くもある。しかし、如何せん今日はも連れてきているのだ。
 時間がかかればそれだけ彼女は一人でマダムの部屋で待ちぼうけを食らうことになる。
 協議の結果は練習が始まれば自ずとわかるだろうし、マダムに聞いてもよい。名残惜しいが今日はもう引き上げようと、マダムの部屋に戻った。


☆  ☆  ★  ☆  ☆



(……うん?)
 予想に反して、マダムの部屋はにぎやかだった。
 いぶかしく思いながらそっと中をのぞくと、マダムの娘が熱心にとしゃべっているではないか。
 もう一人、こちらに背を向けているので顔はわからないが、同じくらいの年頃の娘がいた。おそらくメグ・ジリーと仲の良いダーエという娘だろう。スウェーデン人で父親が音楽家だったというが、本人にはあまりこの世界に向いていないように思える。とにかく、歌う事にも踊る事にも、覇気が感じられないのだ。
 朗らかな、というよりも図々しいところのある子ネズミの中にあって、場違いなほど大人しく、内気な娘だった。だからこそメグ・ジリーと親しくなければ、名前を知ることもなかったように思える。それほど静かな娘なのだ。
 しかし、それ以上にはよく知らなかった。
 部屋にいるのはこの三人だ。
(まったく、これでは帰る事ができないではないか!)
 思いがけない出来事に憤慨しながら盗み聞きを続けていると、どうやらメグ・ジリーはの謎の後見人にいたく興味がある様子で、質問攻めにしていた。
 この分ではこの間の一件の顛末も知られてしまったに違いない。


 話題はのことに移る。
 私はを初めてマダムに会わせに行く前に、もし身の上を聞かれたらどうするか、前もって示し合わせて作りあげた話をここでも披露していた。世界のあちらこちらに行ったことのある私だが、さすがに日本にまでは行ったことはない。の記憶と、私の頼りない日本の知識によって作りあげられたものだったが、かの国に詳しくなければ恐らくばれる事はなかろう。案の定、メグ・ジリーもダーエも疑っている様子はなかった。
「仕事かあ」
 ふと呟いたようなの声。
 この流れは……。
 不審なものを感じて、私は耳をそばだてた。
「わたしも何か仕事を探さないとね」
 やはり。
(まだ諦めてなかったのか……)
 は私に借りがあるのがひどく気にかかるようで、礼をしたいと言われたのはつい最近のことだった。
 そのために仕事をすることも辞さないというが、しかし、私には返済をしてほしいという考えはまったくなかった。
 彼女に財産がないことは最初からわかっていたことだし、この時代、女性がどれだけ働いても稼げる額はたかが知れている。稼げるものもあるにはあるが、それはいわゆる裏社交界に属することである。彼女には関わってほしくはない。
 礼も必要ない。
 ただあの子が私のそばで嬉しそうに、楽しそうに笑ってくれればそれで良い。
 嘘偽りなく本心をいえば、妻になってほしいという思いはあるけれど、しかしそんな身売りのように結婚に、どんな幸福があるというのだろう。
 彼女の顔が曇るところなど、見たくはない。それくらいなら、今のまま、彼女の与えてくれる愛情で我慢したほうが良い……。


 私が改めて決意を固めている間に話題は変わっていた。
 今度はの後見人であるという謎の男のこと。
 彼女はなかなか上手く誤魔化している。これならがオペラ座の怪人と関係があるとは思うまい。
 しかしあまり突っ込んでこられたら、いつボロを出すとも限らない。できるだけ早く話を切り上げてくれないかとやきもきしていると、メグ・ジリーは無遠慮極まりない発言を炸裂させた!
「もー、にぶいわねぇ。その方、の事を愛人にしようとしてるんでしょ!」
 は目を白黒させているが、それがかえって面白がらせたようで、
「その様子じゃ、まだ何にもないみたいね。で、も、油断は禁物よ。いきなり襲われないように注意するのね」
 とのたもうた。

 ……こっ、この小娘!
 人が我慢をして不用意に踏み込まないようにしているところに、ずかずかと入り込むとは……!
 くそっ、マダムの娘でなければ速攻で追い出してやったのに!!

