の態度が変わった。
原因はわからない。
きっかけは、はっきりしている。
数日前に私たちは互いに歌を歌った。
彼女は日本の歌を歌い、私は自分で作曲した歌を歌う。
それは至福のひと時になるはずだった。
だが彼女は私の歌を聞いている最中から様子がおかしくなり、私が声をかけたらその場から逃げ出してしまった。
それ以来彼女の態度はひどくよそよそしいものとなっている。笑顔はぎこちなく、無理やり笑っているよう。そしてできるだけ私に視線を向けないように務めている事がありありとわかった。
そして朝と夜のキスはなくなってしまった。
今でこそ私の方からも彼女にキスできるようにはなったけれども、彼女の方が私を避けている以上、私の方から近づけるものではなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
あの歌がそれほどまでに気に入らなかったのだろうか。
いや、気に入らなかったとしても、あの態度はおかしい。
きっと、私にはわからないが、私の音楽には普通でないところがあって、それが正常な彼女にとって甚だしい苦痛をもたらしたのであろう。
そうでもなければ、説明が付かない……。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
彼女は私とよほど顔を合わせたくないのだろう。昼食後に外出をすることは多々あったけれど、あの日以来、毎日のように出かけているのだ。
目下の悩みは、あの子が外出したまま帰ってこないかもしれないということだ。
行くあてなどないとは思うが、私との生活に嫌気がさし、後先を考えずに飛び出しまう可能性はないわけではないだろう。
それでも外出をやめろと強く言うこともできない。そんなことを言ったら、彼女はますます頑なになってしまうはず。だから半日の気分転換でまたここに戻ってきてくれるなら安いものだと自分に言い聞かせているのだ。
だが、ああ……。
本当は、彼女には外に行ってほしくはない。
ずっとずっとここにいて、私のためだけに笑ってほしい。
それさえ叶えば、他の望みなど……。
私は部屋でじっとしていられなくなって立ち上がり、玄関に向かってのろのろと歩き出した。
扉を開けると外は漆黒の闇。張り出した石の床を数歩も行けばそこは地下湖で、ぬめぬめとした小波が室内の明かりを受けてうねっているのが見て取れる。うっすらと見える対岸には小舟が頼りなげに漂っていた。
それを眺めながら彼女が私に内緒で外出をしていたということを知った日のことを思い出す。発覚したときのあらましはこうだ。
私はオペラ座に出かけていたのだが、ちょっとした細工道具が必要になり、一度我が家へ戻った。しかしここから出られないはずの彼女の姿がどこにもない。
時刻は昼を過ぎた頃で、いくらなんでも寝るには早すぎる。そう思って部屋中を探したが彼女は見つからなかった。
これはもう逃げたのだと思いかけたそのとき、ばつの悪そうな顔をして彼女が戻ってきたのだった。
スクリブ街の方から。
ここで私はちょっとした混乱に陥ってしまった。
なぜなら小舟は一艘しかなく、彼女が出かける前に私がそれを使ったので、小舟は向こう岸にあったのだ。
それなのに、どうして彼女は対岸に渡れたというのだ?