 メグ・ジリーはダーエやに窘められながらも話をやめようとはしない。その様子に、腸が煮えくり返る。
 壁を思いきり殴りつけてやりたかった。しかしそうすれば私の存在が知られてしまう。
 ぎりぎりと歯を食いしばり、怒りを堪えるのがやっとだった。


 はこの話が好ましくないようで、話を変えようと躍起になっていた。
 それだけは救いだったが、メグ・ジリーは最後に一つと粘りに粘って質問の権利を勝ち取る。
 これで終わりだということで、私も少し冷静を取り戻してきたが、しかし、それがまた飛んでもないものだった。
「後見人に愛人になれ、とか、結婚してほしいとか言われたらどうするの?」
 一体何を言い出すのかと思ったが、次の瞬間、私は情けないことに壁にへばりついて中の様子を窺っていた。
 ああ、は何と答えるのだろうか……?

 は少し考えるように心持ち上を向き、顎に指を当てる。
「嫌いじゃないけど……」
「けど?」
 わくわく、という声が聞こえそうなメグ・ジリーの声。
 一方私のほうも、彼女の答えに気が気ではなかった。
(けど!? けど、何だ、!!)
 心臓の音が壁越しに聞こえそうなほど早く打っている。
「恋愛対象ではないから……」

   『恋愛対象ではないから……』
   『恋愛対象ではないから……』
   『恋愛対象ではないから……』

 頭の中での涼やかな声が木霊した。
(恋愛対象ではない……)
 何かが音を立てて崩れ去ったように感じた。
 立っていられず、私は壁にもたれかかる。
「全然?」
「そうね」
 はメグ・ジリーの再度の問いにも、落ち着いて答えた。
(……はっ!)
 人知れず、私は自嘲した。
 当然のことではないか。私とが何歳離れていると思っているのだ。彼女はただの刷り込みをされたひよこなのだと、なんど迷えば受け入れるというのだ、私という男は。
 もともと出会うことのないはずだった二人だ。期待するだけ馬鹿げている。望みなど、初めからなかったのだ。運命の出会いだなどど思いこんで、とんだ道化だ……。

 しかし強がっていても、私の本心は傷ついていた。泣きたい気持ちでその場にしゃがみこむ。
(ファントムとあろうものが、情けない……)
 それでもどこかで信じていたのだ。彼女こそが、私の半身なのだと……。

 とメグ・ジリーの話はまだ続いている。
 もう、これ以上は聞いていたくない。
 その場に倒れこんでしまいたいほど重苦しい気分だったが、己を叱咤して立ち上がる。
「揺らぐ……かも……しれない……かな?」
 歩き出そうとした私の耳に飛び込んできたのは、覚束なげなの声だった。
(いま、何と!?)
 思わずまた壁にへばりつく。
 目を閉じる事はできても、耳をふさぐ事はできない。
 これ以上彼女たちの話など聞きたくないと思っていたが、たしか、いまの質問は、私が彼女を誘惑しても揺らがないかどうか、だったな!?
 揺らぐかもしれない!?
 本当か?
 嘘ではないな?
 ああ、のあの表情!
 ほんのりと頬を染めて恥らって……!
 なんて可愛らしい……。


 ようやく、わかった。
 もう選択の時期にきているのだということが。
 私が行動を起こすか否かにすべてはかかっている。
 もしも私が彼女の心に適う誘惑をすれば、は私のものになる。
 それには失敗というリスクがあるが、しかし何もしなければこのままだ。進展は絶対にない。
 ならば私は行動を起こすしかない。
 彼女に愛を告げ……。
 いや、そのまえにほのめかした方が良いのだろうか。
 いきなりでは彼女も混乱するだろうしな……。
 ああっ。こんな初歩的なこともわからないなんて……!
 オペラ座に長くいればアヴァンチュールを見聞きする事など珍しくもないが、ここでは金銭を介在したものがほとんどで、誠実な恋の始め方をするための参考にならないのだ。
 どうすればいいのだろうか。

 少し、落ち着け。
 たとえば、跪いて、花を捧げながら……とかいうものはどうだろうか。安易な気もするが。
 だがこれならいくらでも愛の告白だとわからぬわけがない!