無論、泳いで渡ろうと思えば渡れないこともない。
この湖はセーヌの地下支流が溜まったものなので、流れはあるがそう早いものではない。
深さは彼女くらいの身長ならば頭まで潜ってしまうほどでもないだろう。水は冷たいが……。
しかし、その考えはいくらなんでも無理のように思えた。
泳いで渡ったとして、その後どうするのだ。びしょぬれのまま地上を歩くわけには行くまい。
だが彼女はまるで何の障害もなかったかのように、どこも濡れず、どこも汚れていないまま戻ってきた。
当然、私は問い詰めた。
すると彼女は申し訳なさそうな表情になり、手まねきをしてまた外に出た。袖まくりをして小舟の底の方に手を伸ばす。すると、そこには細い縄があった。
驚いて彼女が手を伸ばしたあたりを触ってみると、小舟の底には木切れで作ったらしい鉤型の物体が打ち付けられており、縄はそこにしっかりと結び付けられていた。
縄のもう一端は、水際と床のギリギリの、とくに暗がりになっているところに楔が打ち付けてあって、そこに結わえられていたのだ。そして対岸にもやはり楔が打ちつけられていたことを確認した。
つまり、こういうことである。
私が小舟を使ったあと、彼女は家側の楔に引っ掛けてある縄を引っ張り、引き寄せたそれに乗って対岸に渡っていたのだ。私は夜目が効くため、地下を動き回る時でもよほどの場合でなければ明かりはつけない。もともと水の中に沈んでいた縄にはそのせいもあって気が付かなかった……というわけだ。
小舟には流されてしまわないようにもやい綱がついているものであり、私の舟にもそれはあったのだが、ここは流れがあまりないため、ほとんど使っていなかったのだ。それが彼女に幸いした。そして、私は自分のうかつさを呪う羽目になったのである。
使った道具はどれも私の物置に放置してあったもので、以前からもし使いたければ使っても構わないと言ってあったのだ。まさか彼女のような娘に大工仕事ができるとは思わなかったものだから……。
「わたしは、技術の授業は成績が良かったんです」
てへ、と笑いながら彼女は言った。だがいつ彼女に逃げられていてもおかしくないことが起きていたのに、まるで気づいていなかった自分のふがいなさに私は泣きたい気分になった。
それでも彼女は出かけてもきちんと夕方には帰ってきていた。
私にとって昼の外出は苦痛でしかないが、彼女にとってはそうではない。
これくらいの気分転換すら容認できない狭量な男だと思われるのが嫌で黙認してきたが、現状が続くようであればそのうち彼女が帰ってこなくなるであろうことは目に見えていた。それくらいならば、閉じこめてしまったほうがましだ。
彼女は私を恨み、憎んで今まで以上に関係は悪化するだろが……。
すでに崩壊しかけているのだ。
今更何を遠慮することがある?
私は踵を返して室内に戻った。
作業机に積み重ねていた図面から、一枚取り上げる。
スクリブ街側の通路につけるための新しい仕掛けの設計図だ。
これを一刻も早く完成させ、作動させさえすれば、もうあの子は外に出ることはできない……。
彼女は、私のものだ……!
☆ ☆ ★ ☆ ☆
それでも自分のしようとしていることにやり切れなさを感じる。
切なさを誤魔化そうと、取って置きのワインを持ってきた。
だが味も香りもよくわからず、まるで水でも飲んでいるようだった。
かたりと音がしたので思わず振り向く。
玄関の方からだった。反射的に身体がびくつき、そんな自分に苦笑した。今更、おたついても仕方なかろう。が帰ってきたのだ。
「ただいま、エリック」
不自然なほど朗らかな声と強張った笑顔で彼女は私に声をかけてきた。
ああ、私は、もうじきこれすら目にすることができなくなるのだ……。
そんな思いを抱えていたので、ろくな返事もできなかったが、彼女は一瞬動きを止めてこちらを凝視した。
そして何かを決意したかのように息を吸い込むと、つかつかと歩み寄ってきて、私の隣に座ったのだ。それも、膝と膝が触れ合うほど近く……。
一体、どうしたのだろう。彼女が私に好意的だったときだって、これほど近くに寄ることはなかったのに。
「、どうかしたのか……?」
訳が分からず訊ねると、は私の腕に両手を置いた。
軽く握ったその手は、すがりつくようでもある。
緊張からか揺らいでいる眼差しはいつもより艶っぽさを増していた。
ああ、の手が私に触れている……。
彼女の目が私を見つめている……。
この手を取って、口付けしたい。
この目に、ずっと私を映し続けたい……。
だがこれから何が始まるだろう。
(別れを切り出される?)
ありえる。私のような男と暮らすのは限界なのかもしれない。
しかし彼女が最後のけじめとしてここまで近づいたのだとしたら、計算違いも甚だしいと言わざるを得ない。
私は彼女を離す気はないし、これほどの至近距離にいるのなら、どうしたって彼女は逃げられっこないのだ。
彼女はすうっと息を吸った。
審判が下ろされるのを私は待った。
しかし彼女の口から出てきたのは予想外の内容だった。
☆ ☆ ★ ☆ ☆
「エリック、改めて、わたしのことを話すね」
そこから始まったのは、彼女の半生とも言える内容だった。
誕生日はいつで、どこで生まれたのか。
正確な住所――しかし、言われたところで日本の地名など私はほとんど知らないのだ――と、そこはどんなところなのか。
それから血液型と、所属の十二宮は……とか。
そもそも血液に型があるということ自体初耳なのだが、これは彼女の時代では一般的に知られていることなのだそうだ。十二宮だって、占星術に興味がなければ知らない者の方が多いだろう。しかし彼女の時代の日本では占いが盛んなのだそうだ。今よりも科学はずっと進んでいるだろうに、なぜそのようなことが起きるのか理解できないが。だが、これで彼女の誕生日はわかった。こんな風になる前ならばプレゼントを贈って祝っただろうに、今ではそんなことをしてもいいのかどうかすらも怪しいものだった。嫌がられるかもしれないと思うと、行動に移すこともできない。
彼女は私がそんなことを考えている間も家族のことや学校の事、趣味や好きなもの、嫌いなもののことなどを話し続けていた。
当然といえば当然だが、彼女の口から彼女の家族や友人のことを聞かされると、胸が締め付けられる思いがする。
彼女は私だけの彼女ではなく、私と出会う前の幸せな時期があって、私がそれを不当に奪ってしまったように思えるのだ。
事実はそうでないにしろ……いや、彼女はそう思っているのかもしれない。
だから私にこんな話をしているのではないか?
話は段々現在の彼女の年齢に近づき、そして私の元へ来る直前で終わった。
一息にしゃべったため、終わる頃には息も絶え絶えになっている。
「?」
それで、私にどうしろというのだ。
そう言おうとする前に彼女はまた私を見据え、
「これで思いつく限り、わたしのことは話したわ。何か聞きたいことがあるんだったら、それも話します」
頬を赤くしてそう言った。
「いや……。いまのところ、これと言ったことはないのだが……」
「そう……」
がっかりしたように彼女はうな垂れる。
……一体、何が?
「、どうしたんだい急に?」
「どうって……」
うっすらとあげた顔を見て、私はぎくりとした。
目じりに涙が浮かんでいる。
私が泣かせたことになるのだろうか。
しかし、質問を思いつかなかったくらいでなぜ泣くのだ?
だいたい、どうしてこんなことを言い出したのか、さっぱりわからない。
私たちは暗黙の内にだが、互いの過去は詮索しないと決めていたのではなかったのか?
「思ったの。あなたのことは知らないことだらけ。わたしのことだって、知らないでしょう? だって、わたしたち、お互いのことをほとんど話していないんだもの。だけどこのままでいるのは、限界だと思うの。これ以上は歩み寄れない。少なくとも、わたしの方はね。他にもいい方法があるかもしれないけど、わたしにはこれしか思いつかなかった。わたしは、わたしのことを話しました。今度はあなたのことを教えてください。全部とは言いません。知りたいと思うのは、わたしのわがままなんだもの……」
ごしごしと乱暴に涙を拭うので、覆わず腕を取って止めさせてしまった。
そのままこすっては、顔が赤くなってしまう。は私に腕を取られたまま、じっと私を見上げた。
「あなたはわたしにいつも親切にしてくれたわ」
何度となく言われた事だが、改めて言われると面映い。
はじめこそこの風変わりな少女を気の毒に思ったものだったが、それ以降は――との生活に慣れてからは――下心がなかったとはいえないのだから。
「いつも言っているだろう。私が好きでやっていることだ。お前が気にすることはない」