 ……本当にそうだろうか。何だか心配になってきた。
 まさか、「愛している」と言ってそれが愛の告白だとわからないはずがないとは思うのだが、のことだからどうであろうか。
 フロベールの小説の主人公のサランボーほどではないが、もかなり鈍いからな。
 おまけに時代差と文化差も相まって意外なところで相互理解ができなかったりするのだ。可能性としてはないとはいいきれまい。
 の時代の日本のやり方でなければ通じないのだろうか。いくらなんでもそんなことは……。いや、しかし、のことだから……。

 と、堂々巡りをしていた私だったが、ようやく良い案が浮かんだ。
 恋愛小説を読ませて、その反応を窺ってみるというものだ。
 女子供の喜ぶようなロマンス小説は腐るほどあるというから、探すのは難しくあるまい。
 読ませてみて引っかかりを感じていないようであればそれで良し、首を傾げるようであればそれとなく『彼女の時代の作法』を聞き出せばよい。
 そして、もし問題がなければ愛を告げよう。
 その時には婚約指輪も渡した方がいいのだろうか。
 ……そういえば、彼女は婚約指輪というものがわかるのだろうか。
 の時代はどうなのかしらないが、この時代で見かけることができるキモノ姿の日本婦人の絵画では、イヤリングもネックレスもブレスレットも指輪もつけていない。せいぜいが髪飾りくらいだったはず。
 ここにはじめて来たときにも、あの子はアクセサリー類を何もつけていなかった。この時代の知識も増え始めているので、知らないと言う事はないと思うが、知っていても馴染みはないかもしれない。
 うーむ……。


 そうだ……!
 婚約指輪の問題など、些細なことだ。
 もっと大きな問題があるじゃないか!
 あの子は結婚する時に必要な、出生証明書を持っていないではないか!
 あれがなければ結婚はできない……!
 うかつだった。これまで何度も、彼女との結婚を想像したというのに、肝心の部分には考えがいかなかった。
 しかし、参った。書類がないのは彼女の責任ではないが、これを得るには少々危ない橋を渡る必要があるかもしれない。偽造をするか、でっちあげるか。
 たしか出生証明書がない場合は、役人の前で必要な数の証人が証明すればそれを出生証明書代わりにできたはずだ。外国人の多い港町あたりで何人かに金を握らせれば、あるいは……。
 一番良いのは日本公使館に申し出て、彼女の出生証明書を作ってもらうことだ。故国の庇護を受けられなかった漂流民がいたらしいというのは事実のようであるから、政権が変わって何か法律が変わったかもしれない。調べてみる価値はある。さっそく、明日ベルナールに向かってもらおう。
 そうだ、それに、つい先日話したばかりだが、は一応という注釈つきでだが仏教徒だった。
 いくら法律が役所での結婚式のみが正式なものだと定めようとも、人の心は簡単に割り切れるものではない。神の前での結婚式を欠かすわけにはゆかぬ。
 しかし彼女は異教徒だ。
 私はカトリックなので教会での結婚式は不可能ではないが、やはり夫婦そろってカトリックであることが望ましい。
 そのためには彼女に改宗してもらわなければならない。
 これは出生証明書を入手するよりも難しいことのように思える。
 期待できるとすれば、彼女曰く宗教熱心ではないということだから、形ばかりなら応じてくれそうなところか。
 他にも何か障害になりそうなことはあったか……?
 しばらく考えて、私の出生証明書をパリに移す必要があるということを思い出した。
 婚姻届を出す役所は半年以上住んでいる場所でなければいけないのだが、私の出生証明書は幼い頃の悲しみと絶望の記憶しかのこっていない故郷の役場に残したままだった。子供の頃に故郷を飛び出して以来何もしていないのだ。だから書類上はずっとあの村に住んでいることになっている。
 今から書類を写しても結婚できるのは半年後、それに結婚予告も出さねばならないのでさらに半月はかかる。
 後悔をしないためにもすぐに準備をしなければならない。
 しかし……そのためにはあの村へ行かなければならないのか。
 俄かに気分が沈みこむ。
 母が死に、相続の手続きなどを済ませてもう二度と行く事はないと思っていたのに……。

 積み重なっている問題の中ではもっとも簡単に解決する問題だったが、実行するためには多大な精神力を必要としそうだ。
 だが、それでも、が得られるというのであれば……。


 今後のことをあれやこれやと考えて、ふと気がつくとすでにメグ・ジリーもダーエも部屋からいなくなっており、マダム・ジリーが戻っていた。
 時計を見るとどうやら一時間以上経過しているようだ。
 我ながらこの、時間を省みずに考え事をする癖は宜しくないように思う。
 一人だった頃はともかく、今はがいるのだから。


 私は盗み聞きをしたことがばれないよう、表情を引き締め、中を確認して小娘たちが本当にいないことを確認すると、壁を二度叩いた。
 マダムに礼をいい、家路につく。
 帰る途中で本当に壁を叩いた時に戻ってきたところなのか、どこを回ってきたのかを聞かれたが、本当のことは答えなかったのは言うまでもない。





エリックが段々気持ち悪くなっていっててゴメンナサイ。



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