当たり障りの無いいつもの答えを返すと、途端に彼女の表情が曇った。
「気にするわよ」
非難が混じった強い口調に、私は困ってしまった。
そう言われてしまえば私の立つ瀬はないではないか。
「あなたはそうやって、いつもいつもわたしを優先させてくれるけど、本当は迷惑に思ってることだってたくさんあるんでしょう?」
「迷惑だって?」
思いがけない台詞に思わず声が大きくなる。
「そうよ、こういう行動をされると嫌だとか、どれそれに触ってほしくないとか、これは使ってほしくないとか、こういった物言いがわずらわしいとか、あるでしょ? 色々」
「それはお互い様だろう? 君だって、私に束縛されていると感じているのではないかね? もっと自由になりたいと思っているんだろう? そう、質問をされたいのだったね? では答えてもらおうか」
問うと彼女は一瞬口をつぐみ、
「思っていないとは言わないわ」
と答えた。
やはり……。
暗雲たる思いに肩が重くなったように感じた。
「あなたがいない時間はとても長く感じるわ。だからエリックがいる時なら、わざわざ外に出たいなんて思わないわよ」
「昨日も今日も、私はオペラ座にだって出かけていないよ。お前の理屈ならお前は昨日も今日も、家にいることになるはずだがねぇ?」
思いがけず嬉しい答えを返してもらったことで気分が良くなったものの、それが彼女の態度と一致していない事が彼女の本心を表しているように思えた。
だから意地悪く返したのだが、彼女は肩を落として、
「わかってる……。これは、わたしが悪いの」
とうな垂れた。
その様子が本当に可哀想で、自分の浅はかさに己の頭を殴ってやりたくなった。
「すまない、。本気で言ったわけではないのだ。……私が悪いんだよ。私の音楽は人に聞かせるに耐えられるものではなかったというだけのことなのだから。……もうオルガンは弾くまい。約束するよ」
口に出した瞬間にもう後悔したが、私たちの関係がおかしくなったのが私の音楽に原因があるのだから、当然の措置だろうと自分を慰めた。
思い切り音楽に没頭できないのは、身を切られるよりもつらい。
音楽は私の心の慰めであり、私の友であり、天から降りてくる光輝でもあった。
だが、これを切り捨てる事で彼女との関係が元通りになるとしたら、何度この場面を繰り返しても、私は音楽を諦める方を選ぶだろう。
しかし、私の思いに反して、は声を荒げた。
「そうやって、何でもわたしに遠慮しないで! 本当は嫌なんでしょう? どうしてそう言ってくれないの!?」
「一体何を怒っているんだ?」
「エリック、ここはあなたの家でしょう。どうして嫌なことは嫌だと言わないの!?」
「別に、嫌では……」
「嘘よ!」
興奮していく彼女とは反対に、どうして彼女が怒っているのかわからず、私はしどろもどろになる。
は両腕を掲げ、私の両頬を包んだ。細い指先が仮面と素顔の頬にあたる。少し引っ張られた加減で、二人の顔が近づいた。
「……?」
掌は温かく、柔らかい。さほど力は込められていないので抗うのは簡単だが、血が逆流してしまいそうなその感触に、私は動くことを忘れてしまった。
しかし、次の台詞で我に返った。
「この仮面は?」
「な……に?」
の指に力が入る。
外されてしまうのではないかと、身を硬くした。
「わたしが来る前は、どうしていた? こんな風に毎日毎日きっちり仮面をつけていたの? わずらわしくない? 嫌じゃない? ……痛くない?」
彼女の目にはただただ私を案じる表情が浮かんでいた。
(ああ……そうか……)
百の言葉を紡ぐよりも、その表情こそが全てを物語っていた。
私は彼女を大事にしていると思い込んでいたが、それはただの自己満足だったのだと。
よほどの事が無い限り、私は彼女の要望をすべて叶える様にしていたが、それが彼女にとっては不安の種でしかなかったのだ。私が自分の意思を押し殺して彼女に迎合しているように見えたのだろう。
全てがそうだというわけではないが、確かにそういう部分もある。私はさっきもあれほど魂を捧げていた音楽を、彼女のために切り捨てようとしていたのだから。
だが彼女はその事に怒った。そして私は己の行為を否定されたにも関わらず、涙が出そうになるほど嬉しかった。
私のことをこれほど考えてくれた人が他にいようか。
それが私の年の半分にも満たない少女であることは、驚異である。
優しくて強い。
本当ならばこういうことは私の方から言わねばならないことだろうに、私が臆病なばかりに目を背けていたのだ。
「仮面は……一人だった頃からずっと着けていたんだ。誰に見られなくても、私には見えてしまうから。ここには目に付くところに鏡を置かないようにしていたけれど、私を映し出すのは、鏡だけではないからね」
鮮明ではないにしても、金属やガラスの反射で自分の顔が映し出されることがある。それが嫌で、一人の時でも仮面を外す事は滅多になかった。
「本当に?」
幾分柔らかくなった口調では首を傾げる。
「本当だ」
「擦れたりして、痛くなったりしない?」
「……感覚がないのでね」
が途端に悲しそうな顔になる。
そんな顔をさせたくないから、言いたくなかったのだ。
だが彼女にとっては知らないでいる方が苦痛なのだと、今の私は知っている。だから嘘はつきたくなかった。
「良かった……。良かったっていうのも、変な話だね。でも……」
彼女は安心したように力の抜けた笑みを浮かべた。
「」
「なに?」
「私は、音楽をやめたくない。オルガンが弾けないと、作曲が進まないんだ」
「当然だわ。もちろんあなたは音楽をやめる必要なんてないのよ」
「お前には、あまり外に出てほしくない。……私が寂しいのでね」
「何か運動不足を解消できる手段が他にあるのなら、そうしてもいいわ。それに、これはあなたのためでもあるのよ」
「私のため?」
首を傾げると、彼女は悪戯っぽく笑い、
「そうよ、だって、ずうっとお家の中にいたら、そのうちあなた、わたしのドレス代で大変な目に遭うに決まってるもの」
と、彼女は両腕を自分の胴のところで丸くさせたので、思わず噴出してしまった。
「そうか……。それは大問題だね」
彼女はにっこりと笑った。
それからは、私も話せる範囲で自らのことを語った。
生まれた村のこと。
諸国を遍歴したこと。
数々の技を習得した時のこと……。
楽しかった思い出はさほどないけれど、私にもこれほど語れることがあったのかと、自分でも驚いたほどだ。
そして私の誕生日がいつであるかを話すと、彼女は目を輝かせてこう言った。
「なんだ、もうすぐじゃない。それならお祝いしなくっちゃね!」
「お祝い……?」
鸚鵡返しにすると、彼女は不安そうに眉を潜めた。
「誕生日のお祝いだけど……。嫌なら、もちろん無理にとは言わないわよ」
「いや、嫌などということは……」
「じゃあ、いいの?」
は確認を求めてくる。
「ああ、もちろん。……嬉しいよ、とても」
うわごとのように答えると、彼女は「良かった」と満面の笑みを浮かべた。
まさか誕生日を祝ってもらえるとは思わなかった。
それは実はほんの数日前に判明したものなのだ。
つまり、私は彼女との結婚を夢見て、思い立ったが早々ボッシュヴィルの役場に自分の出生証明書を取りに行ったのだ。結婚をするのであれば、これは欠かせない。
子供の頃に出奔して以来、四半世紀以上経っての帰還だった。
その間にも一度だけ戻ったことはあったが、夜闇に乗じての行動だったため、母の友人であった人以外には、私が戻ったことを知る者はいない。その時は母には会わなかった。なぜなら彼女は三日前に死んだと告げられたから。
だがどれほど時を経ていたとしても故郷への帰還は楽しいものではない。
あそこはパリに比べればあまりにも人が少なく……そういうところは得てして噂の息が長いものだから、たとえ当時まだ生まれていなかった子供だとて、私を見ればすぐにあの家の化け物だとわかっただろう。
そしてその懸念を裏付けるように、役場の人間もすぐに私だと気付いた。
私の顔を見るなり、奴らはあっという間に昔の記憶を取り戻したらしく、近くの人間とひそひそ話をはじめていた。生きていたのか、などという無遠慮な言葉も聞こえるともなく聞こえた。その腹立たしさといったら、言葉には言い表せない。
それでも必要な書類は出してもらえたのだから、僥倖というべきだろうか。下っ端とはいえ役人には違いない、嫌がらせをすることなど造作もないだろう。とはいえ出さないなどということがあったら、彼らは死ぬほど恐ろしい思いをしただろうがな。今の私は、無力で小さい子供ではないのだ。
そうして受け取った書類には、意外といえば意外、当たり前といえば当たり前のことだが、私が長年知ることのなかった自分の生まれた日付が記されていたのだ。
遠い昔、一度だけ母が私の誕生日を祝ってくれたことがあったが、日付までは覚えていなかったのだ。
ああ、あの五歳の誕生日の時……。
誕生日がなんたるか、まったくわかっていなかったが、それでもプレゼントをくれるという母の言葉に従って欲しい物を口にしたのだ。
キスをしてほしいと。
それは激しく拒絶されたけれど……。
母は、私を嫌っていたのだ。
それでも出生証明書はこうしてちゃんとあるのだ。
私が生まれた証の書類。
それはまだ動揺が抜け切れていない、震えたような文字で書かれていた。
できるならば母は書きたくなかったのだろう。しかし私が生まれた事は産婆の口を通してあっという間に村中に知れ渡ってしまったので、出さないわけにはいかなかったのだと思い当たる。
物思いに耽っている私の耳に、くう、という音が聞こえて我に返る。真っ赤になった彼女が恥ずかしげに腹を押さえていた。そういえばもう八時近い。ずっと話し込んでいたので時間が過ぎるのを忘れていたようだ。
「夕食にしよう。手伝ってくれるかい?」
「ええ、もちろん」
私が手を差し出すと、はその手を預けてくれた。
並んで歩いているうちに、ふと、いつもの私たちに戻っていることに気がついた。言いたいことを言い合ったのが、結果的に私たちの危機を救ったのだ。
「、ところで、その……」
なのに私ときたら、せっかく仲直りをしたところだというに、また話を蒸し返すようなことをしてしまったのだ。どうしても知りたい事が残っていたからだが、下手をしたらまたぎこちない雰囲気になってしまうかもしれないというのに。
「なあに?」
穏やかに微笑んで、は私を見上げる。
「その、お前の様子がおかしかっただろう? それの本当の理由を教えてもらえないか?」
「え……」
は表情を強張らせる。
その顔を見て、私は後悔に襲われた。
「いや、私の音楽に原因があるのはわかっている。しかし、その、どの辺が悪いのかという事を知らないといけないと思ってね」
というと、彼女はすごい形相になり「違う!」と叫んだ。
「違うの、そうじゃないのよ。あなたの音楽が悪いんじゃなくて……! ああ、もう!」
彼女は頭をかきむしって天を仰いだ。
「?」
「〜〜〜〜〜〜!」
は真っ赤な顔になり、口元を手で押さえる。
が、やがて決心したように深呼吸を繰り返すと、
「エリックの声も音楽も素晴らしいわ。だけど、わたしには少し、刺激が強すぎるの。ただそれだけよ」
というと、さっさとキッチンに行ってしまった。
残された私は彼女の言葉を何度も頭の中で反芻する。
つまり……。
これは……。
事実は、私の考えていたことと正反対だったという事でいいのだろうか?
私は足早に彼女に追いつき、未だに赤いままの彼女の耳元で確認をするべく実験を行った。
「?」
効果覿面。
彼女は片手で耳を押さえ、もう片方の腕を振り上げる。顔はますます赤くなり、トマトのようだ。
思わず笑ってしまうと、は「エリックー!」と叫んだ。
なんだ。
そういうことだったのか。
彼女は私の声が気に入っていたのだ。
世の中には私の声に魅入られ、操られたようになる者がいる。
その最たるものがベルナールだということは言うまでもない。
彼女は、魅入られたというのとは少し違うようだが、だが私の声に捕らわれたのは間違いないようだ。
結局私がするべきことは、ぐちぐちと思い悩むことではなく、誘惑を実行に移すことだったのだ。
そうと分かれば、実行あるのみ、である。
次回のネタは…もうお分かりですよね?
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